目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第16話 似非作家と愛人と野菜スープ

「いてっ」

「ああ、ごめんなさい玲央さん」

「お気になさらず……」

 サイン会の翌朝。

 いま夕樹乃さんの家でドレッサーの前に座らされ、彼女に髪を梳いてもらっている。なんでこんな事態になっているかというと……。


 昨晩、姉のことでヘコみまくってる僕に夕樹乃さんが山ほど酒を飲ませるもんだから、酒に弱い僕は当然のように泥酔してしまい、僕を家に送るにも彼女じゃオートロックの番号が分からないから、仕方なく彼女の自宅に連れ込まれたという次第で、相変わらずというか僕らしく、だらしのない話だ。

 愛人の家で一夜を明かしてるのだから、普通ならいかがわしい事の一つや二つ発生しているだろうに、残念ながら今のところは二日酔いでぐったりしている。それをいいことに、夕樹乃さんが僕をオモチャにしている最中だ。

 泥酔して眠りこけたから髪もぐちゃぐちゃで、絡まるのも当然といえる。僕が痛がったとて夕樹乃さんは悪くない。こうして誰かに髪を梳かれていると、むかし姉さんに髪を梳いてもらってたことを思い出す。さすがにここまで長く伸ばしてはいなかったけど。

 そもそも僕が髪を伸ばしてたのは、顔を隠すためだった。つまり鎧だ。中学に上がるくらいから伸ばし始めて、僕をいじめてくる連中に目を合わせないよう、父を見ないよう、目を隠した。それからずっと伸ばし続け、高校に上がっていじめがなくなっても、父から逃れるために伸ばしていた。

 留学して間もなく姉を失って、いつか取り戻すと誓ってさらに伸ばしていた。その二年後に作家になったらなったで、何故かこの長髪がトレードマークのようにメディアに扱われ、パブリックイメージがついてしまって、とうとう切るタイミングを失ってしまったという次第だ。

「こうして玲央さんの髪を梳くのが夢だったの」

「そうなんですか?」

 夕樹乃さんは、僕の髪を梳いてるだけなのに、とても嬉しそうだ。僕としては複雑な心境である。

「うふふ。あのコンディショナー使ってくれてるんですね。さらさらでステキ……」

「ええ。髪が絡まりにくくなるから重宝してますよ」

「よかった」夕樹乃さんが背中から僕を抱きしめる。

 胸の感触がダイレクトに伝わるのでちょっと困ったことになりそうだ。わざとだったら怒りますよ……って、今までだったら思ってるだけだったけれど。

「ねえ、それわざとやってるの?」

「だったら、どうなの?」

「怒る……今までだったら」

「じゃあこれからは?」

「からかってるんじゃなければ、怒らない」

「からかってなんかいないわ。うれしいからやってるの」

「そう……。なら、いい」

 もしかして、過去からかってると思ってた行為の何割かは、実はやりたくてやってたんじゃないか、とふと思った。

 そう。僕に触れたかったから、やってた、とか。それなら大半のことは説明がつく。もっと早く知っていれば、夕樹乃さんをあんなに傷つけることなかったのに……。後悔ばかりが押し寄せる。

 げっ! なんだあれは……。

 ドレッサーの鏡越しにおぞましいものを見てしまった。

「ゆ、ゆゆゆ、夕樹乃……さん?」

「なんですか?」

 ご機嫌でまた髪を梳き始めた。

「背後にある……禍々しい祭壇は一体なんですか」

「あ……うふふ」

 僕は恐る恐る振り返った。

 背後のチェストの上にあったのは――推しの祭壇だった。

 …………僕の。 

 どこで撮ったか分かるのも分からないのも盗撮なのも含めてあらゆる写真が額やパネルやボードに貼ってあったり、僕の本が全言語版並べてあったり販促用グッズや予約特典、さらにはサイン入り書店POPに、こないだ撮影されたバリスタ姿のアクリルスタンドまで……とんでもない数の僕に関係するものが陳列されていた。

「夕樹乃さん……なんですか、このおぞましいものは」

「推しの祭壇」

「見れば分かります。なんで僕なんですか」

「分かりませんか?」

「……」それを肯定することを脳が全力で否定している。

「玲央くんが私の推しだからですよ」

「…………マジですか」

 OH……なんということだ。

 夕樹乃さんの愛情がねじ曲がっている。

「これだけのコレクション、そうそうないですよ?」ドヤ顔で言う夕樹乃さん。

「当たり前です! なに職権乱用してるんですか。というか書店さんに圧力とかかけてないでしょうね!」

「いえ、べつに。不要になったものを回収しただけですが」

「なにしれっとヤバいこと言ってるんですか」

「だって……お付き合い出来ないならせめてと思って」

「………………そう」

 彼女の気持ちを考えれば、代替行為に及んでしまうのも理解できないこともないが、同じ手に入らないのならと、可愛さ余って憎さ百倍とばかりに不貞腐れる僕とは大違いだ。そう、手に入らないなら、手に入れられる未希を受け入れてしまったのは僕だ。夕樹乃さんはこんなに僕を愛してたのに……。しんどいにも程がある。あああ……。

「ごめん」

「何がですか? 玲央さん」

「どこから謝ればいいのか多すぎて」

「あとでゆっくり聞きますよ」

「うん……」

 夕樹乃さんは僕のこと、いじめてるんだと思ってたのに、ずっと前から好きだったなんて。

 暴言吐いたり嫌味を言ったり当てこすりをしたり、僕は夕樹乃さんをたくさん傷つけた。でもそれと同じくらい彼女も思わせぶりな行動言動で僕を傷つけてきた。悪いやつに操られて、しなくていい戦争をしてたわけだ。

「長らくつらい時間を過ごしてきて、お互いボロボロになってしまったな」

「そうね。死にたくなったことも一度や二度じゃない」

「うん」

「でもお母さんを残して死ねなかった」

「僕も姉さんを護れなかったことを後悔して……何度も死のうと思った。でも、やめた。僕は、生きがいを見つけたから」

 僕は夕樹乃さんをじっと見つめた。

「でも最初の想いは届かなかった。それでも帰国しようと決めたのは、貴女の近くにいたかったから」

 夕樹乃さんの瞳から一粒、涙がこぼれた。

「ごめんなさい」

「終わったことはもういい。まずはお母さんのこと考えよう」

「はい」

 僕は彼女を抱きしめた。もう泣かせたくなかったんだけど。

 髪を梳いたあと、夕樹乃さんは二日酔いの僕にスープを作ってくれた。やさしい味の野菜のスープだった。

「ごちそうさま、夕樹乃さん。とてもおいしかったです」

「ありがとう、玲央さん。お口に合って良かったわ」

「いやあ……」夕樹乃さんが作ってくれるなら何でもおいしいに決まってる。……あ、こういうのも声に出していかないといけないのかな。本に書いてあったし。よし。

「ゆ、夕樹乃さんが作ってくれるなら何でもおいしいに決まってるじゃないですか」

「まあ、お世辞でもうれしいわ」

「そんなんじゃないのに……」

 そうか。

 いつも夕樹乃さんが褒めてくれても全部お世辞だと思ってきた。

 こんな切ない気持ちだったなんて……。僕は何年も彼女に、こんな可哀想なことをしてきたのか。ひどい男だ。

「夕樹乃さん、ごめんなさい」

「なあに?」

「夕樹乃さんが僕のこと褒めるの、全部お世辞だと思ってました……。たくさん傷つけてしまって……ごめんなさい」

「お互い様よ。気にしないで」

「はい……」

 夕樹乃さんの笑顔がつらい。

 そういえば、未希と店で会ったときの彼女、あの慌てよう。そして、その後の僕の捨て台詞……。よくあの程度の取り乱し方で抑えて出て行ったと思う。仮に夕樹乃さんが店に男連れて来て、この人と寿退社しますとか言ったら、僕は発狂する自信がある。たとえ手に入らなかったとしても、だ。ああ、本当に僕はひどいことをしてしまった。

「あと、未希と最初に店で顔を合わせたとき……僕は……本当に……」

「あれは済んだことでしょう?」

「いや、だって、僕は本当の気持ち知らないままだったし……うう」

「もういいから」

「僕の気が済まない。それだけじゃない。初台に行ったときだって……うううう」

「反省しきり、という顔ね。もうちょっと楽に生きればいいのにって、いつも貴方を見ていてよく思うわ」苦笑する夕樹乃さん。

「いつも?」

「ええ。アメリカにいた頃から」

「よく見てますね僕のこと」

「当たり前でしょう? 推しなんだから」

「推しって言われると、なんかすごく遠い気がしてしまうな」

「そうね。推しは押し頂く対象ですから」

「そっか……」

「じゃあ、コーヒーでも入れるわね」

「たのみます」

 夕樹乃さんには、いつも飲み物を出してもらうばっかりだな。

 店でバリスタ姿を撮影したとき、ホントは僕にコーヒーゼリー食べさせてもらいたかったのかな……。今度ここに来るときは制服を持ってくることにしよう。

 キッチンから戻ってきた夕樹乃さんが、カップを二つテーブルの上に置いた。

「インスタントで申し訳ないけど、どうぞ」

「ありがとう」

「前から聞きたかったのだけど、玲央さんって、ずっとうちの仕事ばかりで、他社の仕事まったく請けてないですよね。なぜ?」

「僕にそれを聞きますか……鈍感ですね」

「なによ~……どうして?」

「全部夕樹乃さんの手柄にするためですよ」

 彼女の顔がぱっと明るくなった。

「そうだったんですね! うれしいです!」

「ふふ。他社を蹴ってるだけじゃないですよ。内部の依頼、断ったことありません」

「えっ……ほ、ホントですか? 助かりますけれど……それってかなりの量じゃ」夕樹乃さんがぎょっとしている。

「むしろやりすぎて、敵を増やしてしまったのなら申し訳なかったですが」

「いやなら断ってって言ったのに……」

「自著の発行ペースが落ちるから、本を書けというのはさすがに断りますが、それ以外は断る方が面倒なので即レスで原稿送ってますよ。コラムだのエッセイだのなんて、すぐ書けますし」

 おおお……と夕樹乃さんが感動している。

「とてつもないハイスペインテリメガネ……それで撮影もあんなに多かったんですね……尊すぎる」

「性癖で表現するのやめて」

「でも……ありがとうございます。そんなに尽くしてくれてたなんて……尊すぎて死ねます」

「尊死禁止です」

「ああんっ」

 夕樹乃さん、どんどん爆弾発言が出てきてこわい。姉さんたすけて。

「ところで、ぼちぼちお互いの情報を共有したいと思うのだけど、どうでしょう。僕もいろいろ動かないといけないし。――――復讐、とかさ」

 夕樹乃さんが青ざめる。

「わかったわ……」

 だいぶ気分がマシになったところで、お互いの情報の擦り合わせを始めた。

 まず僕とその家族、親戚について。外側から垣間見ていただけの夕樹乃さんには知らない情報ばかりで、悪い意味で驚かれることが多かった。そんな身内の話なんて、仕事相手にすることでもないからな。

 夕樹乃さんの方は、ほとんど身寄りがなく母一人子一人という状況で、奨学金で大学を出て入社。奨学金を返済しつつ母親の治療費も出しながら僕や他の作家の面倒を見ていた苦労人であることが分かった。なんとなく、彼女のしたたかさや、しなやかさの源流が見えたような気がする。

 そして金銭的にも社内的にも、良くも悪くも愛人の島本を頼りにしていたことが分かる。僕の担当になってしまったせいで、社内で目立っていた彼女はそれなりに敵も多く、それを影ながら排除していたのが島本だった。不本意ながら、その恩恵に僕も一応は浴している。

 島本としては手駒が動きやすい環境を作りたかっただけでなく、自分の統括する事業部の利益の一角を担う僕や、愛人を護る意図もあったのだろう。最近の豪華な接待も夕樹乃さんの不甲斐なさに失望した彼が、会社の金を引っ張ってやらせていたようだ。自分の懐から出しているんじゃないのが、いかにも悪人らしい。

「夕樹乃さん……つかぬことを伺いますが、接待の後のご褒美もまさか……」

「あれは私からのご褒美ですよ」

「よかった……。ウソでも芝居でも何でもいい、そう思って頂いてました」

「私も……信じてもらえなくてもいい、貴方に触れてもらえるならと」

「そんな悲しすぎるメンタルでやってたんですか……。そりゃあ、あんな悲しそうに笑うわけだ。そうやって貴女が笑うたびに、僕の胸が掻きむしられて」

「ダブルノックダウンかしら」

「もう、何やってたんだろ僕ら。だからとっとと酒喰らって貴女を押し倒してればよかったんだ」夕樹乃さんが、うんうん、とうなづく。

「ご褒美は……新刊が出てから、あの男の相手をすることも何故か無くなって、もうそろそろいいかなって思って」

「そろそろって?」

「やらずぶったくりをやめること」

「ああ……なるほど。夕樹乃さんもヤケクソだったわけだ」

「なんかイヤな言い方ね」

「ごめんなさい。でもそれで僕は貴女を信じようと思えた」

「うれしい……」

「撮影してた時、結構空気悪かったじゃないですか」

「ごめn」夕樹乃さんが言い終わる前に指で唇を押さえた。

「全然頼ってくれないのがしんどくて。僕そんなに頼りないのかな、とか信用してもらえないのかな、とか、結構悩んでたんですよね」

 夕樹乃さんが、あわあわしている。

「帰りにどこか連れて行くつもりだったんですか?」

「ええ。ちゃんこ鍋。元力士のやってる美味しいお店」

「ちゃんこ……行きたかったな」

「じゃ近々」

「はい!」

 島本の社内での立場は微妙で、役員とはいえそれほどの権力はなく、いつ取締会から排除されてもおかしくはないそうだ。部署が部署だけに、大きい利益を出すのが難しいことは僕にだって分かる。ただし週刊誌時代のコネクション、伝家の宝刀を抜くつもりがあれば形勢はいつでも覆すことが出来るのかもしれない。姉さんを護るためには、当分あの男に失脚して欲しくはないので、社内抗争に不利になるような復讐をするわけにもいかない……か。なんとも悩ましい。

「夕樹乃さん、詳しい情報ありがとうございます。あとは当人に訊かなければ分からないことばかりだな……」

「お役に立てたかしら」

「もちろん。もうあいつの言うことは何も聞かなくていいから安心して、夕樹乃さん。先のことも心配しなくていいから」

「ありがとう、玲央さん」

「礼を言うのは早いですよ、夕樹乃さん。奴の件を片付けたら、お母さんの転院が待ってる。まずは今の病院で紹介状を書いてもらわなければ」

「何から何まで……感謝してもしきれないわ。本当にありがとう、玲央さん」

「いいや、僕の方こそ、遅くなって済まない」

 夕樹乃さんは、ううん、と小さく頭を振ると、僕に口づけをしてくれた。


 それから夕樹乃さんの少し狭いベッドで初めて愛人らしい営みを終えた僕ら。お互いの傷を舐め合うように、慈しむように、愛し合った。それでも四年の間、互いが互いに付けた傷はあまりに深く、埋め合うにはまだまだ至らない。未希の存在が、まさかその傷を癒すどころか後に塩を塗り込むハメになろうとは、さすがの僕でも予測は出来なかった。それでも僕は、あの子が愛しいし可愛いし大好きだ。今さら婚約者を妹に降格なんて出来るわけもなく、有人に殺される未来しか見えない。かといって夕樹乃さんも今さら手放せるわけもなく……これは僕が地獄を見るコースなんだろうな。

 彼女とベッドでごろごろしていると、そのすぐ脇にある机に並んだ本の背表紙が目に入った。類語辞典や小説の書き方に文章作法書など、まるで作家志望者のような机だった。

「夕樹乃さん……もしかして作家目指してました?」

「あ、見つかっちゃいました? ええ、まあ……」

「じゃあなんで」今は編集者やってるの、と。

「子どもの頃から本は好きだし、物語も好きです。母が仕事でいない夜はいつも本を読んでいました。だから自分でもいつか書いてみたいと思っていたんですが……」

 僕はうなづいて続きを促した。

「書きたいことがなくて」

「え? ぜんぜん?」

「なんか、思いつかなくて……書こうとしても、最初から手が止まってしまって。それで、諦めました」

「書きたいことがないとか、思いつかないのなら……まあ……しょうがない、かな……」それが物書きの根幹だから。

「だめですよね。技術だけあったって、表現したいものが何もなかったんですから。それじゃあ、クリエイターにはなれませんよね……」夕樹乃さんは寂しそうに言った。

「それ言ったら僕だって似非作家だ」

「似非って、そんなはずないじゃない」

「いや、僕は……偽物だよ」

「どうしてよ」夕樹乃さんが少し怒ってる。

「気の迷いで新人賞に応募した僕の経歴に、欲をかいた出版社が賞を与えて、自社メディアででっち上げたのが僕だろ。海外有名大学に留学中の現役大学生という経歴が、新聞や帯に書きやすかったんだから」

「それは……全くないとは言えないけど……イケメンだし」

「その後も、事あるごとに僕を露出させて芸能人みたいに扱って、僕は人前なんかに出たくもないのに、ただ有名にするためだけに会社は茶番を繰り返してきた」

「無理をさせてきたとは私も思うけど……でも……イケメンだし」

「そうやって作家的なものに仕立て上げられたのが僕でしょ。だったらこれは――偽物じゃないの?」

 怒った夕樹乃さんが、僕のほっぺたを思いっきりつねった。

「いででででで」

「貴方が偽物? ふざけないでよ! 貴方の顔や肩書なんて盛れる程度なのに、それで集客できるとでも? 思い上がりも大概にしてちょうだい」

「ええ……」

 夕樹乃さんにマジギレされたの初めてで、心底困惑している。

「私が推してても信じられないなら、事業部トップの島本も、文芸部の編集長も推してると言えば信じる? 毎年キミ宛に段ボール十個分のバレンタインチョコが届いてるのを処分してる。新刊が出ればトレンドにも入る。露出はただのプラスアルファ、中身がゴミなら刷る価値もないわ! ゴミなら書店さんだって面陳列なんてしてくれない。昨日だってあんな無茶振り引き受けてくれるわけない。そしてこの私が一次でキミの作品を推して推して最終まで上げた。そこまで行けば最悪でも拾い上げはある。つまり、キミを作家にしたのはこの私。私が推して私が担当すると宣言して私がキミを認めて、そして作家になったキミを私が育てた。私がキミを作家だと言うのを、キミは信じられないの?」

 ものすごい爆弾発言の嵐で、僕は何も言えなかった。

 ただただ、僕はこの人に心底推されていることは分かった。

 この人に見いだされ、そして育てられたと分かった。

 汚い大人のスケベ根性で売り出されたのはついでの話で、僕はこの人に作家にしてもらったのだと、今わかった。

「そういうの……もっと……早く言ってくれたらよかったのに」

 僕は夕樹乃さんの胸で泣いた。

「言ったわよ。最初の頃。でも覚えてないんでしょ」

「僕が落ち込んでた頃のことなんて、覚えてるわけないじゃないか」

「それも、そうね。遅くなってごめんなさい」

「うん……ありがとう。僕を作家にしてくれて……山崎玲央を産んでくれて」

 この仮の名を僕は忌まわしいものと思って生きて来たけど、今日ほど愛おしく思ったことはなかった。

「私、お母さんかな。お姉さん通り越して」

 くすくす笑いながら、夕樹乃さんは僕の髪を何度も撫で付けてくれた。また梳かさないとね、と言いながら。

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?