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第10話 僕の新刊

 未希の中間テストが終わると、間もなく東京は梅雨入りした。未希の送り迎えにバイクを使用するのもそろそろ厳しくなってきたので、有人は車で来るようになった。あいつ一人ならなんとかなるだろうが、後ろに未希を乗せた状態でスリップでもしたら目も当てられない。

 未希はというと、仕事をする僕の隣で、おとなしく執筆作業をしている。一緒に作業している人が近くにいると集中しやすい、と学校の友達が言っていたとのこと。僕はあまりそういうのに影響されないが、普通の人はそうなのだろう。

 彼女は、いちいち重いノートPCを持ち歩くのも不便なので、店に置きっぱなしにしてて、自宅ではスマホで打っているようだ。テキストの同期にはクラウドを使うよう指示をしているが、うまく使いこなしている。箱書きのカードは完成しているから、スマホで撮影すれば持ち歩ける。現物のカードはノートPCと一緒に店でお留守番だ。

 スマホも同時に使用しての執筆の利点は、空き時間にも小説が書けるというところだ。通学時の電車の中とか、学校の休憩時間など、細切れのフリータイムを有効活用している。〆切までの時間が少ない中、これでかなりのスピードアップが見込める。そういえばWEB小説の作家や、兼業作家はスマホで執筆する人が少なくないと聞く。僕はフリック入力があまり得意ではないから、ちょっとうらやましい。実際、いまだに指でぽちぽち打ってるからね。

 さて、僕の話だが、先日書いた新作『コーヒーミル』がいよいよ今月下旬に発売だ。ドドンと書店に積まれてサーっと売れてくれるに越したことはないが、断じてそんなことは起こらない。新シリーズなんて、事前の根回し、いや宣伝とメディア露出が命だ。ああ、考えただけでも眩暈がしてくる。書店周りはさすがに作家の出る幕じゃないので営業さんにがんばってもらうしかないが。

 さしあたり納期の近い、雑誌向け宣伝コメント類をささっと仕上げて各担当者宛に送信。コメントは1パターンを各雑誌のカラーと文字数に合わせて微調整するだけだから、そう苦労はない。面倒なのはインタビューとか動画撮影とか写真撮影を要する類。これは出版社に出向いてやらないといけないので、すごく鬱。面倒だから記者会見方式にでもしてくれりゃあいいのに。そういえば、宣伝だからって他の出版社の人も来るんだっけ。ああ……イヤだなあ。初速が大事なのは分かるけど、どうにかなんないのかな。

 何かと身辺があわただしい僕だけど、こうして未希が会いに来てくれるから、なんとかやっていけている。煮詰まると、未希を連れてコンビニや東大生協に行ったり、近所にたこ焼きを食べに行ったり、自宅でイチャコラしたりして自分を鼓舞して任をこなしている。正直今すぐ未希を連れて海外に逃げたい。


     ◇


 六月上旬のある日。

 今日はイヤイヤ出版社に来ている。新刊宣伝用のインタビューや撮影のためだ。雨だからイヤさに拍車がかかっている。もう帰りたい。未希に逢いたい。

「山崎先生、今日はこっちです~」

「はいはい、今いきまーす」

 ロビーで夕樹乃さんに捕獲された僕は、普段行かない階へとエレベーターで移動した。

 二人きりになったエレベーター内、ひどく気まずい。もちろん演劇の一件の後にも電話をしたり会ったりはしているのだが、密室に二人きりというのはなかった。

「夕樹乃さん」

「はい……」

「まだ教えてくれないんですか」

「……ごめんなさい」

 何が、と言わないところに彼女の隠しているものを伺い知る。

「あの時は大人げなくてすみません」

「いえ……」

「僕じゃ、力になれないのかな」

 夕樹乃さんは顔を伏せたまま、許して、とつぶやいた。

 許すもなにも、事情が分からなければできないでしょうに……。

 彼女は固く口を噤んだままで、到着のチャイムが鳴った。僕はまた何も出来ず、彼女の後ろをついていく。

 僕はどうしてこんなに意気地がないんだろう。それとも信頼されてないのかな。いつもみっともない所ばかり見せてきたから、頼り甲斐もないのだろう……。

 僕らは社屋上層階、イベントフロアの一角にある撮影用の小部屋に案内された。ソファや生け花、ローテーブルの上には新刊が据えられていた。僕はマイクを付けられたりメイクをされたりと、なすがままの木偶の坊である。

 スタッフの言うには、ここで四件のインタビューと一件の動画撮影が行われるらしい。写真撮影は随時とのこと。一瞬も気が抜けない。面白いのは、各種媒体用にテーブル上の小物が差し替えられたり、背景の衝立や生け花が変わることだ。これで、同じ場所でも違う印象を与えられる。僕も出かける手間が一度で済むので便利だなと思った。

 それにしても本を売るのにこんなに苦労をしないといけないのかと毎度思う。だけど僕はメディアを使ってでっち上げられた似非作家なのだから仕方ないのだろう。あと何回、こんなことをしなければならないのかな。早く引退したい。

 一件目のインタビューが終わって一服しているところに、文芸編集部の編集長がやってきた。別に挨拶なんて要らないんだが。

「お疲れ様です、山崎先生」

「どうも」

「新シリーズもガンガン売っていきましょう!」

「よろしくお願いします」

 彼はガハハ、と笑って去っていった。昔の人のノリはついていくのが難しいな。そもそも出版社なんてものが百年前からの旧態依然とした業態なのだから、なかなか刷新するのも難しいだろう。だからこそ僕はこんな業界からさっさと消えたいんだがな。なのにこれから作家になろうとする未希を思うと頭が痛い。彼女とコラボするまで僕は辞められないのだろうか。

 入れ替わりに夕樹乃さんがコーヒーを持ってきてくれた。ロビーの自販機のものだが、都度挽きたてを抽出するタイプだから香りがいい。滅入った気分が高揚する。

「どうぞ、山崎先生」

「ありがとうございます、岬さん」

 会釈だけして、すっと消えていく夕樹乃さん。やはりさっきの件で避けられてるのだろうか。つらいな。

 まもなく二件目のインタビューが始まった。なんだか根掘り葉掘り聞いてくるのだけど、他社の人だからかな。確かに他の会社の人と仕事することはまずないので、色々知りたいのかもしれない。終わった後も妙に熱っぽく話しかけてくるし、引き抜き目的なんだろうか。困っていると夕樹乃さんが『次もありますので』と僕を救出してくれた。ふう、危なかった。こんな調子だから、彼女に頼りにされないのだろう。不甲斐ない自分がホントにイヤ。

 そして三件目。普段コラムを寄稿している内部の雑誌。ここは定番の質問しかしてこないので楽。若干コラムに絡めた質問が飛んできた程度ですぐ終わった。インタビューをした編集者はこの雑誌における僕の担当さん。ついでのようにファンレターを持ってきたので受け取る。コラムしか書いてない僕にファンレターを送ってくるというのは何なんだろう。ちょっと理由がよくわからない。

 早く帰りたいので続いて四件目を開始。内部の若年向け文芸雑誌。ライトノベルだけでなくヤングアダルトなども扱っていて、インタビューでは、一般文芸やキャラ文芸を目指す若い作家志望者に向けてのアドバイスを求められた。特に話すこともないので、お決まりのセリフを投げておいたけど、大丈夫だったようだ。そんなこと僕に聞かれても困るんだけどな……。

 次は動画撮影だ。文芸編集部の公式動画チャンネルやSNSに使用するらしい。ゼミの発表ならいざ知らず、普通に人前で話すのはあまり好きじゃないんだけど、仕方ない。カメラの前で自信満々に自分の本をオススメするのがこんなに恥ずかしいとは。誰かに代わってもらいたい。

 全ての撮影が終わってぐったりしていると夕樹乃さんがコーヒーを持ってきた。他のスタッフはもう撤収している。

「玲央さん、お疲れ様」

「頂きます」

 一口啜っては大きなため息をつくので、夕樹乃さんが心配そうに僕の顔を覗き込んでいる。

「大丈夫ですか?」

「初速が大事なのは分かるんだけど」

「?」

「やっぱり僕は、この会社の奴隷なんですね……」

 夕樹乃さんがつらそうな顔で僕を見る。まあ、貴女に言っても始まらないことくらい分かっていますが。

「この後、どうされますか?」

「接待なら遠慮しますよ」

 開口一番ピシャリと断られて、夕樹乃さんも立つ瀬がなさそうだ。

「そう、ですか。では下までお見送りします」

 僕らは終始無言で、エレベーターで一階ロビーまで降りた。夕方のせいか、帰路につく社員が多い。

「では、お先に失礼します、岬さん」

「お気をつけて。山崎先生、本日はありがとうございました」

 深々と頭を下げる夕樹乃さん。僕の心境はかなり複雑だけど、彼女もそれなりに複雑みたいで、僕に目を合わせてはくれなかった。ロビーを出ると待ち構えていたタクシーに乗り込んで出版社を後にした。


 いろいろしんどくなった僕は、タクシーでそのまま未希の家にやってきた。留学前までは毎日のように入り浸っていた家だ。良い想い出と悪い想い出が両方沸いてくる。――この家で未希たちと暮らすのは、僕にはまだ無理そうだ。

 呼び鈴を押すと、未希が応対に出た。すぐにドアが開く。

「やあ。顔見たくて」

「やなことあった?」

 顔に書いてあったらしい。

「まあ」

「上がって」

「ううん、帰るよ。車待たせてるし」

 叔父夫婦の気配のある場所にいるのは、今の僕には精神的コストが高い。

「そか。じゃ、あした」

「待ってる」

「ばいばーい」

 笑顔で手を振ってくれる未希に癒されて、僕はタクシーに乗り込んだ。

 僕は少し迷って、叔父の店には行かず、そのまま自宅に戻ることにした。いつもいつも身内に癒しを求めてるようじゃダメだろうと思って。

 どうしたら強くなれるんだろう。

 僕のメンタルは弱すぎて、皆目見当がつかない。


     ◇


 翌日。今日の僕は、自宅で夕樹乃さんからの宿題をやっている。今朝ウチに宅配便で色紙の詰まった段ボールが届いた。販促プレゼント&書店様向けのサイン色紙の量産だ。さすがに叔父の店で書くわけにいかないので自宅で作業しているのだけど、床の上が色紙だらけになっている。

 色紙を百枚も書いていると、文字だけとはいえ手が痛くなってくる。僕は絵描きじゃないからサインだけで済んでるのだけど、ラノベの絵描きさんや漫画家さんは絵も描かないといけないから苦労は数倍から数十倍だ。僕ごときがつらいとか言ってはいけないのだ。

 本が刷り上がったら、今度はサイン本も作らないといけないので、いつまでたっても販促系の仕事がなくならず、ゴールは果てしない。しかも報酬はない。

「うー……」

 やっと作業も折り返し、あと百枚くらい書けば――

 ピンポーン。

 僕はインターホンにダッシュした。未希だ。放課後、真っ直ぐ家に来てくれた。

「いま開ける!!」

 マンションのドアを解錠した僕は、いそいで床に散らばった色紙を集めて段ボールに放り込み、ダイニングテーブルの上の筆記用具をまとめてデスクに移動させた。

 足音が近くなり、ドアの呼び鈴が鳴る前にもう僕はドアを開けていた。

「未希!」

「ひゃあ! れ、れおにぃ、びっくりしたー」

 僕は未希を引き寄せるとドアを即座にロックし、ぎゅっと抱きしめた。

「れおにぃ、ただいま」

 僕はその言葉に胸を撃ち抜かれた。

 あー………………。このまま死んでもいい。

「おかえり、未希」

 愛しくて、しにそう。僕が夢見たシチュエーションだ。

 彼女はどうして僕が言ってもらいたい言葉が分かるんだろう。一度も言ったことないのに。もしかして顔に書いてあるのだろうか。とても不思議だ。

 昨日の撮影で受けた大量のストレスが、大量の癒しで一気に洗い流されただけでなく、僕の心が満たされていく。

 僕はチョロい奴なのだろうか。そんな言葉も最近知ったのだが。

「ぬいぐるみするならあっちで」

「あ、ごめん」

 僕は靴を脱いだ未希を横抱きにしてソファの上に降ろした。

「れおきゅん……おいでぇ……」

 仰向けになりながら両手を差し出す未希。きっとぬいぐるみモードだと、きゅん付けになるのだろう。一方的に邪気を吸わせてしまうことに罪悪感を覚えるが、未希以外で解消する方法を僕は知らない。そして彼女は、邪気を引き受けることと等価交換で僕の愛情を得ようとしてるのかもしれない。

 未希の胸を借りようと思ったのだが、ふと。

「制服、シワになっちゃうな……」このあいだ、ずっとぬいぐるみにしていたせいで彼女の制服をシワだらけにしてしまった。あまりひどいとスチームアイロンをかけないと取れないから、また彼女に迷惑をかけてしまう恐れがある。

「じゃあ、お風呂はいろ」

 お、お風呂、だと?

 言われてみれば、一緒に風呂に入ったことは多々あるが――。

 とりあえず湯舟にお湯を溜めてる間、服がシワにならない程度にイチャイチャして待っていたら、

「未希もサイン色紙ほしー」

 とのたまった。

「そんなのどうするの」

「家宝にするから」

 聞かなきゃよかった。分かり切ってたのだ。

「じゃ、あとで書いてあげる」

「やったー」

 色紙の書き損じ用に十枚くらい余分があるので、一枚くらい未希のお土産にしても問題あるまい。色紙は半量ほど消費したが、今のところ書き損じは発生していない。

 自動音声がお湯張りの終了を告げたので、僕と未希は仲良く風呂場に向かった。

「ちょーひさしぶりー」

「だねえ。……はいいけど、やっぱりちょっと狭いな」

 高級分譲マンションの湯舟とはいえ、大人二人が入って余裕があるほど大きくはない。むしろ洗い場の面積には余剰があるのだから、湯舟を交換してしまうのもアリだろう。

 現状での密着具合がエグいことになっているので、僕の方も落ち着いて未希をぬいぐるみにしている場合じゃない。これは大失敗だ。僕は未希で癒されたいのに。

「み、みーちゃん、やっぱお風呂は狭いから、体洗って出ようよ」

「うん」

 というわけで、八年ぶりにフルコースで洗ってやったが、大きくなったぶん手間も増えてちょっと疲れてしまった。体力を使ったので邪気は少し消えたような気がする。僕に足りないのは、もしかして運動なのだろうか。

 未希に僕のスウェットを着せて、ドライヤーで髪を乾かしてやっていると、なんとなく心が落ち着いてくる。動物の世話は癒し効果があると聞くが、こういうマインドフルネスな部分が効くのかもしれない。髪は洗ってやったけど、普段未希が使ってる桜の香りのシャンプーと違い、うちのシャンプーとリンスは無香料。長髪に良いと夕樹乃さんに勧められた銘柄だ。少しお高いぶん、未希のおかっぱもツヤツヤになった。

 未希の髪が乾いたのでソファでジュースを飲んでいるときひらめいた。

「お、これならどれだけ抱きしめても大丈夫だぞ」

 未希をぎゅっと抱きしめる。

「むきゅー」珍しい鳴き声が聞こえた。

 やわらかいルームウェアなら、どれだけぬいぐるみ扱いしても気兼ねがない。ただどうしても多少はHな気分になってしまうので、これをどう回避するかが今後の課題だ。

「れおにぃ、着ぐるみほしー」

 ッ!!!!!!

「き、着ぐるみ、だと!?」

「ぬいぐるみするなら、あった方がいいじゃん」

 未希さん貴女は天才か。後でポチろう。

「そうだね。何の着ぐるみがいい?」

「ねこがいい」

「了解。あとで注文しておくよ」

「わーい」

 やはり僕が思うに、癒しといやらしいは分けておかないと、癒しが難しくなってしまう。少なくとも僕にとっては、だけど。着ぐるみか……悪魔的発想だな。写真撮影が捗ってしまうじゃないか。小物も揃えた方がいいかな。今から楽しみだ。

「あ、こないだ公園で撮った写真、プリントしてきたから」

「ほんと? 見たい~」

「デジタルデータは先に送ったじゃない」

「写真は別腹なの」

「ふうん」

 僕は未希を膝に乗せながら、一緒に写真を眺めた。かなりの枚数を撮影したが、プリントしたのは厳選したものばかりだ。多少のレタッチも施してあるが、素材がいいのか、どれも美少女ぶりが素晴らしい。

「やっぱり学校で見せびらかすの?」

「多分」

「なんかイヤだな」

「どうして?」

「……こんなにかわいい未希を他の奴に見せたくない」

「れおにぃ、いつのまに独占欲つよつよマンになっちゃった?」

 ぐっ……。改めて言われると恥ずかしい。

「さ、最近、かな。イヤかい?」

「ううん。でも多すぎると困るけど」

「気をつけるよ」

 少しモコついた膝の上の未希を、ぎゅっと抱きしめて、未希の香りを胸いっぱいに吸い込む。普段の香りは落ちてしまって、今は少し石鹸の匂いがする。小さい頃は純粋に未希の匂いだったけど。

 僕は十六年前からずっと、未希を逃避の口実だけでなく、己の癒しのためにも利用していたんだな。それを愛情と誤認したのが彼女だとすれば、どれだけ罪深いことをしてきたのかと己を呪いたくなる。

 未希を手酷く振って有人に始末してもらえたら、どんなに楽か。そんな昏い想像をしてしまうほど、未希の吸引力は凄まじい。

 結局、取り立てて生産的なこともいかがわしいことも何もせず、未希をぬいぐるみにして一日が終わる。そういえば、昔はそうだったな、と思いだした。


     ◇


 六月下旬。今日はいよいよ僕の本『コーヒーミル』の発売日だ。というわけで、発売記念イベントのため、新宿にある都内最大手の書店へと夕樹乃さんに連行された僕だった。

「この苦行、絶対やらないといけないんですか~?」

 書店のバックヤードで夕樹乃さん相手にぼやく。

「も~、毎回のことなんですから、いい加減慣れてください」

「慣れたくないです。僕は物陰からひっそりと買われていくのを見ていたいんですよ」

「そういうことは売れなくなってからやってください」

「ヒドイ!」

 僕の棚をデビュー当時から担当してる書店員さんが、横でくすくす笑っている。

「山崎先生と岬さんの夫婦めおと漫才、いつ聞いても面白いですね」

 こんな軽いやりとりがノータイムで出るほど板についてしまってる僕ら。表と裏の差が激しすぎるのも嫌になるほどお互い体に染みついている。そういう意味では息ぴったりで夫婦みたいだと思うのだけど。

「本当に夫婦だったらよかったんですが」

「そういう冗談は後にしましょ、山崎先生」

「こうやって岬さんに何年もからかわれ続けてるんだから、少しは同情してくださいよ」

「あはは、ではそろそろお時間です」

 書店員さんがバックヤードのドアを開けた。

「やだ~やだやだ~」

「お仕事ですよ!」

 夕樹乃さんにグイグイ背中を押されて店頭の特設ステージ(六畳くらいの小さいやつ)に向かった。

 店頭にはすでにファンの人たちが群がって、僕を待っていた。よくよく見ると叔父の店の常連さんたちもいる。相変わらず暇そうな人たちだなあと思った。端の方で手を振ってる女子高生の一団が。見知った制服だと思ったら、なんと未希が友達を連れてやってきた。なんてこった。絶対バレないようにしてくれと祈るばかりだ。

 司会の人に呼ばれ、檀上に昇る僕。そこでは簡単な挨拶と軽く内容を紹介して終わり、握手会にとプログラムは移行していく。サイン会をすると混乱が激しいので、事前に作ったサイン本を購入すると握手会に参加できるシステムだ。(僕が自宅でせっせと書いたやつ)知人とこんな場所で握手するなんて、すごく恥ずかしいんだが、必死に顔に出さないようにがんばった。未希は五人くらい友達を連れて来たようだが、この子ら全員に僕の本を買わせたんだろうか。ハードカバーでそう安くもない本なのに、高校生のお小遣いで、しかも付き合いで買ってもらったなんて、ひどく悪いことをした気になってしまった。あとで未希をシメておかなければ。

 夕方、握手会が終わり、バックヤードでぐったりしていると書店の店長さんから食事のお誘いが。あまり無下にしてもいけないので、渋々ご馳走になる。夕樹乃さんは終始お酒を注ぐ機械と化していた。まあ、僕がしゃべるのが苦手なのは毎度のことなので、先方も分かっているらしく、主に夕樹乃さんとおしゃべりを楽しんでいるようだった。


 宴会も終わり、新宿の街は夜の帳が降りて電飾に彩られていた。夕樹乃さんと一緒にタクシーに乗り込んだ僕は、疲れ切っていて、すぐうとうとしてしまった。

「玲央先生、お疲れさまでした」

「あ……夕樹乃さんも」

 すぐに瞼が重くなってしまう。

「……え?」

 夕樹乃さんが僕の腕に腕を絡めてきた。嬉しくない訳はないんだけど。

「ご褒美です。発売日ですし」

「この程度じゃ……割に合いませんが」

「忘れてくれるなら、もっと」

「忘れます」僕は即答した。

 夕樹乃さんが僕にキスをしてくれた。

「もっと早く欲しかったな」

「ごめんなさい」

 僕は新宿から駒場までの短い間――靖国通りから大ガードを抜け西口を回って甲州街道に抜け、初台で山手通りを南下し富ヶ谷を抜け駒場まで――、ずっと彼女の唇を貪った。四年分の利子にもならないけれど。


 マンションの前で車を降りた僕に夕樹乃さんが、

「ちゃんと忘れるんですよ。いいですね?」

「もう忘れました」

 彼女は儚げに笑った。

「では、お休みなさい。玲央先生」

「お休み、夕樹乃さん」

 ドアが閉まり、走り出すタクシーを見送る僕に、彼女はずっと手を振ってくれた。

「……やっぱり、教えてはくれないんですね」

 僕は己の唇を指で触れながら、寂しく自分の部屋に帰った。

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