しばらくベッドの中でもぞもぞしていると、電話が鳴った。
未希の帰りを見透かしたようなタイミングの夕樹乃さん。でもまあ、未希はいつも定時で帰るから、見透かしたも何もないんだが。
「玲央さん、今日これからそちらにおじゃま出来るかしら」
「え? まあ、大丈夫ですが」
今日は銀座の歌舞伎座で仕事があり、そのすぐ近くの築地でお土産にお寿司を買ったから、僕と一緒に食べたいって。ふふふ、嬉しいな。
急いでシャワーを浴びて着替えると、小一時間もしないうちに、夕樹乃さんがうちにやってきた。
で、玄関でまじまじと彼女を見てしまった。
まだ残暑が続いてるので薄着なのだが、夕樹乃さんらしくカッチリした印象のツーピースだった。よく似合ってる。
「玲央さん、なにジロジロ見てるの? 言いたいことがあるならちゃんとお口で言わないと伝わらないわよ?」ニヤニヤしながら僕を見る夕樹乃さん。
「あ、ごめんなさい。今日のお召し物がよくお似合いで、と考えておりました」
「素直ね、玲央さん。まあだいたい想像してたのと合ってたけど」
「うへえ。見たことない服だったから、ちょっといいなって……」僕は頭を掻いて照れ隠しをした。
「玲央さんのおかげで少し余裕が出来たから、服のバリエーションも増やすことが出来たのよ。どうもありがとう」
「いやあ、こちらこそ……うふふ、眼福です。ありがとうございます」
思わず手を合わせて拝んでしまった。
僕にとって夕樹乃さんは、まさに菩薩。築地方面から来たんだから、そういうこと。
彼女をソファにエスコートし、そのまま二人で並んで座る。ちょっと会ってなかっただけなのに、すごくうれしい。肩を抱きよせる。思わず彼女の頭に頬ですり……と懐いてしまう。だって、好きだから。
「甘えんぼさんね」
「いわないでよ……。知ってるくせに」
肩を抱く指先に、もう少しだけ力を入れると、胸が苦しくて僕は短く、は、と息を吐いた。未希との激しい情事の後ですぐ、これだ。僕というやつは。
とりたてて女好きというわけでもなく、むしろ女性は苦手だった僕だ。なのに自分でもいまの自分がわからなくて、どうしようもない。
もしかして、少し寝てた時に、頭がリセットされたんだろか。そんな都合のいいこと考えて、自分を正当化しようってのか、この腐った頭は。
まったくもう。どこかにいい教本はないものだろうか。
一息つくと、彼女が今日のことを話し始めた。
昼間は母親を見舞い、そのまま仕事に。言われてみれば病院と現場が目と鼻の先だった。立て続けの出張で自由が少ない中、日程を調整してネジ込んだのだと。彼女もどうして剛腕だ。
「これね、今日撮ってきたのよ、歌舞伎座。何度も建て替えてるんだって」
「へえ……」
今日の仕事は、歌舞伎座で担当作家と一緒に取材。現地で彼女がスマホで撮影した写真を僕に見せる。
歌舞伎座の前景や、歌舞伎役者さんたちと記念撮影、場内で販売されている食事やお土産物、談笑する歌舞伎役者さんと見慣れない中年男、こいつが多分担当してる作家なのだろう。歌舞伎座の前で担当作家を撮影、そして何故か二人密着しての自撮り。まあフレームに入らないからというのは理解する。作家は遠慮がちだけど、鼻の下を伸ばしてるのがありありと分かる。非常に不愉快な一枚だ。ムカつく。
彼女の抱えている作家やライターは、僕だけじゃない。そんなの分かってたけど、今まで全く意識してなかった。だから、こんな形で見せつけられると、たまらない気持ちになる。
「……」
「ん? どうしたの玲央くん」
僕は黙って彼女を押し倒して、荒々しく唇を奪った。
八つ当たりなのは分かってる。そんなの分かってるんだ。彼女は何も悪くない。僕に嫉妬する資格なんて。だけど。
それでもこんな僕を受け入れてくれる夕樹乃さん、マジ菩薩。
ひとしきり八つ当たりをした僕は体を起こし、無実の彼女を解放した。
「ごめんね……夕樹乃さん」
苦虫を噛み潰したような心地で、唇から零れた唾液を手の甲で粗く拭うと、彼女の口紅が一文字を描く。
「嫉妬してくれてるの?」いじわるしたのに、夢見心地な彼女。
「夕樹乃さん悪くないのに……ごめん」
彼女の頬を撫でる。申し訳なさそうに撫でるくらいなら、最初からあんなことしなければいいのに。僕のバカ。
「ううん、うれしい。貴方、そういう男の荒々しさってあまりない人だから、新鮮」
にっこり笑って僕を許してくれる夕樹乃さん。菩薩だな。
「そ、そういうこといわないで。……はずかしいから」
かえって喜ばれてしまった。解せぬ。
彼女はくすりと笑って僕の腹を指でつついた。
「あ、ごめん。お茶入れるね」そう、彼女は僕と晩ご飯を食べるために来たんだ。
「お願いね」
ソファから立ち上がると、ふと異様なものが目に入った。
『げっ……なんてことを』
僕は背筋が凍った。
テーブルの上になにかが並んでいる。
それは――未希が並べた使用済みコンドームだった。ご丁寧にティッシュの上に整列している。僕が慌ててソレを回収しようとすると、背後から呑気な声がする。
「あらあら、ずいぶん搾り取られたのねえ」
「うああああ、ちが、これ、あの、接待なんだ。未希の」
「接待なの~?」
「す、す、好きにさせてたら、ここここんなに」
脂汗をだらだら流して慌てる僕を、涼しい顔で見つめる夕樹乃さん。
「お酒の勢い借りて接待してたのね。お疲れ様」
「あ、はい――なんで飲んでたの分かったの?」
「貴方のキス、ブランデーのいい香りがしたもの」
「むぐう……」
すぐ納得されちゃうのも気に入らないんだが、そもそも四年も上司の愛人やってた人なんだから、そういうのは慣れてるというか、本心でお疲れ様って言ってるんだろうな……。なんかもうヤダ。負けた気がする。
ヘコんでると、夕樹乃さんがナデナデしてくれた。それはそれで……むぐう。
「ほらほら、お寿司たべましょ? おなかすいちゃったわ」
「はあい」
僕はさっさと使用済み避妊具どもを片付けると、ウェットティッシュでテーブルを拭いてキッチンに向かった。よく覚えてないけど、こんなに未希に抜かれたのか……。ヒドイ。夕樹乃さんもたいがいだけど、やっぱ未希にも好きにさせるのは問題だ。
なんかもう、僕のプライドは木っ端微塵だ。こんなんじゃ身が持たない。なんでウチの女どもはどいつもこいつも……って僕がだらしないからか。じゃあ仕方ないか。……くそ。
夕樹乃さんのお土産のお寿司は、とてもとても美味しかった。
普通の握り寿司のほか、珍しい箱寿司なんてのもあった。あと、玉子焼きも美味しかった。こんど豊洲の場外に行く約束をしてしまったんだけど、やっぱり夕樹乃さんは魚が好物みたいだ。僕は魚が嫌いじゃなくてよかった。もし嫌いだったらと思うと震えてしまう。いや、根性で克服してみせる。……たぶん。
そして食後、全く反省のない僕は、乞われるまま夕樹乃さんとイチャつくのだった。
だってそんなの……断れるわけないじゃないか。この僕がだよ?
好きな女性にすり寄られたり、キスされたり、抱き着かれたりして、平静でいられるわけないでしょうが。
やっぱりムリ。
いつまで経っても、全く女性に慣れなくて、すぐドキドキしてしまう。
その結果、彼女らに好き放題されちゃうんだから、僕はもうどうすれば。
僕が悪い男だから報復されてるんだろうか……。なら報いはちゃんと受けないといけないんだろうけど。
見ただけじゃ分からないが、やっぱり傷つけてるんだろうし……。
どっちにもデレデレして、どっちにも抱かれて。そんな穢れた僕を、それでも怒らない彼女たちと、僕はどう付き合えばいいんだろう。もっとちゃんとオモチャになれるように努力するべきなんだろうか。このまま都合のいい男でいればいいのか。……もう、それでも……いや、そんなのはおかしい。だけど僕には。でも……望まれてるなら。えっと、ああ、どうすれば……。
助けて姉さん。
ソファで骨抜きにされた僕の腕に絡みつく夕樹乃さん。毎度のように夢見心地だ。僕なんかの一体どこがいいのやら、まあ嬉しいのは確かなんだけども、時折申し訳ない気持ちになる。こんな面白みもない、出来損ないな男のどこがいいんだ。また頭の中でぐるぐるしてしまう。
「週末挟んで四日も一緒だと、離れがたくなるわね」
「そうだね……」
「どうしたの? つらそうな顔して」
「怒られるから言いたくない」
「怒らないから、おしえて?」
「……」
「ね?」
言うまで解放してくれそうにないな……。
「僕……これからどうしたらいいかわからなくて。…………選べなくて二人とも苦しめたくなくて傷つけたくなくて、でも離れたくなくて………………こんなだらしのないダメな男、みんな見捨ててくれた方がいいのに…………」
そこから先は言葉にならなくて、いつのまにか嗚咽を漏らしていた。
僕は逃げて引きこもるのは得意だけど、自分を律して強く在るのは苦手だ。そんな有人みたいなこと、僕には無理だ。
こんな情けない僕を、夕樹乃さんは抱きしめて、髪を梳いてくれた。
「玲央さんは、だらしなくもないしダメでもないわ」
「ちがう!」僕は頭を振った。
「どっちにも誠実であろうとするから、こうして苦しんでるのでしょう?」
「……良く言えばそうなんだろうけど。でも、でも……僕はダメな奴で、甘えるしか出来なくて、オモチャになるくらいしか能がなくて……」
嫌なのに、体が勝手に震える。もっとちゃんとしたいのに、頼られたいのに、幸せにしたいのに、いつもぐるぐる回って何も出来ない……。
「私は歓迎なのだけど?」
「でも……つらい」
「どうしたらラクにしてあげられる? 私に出来ることはないの?」
「はは………………。じゃあ、僕を捨ててくれる?」
「冗談はやめて、玲央さん」
「僕はどちらも捨てられない……捨てないといけないのに……」
「ねえ、玲央さんが捨てられないなら、捨てなくてもいいんじゃない?」
――え?
「君はそれでいいの?」
「私は望むべくもなかったから」
そんなこと、言わせたくなかった。どうして僕はいつもこうなんだろう。
本当なら僕の全てを貴女に捧げたかったのに。
くそっ。
「ごめん」
こんなの、酒でも飲まないとやってられない。
僕は台所に行って酒をあおった。普段なら二口で酔うところを四口も飲んでしまった。
――もういっそ僕なんか。
僕は目の前の包丁に、ゆっくりと手を伸ばした。
もう少しで届くところで、彼女の手が重なった。
「その選択だけは、やめてね」
背後に夕樹乃さんがいた。
不安そうな顔で僕を見る。
母の後追い自殺の話を思い出したんだろう。
前科があれだけあるんだ、信用なんてないと思う。
「……考えておく」
結局、死ぬ度胸もない。僕は意気地なしだ。
業の深い僕は夕樹乃さんに連行されて、ソファに戻った。心配した彼女にさんざん甘やかされて、いつのまにか眠っていた。