『コーヒーミル』発売から三か月、想定よりも売り上げが伸びないのでテコ入れのサイン会が全国で開催されることになった。
その初回が本日、東京郊外のショッピングモール内の書店で開催される。
主役である僕は目下、書店の控室でサイン本を作っていた。後日販売するための店舗用に20冊ほど。そして既刊のサイン本 (一巻のみ)を10冊ほど作成した。それから色紙を5枚。こちらは店頭購入者向けのプレゼント用だ。さらに店頭POP、新刊告知ポスターにもサイン。書店員さんとチェキのツーショット。SNS用撮影。自分のスマホでも撮影し、編集部の公式アカウント担当に転送……なんて作業量だ。これを毎週末全国でやるのか。先が思いやられる。
「ふう、仕事が多いな。やれやれ」
サイン会の開始時間前にこれだけの作業を行った僕は、すでにぐったりしていた。
「お疲れ様です、山崎先生。お飲み物をお持ちしました」
「あ、どうも岬さん」
夕樹乃さんが自販機で麦茶を買ってきてくれた。
とりあえず夕樹乃さんとの話し合いの結果、彼女の現在の立場は僕の愛人(仮)となった。前任者からそっくりそのまま委譲される格好だからだそうだ。とはいえその前任者へのナシはまだつけてないので、週明けにでもガチでカチコミに行くつもりだが。ついでに姉さんの件もはっきりさせる。
その後は彼女のお母さんを一番いい病院 (獅子之宮総合病院)に転院させて治療を見直して……という作業が始まる。この段階で僕は、婚約者とかなんとかいう肩書にでもなるのだろう。じゃないとあまりにも対外的にも怪しすぎるから。
その先のことは……お母さんの件が片付いてから考えることにする。
僕はビタミンタブレットを数粒、麦茶で流し込んだ。この間のコラボカフェイベントでダウンしかけたので、ちょっと体調管理に気をつけているんだ。
「先生、私もそれ、もらっていいですか?」
「あ、どうぞ」僕はタブレットの瓶を手渡した。
なんか急に気安くなってるな、夕樹乃さん。まあ、ちょっとうれしいけど……。今は僕の愛人だから……って、えええ!
僕の麦茶でタブレット飲んでる――か、間接キス!?
最初からそのつもりで、容量が多い麦茶買ってきたのか!
「どうかされました?」すまし顔で言う彼女。
「いや……」
いきなりそんなことされると……恥ずかしいじゃないか。
夕樹乃さんがくすくす笑って僕に耳打ちする。
(赤くなって玲央くんかわいい)
「またそうやって! 僕のことからかって!」うっかり大声を出してしまって、僕は口を押さえた。
もーやだあ、このひと。僕の愛人になってもやっぱり僕のことオモチャにしてるじゃないか~。
はっ! もしかして……S?
くそ、あとで逆襲してやる!
まもなくサイン会が始まる。その前に、僕が会場のテーブルについているところや立ってるところを撮影された。書店さんと編集部のSNSで使用するらしい。こういう時、自信満々に自著を持って写るのホントにいやだ。
「いま何人来てるんですか?」イベントの仕切りをしている書店員さんに尋ねた。
「整理券は二百枚出てます。全量配布済ですね」
「ええ……そんなに」
うわあ、ダルい。もうさんざん書いたのに、また二百冊も書くのか……。帰りたい。
夕樹乃さんが囁く。
「終わったら、このショッピングモールのおいしいお店にお連れしますからがんばって」
「はーい」
きっと今の僕はひどい虚無顔かチベスナ顔になってることだろう。
「顔、出来てませんよ」
「やっぱりぃ……」
書店員さんがサイン会ブース入口で叫ぶ。
「お客様入りまーす!」
ぞろぞろと僕の本を持ったお客さんが入場してきた。
「――!」
やばッ! 僕は戦慄した。
先頭は、未希と有人だったのだ。
僕は一瞬、脇に立つ夕樹乃さんを
慌てて反対方向を見たが大丈夫だろうか……。
「お願いします」
未希が、夕樹乃さんと僕を一瞥し、机に本を置いた。
僕の顔は固まり、手が震える。
ようよう、表紙を開いて、サインと未希の名前を書いた。
記名希望者は整理券に予め自分の名前を記入する欄がある。
薄紙を挟んで表紙を閉じ、向きを逆にして未希の前にすっと押し出した。過去何千回もやった手順。こわごわ未希の顔を見ると、ぼそりと僕に呟いた。
「それでも未希が一番だから」
とだけ言って未希は、本を持って列を離れていった。
僕は背筋が凍り付いた。
五人ほどサインを書くと、どうにか気力を取り戻して、その後はどんどんお客さんをさばいていった。
作業が安定してきて少し気が緩んだ五十番目くらいにそれは起こった。
「姉…………さん」
「元気そうね」
呆然とする僕に笑顔で本を差し出す裕実姉さん。
少し老けたけど肌つやもよく、健康そうに見える。衣服も上等そうだ。夕樹乃さんへの塩対応に反して、大事にされているのだろう。しかし今になって僕の所に来るなんて、どうしたのだろうか。
「うん……」
僕が本の表紙を開くと、メモが挟まっていた。
『終わったあと非常階段で待ってます』と。電話番号とメールアドレスも添えられていた。
やはり、姉さんの状況は尋常ではなさそうだ。僕は周囲を伺い、誰にも見られないようにメモをポケットにしまい込んだ。
僕は黙って、サインをして本を返した。姉さんも黙って本を受け取り、列を離れた。
一体なぜ今頃やってきたんだ、姉さん……。
◇
サイン会が無事終わり、僕は一人で非常階段に行った。建物の外にある階段で、ドアを開けると蒸し暑い外気に包まれた。
姉はそこにいた。
「久しぶりね、玲央」
「姉さん!」
僕らは抱き合った。求めてやまなかった姉さん。
八年ぶりの愛しい人との再会。
向こうは僕の仕事のことをとっくに知ってただろうけど。
「立派になったわね」
「なりたくてなったわけじゃないよ……」
ああ……。
僕は姉さんと口づけを交わした。一緒に暮らしていた頃が、遥か遠い昔に思える。
「ごめん、護れなくて……」
「私の方こそ、つらい思いをさせてごめんなさい……」
僕は姉さんに縋り付いて泣いた。
十分くらい経ったろうか。
すこし落ち着いてきたころ、姉さんが、座って話さないかと僕を促した。
「玲央くん、いまどこにいるの?」
「文雄叔父さんとこの近くにマンション買った。毎日叔父さんの店で仕事してる」
「え? 駒場で喫茶店のバイトしてるの?」
「いやあ、小説の仕事を店で。でも叔父さんの手伝いもやってるよ」
「なるほど。それで喫茶店の本を書いたのね」
「まあ……」
「じゃあ、文雄叔父さんのお店が聖地ってことね」
「言われてみれば……まあ、そうだな」だけど場所は明示していない。ファンに押し掛けられたらおおごとだから。
「コラボカフェのコーヒーゼリー、私も食べたわよ。おいしかった」
「イベント行ったの!」
「ええ。私の推しですもの。デビューからずっと。そりゃあ行きますよ」
推しとか言われると恥ずかしい……。
「そんな頃から……」
「貴方、今は好きな人がいるんでしょう?」
「ッ、……まあ」
「あの、担当さん?」
「……まあ」
「玲央くんが好きになりそうな人だなあって思った」
夕樹乃さんと僕がセットでいれば、そういう察しはつくのかもしれないけど。でも。
「ひどいよ……」
僕は膝の上で指をぎゅっと組んだ。力を込めた部分の血が引いて白くなっていく。
元カレの気分ってこういう感じなのかな、とぼんやり思う。もう、僕らのことは過去のことなのだと。僕だけ八年前に置き去りになってて、凍みこむように切ない。
「実はね、予約しようと思って新刊の試し読みして、いまの玲央くん別の人が好きなんだって分かっちゃった」
「そっか……。姉さんを諦めるには十分な時間が経ったと思ってる」
もし今、彼女が僕の元に戻ってくるとしたら……僕は……嬉しいけど、でもどうしたらいいかわからない。捨てられないものばかり増える。
「だから今日のと合わせて三冊持ってるの」
「三冊も!」
「イベント会場限定のサイン本も買ったわよ」
「なんてことを……」
軽く引いてる僕を他所に、姉さんが僕の腰を抱いてむふふと怪しく笑う。
「未希ちゃんと有人くん、さっき会ったわよ。未希ちゃん大きくなったわよね。有人くんが真っ青な顔してて笑っちゃった」
「そこ笑うとこかよ……僕だって真っ青だっただろ」
ふふふ、と姉さんが笑う。「そうね」
「未希が僕に会いたいからって駒場の高校に入って、毎日店に来るんだ」
「お兄ちゃん愛されてるわね」
そりゃあ、あんたも有人も未希をほったらかしにして遊んでたからな。
「それでさ、僕のマネして作家になるとか言い出して、こないだ長編書いて僕と同じ出版社のラノベの公募に出したよ。僕が付きっきりで手伝った」
「ほんとに? すごいわね!」
「まあ……それで、今付き合ってる」
「え」目が点になってる。「た、担当さんは?」
「付き合ってる」
「えーっと……?」
「だから困ってる」
その元凶にあんたも加担してるんだけどな、などと毒づいてみたくもなる。べつに姉さんが悪いわけじゃないのに。
なんでだろう、あんまり驚かないな。達観してるんだろうか。
「まあ、ゆっくり考えればいいんじゃない?」
「うん……」
彼女が大振りなバックから何かを取りだそうとしている。
「あのねえ」
「ん?」
腰かけた傍らに、僕の本を積み上げ始めた。まるで未希だ。
僕は袖口で涙を拭って姉さんの様子をただ見ていた。
「姉さん、なにしてるの?」
「これ、サインしてもらえる?」
「へ? あ、まあ、いいけど」
「これ、みんな私へのラブレターよね?」
「うっ……」激しく恥ずかしい。穴があったら入りたい。
「とってもうれしかったわ。ありがとう」
「そう……」
僕は一冊一冊、丁寧にサインを書いた。何度も読み込んだのか、小口がずいぶん汚れている。気恥ずかしいけど、嬉しい。姉さんに届いていたんだと思うと、救われる。
「玲央くん、書きながら聞いて」
「うん」
「今日来たのはね、顔を見たくてなの」
「それだけ? ねえ、なんで父さんが死んだときに戻ってこなかったの?」
「お葬式の時に知ったの。貴方がお父さんを……って。私のせいで手を汚させてしまって、と思ったら、心が壊れてしまって。しばらく入院してたの。あの人はそのこと知らないわ。もちろん貴方の素性もね」
僕は手が止まった。自分のせいで、姉さんを壊してしまったのか……。
あの傷が元で父は数か月後に亡くなったが、僕は感染症にかかっていることにして葬儀にも参列しなかった。
八年前のあの日。
留学先のアメリカで姉の事を知った僕は、研究も論文も何もかも放りだして日本に文字通り飛んで帰り、そして父を手に掛けたのだった。その後、残念ながら父は助かり、父の秘書が方々に手を回して僕はすんなりアメリカに戻ったという次第だ。
僕の殺人未遂が万一明るみに出れば、姉にも明確な動機が存在し共犯として捕まる可能性がある。そのため僕は極力帰国するなと父の秘書に言われ、当分は周囲との連絡を絶つようにとクギを刺された。長らく会いに行けなかった理由がこれだ。
「ごめんよ、姉さん……僕のせいで……」
「いいの。そして入院してから二年くらいして、あの人が嬉しそうに貴方のデビュー作を病室に持ってきたの」
「え?」
「ヒマつぶしにっていつも自分の会社の本を持ってきてたの。それでね。『これは、期待の新人なんだ。大々的に売り出すぞ。社内の女子社員がみんなファンになった問題作だよ。絶対わが社の看板になる。世界にも売り出すぞ』って、私に嬉しそうに勧めるの。おかしいでしょ」
「なんだよ……それ……」僕は混乱した。
「私のために書かれたこの本を読んで、気力が戻って退院できたのよ」
くそっ。なんだよそれ。なんなんだよ。なんなんだよまったく。
「ムダの――極みだな。じゃあ、その時なんで戻って来なかったの」
僕はサインをし終えた本を姉さんのカバンに詰めた。
「ベストセラー作家・山崎玲央が貴方だと知られたくなかったから。警察の件だけじゃない。いくらお父さんが亡くなったといっても、私や貴方が攻撃されないとは限らないし、貴方を擁立して地盤を取り戻しに行く人だっているかもしれない。そしてゴシップ誌は他にもある。何を書かれるか分からないわ。だから」
「僕を護るためだったっていうの?」
「貴方と私をよ」
僕と、姉さん――を?
「ちょっと待って、話が見えない」
「ああ……お父さんの黒い繋がりについて、貴方はよく知らないと思うけど、お母さんはそのいざこざに巻き込まれて自殺したの」
「なんだよ……それ。最悪だ……」
「私も須藤さんから聞いただけで詳しくは知らないけれど」
「須藤……か」父の秘書だった男だ。今は法律事務所をやってると聞いている。
「玲央はお父さんへの憎しみと、お母さんの変わり果てた姿を見て壊れちゃったの。だからそれ以上のことなんて、言えなかった」
「姉さん……」
「錯乱して後追いの自殺未遂までして。だから私がなんとかしなきゃって思って……生きててほしいと思って、全てを貴方に差し出した。お母さんの道連れにするものかって必死だった。そこまでしてやっと、貴方を死神から取り戻すことが出来たわ」
「ごめん……姉さん」
姉さんは頭を振った。
「貴方を私に依存させることで命を繋げるのなら安いものだと思ったわ」
「待って、それじゃあ僕が好きであんな関係になったんじゃなかったのか? そんな……」
「ううん。最初は引き留めるのに必死だったけど……でも本気で私を愛してくれる玲央くんのこと、私も本気になったのよ」
「よかった……。僕だけ本気だったら、やりきれない」
「あのね。私一人なら、島本の元にいれば一応は安全なのよ。あれでもメディアの人間だから悪い人も手が出せないみたい……」
「毒を以て毒を制す……か」
やっぱアメリカになんか行くんじゃなかった。
姉さんは奪われるし、作家になんかなってしまった。
僕が有名じゃなければ、姉さんは僕を護らなくてもよかったのに……。
「じゃあ……今も戻れないの?」
姉さんは僕の顔を見て、頬に触れた。そして寂しそうにうなづいた。
「うう……」
「あれから、ずいぶんといい生活させてもらってるけど、今年の梅雨までずっと触れさせてこなかった。そのせいで、愛人作ってるみたいだけど別にいいやって思ってた」
「その愛人……どんな人か、知ってる?」
「ううん。別に興味もないし」
「そう、なんだ」
夕樹乃さんのことは知らないようだな。
そうか。そのせいか。
「だから、そろそろ許してあげようかなって。島本を」
「え? それって」
丁度符合する。
夕樹乃さんへの態度が変化した時期と、姉さんが奴を『許した』時期と――。
そうだったのか……。姉さん。ずっと僕のこと待ってたのか。
悔しいよ。悔しい。悔しい。悔しい。
「姉さん……ごめんね……ごめんね……」
涙が止まらない。
姉さんが僕を抱き寄せた。
「私のことはいいの。それよりも、ずっとつらい思いをさせてしまったわね。可哀想に……。私の方こそ、ごめんなさい」
「いわないで……」
「私は大丈夫だから、今の彼女と幸せになってね」
姉さんはもう、覚悟を決めたのか。
僕は今でも姉さんを救えない。
姉さんを救えない……。
僕は出来損ないだ。
「……わかった」
「今日は会えてうれしかった。たまには電話ちょうだいね」
「うん」
「貴方の活躍、ずっと見てるからね。公式のSNSとか動画とかも全部見てるわよ。がんばってね」
「うん」
「たまにコメントしてるわよ」
「え」ちょっとまって。え?
「じゃあ、今日のところは帰るわね」
「爆弾落として帰るのかよ。せめてアカウント教えろ姉さん」
「いやよ」
「ちぇ」
姉さんが僕の頬にキスをした。相変わらずの子ども扱い。でもそれが、懐かしい。
「……また会える?」
「ええ。いずれ」
姉さんは昔みたいに、長いキスをしてくれた。あの頃とは感じる味も少し変わったけど、懐かしくて、愛しい味がした。
「じゃあ」
「気をつけて」
姉さんは非常階段のドアの向こうに去っていった。
僕は寂しくて、やっぱり泣いた。
しばらく一人で気を落ち着けてから夕樹乃さんの所に戻ろうと思っていたら――
ん? 廊下で話し声がする。
姉さんと誰かが話して……歩き去っていった。そして誰かが近づいてくる。
ドアが開くと、夕樹乃さんがやってきた。
「玲央さん。迎えに来たわ」
「夕樹乃さん……」
座り込んでべそをかいてる僕の顔を夕樹乃さんが拭く。
僕のメガネを持ち上げて、ハンカチでごしごし拭いてる。
姉さんにお世話されてるみたいだ。
「いまお姉さんと連絡先交換しちゃった」
「そう、なんだ。姉さんは島本の愛人が夕樹乃さんだって知らなかったよ」
「そうなのね。玲央くん、今日から私が貴方のお姉さんになるから」
「は? どうして。身代わり嫌がってたでしょうに」
「お姉さんにバトン渡されちゃったから」
「二人とも勝手だよ……くそッ」
僕はひざを抱えて毒づいた。
「書店さんから、お食事券頂いたの。ほら、ご飯食べにいきましょ、玲央くん」
「……わかったよ。夕樹乃姉さん」
夕樹乃さんにナデナデされる。
いつもそう。僕は一人じゃ立ち直れない。
身内の女に甘えるロクデナシ。
作家なんて大きらいだ。みんなを不幸にしてる。クソッタレ。