「この式に代入して、そうするとXの値が分かって…」
先生が黒板の前でモタモタ説明をしてるのを見ながら、私は1番後ろの席で冷や汗を流していた。
やばいやばいやばい。
時計を見れば、もう授業が終わるはずだった時間から20分も過ぎている。今から学校を出たって、ここから全力で自転車を飛ばして、ぎりぎりライブ前のミーティングに間に合うかどうかといったところ。どんどん進んでいく秒針に対して全然進んでくれない先生の授業に、私はため息を漏らした。
「じゃあ今日はここまで。ちょっと長引いて悪かったな」
先生がそう言ってチョークを置いたのは、普段の終わる時間から30分が過ぎた時だった。
ちょっとじゃねぇよ!長引き過ぎなんだよ!
もし間に合わなかったら、どうやって責任取ってくれんだよ!!
なんて悪態をつく暇もなく、私はペンケースとプリントを雑にショルダーバッグに投げ込んで、一番に教室を飛び出した。
スマホの画面をタップして時間を確認する。ミーティングはおそらく遅刻するが、なんとかライブには間に合いそうだ。
マネージャーとグループのリーダーに、遅れてしまうことを伝えるLINEを送りながら、誰もいなくなった廊下をひとりで駆け抜ける。
今夜は一年に一回しかない、グループのライブ配信がある。絶対に遅れられないのに、こんな日に限って長引くなんて…。
焦りと怒りが綯い交ぜになったまま、全力でダッシュして階段を降りていると、踊り場のところで急に現れた人影。スマホでマネージャーからの返信を見ていたため、反応が遅れてしまい、私はスピードを落とす事なくそのまま突っ込んだ。
「うわぁっ!!」
肩に強い衝撃が走る。ドサっとショルダーバックが肩から落ちて、さっき雑に突っ込んだ中身が飛び出した。
「いっ、てて…。だ、大丈夫ですか?」
肩を抑えながら体を起こすと、倒れた相手も唸りながら起き上がった。
よく手入れされた髪の毛がサラッと靡いて、その間から覗いた透き通った目に、私は一瞬で射抜かれてしまった。背は多分私より少し高くて、おまけにスタイルも良い。モデルをやっててもおかしくないくらいの美人だ。
それにこの顔、どっかで…。
「ちょっと、廊下は走ら、な…」
不満そうにそう呟いた彼女がどこの誰だったかを思い出す前に、私は彼女が何かを見つめて、もともと大きな目をさらに大きく見開いてるのに気がついた。
なんだろうと目線を同じ方向に向けると、私のショルダーバッグから今日着る予定の衣装が飛び出ている事に気がついた。ライブ用の派手な衣装は、明らかに普通の人間が着るようなものではない。
「げっ、、こ、これは…」
やばい、もしかして変なやつだと思われた?そう思って慌ててバッグに衣装を戻そうとしたところで、ぐっと腕を掴まれた。
「な、なに…?」
「これ、このブレスレット…」
私の捲れた袖からは、シンプルなシルバーのブレスレットが顔を覗かせている。これはファンから送られてなんとなく気に入って、普段からこっそり制服の下につけているものだった。ブレスレットを学校でつけるのは校則違反だけど、こんなところで先生に告げ口されて足止めなんてされたら、いよいよライブの開演に間に合わなくなってしまう。
「これ、死んだおじいちゃんの形見なんだ!ごめんね、ぶつかって。ちょっと急いでるから帰るね、じゃあ〜」
我ながら苦しい言い訳だとは思いながらも、私はそう言い残して、また走り出した。
「ちょ、あなた!待ちなさい!」
後ろでさっきの女の子の声が聞こえたけど、私は構わず逃げるように走った。
直前ミーティングには大幅に遅れてしまったものの、開演までには間に合ってライブは大成功となった。
会場は満員だったし、入り口に積み重なるように置いてあったグッズのダンボールも、帰る時には全てなくなっていた。事務所に半分ほど抜かれるとしても、今回のライブだけで結構な収入になりそうだ。おまけに最近は、個人配信で結構な金額をスパチャしてくれる人もちらほら見られるようになったし、しばらくは家族みんなで、それなりに余裕のある生活ができそうだと、ほっとため息をついた。
私の所属する「スターセーバー」は実は男性グループである。そこで私は副リーダーを務めている。今のところ、奇跡的に私が女の子だということはメンバーや関係者にバレていないが、リーダーだけは薄々勘付いているのか色んなとこで気を遣ってくれる。
私にはお父さんがいない。私がまだ小さい頃、病気で亡くなったらしい。だから家族は、お母さんと私と、幼い妹と弟の4人。
女手一つで、私達3人の面倒を見てくれてる母さんの経済的負担を減らすために、もともと私が高校生になったら働くつもりだった。
しかし、成績が優秀だったことから中学の先生に高校進学を勧められた。最初は渋っていたが、そこで提案されたのが私立月宮学園の特待生制度だった。私立月宮学園は、成績優秀者は特待生として学費が全額免除となる。
先生から猛烈に押され、半ば無理やり受けさせられた高校受験で、私は晴れて特待生となりこの学園に入学したのだ。
しかしここではバイトが禁止されてるため、先生や生徒に出くわす可能性のある、近くのコンビニやレストランで働くことはできない。そういうわけで、私は入学後、なかなか良いバイト先が決まらず、どうしたもんかと悩んでいた。
「ねぇね!前髪上げたら、男の子みたい!」
「ねぇねは男の子じゃないよー」
「ねぇね、かっこいいもん!」
妹と一緒にお風呂に入った後、髪を乾かしてる時に妹にそう言われたのが、今所属しているグループに応募するきっかけだった。
小さい頃からずっと見てきた自分の顔をイケメンだとは思わないが、他人から見ればそれなりに整っているらしい。
そんな時、たまたまSNSで見かけた、新しいアイドルグループのメンバー募集の広告。アイドルグループに入れば、普通にバイトするよりは稼げるかな、なんて安易な考えでオーディションを受けた。
どうせ落ちるだろうと思って面接に行ったのだが、そこで本当に男の子と間違えられ、そのまま合格を手にしてしまった。私は胸もないし、前髪を上げてメイクをすればあっという間に雰囲気がガラッと変わる。
イケメンアイドル「星空蒼」に早替わりというわけだ。
メンバーで初めて集まった時に男の子しかいなかったのは流石に驚いたが、今更「私、実は女の子なんですけど…」なんて言い出せるわけもなく、私はこの嘘を貫き通すことを決めたのだった。
ライブを終えて家に着いたのは夜の11時。リビングに入るとお母さんがご飯を作って待ってくれていた。
「ただいまー」
「おかえりなさい」
「先に寝てて良かったのに。わざわざ帰るの待ってくれてたの?」
「当たり前じゃない。りんちゃんの今日のライブ、ほんっとに良かったわ。お母さん感動して、ちょっと泣いちゃった」
どうやらお母さんはライブ配信を見てくれていたらしい。褒められてなんだかくすぐったい気持ちになる。
「最近人気出てきて、今月結構お金入りそうだよ。久しぶりに家族旅行とか」
「そのことなんだけどね。こうやってあんまり遅くなったり、忙しすぎて病気になったりしないか、お母さん心配で…。もし、アイドルを続けるのが本当はしんどいとかだったら、無理しなくてもお母さんが、」
「無理してないよ。」
「本当に?」
「うん。私が楽しいからやってるの。嫌になったらやめるつもりだしさ」
「それならよかったわ。りんちゃん、ありがとね」
「ううん。お母さんも、いつも働いてくれてありがと」
お母さんの目が少しうるっとしてしていて、私も釣られて泣きそうになった。お母さんと2人で今日のライブを見返しながらご飯を食べる。横でいちいち動画を止めて、ここが良かったとか、ここが好きだとか言われると、なんだか恥ずかしくて、同時に誇らしかった。