未希の夏休みも終わり、九月になった。
サイン会全国ツアーの打ち合わせが山積みな僕のところに、夕樹乃さんが朝っぱらからやってきた。普段は未希と入れ替わりで、夜叔父さんの店に来るのだけど、これは諸々かなり差し迫っていると察する。
もともとの僕のネームバリューが新刊と紐づけられていないのが、売り上げが伸びない理由であると編集部は思っているようだが、明らかに客層が違うんだから、こんな古臭くて雑なプロモーションではあまり効果はないのでは、と僕はぼんやり思っている。
それに、どうせドラマかなんかにでもなりゃあ、本なんて勝手に売れるんだから、もう悪あがきはよそうよって気にもなろうというもんだ。みんな別に本なんて求めてないんだし。唾棄。(続きを出して地道にファンを増やそうぜ感しかない)
僕と夕樹乃さんはカウンターで朝食を取っていた。
「玲央先生とモーニングをご一緒するの久しぶりですね」
「ああ、去年ブックフェアのトークショーに出演した時以来ですかね」
宿泊を伴う仕事の時は、ホテルのブッフェで彼女と朝食を取っていることが多い。これはどの作家と担当でも同じではなかろうか。タレントとマネージャーの関係みたいなものだし。あの時は確か北海道だったから、朝から海の幸がたんまり出てきて驚いた。
「先生はいつもここで?」
「はい。ほぼ毎朝、叔父のブレンドを飲んでますよ」
「なんか素敵」
「そう、かな」
「だってアカデミックな町、駒場の純喫茶で毎朝マスターの淹れたコーヒーで、ベストセラー作家が一日を始めるんですよ。素敵に決まってるじゃないですか」
「まあそう聞けばそうですけど、僕の場合は偶然親戚が駒場で喫茶店をやってたってだけで」
「も~、玲央先生は浪漫がないですね~。ね、マスター?」
いきなり話を振られて、文雄叔父さんが慌てている。
「どうだかねえ」
そもそも、この店は叔父さんが亡くなった叔母さんから相続したものだ。彼が最初から喫茶店をやりたかったわけでもない。喫茶店の娘と結婚して、一緒に店をやってただけ。
朝から夕樹乃さんとこうして過ごせるだけでも僕としては十分ご褒美なのではあるが、それでも人というのは満足もせず欲が増えていく生き物で、まあ我ながら、浅ましいなと思う。
僕は空いている手で、ちょこっとだけ、夕樹乃さんの太ももに指で触れた。すると夕樹乃さんが耳元で、
「ご褒美はお仕事が終わってからですよ」と囁く。
「ごめんなさい」僕はおとなしく手を引っ込めた。
叔父さんが小声で、恋する少年だな、とぼやくのが聞こえた。
食事を終えた僕らは、指定席で打ち合わせを始めた。今回のサイン会会場は全国チェーンの大型書店で行う。企画から開催までのタイムラグもなく、一斉に実施が可能で、ある程度の集客が見込める、という条件に合致したからだ。なんというか、迷惑甚だしいな。本屋さん、ごめんなさい。
僕らはこの大型書店を週末毎に点々と移動してサイン会を開催する。まさに巡業だ。イベント前日か当日に現地入りして、一泊して東京に戻る。その繰り返しである。中には祭日の開催も含まれるので、僕の生活サイクルはメチャクチャになるのが決定している。僕の体力が保つかどうか、今から不安しかない。唯一のプラスが、同行するのが夕樹乃さんであること。その一点である。それでもあまり行きたくないけどね。
「スケジュール、鬼すぎませんか」
「書店さんの都合もありますし、出店している商業施設との兼ね合いもありまして、ここまでねじ込めたのは、正直ウチの企画部が剛腕だからとしか言えないですね」
「剛腕じゃなくてもよかったのに。僕がしんじゃう」
「このサイン会は新刊の販売促進だけでなく、既刊の周知も兼ねているんですから、気合入れてくださいよ先生」
「やだー。九月なんてまだ暑いじゃないですか。出かけるなんてイヤですよー」
「いい子にしてたらご褒美あげますから」
「行きます」
夕樹乃さんによしよししてもらった。むふん。
「それでですね」夕樹乃さんがファイルから、WEBサイトをプリントアウトした紙を取り出して僕の前に広げた。
「企画部からの提案で、ホテルはこの中からお好きなのを選んで頂けるようにしたそうですが」
「ほう……」気が利くな、企画部。どうやら、この宿泊が接待も兼ねているらしく、それなりのグレードのお宿が揃っている。この会社、経費のかけ方がおかしくありませんか。
各開催場所ごとに宿泊施設の資料がクリップで留められている。なんだか夕樹乃さんもうれしそうだ。
「夕樹乃さんは希望ありますか? 僕は寝られればどこでも構いませんが」
「え!? わ、私ですか……? いえ……どうぞお好きなお宿を選んでください」
いや、確実に狙ってる宿あるでしょ。目が泳いでますよ夕樹乃さん。
自分で選んでくれればいいのに、めんどくさいな。
仕方ないので、紙を持って選んでるフリをして、夕樹乃さんの目線を伺う。
……はい。だいたい把握しました。
「じゃあ、こことこことここと……というわけで」
夕樹乃さんの目がキラキラ輝いている。OK。
僕だって彼女を接待したいんだ。なかなかさせてくれないんだけども。
「なんだか新婚旅行みたい……」ぼそりと夕樹乃さんがつぶやく。
「え……そう、ですね」ふふ、と僕は小さく笑った。
なんだか心が沸き立つ。そう思うとこの仕事も悪くないのかもしれない。
急ぎの仕事が片付いたので、僕と夕樹乃さんは一服していた。もうじき昼時だけど、どうしようかな。夕樹乃さんを散歩がてら、隣町の代々木上原までランチにでも連れていこうかな。多分、今ならもう断られないと思うし。
「そういえば、未希さんの作品、応募されたんですか?」
「ええ。なんとか完成にこぎつけましたよ」
「お疲れ様です。先生が弟子を取るなんて感慨深いですねえ」
「押しかけですけどね」
ちょっと読んでみたいというので、さわりの方だけ読ませることにした。現役編集者の率直な感想を聞いてみたかったのだ。
さすがに彼女は本職で読むのが早く、あっという間に二章ほど消化していた。
「とっても素敵なお話しですね。文章もお上手だと思います」
内容は梗概で把握できる。文章も冒頭数ページ読めば判断もつくだろう。年齢を加味しても、そう悪くない感触のようだ。
「ありがとうございます。それならよかった」
あとは祈るだけ。
最後のステージまで、僕の所まで己の力で駆け上がってこい、未希。
ふと、夕樹乃さんの携帯が鳴った。
会社からの呼び出しだろうか? 彼女は席を立って、電話コーナーに歩いて行った。彼女が通話を始めると、どうも様子がおかしいことに気づく。ここからでは会話は聞こえないが、ひどく感情的に話す彼女の表情から、深刻な内容なのが見て取れる。そして、どんどん悲壮さを増していく彼女の表情……。泣いてる?
夕樹乃さんは相手に大声で何かを訴えている。
――これは会社からじゃない、男だ。しかも、良くない男だ。僕は直感的にそう感じた。
何を? 誰に?
ここまでじゃないけど、前にもこんなことがあった。
彼女をこんなに苦しめる奴は、一体誰なんだ?
僕なら絶対に、絶対にそんな真似は……。
気が付いたら、夕樹乃さんの前にいた。
通話を終えて、鞄に携帯をしまおうとした夕樹乃さんが、僕に気づいて驚いた。
「せ、先生……どうして」
ハンカチを差し出す。
しばし気まずい空気が流れる。
「そろそろ白状しませんか」
「いやです」
「どんな面倒に巻き込まれてるんですか」
「関係ないですから」
「関係あったらいいんですね」
「……今日はこれで失礼します」
夕樹乃さんは荷物をまとめて、そそくさと帰ってしまった。
結局僕はその日、彼女をランチに誘いそこねてしまった。
◇
未希がやっと自由の身になったので、ご褒美にどこか連れていってやろうかと思う。今月は土日けっこうつぶれそうだし、チャンスは今週の土日くらいしかない。
放課後、未希が店にやってきた。夏の制服は生地が薄いから、冷房病に注意しなければと思って、僕は二階からパーカーを取ってきた。汗が引いたら羽織らせないと。
「で、みーちゃんどこ行きたい?」
僕の傍らでアイスコーヒーを啜る未希に訊いた。
「いいよべつに。れおにぃの家で」
「……そんな」
僕は未希のこと何もしらない。何が好きでどんな風に生きて来てどうなりたいのか、とか。どうしたら喜ばせることが出来るのか。
今まで興味がなかった。……それってすごく異常なのではないか、とやっと気づいた。僕は人に興味がない。もちろん他人が書き割りだなんて思ってはいないけども。
「みーちゃんは、何が好きで、何が楽しくて、どんな風に生きていきたいのか、僕は全然知らない……八年間も離れていたんだ、君に対するリサーチが、圧倒的に不足しているな。有人にもヒアリングしなければ……」
僕は本心から彼女を喜ばせたいと願っているのに、その方法がよく分からない。
「言わないとわかんないからしょうがないよ。未希も言ってないし」
「そっか……もしかして僕に言いたくない?」
「そゆわけじゃない。れおにぃと一緒にいれればうれしい」
「僕と一緒に……か」
うーん……。困ったな。僕といると嬉しい、と言われても、それでは僕をどう使えば喜んでもらえるのか、おもてなしできるのか、まるで見当がつかないよ。
「ん」ずずず……とアイスコーヒーを飲み干す未希。
「みーちゃん、汗引いたかな」
僕は体温確認のため彼女の腕とかおでこに触れてから、僕のパーカーを制服の上から着せた。制服は首元が大きく開いたデザインだから、体温を逃がさないようパーカーのファスナーを首まで上げた。
「ありがと、れおにぃ」
こてん、と僕の肩に倒れかかる。
僕は彼女の肩を抱いて、自分の頭もこてん、と彼女の頭にのっける。桜の香りがする。春から香る、未希の香り。こういう季節感のある香りのシャンプーなんて、期間限定商品とかじゃないのかな。もう秋なんだが、まだ使い切ってないのか。それともリピートしてるのか。
季節限定といえば、僕は金木犀の香りも好きなんだが、不名誉な理由で忌避されることも多い。もうじき、一斉に近隣の金木犀が開花し、街に香りを振りまくのだろう。花粉を気にすることもなく、暑くも寒くもない清々しい気持ちで散歩できる季節が、この花の香りを伴って間もなくやって来る。だから僕は金木犀が好きなのだけど。
「ご褒美ぃ……」特別な何かをご所望な鳴き声だ。
「やっぱり僕がご褒美なの?」まったくもって僕はヒロインか。
こくりとうなづく未希。
「ずっとお預けだったんだよ?」
そういうアレですか。
作業に支障が出るから、なるべくそうならないようにしてきたのだけど。
未希は美味しすぎて僕の理性が消し飛んで歯止めが効かなくなるから、彼女の原稿が終わるまで封印してた。だけどもう終わったし、僕もしばらく休日はいなくなるから、週末限定おうちデートも出来ないし、まあ、いいか。
「僕でよければ、ご馳走いたしますよ。お嬢様」
「じゃあ、注文はれおにぃで」
いいのかな、ご褒美がこんなので。
こんな、金しか取り柄のない、十も年上のロクデナシな浮気者の従兄で。
未希の苦労をねぎらう報奨が僕の体なんかじゃ、割が合わないにも程がある。だけど彼女のご所望なら致し方ない。だからせめてもうちょっとこう……なにかプラスになるものはないのだろうか。もう少し、僕自身のほかに何か盛れる物や事は……ううむ。気の利かない男で本当に自分がイヤ。もっと彼女を喜ばせたい。あとで検索するか……。
自宅のベッドで未希と疲れて転がっていると、
「そうだ、あした下北沢行こうよ。面白いお店があるよ」と未希からデートのお誘いが。
「下北でいいの? ずいぶん近所だけど」実際、徒歩でも行ける距離だ。
「学校の友達から面白いお店があるって聞いたから行ってみたい」
「構わないよ。明日、駅で待ち合わせする?」
「うん」
「れおにぃとファーストフード行きたい」
「OK。じゃあ、昼前がいいよね。11時に――」
一緒にハンバーガーを食べたいだなんて。本当は人目を気にせず、当たり前に年相応なデートを楽しみたかったのだろう。窮屈な思いをさせてきたのが申し訳なく……。何かと似てると思ったら、そうだ。僕と姉だ。人目をはばかる関係。また僕は繰り返してしまったのか。自分もつらい思いをしてきたのに、もう忘れて、妹に同じ思いをさせてしまっているのか。つくづく僕は、ロクデナシだな。
翌日は、未希と下北沢デート。
シモキタといえば劇場やライブハウス。僕は目立たず街に溶け込めるよう、衣服は古着を中心に選択した。逆に、可愛らしい衣服の未希とつり合いが取れなくなってしまったのが難点だが身バレするより遥かにいい。
ウチには叔父さんにもらった古着が何着もある。
アメリカから帰国する際、身の回りのものをほぼ全て処分した僕のためにくれた物だ。それらの服や帽子は、彼が下北沢や原宿、米軍基地のある町の古着屋で若い頃に買い求めたものだった。年も取ってサイズが合わなくなったのを、お古として僕にくれたというわけだ。昨日からタンスから出しておいたけど、まだ少し樟脳の臭いが残ってるな。
文雄叔父さんは近所に住んでいたわけじゃないから、彼の私生活とか若い頃のことはあまり知らない。ただ、そう長くは一緒にいられなかった叔母さんのことを、年を取ってもずっと愛し続けていることだけは知っている。
命日には二人でお墓参りをするけど、僕が生まれた時にはすでに他界していたので、写真の中の叔母さんしか僕は知らない。まあ、なんだかんだで、貴女の御主人は元気でやっています。僕はいつも世話になっていますよ、と報告する。叔父さんはきっと、できのいい息子が出来たよ、今月は新刊が出たんだよ、なんて報告してるのだろう。叔母とはそんな関係だ。
さて、今日は土曜日だから混む前に店に入りたいのだが、ここには五件のファストフード店がある。未希はどれをご所望だろうか。
「え? ふつーに×××だよ」
「うん。わかった」
未希はあくまで
駅前のその店は、今いる場所から視認出来るほど近距離だ。レジには客が並んでいる様子はないが、問題はイートインスペースの方だ。空きがあるかは近寄ってみないと分からないな。
「なにぼーっと見てるの? はやくいこーよ、れおにぃ」
「う、うん」
現在位置から目視で取得できる情報を収集していただけなのだが……。彼女にはぼーっとしているように見えてしまったのかな。事前に得られる情報によっては徒労を回避できるというのに。女子高生とのデートは難しい。
なんとか座席は確保出来そうなので二人で注文をすることに。未希は迷わず季節限定メニューだ。僕は選ぶのも面倒なので同じものを注文した。飲食店での複数注文の場合、同じものをオーダーした方が提供時間が短縮できる場合が多い。もう一つ利点があるとすれば、二人で同じものを食べることで、体験を共有できることだろうか。同じものを食べることで親密度を上げる効果も存在はするが、僕らの親密度はもう間に合っている。さて、僕の味覚はきちんと機能してくれるだろうか。それだけが懸念材料だ。
ようよう座席に落ち着いた僕は、ふとあることに気が付いた。
「ところでみーちゃん」
「ん?」
「ホントに期間限定で良かったの?」
きょとんとしているので、トレーの上に敷かれた紙を指差した。
「あっ!」
やはり気づいていなかったか……。
現在、未希の愛好している『異界獣キッズ』のコラボメニューも販売中だったのだ。
「欲しかったら買ってくるけど」
未希は、にんまり笑ってうなづいた。
僕がコラボメニューのシェークを二つ買って戻ってくると、未希は期間限定メニューの撮影で忙しそうにしていた。
「ただいま、みーちゃん。これも撮影するかい?」
「うん!」
丁度広い席が空いたので、いそいで移動し、撮影会を続行した。未希の写真好きにも困ったものだが、もしかしたら僕のが移ってしまったのかも? いや僕は食べ物を撮影する趣味はないんだけど。僕は、愛するものを残しておきたいだけなんだ。
撮影と食事が終わって、未希はすっかりご機嫌だ。なんとなく、少し分かってきた気がする。一緒に居るだけじゃなくて、一緒に何かをやるのがいいらしい。その方が記憶にも残りやすいのだろう。
駅前通りを二人でぶらぶらと歩き、目についた店に入っては冷やかす。これがとても楽しいらしい。僕は未希が楽しそうにしているのを見るのが楽しいんだが、楽しみ方が僕と彼女で微妙に違うみたいだ。
「あ……ごめんね、ちょっと見ていい? すぐ戻るから」
古本屋の前を通りかかったので、つい気になってしまった。
彼女のために来てるのに、僕の欲しいものを物色するなんて……。
「未希もいくー」
「いいの? つまんないかもしれないよ?」
「れおにぃが見たいんでしょ? いいに決まってんじゃん」
「いやでも……君を楽しませるために来たのに、悪いでしょう」
未希が急にムっとして固まった。
ああ……やっぱり余計なことをして怒らせちゃったかな。
「玲央兄ちゃん」
「ごめん……」
「未希、玲央兄ちゃんに接待されるために来たんじゃないんだけど」
「え? ……うん。デートのつもり、だったけど……僕にはデートってよく分からないんだよ。ただ未希に楽しんでもらいたかっただけ。でも、それだけじゃダメだったのかな」
「ふー。やっぱダメだねー」
「そうだね。僕じゃ未希の恋人は務まらない」
「そうじゃなくて。なんで勝手に変なこと考えて自分を悪くするの?」
「ではどうしろと。僕にはそのようなスキルはないんだが」
「そうだねー。れおにぃにおもきしないスキルがあるよ」
待って。僕でも分からないそれを、君は分かるのか?
「そ、それは?」
未希はにんまり笑った。
「一緒に楽しむことだよ。れおにぃも楽しんでいいんだよ。片方だけ楽しいデートはあんまいくない」
「君のための外出なのに、僕も楽しんでいいのかい?」
「自分だけ楽しいのつまんない」
おお……。エウレーカ!
そうだったのか。
何かを楽しむことを、徹底的に奪われ続けた人生だったから、自分が楽しむことはあまり上手ではない。忌避さえすることもある。何とも難儀な男だな僕は。
「みーちゃん、ごめんね。……僕はいつも父に楽しむことを奪われすぎてて、上手に楽しむことが出来ないんだ」
「そうなの……かわいそう」
「だから、楽しみ方、僕におしえて」
未希の顔がぱーっと明るくなった。
「いいよ! 未希がおしえてあげる!」
僕は嬉しくて切なくて、人目もはばからずに彼女を抱きしめた。
なんとなく少しコツが掴めてきたら、心がフワフワしてきた。まるで未希と付き合い始めた頃のようなフワフワ感が戻ってきた。とても不思議な気分がする。
そんなフワフワしたまま、二人で古本屋を見たり雑貨屋を見たり服屋を見たり、ドーナツで一息入れたり古着屋ではしゃいだりラーメンを食べたりしてデートを楽しんだ。
ああ、こうやってデートというのは楽しむものなのか、とこの年にして僕は学んだ。
僕はずっと、デートというのは男が女性を楽しませなければならない、と使命のように思っていたフシがある。だって本のどこにも一緒に楽しみましょうなんて書いてなかったのだから。逆に接待は、一方的に楽しめばよいのだから気は楽だ。嬉しい接待に限るけど……。
少し疲れたので茶沢通りのカフェで休憩していると、未希が嬉しそう、いや、幸せそう……に僕に言った。
「れおにぃ、きょう未希と遊んでたのしかった?」
「うん。とっても。なんだかふわふわした気持ちだ」
未希が少し大人びた表情で僕に語り掛ける。
「いつもと違う喫茶店、ちょっとドキドキするね」
「うん。どうしてだろう……」
少し前に乗り出して、僕に顔を近づける。
「それはね」
ごくり。何故か緊張する。
「好きな人と初めての場所に、一緒にいるからだよ」
「……たしかに。そうだね、みーちゃん」
僕も確かに、鼓動が高鳴っている。
確かに、相手が未希じゃなければ、こんなことになっていない。
この事に気づいてしまったら、未希の顔がまともに見られなくなった。
どんだけ僕は
「玲央兄ちゃんが、こんなに未希にドキドキしてくれるの、うれしいにきまってる」
「僕も、嬉しい。胸が、苦しいよ……」
未希を見ていられなくて、窓の外だとか、そこいらの観葉植物だとかに視線を飛ばしても、一周回って未希に戻ってきてしまう。
「れおにぃと一緒にいるには、隠れてないといけないって、わかってる。けど未希はれおにぃと一緒に、駒場じゃないどっかいったりしたかった。いつもこそこそしててつまんなかった。何が欲しいとか食べたいとかそんなのどうでもよかった」
「ごめん……」
「だいじょぶ」
「僕はずっと未希に報いなければならないって、そう、強迫観念があって。それで少し、苦しんでいた」
「そっか……そんなことないのに……」
「僕も一緒に楽しまないといけないんだよね。少し分かりかけて来た」
「いけないってんじゃないけど……なるべく。れおにぃを犠牲にして楽しみたくない」
「いいんだよ、しても。未希にはその権利がある」
「そういうのよそう。未希は権利とかいらない。玲央兄ちゃんと楽しく生きたいだけ」
「なかなか……むずかしいな。僕はずっと、何年も父に罰せられ、そして自分を罰して生きてきたから、上手に出来なくて、ごめん」
「これから上手になればいいじゃん。玲央兄ちゃんには未希がいるよ」
「ありがと……」
泣かさないでくれ、未希。
こんな罪深い僕でも、まともになれるのかな。
でも今日、未希と少しは対等になれた気がする。
「未希、二人きりになりたい」
テーブルの上で組んでた僕の手に、未希が手のひらを置いた。
「うん。いこ」――僕の部屋に。
春の頃みたいに、未希がキラキラして見えた。