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第17話 作家とカレー

 午後、僕は夕樹乃さんの家からタクシーで自宅に戻った。で、マンション前で車を降りると入口で学校帰りの未希が待ち構えていた。

 僕はつい反射的に逃げ出そうとしてしまったが、

「待って! 怒らないから!」

 と呼び止められた。怒らないからという奴で怒らなかった奴なんかいない。けれど逃げるのはいかんだろう、と向き直った。

「玲央兄ちゃん! 行かないで!」未希が抱き着いてきた。ヤバイ、盗撮されたらマズい!

「中、入ろう」

 僕は未希の肩を抱いて、急いでマンションのエントランスに逃げ込んだ。それから部屋に入るまで、僕らはずっと無言だった。


 部屋のドアを開けて入るなり、未希が泣いて抱き着いてきた。

「れおにぃ、どこにも行かないでぇ」

「僕はここにいるから」

 未希はぐすぐすと泣きながら靴を脱いで、僕に手を引かれてリビングに入った。

「座って」

 僕は未希にソファを勧めると、荷物をデスクに置いてから未希の隣に座った。

 僕が座るとすぐ未希が腹に抱き着いてきて離れない。

 さすがにこの状況で何かを話せるわけもなく。彼女が落ち着くのをひたすら待つしかなかった。有人に見つかろうもんなら瞬殺されてしまいそうだ。

 つい二日前まで下北でバカップルしてた僕らなのに、中一日で修羅場だなんて自分でもあんまりだとは思う。こうして傍らにいる未希を見れば、おとといと同じように愛しくてたまらないのだから、僕はもう自分が信用できなくなってきた。

「未希……」

 傍らで震えて泣いてる彼女の頭を撫でてやる。

 悲しませたくなんてないのに。どうしてこうなっちゃうんだろうか。

「行かないでぇ」

 留学でいきなり僕が消えてしまったことが、トラウマになってるのだろう。

 僕から未希を引き継いだ有人曰く、毎日泣き暮らしていた未希をなだめるのに本当に苦労したそうだ。あまりにも悲しそうな彼女を見て、絶対に泣かせないと誓った。そして、彼女を泣かす奴絶対殺すマンにクラスチェンジするのに、そう時間はかからなかった。

 僕を恨んだこともあったが、間もなく姉の略奪騒ぎが起こり、そうも言ってられなくなった。むしろ妹だけは絶対に護る、との決意を新たにし、格闘技の腕に磨きをかけ、その後セキュリティ会社に入社。身辺警護の技術を身に着け独立。現在はフリーランスで探偵や護衛の真似事をしているらしい。だからあいつはいつでも呼べばやってくる、未希専用のSPで、つまるところヒマ人だ。

 理由が何であれ、未希は僕のせいで存在が失われることを強く恐怖する子になってしまった。胸が痛すぎて息が苦しい。

「ここにいるよ、未希」

「玲央兄ぢゃぁんっ……うっう……」

 僕は未希を抱きすくめ、背中をさすり続けた。

「未希……ごめんね」

「未希のこと嫌いになった?」

「ぜんぜん。おとといと同じ気持ちだよ。大好きだ」

「じゃあなんでぇ」

「両片思いだった夕樹乃さんと両想いになってしまったのか、だよね」

 こくり、とうなづいた。

「偶然なんだ。話すと長い」

 再びこくり、とうなづいた。

 僕はおとといの晩の事から話し始めた。

 途中、数回の質問を挟みながらも未希は大人しく聞いていた。

「うちらが……悪かったの?」

「僕の一族から始まったことだ……」

 彼女は、夕樹乃さんの長きに亘る不運が、我が一族の引き起こした問題であることに強いショックを受けていた。それと同時に、夕樹乃さんへの同情心も生まれて、非常に複雑な心境に見えた。

「僕が作家にならなければ……父さんが姉さんを売らなければ……あいつが父さんを脅迫しなければ……父さんがスキャンダルを起こさなければ。――そう。全ては八年前に繋がってる。僕の親の不祥事に」

 僕はギリリ……と歯噛みをした。

「信じられない……」

「僕は当事者として、彼女に償わなければならない」

「そう……だね。それに裕実姉ちゃん……」

「姉さんと夕樹乃さん。二人とも、すごく似てるでしょ」

「うん。昨日裕実姉ちゃんと会って、はっきり分かった」小さい頃に別れたきりで記憶があいまいだったのが、再会したおかげで明確に比較出来た、ということなのだろうか。

「だから、あいつに利用されてしまったんだ。さらった姉さんの身代わりとして。そして、会社での己の手駒として。夕樹乃さんは、あの男に母親を人質に取られ、自由を奪われたんだ」

「ひどい……」

「あいつのせいで、僕は姉さんを奪われた。それだけじゃない。僕と夕樹乃さんは最初から愛し合っていたにも関わらず、四年もの長い間お互い傷つけ合うことを余儀なくされた。そのために、こうして未希の運命までも狂ってしまった……」

「玲央兄ちゃんが可愛そうすぎる……」

「この際僕はいい。だが、四年前の時点で僕が彼女を救えていたなら、彼女のお母さんはもっといい病院で治療を受け、とっくに病気が治っていただろう。そう、夕樹乃さんのお母さんまでもが被害者だ」

 被害の範囲が広すぎて、未希の脳はキャパオーバーしてしまった。

 僕は未希の手を取った。

「未希、お願いだ」

「な、なに? 玲央兄ちゃん」

「夕樹乃さんを奴の手から救い出し、そして彼女のお母さんを無事に新しい病院に送り届け治療を受けて頂く。それまではどうか、見逃してくれないか。でないと僕は有人に殺される。奴は本気だ」

「……わかった、玲央兄ちゃん。確かにお兄ちゃんなら何してもおかしくないかも」

「それと、未希は僕が必ず作家にする。この約束も守る」

「うん」

「済まない……」

「れおにぃ、なにもわるくない。いつも自分のこと悪く言うのいくない」

「悪いでしょ」

「悪くない……だいたい」

「じゃあ少しは悪いんでしょ」

「浮気」

「ごめん……」

「でも先にれおにぃが好きだったのは岬さんだから……いつかこうなるかもしれないって……考えないようにしてた」

 僕はそのいつか、は来ないと思っていたけど、未希の予測の方が正しかったんだな。

「結婚寸前で悪者に捕まって、お互い戦わせられてきた関係の相手と和解したらどうなるか、未希にだって分かるでしょう」

「もとにもどる」

「だからといって、その手前で婚約した君とどうなるか。大人なら慰謝料払って手打ちにするだろう。だが……僕は君のことも心から愛している。ならどうしたらいい?」

「わかんない」

「そう。僕にも分からない」

 だが一つだけ言えることは――地獄を見るのは僕だけでいい。いや、奴も道連れにしようか、どうしようか。姉さんのことを考えると、悩ましいな。

「わかんないけど、れおにぃが未希といるときは未希のものにしたい」

「今でも僕のこと、そう思ってくれるのなら、……今の僕は未希のものだよ」

「ん」未希が愛おしそうに抱き着いてきた。

「ごめんね……みーちゃん。こんなことになって」

「れおにぃ、ウソついてないのわかる。悲しがってるのわかる。未希のこと大好きなのもわかる。岬さんとお母さん助けたいのもわかる。みんな顔に書いてあるもん」

「未希ぃ……ごめんよ……未希……」

「れおにぃ……すき」

「僕も、未希が好きだ」

 僕も未希をぎゅっと抱きしめた。

 今日はお互いがぬいぐるみだ。


 しばらく抱き合ってお互い気が済んだところで、

「ねえ、未希。これからどこか行かない?」

「いいけど……どうして」

「今月はイベントで全国に行かなきゃならなくなって、週末と休日が全部潰れる」

「サイン会の予定表、HPで見た。ひどい。れおにぃ、しんじゃう」

「うっ……僕の心配を先にしてくれるなんて……未希やさしい」

「あいしてるもん」

 胸に刺さっていたいです。未希さんの愛。

「可能な限り未希と過ごしたいから。――駒場はイヤなんでしょう?」

「じゃあ、今日はれおにぃの行きたいところ。未希は一緒にいたいだけだから」

「うーん……じゃあ、神保町」

「カレーたべるの?」

 うっ、最近はそっちの方が有名か……。

「本屋さんです」

「神保町に本屋さんなんてあるの?」

 うっ、ここから説明が必要なのか……。あいたたた。

「あるよ。行けばわかる」

 僕は念入りに変装をして、アッシーに有人を呼んで三人で出かけた。


     ◇


「美味いカレー屋に連れていくと言われて来たんだが」

 神保町の古本屋街をそぞろ歩きながら、有人がぼやく。

「見終わったら後で行くから安心しろ」

「神保町って言ったらカレーだよね、お兄ちゃん」

「だよな~。名店揃いだから楽しみだ」

「楽しみ~」

「君ら二人は食い気ばっかだな」

 ニシシ……と二人して笑っている。

 未希は初めて来た街を物珍しそうにきょろきょろ見てる。

 有人は僕に肩を寄せて小声で話しかけてきた。

「ところでよ……昨日、裕実姉さん」

「あの後二人で話した」

「ッ、……なんて……言えばいいか」下の句は、お悔やみ申し上げます、か。

「まあお互い近況報告しただけだよ。姉さん、ずいぶんと良い暮らしぶりで健康そうだったから安心したよ。大事にされてるんだなと。それだけでも、分かって良かった」

「いくらいい扱いだって人質には変わりねえだろ」

「牢獄が一番安全だってこともある」

「裕実姉さんがそう言ってたのか」

 僕は無言で頷いた。それが業腹なのは僕だって同じだ。

「今でも僕は姉さんを護れない……」

「俺も連絡先聞いたから、後で話してみる」

 有人もつらそうだ。僕ら二人の想い人が囚われの姫なのだからな。

「お前の顔が真っ青だったって笑ってたぞ姉さん」

「未希の顔見たお前も真っ青だったがな。何やってんだよ」

「あとで未希に聞いてくれ……」

「話したのか。惨いことを」

「僕を殺すなら、一切合切終わってからにしてくれ。岬さんの母上をいい病院に転院させなければならんから」

「具合悪いのか」

「何年も入院してるが金がなくてあまりいい治療が受けられていない」

「そうか……」

「近々、母上を見舞いに行って紹介状書いてもらったり退院入院の手続き諸々してくる予定だ」

「なんでそこまで」

「僕らの一族の、姉さんの件に巻き込まれた被害者だからだ」

「なんだと……?」

「彼女は島本の愛人だ。母親を人質に取られ、四年も姉さんの身代わりにされてきた」

「そりゃあ……確かに巻き込まれてるな。しかし酷い話だ」

「僕には彼女に補償する義務がある。だから僕を殺すなら後にしてくれ」

「……わかった。まあ、全部話した上であれがああなんなら、お前を殺す理由もなかろうよ」有人は未希を見ながらうなづいた。こいつにとっちゃ一番大事なのは未希だから。

「どうだかな」

 未希は文房具や輸入の絵本、スイーツのショウウィンドウに引っかかりながら楽しそうに歩いている。根本的に僕と見てるものが違うのだけど、彼女なりに自分の興味があるものを探して楽しんでいる。おそらく楽しむということは、見つけることと近い行為なのかもしれない。僕に不足しているのは、彼女のような好奇心なんだろう。


     ◇


 僕は買い物を存分に楽しみ、未希と有人はカレーを堪能して、今日のデートはお開きになった。僕一人だとまだまだ間が持たないので有人がいると本当に助かる。まあ、こんなんじゃいけないのだろうけど。神保町にはまだまだ美味い店がたくさんあるから、また連れて来ようかな。

「じゃーねー」

「うん。おやすみー」

 二人の車を見送った僕は、そのまま家に帰るのがちょっとつまらなくて、夜の散歩をしながら夕樹乃さんに電話をかけた。

「お疲れ様です、夕樹乃さん。いま、大丈夫ですか?」

『お疲れ様です、玲央先生、大丈夫です』

「いまどちらですか?」って自分で言っておいて、愛人にかける電話じゃない、これは百%仕事の電話だなと苦笑した。

「ん?」

『自宅です、先生……あ』

「ふふ。気づいたね、夕樹乃さん」

『玲央さんはいまどこ?』

「近所を散歩してる」

『そう。仕事の電話しかかけたことなかったわね』

「そうだよね」

『長かったものね。もう六年になるし』

「それだけの長い長い間、僕らはビジネスの関係だった、いや、ビジネスの関係に縛られていた、と言った方が正しいかな」

『未だに信じられないわ……』

「そう? じゃ今から行こうか?」

『ホントに? じゃあ……来て』

「OK」

 僕は電話を切らず、タクシーを拾って、夕樹乃さんの家に着くまで話し続けた。

 改めて思う。僕は浮かれやすい。ダメな野郎だと。


 一日で二回も彼女の家に行くとは思いもよらなかったが、神保町で買った荷物をそのまま持って来たのはさすがに笑うしかなかった。

「そんなに重いんなら家に置いてくれば良かったのに」

「その発想はなかった」

 玄関で夕樹乃さんに呆れられた。

 居間に通されると、彼女の携帯が鳴った。

 彼女の表情が曇る。

 島本からだった。

「夕樹乃さん、出て。それで僕に代わって」

 彼女はこくりとうなづいた。

「私です」

 わあわあと長電話を咎める声が漏れ聞こえてくる。

 僕は手を差し出し、彼女の電話を受け取った。

「こんばんわ、島本さんですか」

『だ、誰だ?』

「誰だっていいだろう。もう二度と彼女に関わるな。援助の金も不要だ。彼女はもう貴様の奴隷ではない。関われば殺す」

『どこの組だ? 夕樹乃はいくら借金作った?』

「何かと勘違いしているようだが……女を車から蹴り出すような男に、彼女と付き合う資格はないと思うのだが」

 奴が息をのむのが聞こえた。ビビってくれているようだ。

『お前は誰だ。夕樹乃は俺の』

「裕実さんだっけかぁ。あんたの奥さん。ずいぶんと上玉じゃないか?」

『裕実は関係ない、分かった、分かったもう夕樹乃に手出しはしない、だから』

「夕樹乃はもう俺の女だ。奴隷扱いも許さない。手を出せば殺す」

『承知した。もう関わらない。好きにしろ』

 ここで電話はぷつりと切れた。僕は夕樹乃さんに電話を返した。

「あの……本当に殺すの?」

 夕樹乃さんがこわごわ訊ねる。

「さあ。どうだろう。僕にそんな度胸」

 ――あったりするんだな、これが。そもそも八年前に始末するつもりだったんだから。僕も含めて。

「夕樹乃さん、これで一応は自由だけど……会社で何かあるかもしれないから、気をつけてね。僕も後で直接シメてくるけど」

「……玲央さんって、ホントは強かったのね」

「え? まさか。演じてるだけだよ。シメに行く時はそれ相応の準備をしていくから問題ない」

「よかった……」

 夕樹乃さんが、はーっと長く長く息を吐いて僕に縋り付いた。

 四年にも及ぶ苦しみの一部を僕が肩代わりすることが出来た。だがこれは始まりに過ぎない。彼女にはまだ敵がいる。そして病院の件は何も始まってはいない。

「あ、そうだ。はい、お土産」

 僕は夕樹乃さんを剥がして荷物の中から薄い箱を二つ取り出した。

「……カレー?」

「うん。さっき神保町の古本屋に行ってね、帰りにカレー食べてきたんだ。そのお店のレトルトカレー」

「確かに名店揃いだけど……。本当は自宅で食べるつもりだったんじゃないの?」

「ホントにお土産だから。僕は自炊しないし。食事はいつも叔父さんとだよ」

「マスターと?」

 僕は彼女に普段の食生活について、根掘り葉掘り聞かれた。何かのリサーチなんだろうか。楽しみにしていいのかな、彼女の手料理。家庭のカレーも悪くない。

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