ホテルの朝食ブッフェで海鮮を満喫した僕らは、チェックアウトして空港に移動した。そこで夕樹乃さんはしこたまお土産を買って会社に宅配で送っていたが、僕は店と未希の分だけ買って機内に持ち込んだ。
離陸後、飛行機の座席で僕は、チャットアプリの画面を彼女に見せた。
「夕樹乃さん、会話これで」
彼女は苦笑しながら頷いた。
『なんでチャットなの?』
『どこで誰に聞かれるか分からないでしょ』
『なるほど。玲央さんは用心深いのね』
『夕樹乃さんが迂闊なだけだよ』
『ぷんすこ(スタンプ)』
ぷんすこって。思わず笑ってしまった。僕の知らない夕樹乃さんが、どんどん出てきて楽しくなってきた。
『にやり(スタンプ)』
も~、と隣でむくれてる。こんな調子だから、未希を子ども扱いしてもいられないんじゃないかな。
『今回の出張、すごいストレスたまったわ~』
『そうなの?』
『玲央さんはどうなの?』
『ストレスというか……べつのが溜まった』
『別の?って何かしら』
『悶々としてて』
『あ……』
僕らは顔を見合わせた。夕樹乃さんの顔が真っ赤になっている。僕は涼しい顔してメッセージの続きを打ち込む。
『というわけでそちらは?』
『同じです……』
想い合う男女が旅行先で全く触れ合うこともないまま帰路に就いてるのだから、そりゃあ不満も溜まるわけで。
『じゃあ新宿行ってその後にお見舞いに行きますか。お土産買ったんでしょ?』
『なんで分かったの?』
『あんだけ買ったのに、一つだけ手荷物に入れてたから。しかも自分じゃ食べなさそうなやつ』
『なんて観察眼なのかしら。さすが私が見出した才能だわ』
『よくわからんことでドヤるのカワイイ』
も~、とまたむくれている。
今までさんざんからかわれ続けてきたんだから、この程度の意趣返しじゃ全然足らないぞ。
羽田に到着した僕らはタクシーで新宿の大き目のホテルに直行し、相当に溜まったストレスを速やかに解消した。だけど僕もそこまで体力があるわけじゃないから、何度もは物理的にムリ。彼女には悪いとおもってる。
くたくたでベッドに転がってる僕は、ふと傍らの夕樹乃さんに愚痴をこぼした。
「不自由だな……。もう作家なんてやめたい」
「え! まあ……不自由だとは思うけど」
「姉さんみたいに自由になりたい」
「裕実さんどうかしたの?」
「有人と海外逃亡した」
「はー!? え? え?」
「まあ……理解追いつかないと思うけど」
夕樹乃さんの目が点になってる。
「あいつは僕よりもずっと前から姉さんのこと好きだったんだ。でも告白しようとしたら、母さんの自殺騒ぎとかで言えなくなっちゃって……」
「どこかで聞いたような話ね」
「姉さんはまあ……父の悪い付き合い連中から命狙われてるに近い状態なんで僕じゃ護るなんて無理なんだ」
「えええ……」
「だからボディーガードのできる有人に預けた」
政治家の家庭事情なんて普通は理解できないよな。
「島本のところは比較的安全だったんだけど、夕樹乃さんの件で姉さんがブチ切れてさ」
「私の……あら」
「あとで知ったんだけど、こないだウチに来たときが、僕らとのお別れだったのさ。そのまま有人と海外に」
「駆け落ちなのかしら」
「有人はそう思ってるかもね。二人がどこ行ったかは分からないし、僕も知らない方が安全だ。落ち着いたらそのうち連絡くらい寄越すでしょ」
「何にしても裕実さんの安全が第一ね……」
「有人が請け負ったんだ。大丈夫だよきっと」
「玲央さんは……お姉さんが有人さんとくっついても平気なの?」
「もう、お互い踏ん切りはつけたからさ。正直寂しいけど、姉さんのためだから」
「そう……」
「それに、僕のために犠牲になったんだから、自由になって欲しいんだ」
「そのための同行者が有人さんなのね」
「おかげで未希が置いていかれた。まあ意趣返しってわけじゃあなかろうけどさ」
「私が玲央さんを任されて、玲央さんが未希さんを任されて……って入れ子状態ね」
夕樹乃さんが複雑な表情で僕を見つめる。僕はうまい返しが思いつかなくて、キスで誤魔化したら、頬を突っつかれた。誤魔化したのバレたみたい。
「ちぇ」
夕樹乃さんがくすくす笑う。この笑顔がずっと見たかった。
今にして思えばずっと、うっすら何かを我慢してるような顔ばかりしてた気がする。僕はそれを怒ってるとか意地悪してるとか、穿った見方をして勝手に逆恨みしてたわけで。僕じゃなけりゃ、彼女が僕を好きだってことや、何かに困ってることを、さっさと見抜けたかもしれないのに、僕は対人に関してはポンコツ通り越して故障してて、六年も気づけなかった。
「玲央さんがあの本を書いてくれたおかげで、みんなの運命が大きく変わったのよね」
僕は頷いた。
「裕実さんが変わり、島本が変わり、私も変わって、貴方は私を手に入れて、私は自由と推しを手に入れた」
僕は肯定できず、目を伏せた。
僕は……夕樹乃さんに何ひとつ約束が出来ない。
それらが僕の心を蝕んでいく。ガリガリと外側から齧り取っていくように。
それから僕らは彼女のお母さんの入院する獅子之宮総合病院に向かった。二人でお母さんを見舞うと、とても喜んでくれた。以前会ったときより心なしか調子が良さそうに思えるけど、実際どうなのかは主治医に聞かないと分からない。土産だけ渡して早々に退散、僕と夕樹乃さんは病院で解散した。
僕は病院からタクシーで駒場に戻ったんだけど、この時点でかなり体力が減っている。正直しんどい。叔父さんの店にお土産を置いて、僕は自宅に戻った。さすがに今日は本当にくたくたで、このまま寝る気で服を脱ぎ散らかしてベッドに倒れ込んだ。
すると、いくらも経たないうちに、インターホンが。
『玲央にーちゃん、あけてー』
うう……未希が来た。マジでHPがない。さすがに今日はかんべんして欲しいところだが……。
「いま帰ったばっか。疲れてるから放置プレイでいいなら」
それでもいいと言うので渋々エントランスのドアを開けてやる。部屋まで上がってくるスキに僕は部屋着に着替え、背広をハンガーに掛けた。
ピンポーン。
うう、なんとか間に合った。ドアを開けてやる。
「れおにぃー」入ってくるなり、バフっと胴体に抱き着いてくる。
「みーちゃん、いらっしゃい」
軽く未希を剥がしてドアを閉じ施錠して、手を引いてリビングに誘導する。未希はほっとくと玄関先で延々とイチャつくので、早々にソファに移送しなければならないのだ。
「それじゃ僕は寝るから好きにして」
「はーい」
僕がベッドに戻ると、未希がネコのぬいぐるみに着替えはじめた。多分、僕の隣で転がるつもりだろう。
疲れた体を横たえて布団をかぶると案の定、間もなく未希が潜り込んできた。
「未希も寝る」
「みーちゃんまだ眠くないでしょ……」
「一緒に寝てたら眠くなるから」
「帰る時間だけ気をつけて。アラームかけときなさい」
と言うと、未希はごそごそベッドから出て、制服のポケットからスマホを出して目覚ましアラームをセットし、またベッドに戻ってきた。
「れおにぃ……」
「ん?」
「帰って来なかったらどうしようかと思ってた」
「ちゃんと帰ってきたよ。おいで」
「うん」
僕を未希を抱いて、そのまま眠った。
アラームで起こされて横を見ると未希はいなくて、独りでリビングでアニメを観ていた。
「れおにぃ、おはよ」
「おはよ。やっぱ眠れなかったんでしょ」
「少し寝た」
「車呼んだから、お土産持ってお帰り」
「未希タクシーで帰るの?」
「有人いないから」
「あ、そっか……」
有人がいなくなったので、寂しそうだ。
「れおにぃ……いい子でお留守番してたんだから、ご褒美ちょうだい」
「お土産持ってきたじゃない」はい、と未希に土産を渡す。
「通販でも買えるようなものいらない。れおにぃちょうだい」
あんまりにも寂しそうな顔で言うものだから、切なくて彼女を抱きしめた。未希が胸元で、くぅ、と小さく鳴いた。
「明日ね」
「絶対だよ」
「うん。待ってる」
帰りたくなさそうな彼女を廊下に追い出し、ドアを閉めた。こんな真似したくはなかったが、もう有人はいないのだから心を鬼にするしかない。
未希がしくしく泣きながら去っていくのが聞こえてきて、僕は両の手で耳を塞いでベッドルームに逃げ込もうとした。でも。
僕はまた自分のことしか考えてないじゃないか!
未希は実の兄が唐突に家から消えてつらくて、恋人が愛人と旅行にいってつらくて、やっと戻ってきた僕に感情をぶつけたかったのに寝てて、起きたら家から追い出されて――
「まって未希!」
僕はドアを開けて彼女を呼び留めた。
くるりと振り向いた彼女は、呆然と立ち止まって僕を見てる。
呼び止めるなんて思ってもいなかったって顔だ。
僕は彼女に駆け寄ると、手を引いて僕の部屋に連れ帰った。
「どうして」
「ごめん、未希。僕は自分のことしか考えてなくて君のこと」
「そーゆー人だとしってるし」
「薄情だってか」
「ん。お兄ちゃんも言ってた」
「あんの野郎……ま、言われても仕方ないか」
「未希帰らなくていいの?」
「いや」
「じゃどうするの」
「僕も一緒に行く」
「え……?」
僕は未希の頭を撫でて、ソファで座って待っててと言った。
それから、いそいで着替えて、未希の実家に電話をかけた。
「あ、こんばんは。玲央です」
『ああ、玲央くんね。未希がどうかした?』恵子おばさんが電話に出た。
「実は北海道に出張してて今日戻ってきたんです。お土産もあるので、未希を送りついでにお伺いしようかと」
『あら、ありがとう。ごはん食べていくでしょ?』
「よければ。何か買っていくものとかあったらスーパー寄ってきますが」
『大丈夫よ。まっすぐ来てね』
「はい。それじゃあ後ほど」
叔母さんとの電話を切ったら、未希が。
「ごはん食べてくんだ。やったー」
「うん」
未希がすごくうれしそうだ。少しは元気になってよかった。
二人でマンションの前に出ると、タクシーは既に到着していた。
「玲央兄ちゃん、また泣いてー」
「うっうっ、だってぇ……えぐえぐ……」
未希の実家で晩ご飯のご相伴に預かっているのだが、この間未希が持ってきた唐揚げと同じものが出たので僕の涙腺がしんでしまった。
「玲央くん泣かないで~」
「ママこないだ教えたじゃん。玲央兄ちゃんちのおばさんのレシピの話」
「ああ、そういえば」
「れおにぃはママの味思い出して泣いてるんだよね」
「うん……えぐえぐ……おいしいよう」
叔父さんに背中をさすられる僕。なんかもう色々アレだ。
食後、僕は有人の部屋に入ってみた。慌てて出ていったのだろう、パスポートを探したと思しき跡や、着替えで脱ぎ散らかしたパジャマなどがそのまま放置されていた。
あいつは当分帰っては来ないだろう……。
あいつは、未希を置き土産にしていった。
僕が彼女を置いて去ったように。
未希が呼ぶので彼女の部屋に行ってみた。年相応の女の子の部屋というのが感想だが、申し合わせたわけでもないのに、僕の本の祭壇が設えてある。そしてお供えのつもりなのか、異界獣キッズのフィギュアやぬいぐるみが並べてあった。どうして女性は祭壇を作るのが好きなのだろう? ちょっと理解が出来ない。
「未希の部屋覚えてる?」
「いや……。というか、いつも未希と一緒にいたのってリビングじゃなかったっけ? 僕がダイニングテーブルで勉強してて、君が大きいテレビでアニメとか観てたじゃない」
「あ、そうだった」
「やっぱり」
「ねえ、お兄ちゃんもいなくなっちゃったし、うちの子になってよ、れおにぃ」
「え……」
――僕も、なりたい。なりたいよ。
怯える必要のない父親。おいしい食事を作ってくれる母親。慕ってくれる妹。
地縁血縁の引力はとてつもなく強い。僕の欲しかったものが全てここにある。だけど。
――僕は夕樹乃さんを失いたくない。
「答えられないんだね」
「……」
選べないんだ。本当に。どっちも選べないんだよ。
「れおにぃは、いなくならないでね」
答えられない僕は、無言で未希を抱きしめた。
有人の置き土産を。
◇
昨晩はいたたまれなくて、あれから早々に帰宅してしまった。未希には僕が自分から逃げるように映ったかもしれない。
僕は、朝目が覚めても甘えるアテがないから二度寝した。昼頃に目が覚めたけど、胸がきりきりするから、三度寝をした。
目が覚めると二時過ぎで、さすがにもう眠れないなってところまで寝た感覚があったんでシャワーを浴びたら、うっかり髪をずぶ濡れにしてしまい、げんなりした。もうじき未希が来るのに。
空腹を水で誤魔化しながら髪を乾かしていると、インターホンが鳴った。
『れおにぃ、あけてー』
「あーごめん、ちょっとおつかい頼まれてくれない? 昨日から何も食べてないんだ」
『いーよー』
というわけで、コンビニでおにぎりを買ってきてもらうことにした。十分ほどして未希が戻ってくると、両手にいっぱいの荷物を持ってきた。
未希が玄関口で、
「れおにぃ、ただいまー」
「おかえり……ってどうしたのそんなに買って。くじでもやったの?」
「ちがうー。備蓄」
「?」
未希からコンビニ袋を受け取った僕は、ダイニングテーブルの上で中身を広げた。
注文したおにぎりのほか、カップ麺やレトルトカレーにパックご飯、シリアルバー、クッキー等々、日持ちのする食料がたくさん出てきた。
「……ホントに備蓄だねえ」
「だってこの家、食べ物ぜんぜんないんだもん」
「まあ。基本的に食事は叔父さんと一緒に店で食べてるから」
「むう……でも動けなくなることよくあるじゃん」
「ま、まあ。確かに」
疲労困憊で買い出しにも行けなくなることが時々ある。それを未希は心配してるようだ。
「それで、レシートは?」
「いいよたまには未希が出すから」
「でもなあ。あんまりみーちゃんに現金使わせたくないんだけど……」
「む」拒否の鳴き声。しょうがないなあ。
僕が備蓄食料を袋に戻し、おにぎりをもそもそ食べ始めると、未希がお茶を入れてくれた。
「どぞ」
「ありがとう、みーちゃん」
「ん」肯定の鳴き声。
未希が僕の隣に座って、クッキーの袋を開けて齧りはじめた。
「昨日の約束」
「覚えてますよ、ちゃんと」
「ん」
ずず……と僕がお茶を飲んでると、未希が言う。
「北海道で夕樹乃さんとしてきたんでしょ」
「ぶっ」思わずお茶を吹いてしまった。
胡乱な目で僕を見つつ、テーブルをティッシュで拭く未希。
「してないよ」
「ホントに?」
「盗聴されてるようなホテルで出来るわけないだろ」
「えええ……なにそれヒドイ」未希がドン引いている。
「どこで盗聴盗撮されてるか分からない。僕で金を稼ごうとする奴はいくらでもいる。僕が外に出るってそういうこと」
「うわあ……作家コワイ」
「だから未希が作家になりたいって言ったとき、いい顔しなかったんだよ」
「未希売れっ子にならないからだいじょぶ」
「わからんよ? 僕もなんで売れたかわかんないんだし」
「マ?」
「マ」
「うわあ……」
「こないだも取材が何度も入ったんだ。数件の地元メディアのインタビュー、テレビでレストランの宣伝や土産物の宣伝にホテルの朝食ブッフェの宣伝までやらされた。これらのついでに僕の本の宣伝もしてもらうっていう取引なの。今月はこれを何回もやらないといけない。正直もう行きたくないんだけど」
「サイン会に行ったんじゃなかったっけ」
「サイン会をセッティングした部署の奴が勝手に広告代理店に話しを広げて、いまこんなひどいことになってんの。最早サイン会はオマケ。もう最悪」
「うええ……れおにぃ、かわいそ」
「そうなんだよ、かわいそうなんだよぉ……」
「よしよし」未希がなでなでしてくれた。「だから昨日来たとき寝てたんだね」
「そういうこと。昨日も朝からテレビの相手してたんだよ。そりゃ寝るよね」
「ごめん……」
「いいよ、気にしなくて」
「……未希のこと迷惑?」
「う……」
「正直に言っていいよ」
「いいの?」
「いいよ」
「……そういう時も、確かにある」
「だよね。わかってた」
「ッ……」
「最初から。わかってる。けど、迷惑かけたい」
僕は未希を抱き寄せた。
「ああ。未希は僕に迷惑をかけてもいい、特別な子だから」
「れおにぃ」
「でも、少しは僕の都合も考えてくれるとうれしいな」
「ん。りょ」
「あり」
「未希のこと、好き?」
「もちろん。好きだよ」
だけど、おそらく今でも未希と同じ好きには、なれてはいない。現在、妹以上、恋人未満。兄と妹。だけど一線は越えてる僕ら。
そんなとこまで僕の真似をしなくてもいいのに。