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第14話 担当さんを拾う

 未希とデートした日の夜、フワフワ気分で飲み屋に行って一日を反芻していた。その帰りに淡島通りをほろ酔い気分で歩いていると、目の前にタクシーが停まりドアが開いた。人が降りてくるのだと思って避けようとした瞬間、車の中から人が突き落とされた。いや、蹴り出されたという方が正しいのか。ひどい奴もいるものだと思ったら――

「夕樹乃さん!」

 歩道の上に倒れていたのはまさかの人物だった。

 車内から「この役立たず!」と罵声を飛ばした男を見ると、良く見知った人物なのに驚いた。呆然としている僕に構いもせず、即座にドアは閉まり車は発進した。

「なんで……」

「あいたた……変なところを見せちゃいましたね、玲央先生」

 バツが悪そうに笑う夕樹乃さんだが、どう見ても痴情のもつれか上司のパワハラである。昨日も思ったが、やっぱり彼女は面倒事に巻き込まれていたんだ。

「大丈夫ですか! ――あ、足から血が出てる! 手当しなきゃ」

 僕は落ちていたカバンを拾い、彼女を抱きあげた。

「だ、大丈夫ですから、あの、玲央先生、下ろして」

「ダメです。僕の家で治療します」

 夕樹乃さんが何やら騒いでいたけど無視して僕のマンションに連れ込んだ。自分にしては強引だけど、酒のおかげかもしれない。


     ◇


 部屋に着くと僕は、急いで救急箱と洗面器を用意し、ソファに座らせた夕樹乃さんの足を見た。とうにストッキングは破れているのでハサミで切り裂く。

「あとでコンビニで買ってきますから勘弁してください」

「すみません……」

 患部は主に擦り剝いた向こうずねと、投げ出された際に地面に打ち付けた膝の二か所。出血は向こうずねだけのようだが、少々あざになった膝小僧も一緒に洗浄しておこう。

 僕はキッチンで簡易的な生理食塩水を作りペットボトルに詰めると、リビングに戻って夕樹乃さんの傷を洗った。

「沁みませんか」

「大丈夫です」

 洗浄後、患部を消毒し、擦り傷には化膿止めの軟膏を塗ってガーゼを当てて包帯を巻いた。大仰だが、この方がストッキングを履きやすいだろう。

 膝の打撲を冷やすためキッチンで氷嚢を作り、タオルで包んで夕樹乃さんの膝に当てた。

「これで手当ては終わりです。しばらく冷やした方がいいので、自分で膝に当てておいてください」

「ありがとうございます、玲央先生……本当に、すみません」

 しょんぼりする夕樹乃さんが可愛い。僕は救急箱やらを片付けるとキッチンでコーヒーを淹れた。

「叔父さんのとは比べ物にならないけど、よかったらどうぞ」

 夕樹乃さんは沈痛な面持ちで小さく頷くと、片手でマグカップを手に取った。

 彼女が二口ほどコーヒーを飲んだところで、僕は尋ねた。

「貴女に乱暴したあの男とは、どういう関係なんですか」

「……」

 言いにくい相手のようだった。普段はわりと饒舌な女性なのだが。

「実は僕もあの男を良く知ってるんですよ。八年前、僕の家を、滅茶苦茶にしたんです」

「――え?」

 夕樹乃さんが息をのんだ。

「僕の父は、元自誠党代議士、神崎総一郎。あの男はスキャンダルを盾に父を脅迫したんですよ。――黙っている見返りに娘を差し出せとね」

「なんですって……!」

「父は政治生命を守るために娘を売った。その娘が僕の姉、僕がこの世で一番愛した女性です」

「お姉さまが……ひどい」

「父は姉と僕が愛し合っていたと知りながら、己の保身のために引き裂いた。……僕にとっちゃ、父もあの男も同罪です。殺してやりたいくらいには」

 僕はダッシュボードの上に飾っていた、姉と僕とのツーショット写真を夕樹乃さんに見せた。

「――ッ」

 夕樹乃さんは言葉にならない悲鳴を上げ、目を大きく見開いた。

 姉と夕樹乃さんの共通点が、あまりにも多かったから。

 僕は少し首をかしげて、悲しそうに笑ってみせた。

 僕は――死ぬほど胸が痛かった。

 姉と僕の関係を夕樹乃さんには一生聞かせるつもりはなかったけど、あの男が絡んでいるなら話は別だ。僕の愛する夕樹乃さんを、あの男が不幸にしているのを黙って見過ごすことはできない。

「恐らく、夕樹乃さんの不幸は僕の家庭の事情との関係がある」

 あまりに唐突な展開に夕樹乃さんが困惑を隠せずにいる。

「夕樹乃さんのトラブル、僕と非常に関係があると思うのですが」

「そ、それは……」

「関係あるから白状してくれませんか?」

「う……で、でも……」

「あの男が諸悪の根源ではありませんか? 教えてください。どうすれば僕は貴女を救えますか?」

 みるみる夕樹乃さんの顔が曇って、そして歪んでいく。

「う、うう……うあああ」

 夕樹乃さんは僕の胸に飛び込んで、肩を震わせ号泣した。

 普段の彼女からは想像もできない激しい泣き方だったけど、相当溜め込んだものがあったのだろう。むしろ僕の胸で泣いてくれて良かったと思う反面、こんなことでもなければ吐き出せもしなかったのかと思うと、自分の不甲斐なさがイヤになる。

 僕は彼女を抱き、髪から背中へと何度も撫でた。彼女のこんな悲壮な声……どれだけひどい目に遭ったのだろう。

「許せない。姉さんだけで飽き足らず、夕樹乃さんまで苦しめて……くそッ」

 こんな形で彼女と触れ合うなんて、悲しすぎる。だけど頼られもしなかったのは僕なのだから。

 しばらくして、泣きやんだ夕樹乃さんが、涙声で言う。

「玲央さん……ごめんなさい」

「何がですか」

 僕は彼女を逃がさないように、ぎゅっと抱きしめた。

「ずっと頼ってくれなかったことに関しては、謝って欲しい気持ちはありますが」

「謝らないといけないことが多すぎて……どこから言えばいいか」

「でしょうね。……でも今夜は、謝罪なんて聞きませんよ」

「いじわるですね……」

「四年以上も僕をいじめてきた貴女に言われたくはないな」

「好きで愛する人をいじめたりなんかしません」

「え?」

 僕は、彼女の顔を覗き込んだ。

 どさくさ紛れの告白なら、ずいぶんひどいんじゃなかろうか。

 それとも酒が回ってるせいで幻聴でも聞いたのだろうか。

「愛した……って、聞き間違いかな?」

「いいえ。私は玲央さんのこと、ずっと愛してます」

 彼女は真っ直ぐ僕の目を見て言った。

 もしかして、何らかの条件が発生して、僕に告白してもよくなった、ということなのか? ではなぜ今になって?

「じゃあ今まで、さんざん思わせぶりな態度取ってはスルーしてたのって、わざとだったんですね」

「……はい。本意ではありません」

「本気で怒りますよ。……と言いたいところだけど、事情があったんでしょう? 新国立劇場での貴女、しっかりおしゃれしてきてくれたじゃないですか。とても綺麗でしたよ。あれが僕ごときへの接待なわけがない。そして、……とても悲しそうだった」

「……」夕樹乃さんの瞳から、大粒の涙がぽろりと落ちた。

「あの時は僕も本当に悲しくて腹に据えかねたから、あのまま帰ってしまったけど」

 僕は夕樹乃さんの涙を指でそっと掬い取った。

「やはり夕樹乃さんは僕を弄んでいるだけなのかと。でも、ずっと何かが心に引っかかっていて、それで思い直したんですよ。もしかしたら、って。だから大人しく接待も受けることにした。何かが分かるかもしれないと、いつか本当のことを話してくれるかもしれないと信じて」

「……答える前に、一つ聞きたいんですが、いいですか?」

 僕は小さくうなづいた。

 夕樹乃さんは僕の胸に、きゅっとしがみついた。

「私は、お姉さまの代わり、ですか?」

 確かに、気にはなるだろう。僕としても結構センシティブな話題だ。

「答えは……ノーですよ」

 夕樹乃さんが、ほっとした表情になった。

「受賞して最初にネット会議で貴女を見たとき、僕は呪われてるのかと思った。失った人のまがい物を与えられる罰を受けたのかと思った」

「まがい物、ですか?」彼女が困惑している。

「そう。それだけ貴女が姉に似てたってことです。姉を奴から護れなかった僕への罰だと思ったんですよ。だから最初は貴女を見るのがつらかった。貴女が渡米して僕と直接会っても態度が何かおかしかったのは、女性が苦手なのもありますが、正直怖かったからです」

 夕樹乃さんは、不思議そうな顔をしている。意味なんて分からないからな。

「何度か会って、呪いとかは大丈夫そうだなと思い始めたら、徐々に好きになりまして。姉の代わりというよりも、姉のような人が好みだから、普通に好みの女性を好きになっただけですよ」

 自分でも不思議だった。あの頃の気持ちをこんなにあけすけに語るなんて。酒の力は恐ろしい。

「そう、ですか。よかった」彼女の声に安堵の色が浮かぶ。

「ご納得して頂けて何よりです。それで、フリ続けてた理由は」

「私は……あの男のぁ」

 僕は夕樹乃さんの唇に人差し指で触れた。いきなりイヤな単語が出てきそうだったから。愛人、と。

「それは言わなくていいです。そんなこと……貴女の口から言わせたくない。同じ女に惚れたんだから、奴が何を考えてたか僕には薄々わかります。略奪婚の末に相手にされなくて、……ってところでしょう。貴女を姉の代わりにしてたのは、僕じゃなくて奴の方ですよ夕樹乃さん」

「奥さんがいるのは知ってましたけど、玲央さんのお姉さんだったとか、私と似てたとか、そういうことは、ぜんぜん知りませんでしたので……」

 夕樹乃さんがちょっと呆然としている。

「僕の家の事情、いや八年越しの悲劇に、夕樹乃さんは巻き込まれたんです。だから、……いろいろ本当にごめんなさい」

「玲央さんだって被害者じゃないですか。謝らないで」

 僕は、ヘタクソな笑みで答えた。

「ところで夕樹乃さん、貴女はいつもあの男に乱暴されているんですか?」

「いいえ、そんなことないですよ。会社でも外でも、普通に親しい関係くらいの態度です。まあ、愛情は大してありませんけど。でも今日は、虫の居所が悪かったのかもしれませんね」

 一体何が。だが、そのおかげで奴の悪行も現在の居場所も分かったわけだが。

「今日も、どうして電話口で泣いてたんですか」

「それは……」

 夕樹乃さんが口をつぐんでしまったので、頭をなででやる。言いたくないのだろう。

「ところであの男、ゴシップ誌の編集長ですよね。文芸の夕樹乃さんに悪さするのがよく分からないんですが……」

「え? それはずいぶん前の話ですね。今は部署も文芸に変わり、役員になっています」

「なんだって……?」

 どおりで、以前こっそり編集部を覗きに行ってもいないわけだ。

「玲央さんちっともパーティとか謝恩会に来られないから、ご存じなかったんですね」

「だって……」人がたくさんいる所は怖いから。

「貴方の担当になって少し経った時のことです。怜央さんをハニトラでうちの社に繋ぎ止めておくように、と彼に命じられました」

「は?」恐らく僕は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしてただろう。

「ずいぶんとバカな話ですわよね……そんな必要ないのに」

「そのわりにはおかしくないですか? あれハニトラとか言いませんよ?」

「ええ。つかず離れず。それが彼の作戦でしたので……。玲央さんを振り続けてきたのは、これが理由です」

「なんだよそれ……ひどい……おかげで僕も貴女も未希までも人生狂わされたじゃないか。両想いなんだから、完全にくっつけと言われた方が遥かに良かったのに!」

 夕樹乃さんの肩がぴくりと跳ねた。貴女のせいじゃないよ、と背中をさすってやった。そう、彼女のせいであってたまるものか。

「怜央さんが私に気があるの最初から気づいていたけれど、先に好きになったのは私の方ですよ」

「ホントですか?」

「私ね……純粋でどこか翳りのある貴方に惹かれるまで、初めてお会いしてからそう時間はかかりませんでした。怜央さんの御本は、女性なら誰でも胸が締め付けられるような苦しさを覚える、切なさで涙が溢れる、そんな物語です。……私も気が付いたらファンになっていました。彼に命じられるまでもなく、とうに貴方が好きだったんです。あ、別に好みのインテリイケメンだったからとかじゃないですからね。そこは強調しておきますよ」

 ちょっとまって、好みの? 僕が? え? え?

「僕が好み……なんですか?」

 彼女が消え入りそうな声で、はい、と答えた。

 愛しい夕樹乃さんからそんなことを言われたら、胸がときめいてしまうじゃないか。僕は思わずぎゅっと抱きしめた。あふ、と夕樹乃さんが息を漏らしたので、ちょっと腕の力を弱めた。

 夕樹乃さんを腕の中に閉じ込めて愛でられるなんて嬉しすぎる。酒飲んでさっさと彼女をさらって愛でればよかった。昔の僕のバカ。バカバカバカバカ。

 長話になりそうなので、僕は彼女を解放し、コーヒーを淹れ直した。夕樹乃さんの膝の氷嚢は回収し、湿布薬を貼っておいた。

「面と向かって好みとか言われると恥ずかしいですね。でも、うれしいです。今までそんなこと、おくびにも出さなかったのに」

「だって仕事ですもの。……初めて会った頃の貴方は全身に悲しみを纏って、いつもどこか遠くを見ているような目をした、なんだかこちらがつらくなるような……そんな方でしたね。アメリカのお住まいに伺った時、玲央さんは間違いなく、この作品の作者なのだと分かりました」

「姉を失ってまだ二年くらいでしたから、失意の中にいた頃でしょう」

「正直、そんな繊細な方の担当が若輩者の私に務まるのか不安でした」

「あの頃はまあ、落ち込んでいただけで」

 気持ちを白状したら、どんどん爆弾発言が出てくる夕樹乃さん、正直こわい。

 そういえば未希も僕のことを繊細だと言っていた。自覚はないがそうなのかな。

「本当だったら、もっと早く気持ちを伝えたかった。でも、玲央さんの心が柔らかくなるのを待っていたら、あの男に捕まってしまって……それで言えなくなってしまって」

「あああああ……本気で己の運の悪さを呪いたくなります」

 僕は頭を抱えた。やっぱり僕は運がひどく悪い。うんざり成分100%のため息をついた。

「そもそも何であんな質の悪いのに捕まったんです?」

 夕樹乃さんはマグカップをローテーブルに置いて、膝をさすりながらぽつぽつと話し始めた。

「私には病気の母がいて、治療費が必要だったんです。私の稼ぎではギリギリで、あまりいい治療も出来なくて。うちは母子家庭で母には私しかいなくて……。それをあの男は知っていました。私を手に入れたいがために、人事の情報でも入手したのでしょう」

「卑怯な。あいつは、人の弱みに付け込むのが常套手段なんだ!」

「幸い恋人はいませんでしたし、体だけの関係ですし、金銭的な支援も潤沢で……。愛人契約も最初は助かるなと思っていました。でもこんなことになるなんて……」

「僕の前で体とかそういう露骨なこと言わないで」

 とはいえ僕だって実の姉と関係してたなんて、他人が聞いたら気色悪い話だろうからお互い様かもしれないが。

「ごめんなさい。夕方の電話の件は……俺の言うことを聞かないと、母の、治療費の支援を打ち切ると」

「脅迫か! ひどい!」

「数か月前、玲央さんに女子高生の彼女が出来たと報告したら、急に焦って奪い返せと」

「はあ?!」

「未希さんがうちの社に来られた頃から、玲央さんと未希さんを引き離せと命令されていたんですが、そんな方法なんて私には思いつかなくて、すぐ行き詰ってしまって……」

「ムチャクチャだ」

「さすがに私もそれは、もうムリだって言ったんです。四年も傷つけ続けた相手ですよ。この状況でよく長持ちした方でしょって」

 夕樹乃さんがうつむいてしまった。

「それで今日も彼女の件で……夕方も、車の中でもそれで口論になって車から放り出されて。答えなんてないのに……」

「どうして……役員としての立場が危ういとか、そういうことは?」

「分かりませんが、もしかしたらあり得ると思います」

「ふうむ……それで焦って、か。さもなくば、金を渋ったか、見切りをつけたか」

 気まずい空気の中、僕はコーヒーを飲みながらしばらく思索していた。

「夕樹乃さん、一つ気づいたことがありまして」

「……はい」

「どうして奴が『つかず離れず』なんて指示をしたのか、ずっと考えてました。確実に僕を押さえておきたければ、絶対命令に背かない女性を僕とくっつけてしまえばいいんです。なのに、僕が貴女をあきらめて出奔してしまうリスクを伴う方法を、なぜ指示したのか」

「私にも分からないんですが……玲央さん、分かったんですか?」

「やっぱり、奴は貴女のことも実は好きだったんですよ。その点は僕も奴と同類なので気持ちだけは理解出来ます。だからこそ、僕にあてがう真似はしたくなかった。だけど契約の関係だし、貴女をコントロールしにくくなるから、恋愛感情を表に出すことはしなかった。これは僕の憶測にすぎませんが」

「そんなものでしょうか……」

「姉と略奪婚をして二、三年、何も関係がなければつらいはずです。それからずっと夕樹乃さんを手元に置いておいたということは……姉に無理強いもしてこなかったのではないかと。つまり惚れた女を丁重に扱うくらいの理性があると想像します」

「なるほど……」多少は思い当たることがある、といった風情だ。「彼はもちろん善人ではありませんが、うちの社の人間にしては、それほど知性も理性もないわけでもなくて、私には不快なことや負担になることは、ほとんどしませんでした。それがここ数か月の間ですっかり変わってしまって……」

「そんな男が、急に貴女を雑に扱うようになったということは、虫の居所というよりも、何か心境の変化があったのかもしれない」

 殺したいほど憎い男の心理を冷静に分析している自分が、あまりにも滑稽だと思う。しかし、夕樹乃さんを救うため、そして謎を解明するため、この分析は僕にとって必要なものだと思っている。ただ気になるだけ、と言われればそれまでなのだが。

「先日の演劇のチケットも、彼が用意して一緒に行けと指示されて……」

「げっ。未希と芝居行ったって教えたんですか」

「あの後、社に戻ったら今日の玲央さんはどうしてたって聞かれたんで……つい」

 僕は言葉を失った。

「夕樹乃さんは、どうして僕のこと好きだって奴に言わなかったんですか?」

「うかつなことを言って愛人契約を破棄されたら困るな……と。今にして思えば、先に言っておけば違う展開になったかもしれませんね」

「確かに僕が好きだという情報はマイナスになりかねない気はしますね。下手をしたらDVに発展してたかも……」

「ええっ」

 これ以上考えても仕方ないし、もう彼女を奴と関わらせるつもりもない。最悪担当を外されたりクビになることがあれば、二人揃って移籍してしまうぞと脅せばいい。今の僕なら十分彼女を護れるはずだから。

 僕は覚悟を決めた。

「だが、もうそんな契約は破棄してしまえばいい」

「どういうことですか?」

「夕樹乃さん、お母さんの治療費いくらくらいかかるんですか?」

「え……?」

「援助させて欲しい。これ以上、貴女をつらい目に遭わせたくないんです」

「怜央さんにそんなことしてもらえない」

「あいつならいいんですか!」

 夕樹乃さんの目が潤んでいる。

「でも……」

 いやいやをする夕樹乃さん。本当に往生際が悪い。

「四年も目の前で苦しんでたのに気づかなかった僕は本物のバカだ! とっとと口を割らせれば、すぐ保護できたのに。あんな奴に愛する貴女を何年も抱かせることもなかったのに!」

 本当に腹が立ってしょうがない。

 奴にも自分にも、頼ってくれなかった夕樹乃さんにも。

 目では助けてと言ってるくせに。

 まったく。

「いうこときいて」

 僕は彼女をソファに押し倒し、強引に唇を奪った。


     ◇


「ああ……僕は夕樹乃さんと……」

 朝ベッドで目覚めると、隣で夕樹乃さんが、すうすうと寝息をたてている。案外あどけないな、などと思いつつ、そろそろ起きようかと思って身を起こした。

「いてっ……ん?」

 体を動かすと、僕の長い髪が引っ張られた。どうやら盛大に髪が彼女の下敷きになっていて、彼女を起こさないとベッドからは脱出不可能だ。

「髪をほどいた玲央さん、初めて見たわ。うれしい」

 起こしてしまったようだ。

「そう?」

「こんな関係でもなければ、見られないじゃない」

「まあ、そうだけど」

「おはようございます、玲央さん」

「お、おはよう。夕樹乃さん」

 なんか不思議な気分だな。

 結局僕は彼女を、手負いの女性を手籠めにして、全くひどいやつだ。犯して言うことをきかせるなんて、やってる事はただの愛人契約の架け替えじゃないか。

 こんなはずじゃなかったのに。

 四年越しの両片思いが成就したのに、ちっとも嬉しくない。

 本当にあの男は悪魔だな。未来に延々と遺恨を残すような災害を起こしてくれる。僕と夕樹乃さんの間を邪魔しなければ、未希が不幸になることもなかったのに。悪魔の企みにより別の子を手に入れてしまい、実はこれが僕への罰なのかと疑い始めた。ならば、八年かけて仕込んだトラップはあまりに威力が強すぎて絶望するに余りある。

 未希のことを言えば、きっと夕樹乃さんは身を引くと言うに決まってる。だが先に好きになったのは夕樹乃さんの方だ。宣言が遅くなったからといって気持ちが変わるわけでなし。とはいえこの状況で未希を手酷く振るなんてありえない。この先を思うと気が重い。いっそ両方と……なんて虫のいいことが脳裏を過るけど、彼女たちが納得しないだろう。

 堂々巡りの思考を放り出し、今目の前にいる夕樹乃さんを愛でることにした。どこを見ても僕の好みで構築されている彼女は、間近で鑑賞するとさらに魅力がマシマシで、そうそうこれこれ、僕が欲しかったのはこういうのだよ、と往来で叫びたくなる。当人としては、すっぴんはいやだとか言うんだろうけど。

 はー……と大きく長いため息をつくと、夕樹乃さんが僕の頬を撫でた。

「つらいの?」

「動けなくなった」

 言って気づいた。身も心も、だな、と。ボキャブラリーもしんでる。

「男がつらいときのために女がいるのよ」

「だから僕にそういうこと言わないで。悪女ムーブやめて」

「うふ、ごめんなさい」

「夕樹乃さんはもっと自分を大事にして。僕が病むから」

「そう?」

「正直もう病んでるけど」

「じゃあなおさら必要じゃない」

 くそッ。彼女に手玉に取られる程度には長い付き合いだけど。

 僕に気取られず、かつ四年間も追いかけさせ続けたのが夕樹乃さんだ。ガキの僕ごときが勝てるわけないじゃないか。ああ、自分にイライラする。

 結局僕は夕樹乃さんを組み敷いて、昨日の続きをはじめた。この時点で僕の負け。


 今日は最悪なことに、僕のサイン会の開催日だ。開始時間は夕方だからベッドの中で悠長にしてたわけだけど、そろそろ用意をしなければ。

 僕がコンビニに食事やストッキング、洗顔料なんかを買いに行って戻ると夕樹乃さんはシャワーを浴びていた。僕は風呂場のドアの隙間から洗顔料を渡してやる。地方のイベントに参加するとき、彼女がドラッグストアで買ってた銘柄を覚えていたので同じのを買った次第だ。

 僕は救急箱を用意して彼女が出てくるのを待ち構えていた。手負いの女に手を出す悪行を働いた僕には最後まで手当をする義務がある。

 バスローブをまとった彼女をソファーに座らせ、患部を確認した。多少ふやけてはいるが、向こうずねの擦過傷はカサブタになり始めていて、膝小僧のアザも昨日よりはマシになっていた。擦過傷は消毒後、化膿止めの軟膏を塗り薄いガーゼを当てて包帯を巻いた。膝小僧には粘着式の薄い湿布を貼り直した。

 大判の絆創膏や粘着式の包帯などがあれば、もうちょっとマシな見た目になったのだが、今ある資材の中で一番マシな手当をしているつもりなので、彼女にはコレで納得して頂くほかない。

「今日はズボンにした方がいいかも。分厚いタイツを履きたくなければね。靴も低いのにして」

「分かったわ」

 というわけで彼女は一旦自宅に戻り、僕はここからサイン会の会場になっているショッピングモールの書店に直行する段取りだ。

 あまりにも長い付き合いの末のナニがアレな朝なので、僕もどんな顔をすればいいかよくわからない。なのに夕樹乃さんときたら通常運転で本当に憎らしい。未希といい彼女といい、女性はこわい。姉さんたすけて。

 食が進まずしょんぼりしている僕に、

「私は玲央先生の愛人でもいいのだけど?」

 と笑顔で言う夕樹乃さん。見透かされてる。

『バンッ』

 僕は思わず両手でテーブルを叩いた。

「ホンットにそういうこと僕に言うのやめて。ダメ。悪女ぶるの禁止。元からそういうキャラだったわけじゃないでしょうに」

「だってぇ、玲央くん暗いんだもん」

「げ、内心僕の事くん付けだったんですか」

「いやですか?」

「……すきですけど。お姉さんぽくて」

 また僕の負け。

 こうやってすぐ翻弄するんだから。

 実は夕樹乃さんも小悪魔だったんじゃないかという疑惑が浮かんだ。ヤバイな、ダブル小悪魔を相手にしてるのか僕は。もう当事者同士で僕をどうするか交渉してもらいたい。

 一人だけ純情なの本当バカみたい。一線超える前の方がマシだったかも。誰か僕に大人の余裕を与えてくれないか!


 一旦自宅に戻る夕樹乃さんを玄関で見送る。

「それじゃ、またあとで」

「いってきます、玲央さん」

 僕の胸に極太の何かがぶっ刺さって、しばらく息ができなかった。

 あり得るのか、それともあり得ない未来なのか。感情がぐちゃぐちゃになった。

「夕樹乃、さん」

 彼女の肩を掴んで引き寄せ、熱いキスをした。彼女の両手が僕の腰に回される。

 夕樹乃さん、好きです。と、息をつくたびにうわ言のようにささやいた。二十四時間前なら有り得なかった状況だ。四年も押さえつけてきた気持ちが、ちょっとやそっとで収まるわけがない。気持ちが溢れて止まらない。

 でも夕樹乃さんは答えてくれなかった。ベッドの上なら恥ずかしくないのだろうか。昨晩はあんなにたくさん呼んでくれたのに。

「夕樹乃さんは?」たまらず僕は尋ねた。

「決まってるじゃない……玲央くん」

「言ってくれなきゃ、わからない」

「玲央くんすきすきすきすき」

「ふざけてると今日のサイン会すっぽかしますよ!」

「それだけはやめてぇ~~」いやいやをする夕樹乃さん。

「じゃあ、僕の目を見てちゃんと言ってください。それで今日がんばれるから」

 彼女は少し困り顔で笑うと、

「玲央さん、貴方を愛しています。四年前からずっと」

「僕もです。四年前からずっと、夕樹乃さんを愛しています」

 プロポーズだったらよかったのに、と思いながらしたキスの味は苦かった。

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