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第9話 君と同じ気持ち

 翌日から通常運転に戻った僕は、中間試験を週末に控えた未希の勉強を見てやることが増えた。

 さすがに現役を退いて久しいので、先回りして教科書の内容を再履修するなど、僕は作家辞めたら家庭教師か塾講師にでもなるのかな、と一瞬錯覚するが、これも可愛い未希のためである。

 なにせ、ランクを上げて入った学校の勉強についていくだけでも大変なのに、パソコンの使い方や小説の書き方まで履修し作品の執筆もこなさなければならないのだから、その負担たるや計り知れないものがある。

 ならば婚約者 (仮)の僕が全力サポートせざるを得ないだろう。つまり――成績が落ちたらラノベ書いたり恋愛したりしてる場合じゃねーですよ――ってことだ。僕だって未希と逢えなくなったら正直ヤバイ。だって未希に餌付けされてるのは僕の方なのだから。


 今日の未希は入店早々、猛烈な勢いでプリントの過去問をやり散らかして、かれこれ二時間は経過している。そろそろ休ませないと未希の脳が煮えてしまう。僕は、テーブルの上の教科書をちょっと脇に寄せ、未希専用のハーブティーと、僕が焼いたクッキーを未希の前に置いた。

「みーちゃん、お疲れ様。少し休憩したら? クッキー焼いてみたんだ。まあ普通に食べられる味だと思うので試してみてよ」

「わ、ありがとー! 玲央兄ちゃんすごーい!」

「いえいえ」

 クッキーは思ったより作り方が単純だったので、試しに焼いてみたら成功した。料理はともかく、菓子は分量さえ間違えなければ、おおむね食べられるものが作れることが分かった。だがパンやパフェやケーキのデコレーションなどは熟練度が求められるだろう。

 店にはスイーツの材料や調理器具が豊富にあるので、実験には事欠かない。製菓は化学と誰かが言っていたが、僕の専攻と近いような遠いような。

 ともあれ、いずれ店で提供出来るようになるかもしれないと叔父さんの期待も大きい。僕は将来、カフェの営業をするのかな。まあそれでもいいのだけれど。

 作家は時が来れば辞めるのが決定しているのだから。


     ◇


 試験の終わった翌日、未希を労ってデートをすることにした。念のため有人も同伴だ。自宅近くの駒場公園と、その中にある旧前田侯爵邸と日本近代文学館を三人で尋ねた。子どもの頃、うちの親の目を盗んでよく三人で出かけたことを思い出す。

 未希も昔を思い出しているのか、とても楽しそうだ。別に二人きりでなくてもいいのなら、かえって三人デートの方が僕も間が持てるし、有人がいれば大体の敵は排除できるから都合がいい。やはり僕は、男としてどうかと思う。

 公園を散策したあと、旧前田侯爵邸を見学した。昔の貴族のお屋敷だが、フォトウエディングでもよく利用されていると言ったら未希のテンションがかなり上がった。やはり女の子だなと思ったけど、本当に身内だけで式を挙げたいと思う。

 僕の関係者なんてロクなのがいないから、それこそ、未希の家族と文雄叔父さん、そして呼べれば姉さんとで宴会出来ればいいかな。――だが、あの男がついてきたら、殺してしまいそうだ。

 ひととおり見て回ったあと、ブックカフェのテラス席で一息ついた。未希は店内の本棚が気になるのか、トコトコと遊びに行ってしまった。それを見送る有人がぼそりと誰に言うともなくつぶやいた。

「本来ならお邪魔虫な俺がいても、この通りだ」

「そうだな」

「こいつだけは、あの頃の延長線上に生きてんだろうな」

「……さすがにそれを彼女には言えないな」

 言えば未希が子どもでなくなってしまいそうで。

「俺らだけ大人になっちまったってことなのかな」

「ならずに済めばそれに越したことはない」

「ちげえねえ」

 僕は公園で撮影した未希の写真を見て、撮り直した方がいい場所がないか確認していた。子どもの頃、よく未希の撮影をしたことを思い出す。あの頃よりは、僕も少しは写真も上手くなっているだろうか。

「ずいぶんと」

「ん?」

「可哀想なことをした。彼女に」

 まさか彼女に片思いの苦しみを与えてしまうなんて、夢にも思わなかった。僕はいつか心の矢印を力づくで捻じ曲げることが出来るのだろうか。

「確かに兄としては噴飯物な話だが、しかし選んだのはあいつだからな。別に気に病む必要はねえさ」

「そうか……」

 おおむね良く撮れていたので、デジタル一眼レフの電源を落とし、店内をうろうろしている未希に視線を投げた。

 有人が僕に向き直って言う。

「あいつが俺と添い遂げたいと言うなら、俺はそうする。あいつがお前を選ぶなら、全力で叶える。ただそれだけの話だ」

「清々しすぎて自分がイヤになるよ。お前と話していると」

「あいつの望みを叶えるのが俺の生きる意味だ」

「その割には僕に世話を押し付けて遊んでなかったか?」

「お前が留学してから、考えを改めたんだよ。あいつを泣かせたら、――お前を殺す」

「とっくに殺してくれてもよかったんだが?」

「それじゃあ、あいつが泣くから。それはできねえ」

「くっ……」

「一人で背負うのが大変なら俺も一緒に背負う。だから、あいつを幸せにしてやってくれ。あいつが幸せじゃないと、俺はダメなんだよ。頼む」

 こいつ、こんな奴だったっけ。ちょっと意外だった。

「シスコン極まってるだろ、有人」

「お前に言われたかねえな」

「「ははは」」


     ◇


 翌週の金曜日。未希の中間試験の結果が出たようで、どの教科も上の下くらいの成績だった。僕も叔父さんも、中の下くらい取れれば御の字だと思ってたのに、正直驚いている。これは大金星だと喜んだ叔父さんが、未希のためにデコレーションケーキを作ってくれた。さすがに僕らでは食べきれないので、常連さんにもお裾分けをして、店内はお祝いムードに包まれた。

「「「「未希ちゃんおめでとー!!」」」」

「みんな~ありがと~」

 店内のみんなに祝福されて、未希はご満悦だ。あれだけがんばったのだから、当然のご褒美だと僕は思う。全員に切り分けたケーキが行き渡ったので、早速食べ始めた。

 叔父さんのスイーツは絶品だけど、このケーキのスポンジはちょっと違和感があった。腑に落ちない顔の僕に気づいた叔父さんが、

「スポンジは保存の効く市販品だよ。いつでもケーキを出せるように、前から用意してたんだ。味は俺が作った奴の方が旨いけどよ」

「そうだったんだ」

「この手のケーキは、スポンジとホイップクリームと果物の缶詰でもありゃあ誰でも作れるぞ」

「ほんと?」

「ああ。生クリームの泡立ては失敗しやすいから、ホイップ済の市販品がオススメだ。スポンジは二枚重なってるのを剥がして、断面にシロップをハケで塗っておくとしっとりして食べやすいぞ。そこにスライスした果物を高さが均一になるように並べて、隙間をクリームで埋める。切ったときだいたい平行になるようにするんだ。だが家で食うぶんには適当でかまわねえ。上の段を乗せて手でぎゅっと押さえればOKだ。あと切ったとき崩れるから、ド真ん中にはフルーツ入れねえで、クリームで埋めた方がいいぞ。生のフルーツを使いたい場合、イチゴの値段が高い時は中に詰めるやつをキウイで代用すると安く酸味が補えて旨いぞ。果物のケーキは酸味が大事だからな」

「なるほど」プロの喫茶店経営者からの貴重な講義だ。かなり実用的な話なのでメモを取りながら聞いている。

「デコレーションだが、素人は側面にクリーム塗るのはやめとけ。失敗する。上面もつるつるにする必要はねえ。だいたい平らに伸ばしたら、あとはクリームをちゅっちゅと外周にぐるりと絞って、好きなようにフルーツを並べればOK。クリーム部分にスプレーチョコをまぶすのもオシャレだぜ。クリスマス用なら、百均でデコレーション用のチョコや飾りを買ってきて飾れば完成だ。どうだ簡単だろ」

「確かに……。有料級の情報ありがとう」

「今度はお前が作ってみな」

「わかったよ、叔父さん。今度百均行ってくる」そのうち未希に作ってやろう。

 そんな僕と叔父さんの会話を意に介さず、未希は美味そうにもしゃもしゃ食べている。まあ女子高生はそんなんでいい。彼女にゆっくりおやつを楽しんでもらえれば僕は満足だ。

 未希にお茶のお代わりを注いでいると、危険な発言が耳に飛び込んできた。

「あのが指導してたんだから国語なんて10番以内なのでは――」

 毎日のように来店する常連Aさん(駒場東大の事務職)が機密情報を口にした。

「!!!!!」

(しー! 分かってても言わないで!)

(あ、失礼しました)

 驚く人もおらず、どうやら常連さんは全員知ってたらしい。あー、また僕だけ知らないやつだ。それもそうか。夕樹乃さんと僕のやりとりを継続して聞いてる人なら、ある程度で察してしまうよな。

「ここは先生の仕事場兼隠れ家だから、誰も口外なんてしませんよ。どうぞ安心してください。僕らみんな先生とこのお店のファンですから」

 常連Bさんが僕に言う。彼は近所の設計事務所の社長さんだ。

「なんかすいません。本お持ちでしたら、サインしますのでよかったら……どうか皆様ご内密に……」僕は手を合わせて拝んだ。

 常連のみなさんが菩薩のように微笑む。内心いつかはサイン、と狙っていたのかな。なんか申し訳なかったな。

 いい機会なので、昔から不安に思っていたことをお尋ねしてみた。

「あのー……読者の方と直接お話しするの初めてなのでお伺いしたいことがあるのですが……僕の本、文章がひどくて読みづらかったりしませんか? 下積みもせずデビューしてしまいまして、ずっと心配だったんです」

 常連さんたちが顔を見合わせて、ちょっと困った顔をしている。何かマズいことでも言ってしまったのだろうか。

「僕わりと読み専でけっこう読書してる方だと思うんですが、決して山崎先生の文章は他に劣っているだとか、読みにくいということはありませんよ」常連Aさんが言う。

「本当ですか?」

「そもそも、低コストの若年向けならともかく、山崎先生は一般文芸のレーベルから出版されていますので、比較的質の高い校正校閲が入っているはずです。それに従って修正されているのであれば、おおむね商業の水準には達していると僕は思うのですが」

「なるほど……。ありがとうございます。僕は作家の知り合いも全くいませんし、担当さん以外の編集さんともお付き合いありませんので、常識がなくて……」

「確かに最初の頃の巻は粗削りな部分もあったかもしれませんが、巻が進むにつれ、あっという間に洗練されていきましたもんね」常連Bさんが周囲に同意を求める。他の常連さんも頷いている。

「はあ、そうなんですか……。ご存じかもしれませんが、高卒後海外の大学に留学しまして、研究職を目指していました。在学中に書いた作品が賞を取って、結局研究者にはならず作家になってしまったんです。ですから下積みも何もしてなくて、辞書や小説指南書の類も授賞式で帰国した際にあわてて買い求めた次第で……」

 また皆が顔を見合わせている。だんだん不安になってきた。

「先生、あまり他でそういう話をなさらない方がいいですよ」

 常連Cさんが言う。彼は近所に住んでいること以外はよくわからない。フリーランスか何かなのだろうか。

「何故ですか?」

「この英語堪能頭脳明晰眉目衆麗のハイスペ売れっ子作家さんがそんなこと言ったら、イヤミが過ぎて嫉妬の的になってしまいますよ」

「あわわわ……」この人は一体なにを言ってるんだろうか。信者の人なのかな。こわい。

「あ、ありがとうございます。とりあえず品質については大丈夫そうですね。安心しました。苦情がありましたらいつでも出版社のカスタマーセンターかネット書店のレビュー欄までよろしくお願いします」

 みんな、くすくす笑ってる。なんだかなあ。でもあったかい。ちょっとうれしい。今日はなんかオフ会みたいだな、と思った。たまにはいいのかな。どうかな。人が多いところは、やっぱ怖いな。

 僕は指定席に戻って、未希の隣でコーヒーを啜った。

「みーちゃんは大学とかどうするの? まあ高校入ったばっかで考えてないだろうけど」

「行っても行かなくてもいいんだけど、行くんなら通信かな」

「どうして?」

「玲央兄ちゃんと一緒にいられるから」

 たはー。思いっきり顔がにやけてしまった。まあ都内には大学はたくさんあるから、うちからでも彼女の実家からでも、通うのに困ることはなさそうだが。あ、そうか。通信なら、姉さんのそばにいられたのかもしれないな……。くやしいな……。でも就職するには現地でのコネも要るだろうし……やっぱその選択肢はなかったのだろう。たらればを考えても仕方ない。

 とりあえず試験が終わったので、未希はラノベの執筆を再開することにしたようだ。

「玲央兄ちゃんちょっとわかんないんだけど」

「なになに?」

 ストーリーのカードを作ったのはいいが、作業工程で躓いているらしい。

 プロットから箱書き、箱書きから本番、がよくわからないらしい。本や口で説明するだけだと概念は理解できても、確かに実作業は分かりにくいかもしれないな。ふーむ……。

「そういうのって、効率的に文章を書くための方法論の一種でしかないので、厳密に守らなくても結果的に文章が書けていればいいんだけどね。ただ使った方が便利だし失敗しにくいということなんだ」

「ふうん。でも未希にはあまり時間ないから、覚えた方がいいんだよね?」

「まあ……ホントは試行錯誤をさせてあげたいのだけど……」

 処女作は自由に書かせてあげたいのが本音。だけど茨ルートを選んだのは僕と彼女なので、なるべく直線コースで行かせたい。というのも、僕の新刊がもうじき発売になるから忙しくなってしまうので、付きっきりで面倒を見られなくなってしまうからというのが1つ。そして、八月末が応募〆切だから、夏休みをフルに使って仕上げる必要があるのがもう1つ。期末テストや夏休みの宿題も考慮すると、使える時間はあまり多くはない……。

「こないだウチでコピー紙にカード貼ったよね。プロットってのは、紙に貼ったカードの内容をまるごと要約したもの。そうだな、1枚につき300~500文字くらいかなあ。プロットだけ読めば、どんな雰囲気のお話しか分かる」

「おお、なるほど」

「で、箱書きはカード。アニメの絵コンテは見たことある?」

「あるよ」

「1カードが1~3コマっぽくない?」

「たしかに!」

「絵コンテの1コマ~数コマが1箱書き、みたいなイメージ」

「ふむふむ」

「それで、カードを見ながら本番を書く。というのが、すごく単純化した説明になるよ」

「なーんとなーくわかった」

「つまり、カードを作ってコピー紙に貼ることによって、プロット制作手順をスキップし、箱書き手順を同時に行ったわけ」

「おー!」

 飲み込みの早い未希をよしよししてやる。

「具体的に、カードの内容をどう本番にするかというと、書く前にやることがある。全部のカードを同じくらいの表現の密度で書くとくどくなったり、情報量が多すぎて混乱するシーンが出ちゃうので、先に強弱をつけようね」

「おけまるー」

「軽く書くときは、ほとんどカードの内容と変わらないくらいの分量で事足りるシーンも出てくるよね。たとえば、このカード。主人公の友人が教室を出て購買でパンを買って戻ってくる、そして次のカードでは主人公と絡んで会話が発生してる。主人公はケガをしてるので代わりに買いに行ってもらったってとこだよね」

「おー」

「前のカード、友人が買い物に行って戻るシーンより、次のカードの主人公とパンの内容とかで会話するシーンの方が重要だよね。なのに、友人が買い物に行ったときのことを細かく描写しすぎると、後のシーンの重要度が薄くなっちゃう。読者は、どっちのシーンが重要なのか混乱するんだ」

「どうして?」

「情報量の多いシーンは、ほとんどの場合、ストーリー上で重要ってことになってるから」

「なるほどー! そっか!」

「だから、もしも購買のパートのお姉さんが実は何かの謎を解くカギを握っていて、友人は彼女に惚れてるとしたら、購買のシーンを細かく描く必然性が出てくるんだ」

「たしかに!」

「でも大して意味もなく、後でストーリーに絡むこともなく、ただ買い物をするだけの場所なら、細かい描写いらないよね。だから、カードによって、情報量の多い、少ないを先に振り分けておくんだ。これは作者のみーちゃんがまず振り分け作業をやってみて。やり方は、カードの隅っこに自分で分かる印でもつけてみて」

「おけまるー!」

 この程度の指示でも、未希は理解して作業してくれるので弟子としては本当に優秀でありがたい。

 慣れない作業で手間取り、帰宅時間になっても終わらなかった。毎回ほぼ定時なので、すでに有人が店の前で待機している。たまに店内でケーキでも呼ばれないかと誘うのだが、甘いものがあまり好きでないので、大人しく外で待っていることがほとんどだ。そういえばそろそろ梅雨だからバイクは辛そうだな。たまの雨天時は未希にレインコートを着せていたが。

「ごくろうさん」

「おう」

「今日は未希の中間試験の結果発表で、かなりがんばったからご褒美に叔父さんがケーキ作ってくれて、常連のみんなと一緒にお祝いをしたんだよ」

「おお、そりゃあすごいな。叔父さんに礼言ってくっかな」

「うん。だから、今晩家でもお祝いしてあげてよ」

「了解。玲央よ」

「ん?」

「未希を大事にしてくれてあんがとな」

 僕は軽く手を上げて、そのまま店に戻った。相変わらず照れくさいことを言うやつだな。返事に困るだろうに。


     ◇


 翌日は土曜なので、昼から未希が家に来た。激うま弁当持参である。僕としては非常にありがたい。

「玲央兄ちゃん、ご褒美ちょうだい」

 相変わらず唐突なお嬢様である。

「はいはい、じゃ、あとでコンビニ行こうね」

 異界獣キッズくじ第二弾をご所望かな。それにしても一回分の料金が高いわりにハズレ賞の景品がショボいのが気になる。ダブりは高確率で僕に押し付けられる。それはいいのだが、バッジもそろそろつける場所がなくなってきたのでアクキーがいいかな。ジャマになりにくいし。

「それじゃないー」

「はて、じゃあ何だろう。有人に怒られるから高額なものは買えないよ?」

 食事なら消えものだから、と言いかけて、意味がないことに気づいた。女子高生が高価な食事を所望するとも思えない。流行りのスイーツならご所望になるかもしれんが。その際は渋谷か原宿にでもお連れすればよいのだろうか。飲食でも、コンカフェやスイーツバイキング、アフタヌーンティーあたりなら高額にもなろう。

「玲央兄ちゃん」

「はいはい?」

「だから、ご褒美に玲央兄ちゃん」

「……あ。理解した」

 ご褒美だなんて、もう。僕はヒロインか。

 未希は部屋に上がると、ダイニングテーブルに弁当をセッティングしはじめた。昼どきなので先に食べようということらしい。

 僕がキッチンでお茶の用意をしてると、

「ちょっと冷蔵庫借りるね~。ママがプリン作ったんで持っていきなさいって言われて」

「いいよ」

 叔母さんがプリン、ねえ。僕が未希の家に出入りしてた頃は叔父夫婦は忙しかったから、叔母さんの手料理なんてほとんど食べたことなかったけどね。最近はスイーツなんて作るのか。多少は余裕が出来たのなら、いい事だと思う。子どもに費やす時間もないのなら、それはもう家族とは言いづらいしな。

 今日の弁当は、生姜焼き&唐揚げ弁当だ。相変わらずメンズの胃袋ブチ抜き系パワー弁当だなと。普段あまり食が進まないのだが、未希の弁当はいくらでも入るから不思議だ。まだ暖かいから、有人のバイクで来たのだろう。

「……え」

 唐揚げを食べたとき、僕は胸が苦しくなって箸が停まった。

「どうしたの? なにか骨とかヤバいものでも入ってた?」

「ちが……」

 思わず涙があふれてきた。

 とっくに忘れたと思っていたのに。

 この味、この香り――。

「玲央兄ちゃん、だいじょぶ?」

 ぐす……。僕は鼻を啜って、

「みーちゃん、この唐揚げ、誰が作ったの?」

「ママだけど」

「そっか…………」

 その唐揚げは、僕の母が作っていたのと同じ味だった。

 特殊なレシピだったのか、いろんな店の唐揚げを食べても同じ味には出会えなかった。だから、もう二度と食べられないと思ってた。まさか、隣家に継承されていたなんて……。

「どうしたの? 玲央兄ちゃん」

「あのね……僕の母さんのと同じ味だったから、懐かしくて……」

「そうだったんだ」

「もう、二度と食べられないと思ってたから……。だから、心配しなくて大丈夫だよ」

 母をあんな形で亡くすなんて、本当に最悪だ。その元凶も今はもういない。僕が母の仇を討ったから。でも結局姉さんは護れなかった。なんでうちの女たちは誰もいなくなってしまうんだろう。これで未希まで消えてしまったら、僕はもう、どうしたらいいか分からない。

「こんど作り方教わって、未希が作ってあげるね!」

「うん。頼む」

 未希は笑って僕の涙をティッシュで拭いてくれた。

 弁当を食べ終わったら、未希が冷蔵庫からデザートのプリンを持ってきた。

 いわゆる焼きプリンというやつで、茶わん蒸しとは兄弟みたいなものだ。僕は叔父さんと回転寿司に行くといつも茶わん蒸しを2つは食べて帰るくらい好物なんだよね。閑話休題。

「叔母さん、最近は忙しくないの? 料理とかして」

「ああ、仕事変えたの。忙しすぎるからって」

「ふうん」

 未希の家庭の様子を聞きながら、デザートのプリンを頂く。

「あれ? これ叔母さんの手作りなんだよね?」

「そうだけど」

 マジかよ。

「このプリンも……食べたことのある味だよ」

 てっきりどこかで買ってきたプリンだと思ってたのに、母の手作りだったと今さらになって知るなんて……。

「きっと色んなレシピが叔母さんに受け継がれていたんだろうな。忙しかったからって」

「玲央兄ちゃん。じゃあ、叔母さんのレシピ、ママに聞いておくね」

「うん」

「また泣いてー。よしよし」

 ティッシュで涙を拭いたあと、僕のあたまをナデナデする未希。すっかりママだ。

 母は、なんであんな男に嫁いだんだろう。

 首吊り自殺をしたときの、あの変色した顔が脳裏から離れない。もっと早く父を始末しておけば母は死なずに済んだし、姉も護れたのでは、と後悔しかない。だからせめて、未希だけは僕が護らなければ。とはいえ、そうそう命に係わる面倒に巻き込まれることはなさそうだけど。

 おいしいプリンを食べたあと、僕はコーヒーを淹れて未希の宿題を見ることにした。

「玲央兄ちゃん、印つけるの家でやってきたよー」

「うん。よくできました。みーちゃん大変だったでしょ」

「ちょっと」

 よしよし、と頭をなでてやった。

 未希がカードに書いた、重要だったり分量が多いシーンと、軽いシーンの振り分けには、実際に脳内での映像や音声シミュレートが必要になる。たしかに脳内処理としては重い方だろう。それを作品の頭から尻まで全部行うのだから、初心者の未希にとってはかなり大変だったはず。しかしこの作業は作者でなければできない。僕が代わってやることはできないんだ。もし代わってやってしまったら、それはもう未希の作品ではないから。

「それじゃあ、カードから本番の書き方教えるね」

「はーい」

「昨日話した買い物に行くシーンが分かりやすいかな。ここカードに書かれてる順にやってくね。会話文はもう書かれてるから、ほぼそのまま使うね。僕ならこんな風に書くかな」

 僕は未希のノートパソコンのテキストエディタを起動し、サンプルを入力しはじめた。できるだけ簡素なかんじで。


『「じゃあ、行ってくるよ」昼休みのチャイムが鳴ると同時に、タカは後ろの席のリュウジに声をかけ、教室を飛び出していった。早く購買に行かないと目当てのパンが売切れてしまうからだ。

 タカを見送ったリュウジは、スマホでマンガを読んでひまを潰していた。先日足をケガした彼は、購買へのおつかいをタカに頼んでいたのだ。

 間もなく息を切らせたタカが教室に駆け込んで来て、』


「ここまでで一枚目。そしてここからが二枚目」


『リュウジの机にパンと牛乳の入ったレジ袋を放り出した。

「焼きそばとコロッケ、ゲットしてきてやったぜ!」

「さすがわが友。狙った獲物は外さないな! デリバリー代とチップを乗せてやるよ」

 リュウジは財布から千円札を出してタカに渡した。

「あんがとよ! お前の買い物するだけで自分のメシ代も稼げるなら安いもんだぜ。ごっさん」

 タカは自分の椅子を後ろ前にすると、リュウジの机で一緒にパンを食べ始めた。

「ところでさ」リュウジが焼きそばパンのラップを剥がしながら――』


「――みたいなかんじかな。あんまり上手じゃないけど、あくまでサンプルなので、好きに書いてね」

「おおおおお……カードがちゃんと小説になってるうううう!」

「この作業、全部のカードでやれば一冊書き終わるよ」

「え……」

 急に未希の目が虚ろになってきた。非常に困った顔をしている。たとえるなら、背景に銀河が浮かんでいるような。作業の途方も無さに呆然としているのだろうか。まあ小説を一本書くってそういうことなんだけど。もしかして、ここで現実に直面しちゃった系なのだろうか。

「みーちゃん、どうしたー?」

 おかしいな。いつものガッツはどこに行ったのか。そもそも、箱書きを本番にしたところで次の作業が待っているんだが。こんなところで挫けていては先に進まないぞ、未希。

「みーちゃん? おーい、現実に帰ってきてくれー」

「あ、ごめん」

「おかえり。だいじょうぶ?」

「ちょっと……」

 なんだか、かわいそうになってきた。

「皆まで言うな妹よ。現実逃避したいんだな。……じゃあ、テストのご褒美でも受理するかい?」

「うん!」急に元気になったぞ。じゃ、いっぱい可愛がってやりますかね。

 僕は未希を抱き上げ、寝室に連れて行った。


     ◇


 僕は自分の心変わりに非常に戸惑っている。

 本当に僕は一体、どうしてしまったんだろうか。

 人の心も分からなければ、実は自分の心もいまいち分かってないのが僕だから、未希とのことは本当に困ってばかりだ。

 未希と体を重ねる度、不思議なことに、どんどん愛しさが募っていく。世の中には体だけの関係なんてものが数多あるけれど、僕には到底信じられない。だって、こんなにすごく好きになるのに、おかしいじゃないか。それとも僕がおかしいのか?


 僕らは一戦終えたところで、ぐったりしながら転がっている。

「未希ぃ……すきだぁ」

 僕はすっかり未希にやられていた。

 むしろ、ようやくこの域に到達できたと喜ぶべきか。

「ん」肯定の鳴き声である。

「もう、離さない」

 ベッドの中で僕は未希を抱きすくめた。

 口だけでなく本気で離したくなくなったのだから、褒めてもらいたい。

「やったぁ」

「何がやったーなの?」

「れおにぃ未希と同じ」

「……えーっと?」

「玲央兄ちゃんは未希のもの~」

「あ、そうか……」

 そうか。やっと。僕は。

「未希の言ったとおりだね」

「ん?」

「僕を未希と同じ気持ちにさせるって言ってたじゃない」

「あー。うん。言った」

「僕、なんか難しく考えすぎてたかもしれない」

 未希は僕に片思いしていて、僕は夕樹乃さんに片思いしていて、でもとりあえず未希の気持ちを受理して関係を続けてきた状況で、いつになったら未希に恋できるのか僕には見当もつかなくて、交際自体は嬉しいことだけど、でもずっと申し訳ない気持ちで少し憂鬱だった。

「いつもそーじゃん」

「そうだな。僕はバカだ」

 でもそんなのは杞憂だった。足りなかったのは接触回数やその密度だったのだ。擦り込みされてたのは未希だけじゃなく僕も同様で、姉さんっぽければ誰でも好きになってたんだろう。でも、そうじゃない女の人でも僕はちゃんと好きになれたから、それがなんだか嬉しい。やったよ、姉さん!

 未希がもぞり、と動いて僕を見た。ああ、やっぱり未希はかわいい。

「れおにぃ、あたまよすぎ」

「どうなんだろ。経験が足りなさ過ぎて、分からないことばっかりだ……自分のこともろくすっぽ理解出来ていない。まあ自分に興味があまり――」

「もー。未希のご褒美じゃなかったの?」

 ぐだぐだ言ってたら、怒られてしまった。

「ごめん。ひどいピロートークだね」

「ん」

「未希ぃ……ずっと一緒にいたいよ……」

「未希もー」

「離れたくない……」

「もー、れおにぃはあまえんぼさん」

「それは違うんじゃない?」

「ん?」

「愛おしすぎて離れがたいという話なんだけど?」

「んー。そっちか。ちょっとちがうね」

「未希、愛してる」

「ちゃんとあいしてる?」

「ちゃんと愛してるよ」

「んふ」嬉しいらしい。

「みーちゃん、もうちょっと現実逃避しとかない?」

 きょとん、として僕を見つめる未希。

「………………いいよ」

 僕は二回戦に突入した。これが終わったらちゃんと作業を再開しよう。ホントに。


 食後の運動には長すぎる時間を費やしたあと、未希は作業を再開した。……が、なんだか気乗りしてないようだ。

「みーちゃん、手が動いてないけど大丈夫?」

「ううう……」

 未希がフリーズしている。これは一体……。

「困ってる?」

「1枚目どう書いたらいいかわかんない」

「冒頭か……。いい具合の表現が思い浮かばないってカンジ?」

「うん」

「じゃあ飛ばして書けるとこから書いていいよ。あとで穴埋めできるように、文の始めにカードの通し番号を書いておいて」

「好きなとこから書いていいの?」

「もちろん」

「わかった!」

 テストと同じだ。解ける問題から埋めて、あとで飛ばしたところを解いていく。テストでは時間は有限だ。小説も、書ける所から埋めていかないと、完成しなくなってしまう。気力は有限なのだから。

 僕の作品の場合、夢を書き起こしているから、だいたい頭から順番に書いている。もっとも小説にする内容は夢の抜粋だから、シーンコントロールのためにプロットのようなものは用意している。たとえば、ただ買い物をするだけとか海で魚を獲るなんていう面白くもない部分はばっさりカットするし、脚色のために順番を入れ替えたり若干盛る程度の加工はする。でないとエンタメとして成立しなくなってしまうから。

 未希の作業中、僕は弁当箱を洗ったり、シーツを洗濯機に放り込んだり、ベランダの観葉植物に水をやったりしていた。あんなことの後なのだから、やっぱり気分がざわざわしてしまう。未希は大丈夫なのだろうか? どうして僕だけこんな落ち着かないのだろうか。別に未希は経験豊富ってわけじゃないのに。僕だけ余裕ない。ヒロインか。

 ん~~、と未希が伸びをしている。慣れないパソコン作業で疲れたのだろう。

 タイピングの訓練のおかげで、だいぶ入力がスムーズに出来るようになってきた。ご褒美はポイント制で好きなものと交換できるようにしてるけど、全く交換もせずにポイントだけが積みあがっていくので、だんだん怖くなってきた。

「みーちゃん、疲れたでしょ。気分転換にコンビニでも行く? なんなら貯まったポイントを使ってもいいのだけど?」

「いくー! でもポイントはためとくー」

「そっか。わかった」

 僕は髪を梳いてまとめると、いつもの帽子をかぶった。最近になって知ったのだが、ネットを使って髪をまとめるとすごく便利だ。これなら店で仕事用のカスケットを即かぶれるし、もっと早く知っていればよかったな。

 いいかげん姉さんのことも吹っ切れそうなので、このクソ長い髪を切ってしまってもいいのだけど、パブリックイメージもあるので踏み切れない。


     ◇


 未希とおててつないでいつものコンビニへ。平日なら学生が多数たむろしているが今日は土曜なので閑散としている。未希はカゴを手に店内を回遊しはじめた。

 僕は雑誌置き場を観察している。いくつか、新刊の宣伝用にコメントを書いた雑誌も混ざっている。とはいえ、そんなことをして、どの程度売り上げに貢献できるのか……。正直疑問だ。スマホのおかげで雑誌を読む人は年々減少傾向にあるが、紙媒体には無くなって欲しくないな。別に業界人だから言ってるわけじゃなく、こうして店先に並ぶ本に手を伸ばす、という経験が徐々に出来なくなっているから、少子化も相まって滅亡する未来しか見えない。まあ、書籍が滅ぶ前に僕は引退してしまうけど。

 僕は小学校の頃から、図書室に逃げ込んでいることが多かった。まあ、こんな性分なのと政治家の息子ってこともあって、よくいじめられた。有人がいれば、いじめる奴も寄ってはこないけど、見えないところでしょっちゅう嫌がらせをされた。だから、司書さんの目の届く場所で本を読んだり勉強するのが身を護る行為と直結していたんだ。高校になって僕一人になってしまったけど、政治家の息子というレッテルが逆に僕を護ってくれていたのだから皮肉な話だ。本がなくなって、図書室がなくなってしまったら、僕のような子どもの逃げ場がなくなってしまう。それは……いやだな。

「れおにぃどーしたの?」

 カゴの中に限定品スイーツをぽいぽい放り込んだ未希がやってきた。いつの間にか玲央兄ちゃんがれおにぃになってる。長いから省略したのだろうけど、呼び捨ても抵抗があったのかな。まあカワイイから許す。

「ちょっと考え事してた。本がなくなったらいやだなあと」

「それはこまる」

「じゃ、そろそろいく?」

 僕は彼女からカゴを取り上げた。

「あー、カゴ」

「僕が出すから。というか僕と一緒の時は財布出さなくていいから」

「ありがとー」

 真っ直ぐレジに行くと思ったら、ある売り場の前で未希が立ち止まった。物欲しそうな顔でこちらを振り返る。……例のくじだな。

「いいよ、いくらでも」

「やったー」

 未希はお子様だな。うん、ずっとお子様でいいよ。だから一緒にいて。

 ダブりを持ち帰るとまた有人に怒られるから、うちに置いていかせた方がいいな。未希用のロッカーでも用意すべきだろうか。帰ったら家具屋のサイトでも見るか……。

 未希はさすがの豪運の持ち主だ。欲しいものをガンガン射止めていく。ダブりは少ないものの、大きい景品ばかりだから、まーた有人に怒られそう。あのケチンボ兄貴はどうにかならんもんか。やれやれだ。


 コンビニから戻った僕らは、期間限定コンビニスイーツを堪能する会を開催した。

「みーちゃん、限定品に弱い子?」

 大量のスイーツを前に不安を隠せない僕。二人でこれ食い切れるのかな。

「えへへ」

 僕は小さくため息をつくと、キッチンで紅茶を淹れた。クリームが載ったのが多いから、お茶の方がさっぱりすると思って。

「みーちゃん、お茶入ったけど……なにしてるの?」

「写真とってる」

「まあ見ればわかるけど……なんで?」

「友達に見せる」

「ふうん」

 特定されるものは写さないでくれよと思いつつ、そっとレシートを回収する。

 位置情報と時間が特定されてしまうのは、よろしくないからな。

「みーちゃん、その写真をSNSに上げるのは、明日になってからにしてね。あと位置情報は表示しない設定にしてね」

「なんで?」

「ネットリテラシー」

「ああ」

 最近は学校でも教えていると聞く。どの程度それが役に立っているのか分からないが。警戒するに越したことはない。そう思うと彼女との入籍は作家引退後がいいだろう。

 結局、食べきれないスイーツは冷蔵庫で保管した。そして未希は作業を再開した。現時点で僕が手伝えることは何もないので、ショッピングサイトを見始めた。未希用のロッカーを物色しているのだが、こういうのは当人の要望を聞いた方がいいのだろうか。でも今は忙しそうだし……とりあえずブックマークだけつけておこう。

 そうこうしているうちに日が暮れて、有人から電話がかかってきた。

「みーちゃん、お迎えが来たよ」

 はーい、と荷造りを始める未希を横目に、僕はぎゅっと胸が締め付けられていた。

 ――行っちゃやだ。

 ――離さない。

 ――僕のもの。

 いま考えてはいけないのに、大量に沸いて脳内を埋め尽くす言葉たち。

 とうとう僕は耐え切れなくなって、未希を背後から抱きしめた。

「行っちゃやだ……」

「でも、くるよ兄貴」間髪入れずにインターホンが鳴る。

「わかってる」

 僕は未希を解放して、渋々マンションの入口を解錠する。

 訳が分からない。心がぐちゃぐちゃだった。

 背後に、帰宅準備を整えた未希が立っていた。

「また明日も来るから」

 それでも、今、離れたくない。再び未希を抱きしめる。

「未希……いやだ。やだよ」

「来ちゃう」

「でも」

 速足で歩く足音が廊下に響く。奴だ。ドアの前で止まって、チャイムが鳴った。

 僕がまだ戒めを解かないものだから、未希が返事をした。

「はーい、いまあけるから」

「……」

「れおにぃ、離して」

「やだ」

 しょうがないな、とぼやきながら、僕をひきずって未希がドアを開けた。

「おう、迎えに……って、どうした?」

「れおにぃ、バイバイしたくないって」

「ほう。完全に堕ちたな」

「……未希は僕のもの」

「そだよー」

「離さない」

「帰れないんだけど」

 さらにぎゅっと抱く。やなもんはやだ。

「未希と結婚する」

「やったあ! で、はなして~」

「わーったわーった。とにかく一旦離せ。な」

「うー」

「玲央兄ちゃん? 私帰りたいんだけど」

 未希に言われたらしょうがない。僕は渋々彼女を解放した。

「何があったんだ未希、ただ事じゃないぞ」

「Hしたらこうなった」

 わわ、なんてことを。恥ずかしいからやめて。

「みーちゃん、そういうこと言わないで」

「ありゃー……まあ、こいつピュアだからな」

 なんかひどい言われようをしている気がする。

「悪いか。どうせ僕は姉さんしか知らん」

「悪いとは言ってないだろ。そう何度もしてないだろうに極端だっての」

「何度もって、そういうこと言うな。……分かってるんだ。でも、なったものは仕方がない。僕は未希がとても好きだ。結婚したい」

 兄妹揃って、はーっとため息をついている。

「何だよ全く。お前達が望んだ結果だろうに」

「とにかく、今日は連れて帰るからな。さすがに女子高生の外泊を認めるわけにはいかん」

「……ああ」

「じゃあねー」

「また明日連れてくる」

 有人はそそくさと未希を連れ出して帰っていった。

 マンションの廊下を二つの足音が遠ざかっていく。

「あー……あー……」

 頭では理解していても心がもうダメだ。僕にはどうにもできない。無様を晒している自覚はあるが、どうすれば。

「未希ぃ……」

 寂しくて死ぬウサギの気分ってこういうのなんだろうか。僕は床の上をごろごろ転げまわっている。どうして心が乱れると床を転がりたくなるのだろうか。その理由が僕には分からないが体は知っているようだ。だから転がるのだろう。

 寂しくて仕方がない。どうすればいいんだ。

 こんなに苦しいなら恋なんて。

 ――ああ、そうか。未希は。

 こんな苦しい想いをさせてしまったんだな、僕は。

 なんてひどい男なんだ、僕は。最低だ……。うう……。

 床の上でヘコみまくっていた僕は、とぼとぼと寝室まで行き、布団に潜り込んでフテ寝をした。……が、一向に眠れなかった。むしろ歯ぎしりまでした。

 そろそろ家に着いたころだろうと、布団の中から未希に電話をかけた。

「みーちゃん、僕」

『あ、家ついたよー』

「うん。着いたんだね」

『ん。ついた』

「みーちゃん」

『なに?』

「逢いたい」

『明日いくから』

「今逢いたい」

『がまんしよ?』

「いやだ。今未希に逢いたい」

『……おにーちゃーん』

「ば、有人呼ぶなよ」

 あ? と嫌そうな声が聞こえる。

『何だ?』

「貴様に用はない。未希に代われ」

『今メシ食ってる。後にしろ』

「待てない」

『お前なあ。禁断症状にも程があるぞ』

「頼む」

『…………善処するから後でかけ直す』

 ブツリと電話が切れた。

「うー……」

 僕はベッドの上でごろごろ転げまわった。


 一時間ほどして、インターホンが鳴った。

『デリバリーに来てやったぞ。開けろ』

 なんと有人と未希が戻ってきた。

 ドアを開けると、さすがに届けて終わりとはいかず、未希と一緒に有人が上がり込んできた。

「ただいまー」

 未希が僕の胸に飛び込んできた。確かに嬉しいのだけれど。彼女の「ただいま」をずっと聞きたかったけど、このシチュエーションではないんだよな。

「おかえり……どうして」

 死ぬほどうんざりした顔で有人が話し始めた。

「お前なあ、親説得すんの大変だったんだぞ。少しは労え」

「は?」

 仕方ないので、二人をソファに座らせると、僕はコーヒーを三人分淹れた。

「それで、どういう魔法使ったんだ?」

 僕はダイニングの椅子に腰かけて有人に尋ねた。

「なに、簡単な話だよ。俺も一緒に泊まるって言ってきた」

「え」

「未希がいりゃいいんだろ? なら問題ないだろ」

「……なんかいやだ」

「お前なあ。ま、別に俺はベランダでも風呂桶でもどこでも寝られるから構わんが」

「れおにぃが留学する前みたーい」未希は嬉しそうだ。

 まあ、彼女が喜んでいるならいいか……。

「二人とも食事は済ませてきたんだよね?」

「おう」

「たべたー」

 ならばと、僕は先ほど冷蔵庫に押し込んだ食べ残しスイーツを取り出して食べ始めた。

「なんだお前、それ晩飯代わりか?」

「そうだけど。さっき未希が欲望に任せて期間限定スイーツをコンビニで買って残したやつ。丁度よかったよ」

 有人がすかさず未希にげんこつを喰らわせていた。

「いた!」

「ったくロクなことしてねえなお前」

「ひどーい」

「別にいいだろ。好き放題おやつを買うなんて、今くらいしか出来ないんだから」

「まあ、言われてみれば……だがなあ」

「有人よ、そういう小姑みたいなのやめないか。いずれ僕の財布の半分は彼女のものになるんだぞ?」

「お前の財布スケールでかすぎるから、まず最初に金銭感覚を叩き込んでからにしてくれ。億単位で稼いでるだろうが」

 否定は出来ない。自分の稼ぎ以外にも父から相続した遺産も潤沢だし、このマンションも即金で買った。確かに女子高生に預けるには、少々財布が大きすぎるとは思う。

「れおにぃそんなにお金持ちなの?」

 僕は苦笑するしかなかった。

「別に望んで金持ちになったんじゃない。研究者のサラリーで姉さんを食わせていこうと思っていたのに、今じゃこの始末だ」

 有人が神妙な顔になっている。まあ、仕方ないのだが。

「未希が来たらすっかり落ち着いたな、玲央」

「どうやら目視できる範囲にいれば大丈夫らしい」

 もくしってなーに、と未希が兄に尋ねている。

「泊まるんなら飲むか?」

「良ければ」

 酒のストックもツマミもないので、三人でコンビニに買い出しに行くことにした。お互い積る話もあるし、今晩は長くなりそうだ。

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