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第24話 作家と担当さんとのそれから

 昼からのサイン会を終えた僕らは夕方、帰りの飛行機を待ちながら、帰京後の相談をしていた。

「振替休日が二日あるの?」

「ええ。明日と明後日」

「うーん……どうしようかな」

「何を?」

「君の家に泊まりたいんだけど……だめ?」

「布団がないんだけど」

「じゃあ向こう着いたらホムセンで寝袋買うから」

「しょうがないわね」と言いつつ、嬉しそうな夕樹乃さん。

 ホントなら今すぐにでも駒場に引っ越してもらいたいけど……。彼女のために買ったマンションなのに、僕から通いなのが切ない。しょうがないから、もう一軒買ってしまおうか、どうしようか。近所で未希と出くわさない場所だと……西原あたりが住みやすそうかな。京王線の幡ヶ谷駅の方まで出ればスーパーもたくさんあるし。

 てな調子で夕樹乃さんの自宅に転がり込む算段をした僕は、不在中の観葉植物への水やりを叔父さんに頼んだ。

 さようなら沖縄、次はもうちょっとゆっくり来たいです。いろいろおいしかったので、こんど近所の沖縄料理店に未希や叔父さんを連れていこう。


「羽田にとうちゃく~。やはり飛行機だと早いわね」

「うん。ねえ、僕お腹空いたんだけどラウンジにでも行かない?」

「ラウンジ? 軽食しかないと思うけど、いいの?」

「あ。隠れなくてもいいのか」

 僕はいつものクセで、ラウンジに逃げ込んで小腹を満たそうとしてしまった。今は山崎玲央じゃない、ただの無名カメラマンなのだから気軽に外食しても大丈夫だったのだ。

「なに食べる? いろいろあるわよ」

「じゃあラーメンがいい」

「そんなのでいいの?」

「だって夕樹乃さんといる時は気軽に入れなかったから」

「なるほどね」

 僕らは、手身近にある空港施設内のラーメン屋に入って、久々にお店のラーメンを堪能した。作家が外食しづらくなるなんて、聞いてない。そもそも、僕はタレントじゃないんだから。もうこんな仕事やめたい。

 店を出た僕らは蒲田のホームセンターで寝袋と下着を購入し、さらに電車で移動して、夕樹乃さんの自宅に帰った。

 かりゆしウェアを着た僕を、サイン会に来た人の若干数が認識出来なかったから、格好で記憶してるっぽいんだよね。でもまあ、思いのほか喜んでもらえたから、着た甲斐はあったかな。

 道中、誰も僕に気づかなかったから、普通の人はよほど印象操作に強く引っかかってると思われる。僕が仕事用の格好ならすぐ通行人に捕まってしまうから移動はタクシーばっかり。だいたい作家なんて普通の人には用のない職業なのに、なんでいちいち僕の顔、いや格好なんか覚えてるんだろう。頼むからいっぺん記憶を無くしてもらいたい。


「おじゃまします」

「どうぞ~」

 山の手にある夕樹乃さんの自宅は1DKのマンションだ。医療費や借金などで余裕がなかったせいか、調度品なども質素で、あでやかな彼女の印象からはあまり想像が出来ない。ドレス姿での気品のある立ち居振る舞いや、着物の着こなしや仕草から、本来はお嬢様だったことが伺える。やっぱり貧乏暮らしをさせちゃいけない人だ。

 その晩は旅の疲れもあって、早朝撮影した写真を二人で見ながら、まったりイチャイチャして早めに眠った。


 翌朝。

 起きたら見慣れない場所にいたので、慌てて動いたら、ヘンなところで頭をぶつけてしまった。あいたたた。

「やだ! 玲央さんだいじょうぶ?」

「いたい……」

「痛いの痛いのとんでけ~」

 夕樹乃さんがベッドの上からナデナデしてくれる。僕は夕樹乃さんのベッドの脇で寝ていたんだったっけ。

「ありがと」

 よく姉さんもこうしてくれたっけ。

 そういえば、姉さんは何であんなこと言ったんだろ。

 未希と夕樹乃さんの両方と仲良くしろだなんて。

 だいたい、未希が絶対言うこと聞かないと思う。

「どうしたの? まだ痛い?」

「え? いいや」

「なんだかつらそうな顔してたから」

「あ……えっと……」

 言葉に窮してしまった。

 夕樹乃さんが小さく嘆息すると、

「貴方が抱えてる重要問題なんて、今はもう一つしかないじゃない。……未希さんのことでしょう」

「ごめん……君と一緒にいるのに別の子のこと考えて」

「いいのよ」

「姉さんが去り際に、二人と仲良くしなさいって言ってたけど……無理だよねそんなの」

「貴方はどうしたいの?」

「……」どちらも捨てられない。

「私はもう、十分幸せにしてもらったから気にしないで、貴方の好きにして」

 以前みたいな、どこか我慢してるような悲しそうな笑顔で言う夕樹乃さん。

「心にもないこと言わないでよ。そうやってまた僕を騙すの?」

 僕は彼女の手をぎゅっと握った。

「そんなつもりじゃ……」

 僕は彼女をじっと見つめた。

「ええ、貴方と別れたくない」

「僕も貴女と同じ。もう離れたくはない」

 彼女の指に嵌ったファッションリングを、僕は指でなぞる。

「四年前からずっと、僕は貴女の夫になりたかった」

 夕樹乃さんが息をのむ。

 少しして、彼女の白い頬に、すっと涙が流れる。

「駒場のマンションだって、いつか貴女と暮らしたくて買った物件だ」

 夕樹乃さんが唇を噛んでいる。

「だけど島本のせいで、このザマさ。笑えるだろ」

 僕は卑屈な笑いを浮かべ、お手上げポーズをした。

 あいつの計略のおかげで夕樹乃さんは僕から引き離され、僕は未希と婚約するハメになったんだ。もう少し早く気づけていたら、大惨事にならずに済んだのに。

「笑わないわ。貴方は、私と裕実さんを救ったのだから。私の英雄よ」

「違う。四年前に見抜けていたら、君を苦しめずに済んだ。そして姉さんを連れ出したのは有人だ。僕は何もできなかった間抜けだよ」

 彼女はふるふると頭を振った。

「玲央さん、人は持ってるコマでしか勝負できないのよ。出来なかった勝負を悔やんでも仕方ないでしょう。最終的に勝ったのだから、それで誇っていいんじゃない?」

「でも……」

「こう考えてみましょう。島本は、裕実さんと私を一時的に手厚く保護して、次の、有人さんや玲央さんにパスする役だったと」

 言われてみればそうかもしれないが、姉も恋人も寝取られた身としては、やはり納得いかない。

「でもやっぱり僕は……とても悔しい。君を護れなかった」

 僕は立ち上がり、ベッドに腰かけて彼女を抱きしめた。

「そう言ってもらえるだけで救われる気持ちよ」

「夕樹乃さん……」

 自信をもって、君を幸せにすると言いたい。だけど僕は未希を背負ってしまった。

 二人とも幸せにするには、一体どうすればいいのだろう……。


     ◇


 僕らは朝食と買い物のため、駅前にやってきた。

 夕樹乃さんはいつも、牛丼屋の朝定食を食べて出勤しているそうだ。朝はご飯を食べないと活力が出ないらしい。たしかに、いつもハードワークな彼女だから、朝食をちゃんと食べるのは大事だな。

 僕がいつも叔父さんの店で朝食を取ってるのをオシャレだとか何とか言ってた気がするけど、喫茶店のモーニングなんかじゃ彼女は昼まで持たないんじゃないかなあ。逆に、和食の朝定食は僕にはちょっと重い気もするけど、彼女がいるから普通に食べられそうな気がする。最近の出張で彼女と朝食を共にすることが増えて、一緒にいれば朝でも食欲が出ると分かったから。

 そういえば夏休み中は未希と朝、昼食を共にしていたけど食欲が増したことはなかったな。なんでだろう? だからといって一緒に食べたくなかったわけでもなく、普通に楽しく食事をしていたと思うんだけど……。


「玲央さん、何食べたい?」

 牛丼屋を出てスーパーへの道すがら、夕樹乃さんが尋ねる。

「んー……味覚障害の期間が長かったから正直あまり食べたいものってないんだけど、夕樹乃さんにお任せします」

「そうなの? うーん」

「そのかわりと言ってはなんだけど、好き嫌いはないから安心して」

「わかったわ」

 じゃあ、と彼女が勧めたのは、旬の食材だった。ほとんどの食材は一年中入手することが出来るが、栄養価が高く味も良いのは、やはり旬のものなのだそう。

 実りの秋といって、これからおいしい食材が増えるのだけど、今は夏から秋への過渡期なので秋の食材にはまだちょっとだけ早いらしく、物によってはサイズが小さかったり収穫量がまだ十分じゃなかったりと、フライングしてもあまり良いことはないそうだ。

 結局、夕樹乃さんは旬のものとして、カツオのたたき、生さんま、あさり、かぼちゃ、栗、舞茸を買っていた。他にもいくつか。今日の昼と夕食、明日の朝と昼食、場合によっては夕食の材料となる。まあ、足りなくなったら途中で買い足しにでも行けばいいだろう。何が出てくるのか、楽しみだな。


 夕樹乃さんの自宅に戻ると、彼女は料理の仕込みを始めた。完成までに時間がかかるメニューがあるそうだ。その片手間に、昼食も作ると言っていた。僕はお邪魔なので、大人しく仕事でもしていよう。ノートパソコンと電源とネット回線さえあれば、どこでも仕事が出来るのは便利だなあと思う。

 さしあたりやらねばならないのは、今回訪れた書店さん向けに送る、サイン会の感想文。書店の公式ブログなどで使うものだ。画像は夕樹乃さんが撮影したものがあるので、それを見ながらついつい、と書いていけばいい。これを毎回書いていて、これから行くお店のも全部書くことになる。こういうものは書店さんへのお礼もあるけど、実際に会場に来てくれたファンへのお礼も兼ねているのだと夕樹乃さんに教わった。だから大事にしなければならないとも。

 こういう細かい事柄も、たくさん夕樹乃さんから学んだ。彼女の言うとおり、山崎玲央という作家を育ててきたのは、間違いなく彼女なんだなあと実感する。感謝感謝。

 ところで次に行くのはどこだろう……と予定表を調べてみると、どうやら四国らしい。僕は四国に行くのは初めてだ。鳴門とかお遍路とか、くらいしか知らないんだが、行く前にいろいろ調べておかなくちゃ。またテレビや新聞が来るだろうし、予習しておくといろいろラクになるからね。

「夕樹乃さん、次に行くところ高知みたいだけど」

 そういえば坂本龍馬って高知の人だったっけ。

「そうよ」とキッチンから返事。「今日買ったカツオも高知産よ」

「カツオが特産品?」

「ええ。多分だまってても現地でたらふく食べさせられると思うから覚悟しといた方がいいかも」

「じゃあ今日は予習かな」

「うふふ。そうね」

 僕は仕事をしながら、夕樹乃さんが家事をするのを時折眺めていた。なんだかとても幸せな時間だなあと思った。

 僕が欲しいものって、家庭なのかなと。それと同時に、なんてつまらない人生を送ってきたのかと空しくもなる。

 実家にいた十八年間は自由がなかった。留学中の四年間、一番大切なものを失って生きる気力が消えかけてた。そして帰国してからの四年間。一番欲しかったものは、目の前にぶら下がったニンジン同然で手に入りはしなかった。

 欲しいものが何も手に入らない二十六年もの時間は、僕にはあまりにも長すぎた。

 そしたら今度は、欲しいものがいっぺんに転がり込んで、どれかを捨てろという。そんなの、あんまりだと思う。幸せなまま、銃で頭をブチ抜いて死のうかな。どうせ僕なんか生きてる価値もないのだから。

「お昼ごはん出来たわよ」

「え……もうそんな時間?」

 ろくでもないことを考えていたら、昼時になっていた。

 食卓には、ざるそばと、カボチャと舞茸の天ぷらが乗っていた。いい匂いが食欲をそそる。

「あまり食欲ないかも、と思ってお蕎麦にしたんだけど、足りなかったら何か作るから」

「ありがとう。とても美味しそうだよ」

「じゃ、天ぷら冷めるから食べましょ」

「「いただきます」」

 カボチャはともかく、舞茸の天ぷらなんて初めて食べるからドキドキする。

「カボチャも舞茸も体にいいのよ。特にカボチャは油と一緒に取ると栄養価が吸収されやすいの。玲央さん疲れやすいから健康になってもらわないと」

「あはは……すいません、虚弱体質でぇ」

 べつにそういう意味で彼女が言ってるわけではないことくらい、僕にも分かっているが、なんとも申し訳ない気持ちが先に立ってしまい、テーブルの下に隠れたくなる。そう、僕はフナムシのようなものさ。

 食後、僕は書きあがったばかりの書店向けの文章を、その場でチェックしてもらうことに。担当編集が目の前にいるというのは、悪いことばかりでもない。だけど、僕がもう書くことがなくなってしまったら、彼女はどう思うのか。


 そう遠くないうちに、エーゲの薔薇のネタが尽きる。――僕の夢の記憶が尽きるまで、あと一冊か二冊。作家としての寿命も、あとわずか。夕樹乃さんにここまで育ててもらって申し訳ないのだが。

 僕には物語を思いつく才能はほとんどない。出来ることは、ある程度決まったプロットを小説の形に仕立て直すくらい。じゃあ、現在売りだし中のコーヒーミルはどうなんだ、というと、これは半分私小説のようなものを、ありきたりな恋愛小説のテンプレートに落とし込んだだけの小説モドキだ。

 あの本は、四年も放置プレイをされた僕の恨みつらみを込めた渾身のラブレターであり、実のところ内容にそれほどの意味はない。

 とはいえ、あの本を出したことによって、数人の人生が大きく変わったのは確かなので、意味はあったのだとは言える。姉さんを救い、夕樹乃さんを救い、夕樹乃さんのお母さんを救うきっかけになった。――救われなかったのは、未希だけ。


「お母さんの様子どう?」

 僕は、食後に入れてもらった緑茶を飲みながら夕樹乃さんに尋ねた。和食の後の緑茶はおいしいな。普段は洋食とコーヒーの生活をしているから、ちょっと新鮮。

「今まではずっと横ばいだったけど、転院したおかげで徐々に良くなってるわ」

「それはなにより」

 夕樹乃さんのお母さんの病状は、手厚い治療のおかげで徐々に良くなっているそうだ。手術をするにはまだ体力などが不足しており、もうしばらく養生が必要らしい。それでも命には別条なくなったから、夕樹乃さんの心配事が一つ減った。

 今の僕なら個人レベルの問題はだいたい金で解決出来るのだけど、その金だって遺産を除いた大半は夕樹乃さんに稼がせてもらったわけだから、彼女に還元するのは非常に理にかなっている。

「明後日、仕事の帰りにお見舞いに行ってくるわ」

「ついてった方がいい?」

「貴方は未希ちゃんのお相手してなさい。放置したら今度は会社に怒鳴り込まれちゃうわ」

「うへえ、了解了解」

 確かに出張に行くと毎度、未希からの電話やメッセージアプリの履歴が大変なことになっている。だからといって僕が返事なんかしないと分かってて未希もやってるのだ。あれは鳴き声の一種だと思って放置してる。だけど適度にガス抜きしないと、何をするか分からない。それを夕樹乃さんも分かってて言うんだ。まあ、彼女は僕らと違って大人だからね。

 とはいえ、いつまでもというわけには、いかないだろう。僕には選べっこないのに。


 やることのなくなった僕は、夕樹乃さんの本棚から適当な本を引っこ抜いて読み始めた。彼女の蔵書は、彼女が自分で集めたっぽいものと、そうでなさそうなのが、大きな本棚の中に並んでいる。何故かと思ってしばらく考えて、答えに思い至った。

「ねえ、君の本棚の中身、どれが仕事で作ったやつなの?」

 そう。彼女は出版社の編集部員なのだ。自分が携わった書籍が並んでいても全くおかしくはないどころか、僕の本もその一部のはず。だけど僕の本だけは、あの禍々しい祭壇に据えられているので本棚の中には無さそうだ。ちょっとげんなりする。

「上三段がそうよ」

 テーブルで栗の殻を剥きながら夕樹乃さんが言う。

「こんなに……。もちろん僕の担当しながら他の作家さんの本も作ってたんだよね?」

「ええ。平行してやってるわね」

「じゃあ、今は?」

「多いときは十人くらいだけど、最近は新刊とイベントで貴方に付きっきりだから五人に減らしてるわ」

 僕は血の気がさーっと引いた。

「あ、あれだけ仕事してるのに、僕の他にもまだ、五人も……」

「前はそこまで多く抱えられなかったけど、便利なデジタルツールを貴方に教えてもらってから、ずいぶん仕事が効率化されて数をさばけるようになったのよ。ありがとう」

 えええ……。なんというか、ヤバいぞ僕の担当さん。

「ま、まあ、お役に立てたのならよかった」

「でも貴方ならそれほど苦もなくさばける仕事量よ。あんがい編集者向いてるから。一点を除いて」

「……どういうこと?」

「言語化能力やスケジュール管理とかタスク調整にIT知識に新しいことに対する学習能力に分析力等々、コンテンツの制作管理能力はズバ抜けてるって話。自分で気づいてないんだろうけど、来る仕事来る仕事ぜんぶノータイムでやっつけられるってそういうことよ」

「じゃあ、残った一点って一体?」

 夕樹乃さんは小さく嘆息して、

「貴方、人間に興味なさすぎるのよ」

 ぎく。

「う……返す言葉もない」

「これがないと、担当した作家さんやライターさんは、かなり可哀想なことになりそうね」

「だってぼく……人間わかんないから」

 彼女は、うふふ、と笑って僕の頬を撫でた。

「そんなにしょんぼりしなくてもいいわよ。作家さんはそれでいいんだもの」

「うん……」

 これじゃあ褒められてるのか何なのかよくわからない。

「愛しい貴方は、変わらずにいていいの」

 頬に触れてる彼女の手を、そっと握った。

「どんな人でなしでもかい?」

「そうね。人でなしなら、わたし慣れてるから」

 顔向けできなくて、僕は彼女に背を向けて本の続きを読み始めた。

 本のタイトルは、夏目漱石の『それから』。


 夜。

 夕樹乃さんの本を数冊読み終え、そういえば『坊ちゃん』の舞台も高知と同じく四国だったな。どのへんだったっけ……などと考えていると、夕食の時間になった。

 カツオのたたき、カボチャの煮物と昼の天ぷらの残り、あさりの味噌汁と舞茸の炊き込みご飯。旬の具材で構成された、とっても家庭的なメニューだ。生をそのまま出した、カツオのたたき以外は全て夕樹乃さんの手作りである。

「いただきます」

「めしあがれ」

 ひととおり箸をつけたけど、全部おいしい。マジでおいしい。

 夏に味覚障害が改善して、本当によかった。せっかくの夕樹乃さんの手料理を味わえなかったら、残念すぎるにも程がある。

 食事を終えて、お茶で一服してるときに、ふと思った。

 これは特別な事象なのではないかと。

「ねえ」

「なあに?」

「さすがに普段はこんなに料理してないよね?」

「そうね、忙しいから外食が多いわね」

 ああ、やっぱり……。迷惑だったかな。

「なんかごめん」

「どうして?」

「だって、僕が泊まりたいなんて言ったから」

「推し……恋人に、ご飯作ってあげたいと思ったらおかしい?」

「そんなことないと思うけど」

 僕だって未希にクッキーやケーキを作ってやりたいと思ったことはある。だから理解できなくはない。

「ただの自己満足よ。気にする必要はないわ」

「そうだけど……」

「おいしくなかった? 味は常識的な水準を満たしてると思うのだけど」

「と、とんでもない、すごくおいしいよ。その……夕樹乃さんの手料理が食べられて、すごく、うれしい、です」

「うふふ。じゃあ、よかった」

 うれしいって言ってる僕よりも、彼女の方がうれしそうに見える。

「夕樹乃さん、うれしそうだね」

「ええ。自分の作った食事を食べてもらえてうれしいし、こうしてそばにいてくれてうれしいわ」

「僕だって、一緒にいられてうれしいよ」

「恋人同士ってそういうものよね」

「でも、ときどき不安になるんだ。今まで喜びと苦しみを同時に感じてたから、両想いの状況にまだ体が慣れていないのかもしれない。何かの不整合というか、少し落ち着かないような気分になって……」

「ごめんね……玲央くん。たくさんいじめて、困らせて。私のこと、怖い?」

 夕樹乃さんが悲しそうな顔をしながら、僕の手を握った。少し冷たいのは、さっき食器を洗っていたせいだろう。

 あ。

 なんてことを。

 僕は、彼女をわざわざ悲しませるために泊まりに来たのか?

 否。

 バカか。

 何をやってんだ僕は。

 喜ばせなきゃいけないのに。

「いや……ごめん、悲しませるつもりなかった。失言だった」

 彼女の手に口づけをした。

「気にしてないから、大丈夫よ」

 まったく。

 相変わらず人の心が分からない僕は、どうしようもないな。

 愛する女性をすぐ悲しませる。

 ろくでなしだ。

 最低だ。

「ごめん……やはり、もう帰るよ」

「どうして? 理由教えて」

「だって、迷惑はかけるし、すぐ君を悲しませてしまう」

「迷惑かけていいのよ。もう他人じゃないでしょ」

「君がよくたって、僕はイヤだ」

 立ち上がる僕に、彼女がすがりついた。

「行かないで」

「僕がいたら悲しませるから」

「そんなの前の話でしょう。お願いだから、行かないで」

 彼女が僕の胸でしくしく泣き出した。

 それを言ったら、夕樹乃さんが僕をからかってると思ってた時期は、さんざん彼女に当てこすりをして悲しませてきたんだ。

 これ以上泣かせたくない、傷つけたくない、悲しませたくない。なのに。

「夕樹乃さん」

「玲央くんいっちゃいやぁ……」

 夕樹乃さんが僕の胸で、ずっといやいやをしている。

 困った僕は、背中に手を回して抱いてやるしかできなかった。

「……僕がいても、いいの? 傷つけるのに」

「そんな程度で傷ついたりしない。私は強いから。だから行かないで」

 そんなに……いてほしいのか。こんな僕なんかに。

「どうして、泣くの?」

「大好きな人が、そんなつまんないことで予定を切り上げて帰っちゃうなんて、悲しいに決まってるじゃない……いやよぉ」

 まあ……そう、言われれば。でも。

「迷惑かけたり、悲しくなるような話をすることよりも、帰ってしまう方が悲しい?」

「悲しい」

 これは量の問題……なのか。そうか。分量の差で考えればいいのか。

「玲央くん、私から逃げないで」

 ん? これは、逃げなのか。

 僕は相手を想うあまり遠ざけようとしてたけど、普通はこれを逃げと思うのか。

「……わかった。予定どおり、明後日の朝までずっと一緒にいる」

「よかった……」

 夕樹乃さんが泣き止んだ。すこし、ぐすぐすしている。

「そんなに僕のこと、好き?」

「死ぬほど好き。大好き。玲央くん愛してる」

「くううぅぅ……」愛しくてたまらなくて、僕は彼女をぎゅーっと抱きしめた。

 胸がいっぱいで、どうしたらいいかわからない。

 もう、なんでこんなに僕はポンコツなんだろうか。

 いろいろしんどい。

 夕樹乃さんの気持ちがうまく読み取れない。

 悲しませたくないのに、どうしたらいいか、わからない。

「ごめんなさい、ごめんなさい……こんなダメな僕なんかが愛して、ごめんなさい」

「愛してくれて、すごくうれしいから、だから謝らないで」

「うん……でも……ごめんなさい」

 身内の女には甘えて迷惑かけまくっても平気なくせに、彼女にはそれが出来ない。

 そんなダメな愛し方しかしてこなかった僕が、身内以外を愛するなんて、ハードルが高すぎたんだ、きっと。どうしよう……。僕はかなり、いろいろ欠けてて、つらい。

「ううう……ああ。ごめんなさい。出来損ないでごめんなさい」

 わからないわからない。

 思考がぐるぐる回って、二進も三進もいかなくなってしまった。

 気づくと、ごめんなさいを無限ループしていた。

「玲央くん……もしかして、親類じゃないと不安なのかしら」

「あ」

 夕樹乃さんが思考のループを強制停止してくれた。

「なんとなく……そんな気がしてたのだけど。裕実さんの言ってたこととも辻褄が合うし」

「ね、姉さんと何話したの!」

「玲央くんは、すごい甘えん坊で気が小さくて」

「うっ……」

「護ってあげないと、すぐ消えてしまいそうで」

「……」

「ちゃんと言いたいこと言わなくて、頭でっかちで勝手に脳内で決めて」

「あっ、あっ」

「空気が読めないから、人が怖くてすぐ壁作って隠れて」

「ひいい、やめてええぇ」

「でも根は正直で自分なりにベストを尽くそうとして」

「む?」

「優しいけど勘違いされやすくて優柔不断で」

「ぐ……」

「空回りして落ち込んで、途方に暮れて立ちすくんで」

「あああ」

「自分が嫌いで自分の悪口ばかり言って自分の良さが分からなくて」

「う……」

「安心できる隠れ家があれば実力を発揮できる」

「……」

「私の自慢でこの世で最愛のひと」

 僕は、気が付いたら泣いていた。

 だってこんなの、泣くに決まってるじゃないか。

 こんな、こんな姉さんの遺言みたいなの。つらいよ。

「私は、貴方の安心できる人に、隠れ家になりたい。どうしたら、あなたの護り手になれるの?」

 答えは決まってる。

「家族に……なること」だけど……

「わかったわ」

「でも」そんなことすぐには出来ない。

「私は裕実さんから、貴方のお姉さんを引き継いだのよ。もうお姉さんなの。わかる?」

「……う」

「戸籍とかどうでもいいの。もう貴方の義理のお姉さんなの」

「あ……義理の……ああ……えっと?」

「私は、玲央くんの義理のお姉さんで、恋人なの。OK?」

「お、おーけー……です」

 今ほど未希の単純明快な頭が羨ましいと思ったことはない。

「お姉さんだから、迷惑かけても甘えても大丈夫よ。安心した?」

「えと……えと…………うん」

 実際はかなりパニックになってる。

 耳で聞いて理解しても、なかなか腹落ちしてくれない。

 愛しい夕樹乃さんが、僕の二人目の姉さんで、甘え倒していい人なのだと。

 僕の背中を夕樹乃さんが優しくさすってくれる。


 そうだ。夕樹乃さんは姉さんの置き土産。

 僕の甘えていい人なんだ。

 もう僕をいじめたりしない。大丈夫なんだ。

 落ち着け。彼女はもう、僕をいじめない。

 甘えないと、逆に彼女が悲しむ。


「夕樹乃さん」

「ん?」

「僕はろくでなしで、浮気者で、いっぱい欠けてて、うまく愛せないけど、それでも甘えていいの?」

「いいわよ」

「うん……わかった」

 僕は彼女の胸に顔をうずめた。姉さんや未希にしているように。

 ここが自分の安全地帯なのだと、体に分からせるように。

 彼女から僕を逃がさないように。

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