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第8話 どうして僕なんかを

「おじゃましまーす」

「はい、どうぞ」

 同時に玄関に入った僕と未希。これが、ただいまとおかえりなさいになる日が来るのだろうか。来ないのだろうか。今の時点ではまるで分からない。僕は最初から望んでなんかいなかったのだが。


 僕が望んだ一位は姉と米国で二人暮らし。二位が夕樹乃さんとここで二人暮らし。三位が未希とここで二人暮らし。四位が彼女の実家で二世帯暮らしだ。間違っても発生しないのが、僕の実家での二人暮らし。あの家を相続したのは僕なんだが、もう絶対売り飛ばしてやる。あとで不動産屋でも探さないと。


 望んでいないといえば、長年僕を追いかけていた未希への償いというか報いというか、そういう気分が徐々に薄らいでいる気がする。それはちょっと人間としていけないことではなかろうか。だが、愛情ではなく報奨として己を供することは果たして彼女の望むことなのだろうか。そうじゃないとは思うんだよなあ。

 僕が誠実さなんて言葉を吐くこと自体、何様のつもりだと百回くらい言われそうだけど、それでも心の在り方的には、やはり人には誠実で在りたいとは思っている。実行できてはいないんだけど。そこで、僕が己が身を未希に供することは誠実さの証たり得るのか。結局考えても始まらないので未希の好きにさせるしかないな。仕方ないけど。はあ。玄関口で僕は一体何を考えてるんだ。ああ、人生についてか。やれやれ。


 僕は仕事道具の入ったバッグを机の上に置いて、ダイニングセットの椅子に腰かけた。未希はローテーブルにスクールバッグを置いて、ソファに身を埋めている。まるで自宅でくつろいでいるみたいだ。

「それでみーちゃんは、僕を家に引きずり込んでどうしたいの」

「取られたくないから」

 夕樹乃さんに僕を奪われたくないから、既成事実を作って僕を手元に置いておこうという作戦のようだ。

「それはないと思うけどね」

「わかんないじゃん。あの人玲央兄ちゃんのこと好きなんだから」

 僕は、はー……っと大きなため息をついた。

 未希は僕をキッと睨んで言った。

「未希、ぜったい玲央兄ちゃんをゲットするつもりで駒場に来たんだよ。学校も二か月前にランク上げて」

「知ってる。正直驚いてる」

「玲央兄ちゃんを、ぜったい逃がさない」

「……じゃあ、ちょっと話を聞いてくれる?」

「なあに?」未希が胡乱げな目で僕を見る。

 正直あまり未希に聞かせたい話でもないが、もう避けて通れないと思った。

「露骨な話するけどさ。僕は彼女に弄ばれてるんだ。もう四年も」

「弄ばれてる?」

「僕がアメリカから戻る直前に最初の告白をした。帰国してからも、何度もアタックした。食事にも何回も誘ったけど、一度もOKしてくれなかった。ホテルに行くどころか、キスだってしたことないし、まともに触れたことすらない。でも四年間、思わせぶりな態度をずっと取られ続けてる。どう見ても僕を弄んでるでしょ。これでどうして心配するの。なのに、昨日急に芝居に行こうなんて誘われて、終わって食事にでもと誘うから、これはデートなのかと尋ねたら何て答えたと思う? 山崎先生への接待だ、って言ったんだ!」

「なにそれ……」

 未希がドン引いている。そりゃそうだろう。

「あまりの仕打ちに驚いて、僕はその場で家に帰ったよ」

「ええ……」

「僕が落ち込むのも当たり前だと思わない?」

 とうとう未希が絶句してしまった。

「だから、嫉妬も心配も不要ってこと」

 つい吐き捨てるように言ってしまった。

「でも、今でも夕樹乃さんのこと好きなんでしょ」

「ああ。……今でも彼女のことを愛してるよ。だけどさ、四年も報われないんだから、その気持ちにフタをして、八年も僕を待ってた君を、受け入れようと努力したんだ。君は僕にとって大事な女の子だからさ」

 僕は席を立って、未希の隣に座った。未希が神妙な顔をしている。

「文雄叔父さん、もうちょっと詳しく教えてくれてたら良かったのに……」

「憧れだけで追いかけたって、実際はこんな程度の情けない男だよ。君に求められる資格もない」

「そんなことない! 玲央兄ちゃんは未希がお嫁さんになりたい人だもん! かっこいい憧れのお兄さんだもん!」

 あまりに子どもっぽい真っ直ぐさでそんなことを言うものだから、僕は普段フタをしていたドス黒い感情が噴き出してしまった。

 僕はうめくように低い声で未希に尋ねた。

「じゃあ未希は、僕の何を知ってるんだ?」

「……え?」

「高校の時から姉と近親相姦して、寝取られたら姉に似た女を好きになって四年も片思いして、八年ぶりに会った押しかけ彼女の従妹のJKに手をつけて、それでも忘れられない女がいるとか言いながら今もこうして君を部屋に連れ込んでる。これのどこがまともな大人なんだ! 倫理観ブチ壊れてて頭おかしいだろ! 子どものくせに分かった風な口きいて、なんとか言ってみろ!」

 僕は未希の理想と今の自分とのギャップにいたたまれなくなって、大人げなく発作的に彼女にブチ撒けてしまった。

 ――パァンッ!! 未希の強烈なビンタが飛んできた。

 未希は僕の暴言にひるむこともなく、逆にカウンターを喰らわせてきた。

 さすがは有人の妹だ。

「自分サゲみっともないよ。ちゃんとした人じゃなかったら、私のこと赤ちゃんの頃からずっとお世話してない」

「未希……」

 スナップの効いた一撃だったので、まだ頬がじんじん痛む。

「お兄ちゃんと交代で保育園迎えに来てくれた。小学校になっても玲央兄ちゃんが学童に迎えに来てくれた。パパとママが帰ってくるまで一緒にいてくれた。土曜日はごはんつくって一緒に食べてくれた。運動会とか学芸会にも来てくれた。未希の写真もたくさん撮ってくれた。お兄ちゃんは、そういうのほとんどやってないで友だちと遊んでた」

「覚えてたのか……」

「玲央兄ちゃんが私のこと半分くらい育てたようなものじゃん。だからパパとママもお兄ちゃんも、玲央兄ちゃんのとこ行きたいって言ったら協力してくれた。玲央兄ちゃんがダメな大人なわけないじゃん!」

 ものすごいまくし立て方をされて、正直面くらっている。僕は別に、そこまで思って世話したり傍にいたわけでもなくて、叔父さん叔母さんが仕事で遅いから、なんとなく面倒を見てただけで。自分の家庭がぶっ壊れてて、いつも僕と姉しかいなかったから、寂しい思いをさせたくなかっただけで。それだけだったのに。

「子育てしてたって、不倫や人殺しする奴だっているんだ。それが清廉潔癖な証拠になるわけないだろ」

「少なくとも私には、玲央兄ちゃんは悪い人にならない」

 深く、大いに、恥じ入るとはこういうことを言うのだろう。ここまで信用されていると、申し訳ない気持ちで穴に入りたくなる。

「君の思い出を穢して……済まなかった」

「今の玲央兄ちゃんを知らなくても、私は昔の玲央兄ちゃんを十分知ってる。でも昔と変わってないんだから大丈夫でしょ」

「僕は……今の君をどう扱えばいいのか分からなくて……。だけど大事にはしたい。願いも叶えてやりたい。それは本心だよ」

「うん」

「だけど惚れた女と日常的に顔突き合わせて何年も仕事して、心が擦り減りやさぐれるには十分な時間が過ぎたと思ってる」

「お兄ちゃん……かわいそう」

「そんな時、未希が来て……傷だらけの僕に癒しをくれた。素直に嬉しかった。こんなに満たされた気持ちになったことはなかった。触れたら中毒になるのは目に見えてた。だから注意してたんだけど……ガマンできなかった」

 未希は無言でうなづいた。 

「前に、アメリカにいた頃のこと、いつか聞いてくれって言ったよね」

「うん」

「裕実姉さんは……普通に結婚して家を出たんじゃない」

「どういうこと?」

「僕が留学してるすきに、政略結婚で略奪されたんだ」

「うそ……」

 期せずして、忌まわしい記憶が呼び戻される。

 僕は、政略結婚で奪われた姉を取り戻すまでの願掛けにと髪を伸ばし始めた。だが、今となってはそれも難しいだろう。

「どうにも出来なかった。有人に呼ばれて急いで帰国したが、手遅れだった……。僕の父のこと、あまり覚えてないだろうけど、あの男は政治家だったんだ。それで何かの取引のために、姉さんが人身御供にされた。僕と姉さんの仲を知ってたのに……僕は姉さんを護れなかった。今でも留学したことを、ずっと後悔している」

「ひどすぎるよ」

「その後、父が暴漢に刺されて一命をとりとめたけど、その傷が元で結局死んだ。事件に巻き込まれる恐れがあると父の秘書に言われて、僕はすぐアメリカに戻ってずっと身を隠してた。父が死んでも危険だからと姉を迎えに行くことが出来なかった。帰国を誰にも教えなかったのも、万一のことを考えてだったんだ」

 姉とは八年前に別れたきり。

 秘書の忠告どおりに、事件を起こした僕と関係者の姉を護るため、僕から姉に会いに行くのはもちろんのこと、電話や手紙のやりとりも一切していない。

 ただ頻繁にメディアに出ている僕を姉が目にすることは多々あったとは思う。

 姉にそろそろ連絡してもいいかな、とも思うし、気にならないと言えば嘘になるが、ずっと身を隠してた僕の方から接触をするのは気が引けた。

「玲央兄ちゃん、何も知らないのに色々言ってごめんね」

「いいんだ……」

 この説明すら半分はフェイクが入っている。

 君の兄貴との約束でね。

 大学卒業後、ごく一部の人間以外だれにも知らせずこっそりと日本に帰国した。その際、成田空港に迎えに来たのは、父の秘書の須藤と、この喫茶店のマスターである叔父の文雄、そして僕の担当編集者の岬夕樹乃さんの三名だけだ。

「僕が失意の中、気を紛らわすために書いた小説が賞を取って……あとはだいたい知ってると思う。神崎玲央の名を捨てて、山崎玲央としてこの六年間生きて来た。姉さんを失った痛みを抱えながら、そして姉さんによく似た担当編集者に叶わぬ恋をして苦しみながら」

 父が亡くなっても離婚の連絡はぜんぜんこないし、帰国する頃にはもう、姉のことは諦めるしかないかなとも思った。

 だから夕樹乃さんにも告白したんだけど、それも……。

「繰り返すけど、僕は本当に未希が憧れるような立派な大人じゃあないんだよ。店で初めて会った時のくたびれ果てた僕が真の姿さ。未希のような子が嫉妬のヤケクソで抱かれていい相手じゃないんだ……」

 未希がまぶしすぎて、惨めな自分をさっさと見捨てて欲しかった。なのに。

 彼女はソファの上で膝立ちになり、僕の頭を自分の胸に抱いた。

「玲央兄ちゃん、ずーっとずーっと一人で悲しかったんだよね。寂しかったんだよね。でももう未希がいるから大丈夫だよ」

 僕は胸が詰まって、しばらく動けなかった。

 未希、そんなこと言われたら……すがりたくなる。

 間違いなく、未希は僕のことを愛している。なのに僕は。

「みーちゃん……つらかった」

 未希の腰に手を回し抱きしめる。未希に甘えていい立場じゃないのに。

 僕はどうしようもなく、弱い。

 僕は未希の胸で嗚咽をかみ殺した。

 有人の言葉が脳裏を過る。玲央兄ちゃんはいつ帰ってくるの、と何百回も聞かれたと。喪失感を抱えて苦しんでいたのは、自分だけじゃなかったのだと。

「君に泣かれると面倒だからって、黙って留学したこと後悔してる。ちゃんとお別れしなかったから、余計につらい思いをさせてしまってごめん」

「ひどいよ」

「自分勝手で……ごめん。帰国しても、小さかったから多分僕のことなんて忘れてるだろうと思ってた。待ってたなんて思わなかったんだよ……ホントにごめん」

「だったら未希のものになってよ」

「でも僕は」

「いま未希のこと好きじゃなくてもいいよ。でも玲央兄ちゃんを未希のものにしときたい。もういなくなってほしくないから」

 こんなこと、可愛い未希に言わせたくなかった。

 よりによって、大好きな妹の未希に自分のような片思いをさせてしまうなんて。己の罪深さに今すぐ死にたくなった。そう、あの時死んでいれば。

「未希……君って子は……」

 ただの雛鳥の擦り込みだと言って君を切り捨てられたらよかったのに。

 僕に失望したと見捨ててくれたらよかったのに。

 なのに君は。

 どうして僕なんかを愛するの。




 結局僕は、姉の時のように、また身内の女に依存するロクデナシになった。

 そして堂々巡りの末に、同じ答えにたどり着く。

 未希に報いるため、この身を供すると。

 ――心はまだ。



     ◇



「未希の初めてもらったんだから、もうちょっと嬉しそうな顔してよね」

 シャワーの後、心配なので彼女の患部を消毒している僕に、未希が不満そうに言った。

「ごめん、みーちゃん」

「せっかく好きな人にあげたのにー」

「ごめんって。もちろん未希さんの最初を頂いた栄誉に関しては、大変有難く思っておりますよ。でもね、やっぱヤケクソはよくないとおもうの」

 はい、終わったよと言って未希のパンツをずり上げた。

「む~~~~~」ご不満そうな鳴き声を発する未希。

 そりゃあ、とっても美味しかったですし、最高に酔いしれましたけれども、それとこれとは別の話で、事後に数種類の激しい罪悪感カクテルで悪酔いしている状況だ。ぶっちゃけ吐きそう。

「今日、バイク二人乗りで帰れる? タクシー呼ぼうか」

「いい。兄貴よぶ」

「わかった」

 相も変わらず漢気溢れるお返事にクラっときてしまう。

 この兄妹の根性を一割でも受けついでいたら、もうちょっとマシな人生送れたのにと我が身を呪う。

「玲央兄ちゃん、またしよね」

 真っ白な歯でにっかり笑う未希。この行為のどこにそんな爽やかさがあるのか。もしかして未希としてはスポーツなのだろうか。

「まあ、ご要望とあれば。僕の体調が悪くない時と仕事が忙しくない時に限るけど……」

 相変わらず歯切れの悪い返事しか出来ない僕。

 未希は有人とくっつけばよかったのに。僕にはまったく荷が重すぎる。

「玲央だいすきー!」

 未希が僕に抱き着いてきた。ん、呼び捨て? 実績解除したせいかな。

「ありがと、未希。僕も大好きだよ」未希とは別の好きではあるが。

 僕は彼女と舌を絡め合って悪酔いを別の酔いで上書きする。本当に僕はダメな男だ。ダメさ加減で言えば作家らしいのだろうが、あいにく僕はメディアに作られた似非作家だ。そんな御立派な皆様の末席に置いて頂けるような御大層な存在ではない。とにかく二回戦にもつれ込むのだけは避けなければ、と適当なところで切り上げる。


 有人に電話をすると、近所で待機していたのか、ものの数分でやってきた。僕と未希で出迎えると、未希が開口一番。

「玲央兄ちゃんゲットしたよ!」

「おう、でかした! よかったな!」

「ええええええ、ちょ、待って」

 何かとんでもないことを言い合っている。

 わーい、と喜んで有人に飛びつく未希を見て、僕の中に急にどす黒いものが沸くのに気づいた。『嫉妬』だ。今まで、全くそんなことなかったのに。

 そんな僕の変容を奴は目敏く見つけて、

「未希~、もう少しでこいつ落ちるぞ~」

「やった~」

「な、なななな、なにがなんだ! ちょ、二人でなに言ってん」

 有人と未希は野郎のように肩を組んで嬉しそうだ。

「未希~、ちょーっとお前のダーリンと話があるから、あっちで座って待ってろ」

 未希は、はーいと返事をしてソファにどさりと身を投げた。

「玲央は俺とちょっとこっち来い」

「んだよ」

 有人は僕の腕を引っ張って、ドアの外に出た。僕は急いで共有部分に他人がいないのを確認した。

「で、話って」

「あいつを愛してくれて、ありがとな」

「なんだよ藪から棒に……まだ、そんなんじゃ……」

 有人は僕の肩をぽんぽん叩いて、

「急にはまあ、難しいかもしれんけどよ、気長にやってけばいい。俺はお前らが幸せになるためなら何でもするからな」

「お前はどうしてそこまで……まさか、罪滅ぼしのつもりじゃあるまいな」

 有人は大きなため息をついた。

「……それもあるが、俺も裕実姉さんのこと、好きだったんだよ」

「え? 全然気づかなかったぞ……」

「だろうな。叔母さんが自殺して、錯乱して後追いしかけたお前を体張って止めたのが裕実姉さんだからな。自分に恋させてまでお前を立ち直らせたんだぞ、そりゃ横から『俺も好きだった』なんて言い出せる空気じゃないだろ。だからお前ら二人に幸せになって欲しかった。だが……」

「済まなかった」

「今さら。あの結婚を阻止できなかったのは俺にも責がある」

「そんな」

「俺たちは共犯者だ」

「共犯者……」

 有人はニヤリと笑って僕の胸をげんこつで軽く叩いた。

「お前がすんなり未希のハニトラにかかってくれて助かるよ。これで憂いが一つ減るからな」

「お、おま」

「高校卒業までは子供つくんなよ。さすがの俺でもかばいきれない」

「くッ……気をつけるよ」

「未希ー、終わったぞ」

 有人はドアを開けて未希を呼んだ。

 未希が玄関で靴を履いているところに僕を呼ぶので中に入ると、有人がドアを閉めた。気を利かせたつもりなのか。

「玲央兄ちゃん、じゃあ、帰るからぁ」

「……うん」

 廊下で有人にすっかり毒気を抜かれたばかりの僕は、正直そういう気分にはなれなかったのだが、猫なで声の未希のご要望にお応えせねばなるまい。

 僕は左手で未希を顎を持ち上げて口づけて、右手で彼女の腰を抱き寄せ、互いの体を密着させた。一分ほどののち、すっと唇を離すと未希がとろけた顔で僕を見上げていた。

「じゃ、お兄ちゃんが待ってるから、お帰り」

「うん。また明日ね」

「また明日。おやすみ」

 僕は未希の頭を数回なでると、ドアを開けて有人に引き渡した。廊下の向こうに遠ざかる二人を見ていたら、無性に寂しくなって、着替えて叔父さんの店に行った。


     ◇


 カラコロとカウベルを鳴らして叔父さんの店に入ると、夜なのに珍しくお客さんが多かった。近所の劇場に来た人たちなのだろう、普段の客層とは明らかに違う雰囲気だ。いつもの僕なら煩わしく思うところだけど、今日はこの喧噪がありがたい。僕は控室でエプロンと揃いのカスケットを身に着けると、客席に水を注いで回った。何かしている方が、気が紛れるから。

「晩飯食っていくか?」

 気遣わし気に叔父さんが尋ねるので、僕は笑顔でうなづいた。やっぱり顔に出ていたのだろう。どうやら僕は結構分かりやすい男らしい。さっき未希がそう言っていた。

 小一時間ほどで全ての客がはけたので、叔父さんが今日は店を早じまいすると言った。

「叔父さん、今晩泊まってっていい?」

「ん? 構わんよ。お前の部屋はそのままなんだから好きにすればいい」

「叔父さんと一緒に寝たい」

 文雄叔父さんは僕の頭をがしゃがしゃして、

「寂しいんだろ。いいよ。俺が寝かしつけてやる」

「さすがにそれは」

 はは、と僕は力なく笑った。

 結局僕は、身内に甘えないと何もできないロクデナシだ。


 翌朝早くに目が覚めた。まだ叔父は隣でいびきをかいてよく寝ている。僕は起こさないように寝床から這い出して、ありがとう、とメモ書きを残して自宅に戻った。

 一晩ぶりの自分の部屋は、まだ未希の残り香があちこちに在って胸の奥から何かがこみ上げ、僕を苦しくさせる。特に寝室に至っては、事後そのままの有様で、契りの印が点々とシーツの上に咲いていて僕は頭を抱えた。甘美な快楽と仄暗い自責の念。また頻繁に求められるんだろうな、と僕を縛り付けるために己が身を贄とする彼女を思うと、自分も彼女も、もうちょっとこう、どうにかならなかったんだろうかと後悔ばかりが脳内を駆け巡る。

 だが、判断材料は提示した。僕がこれほどまでに愛するに値せず恋人としても埒外であると、さんざんプレゼンしたにもかかわらず、彼女は僕を断固として諦めはしなかった。自分を忌避させる材料に父の件を持ち出すのはルール違反だからやらないが、そもそも忌避しているのは僕の方なのかと、ついぞ思考が寄り道をする。そんなもの、自分で分かれば苦労はしないのだ。

 僕はベランダの観葉植物に水をやり、シャワーを浴びて着替えると、ベッドからシーツを剥がして、酸素系漂白剤と共に洗濯機に放り込んだ。

「これじゃ証拠隠滅だな……」

 ぐるぐる回る洗濯物を見つめながら僕はぼやいた。


 ベッドにシーツを敷き直し、仕事のメールチェックと返信をしてから、荷物をまとめて叔父の店に移動した。今風の呼び方をするなら、コワーキングスペースとでもいうのだろう。実際には店の一番奥のストック置き場の脇の席を自分用に使わせてもらってる。

 物書きからすれば、純喫茶に専用席があるのは憧れだというが、実際は叔父さんと僕のお互いの利害の一致の結果である。というのも、帰国してしばらくは店の二階に居候をしていて、仕事も二階に用意された僕の占有スペースでやっていた。しかし、度々店の手伝いで昇り降りするので、じゃあ一階で仕事しなよと。結果、現在のスタイルに落ち着いたという次第だ。近所にマンションを購入して別居した今でも、極力叔父さんの手伝いをしているので、常連さんは僕のことを叔父さんの息子だと思ってる人もいるだろう。そう問われれば、叔父さんは自慢の息子だとか言いそうだけど。

 午前中は雑務も多く、昼はランチで忙しいので寂しさを紛らわすこともできたのだが、いざヒマになると寂寥感にメンタルをボコボコにされてしまった。

 一度寝ただけなのに、どうしてこんなに寂しいのか分からない。まるで片翼を失ったかのような寂しさだ。姉を奪われた時は怒りに身を焦がしていたから、こういう寂しさとは違う悲しみに襲われた。

 寂しさに震えて指定席で縮こまってると、学校帰りに未希が来た。

「ただいま、玲央兄ちゃん!」

「おかえり、みーちゃん……」

 恋しい未希の到来に、僕は仏に救いを求める衆生のような顔をしていたのだろう、未希がやおら僕の頭をぽんぽんする。実際、彼女の顔を見た途端、僕は救われた。

「どしたのー玲央たん。未希いなくて寂しかったぁ?」

「む~~……」

 見透かされて拗ねるしかなかった。


 僕にはそういう、自分の感情を他人に見透かされるという経験が割とあるのだけど、今にして思うと、すごく顔に出てたのだろう。そして僕は、人の感情を読み取るのが苦手だ。恐らく原因は、子どもに高圧的な態度を取り続けていた父親のせいだと思う。僕も姉も母も、あの男の顔色を窺って、常にびくびくしていた。僕に至っては、何を言われるかわからないので顔すら見るのも怖くて、床ばっかり見てた気がする。そんな男が他人の感情の機微を表情から読み取るのが下手でも仕方ない気がするんだが。そういうわけで、他人には分かりやすく、他人がわからない、自分だけ見透かされてるという印象はこうして生まれたのだろうと、この年にして思い至った次第だ。だからといって今さらどうにもならないけどね。


 結局僕は未希に昨日のように自宅へと強制連行されることに。

「おじゃましまーす」

「はい、どーぞ」

 この儀式もそろそろ不要かな、なんて思う。未希が脱いだ靴を揃えるのを見るに、叔母さんが忙しい中でも彼女に行儀作法をきちんと教えたんだなと感慨深い。

 知人の来訪に慌てて部屋を片付けるような無様をしない、一人暮らしの男の部屋ながら我が家が片付いている大きな理由は、ここであまり飲食をしないことだろう。だいたいは叔父さんの店で朝、昼は済ますし、夕食も半分くらいは叔父さんと一緒に店でランチの残り物を食べている。残り半分は叔父さんと外食か、自宅でデリバリー。ごくごくたまに、仕事先の人と食事を取ることがある程度。この中に、夕樹乃さんとのディナーデートが含まれないことをひどく残念に思う。

 さらに付け加えるなら、週に一回程度、家事代行を頼んでるからだな。〆切間際で何も出来ないことが時々あるので、配偶者のいない僕には、こういう代行業者の存在は本当に助かる。マジ神。アメリカにいた頃は、僕の身の周りでもハウスクリーニングを頼む人が多かった印象だけど、日本ではまだ一般的ではなさそうだな。ま、いつでも夕樹乃さんを招けるようにという下心があったことは、そろそろ忘れそうになってるけれど。

 それにしても、つまらない人生を送ってるなと我ながら思う。趣味の一つでもあれば、もうちょっと彩りのある人生にでもなったのだろう。僕の本は、読者たちの人生の彩りになってるのだろうか。まあなってるからお金を払っているのだろうが、当の作者がこの体たらくで、なんかすみませんという気持ちである。

 てくてくと、勝手知ったる他人の家というわけで未希は指定席のソファにバフン、と尻を落とす。ずいぶんと気に入ったご様子で、まあよござんすね、と。普段、大きいテレビで動画を見るときくらいしかソファに座らないから、未希が有効活用していることになる。最初、この部屋にソファはなかったのだが、女性を招くにはこれがないとダメだと何かで読んだので、早速ネットでポチった次第である。デザインや座り心地には特にこだわりはなく、早く届いて安いやつを選んだ。そう、いつでも夕樹乃さんを(略)。まあ結局は、未希とイチャコラするのに使ってるので、当初の目的は果たしていることになるのだろう。

「おいでぇ~玲央きゅんおいでぇ~」

 未希が己の脇の座面をパンパンと叩く。お姫様がお呼びだ。

「なんできゅんがついてるの」

「学校で流行ってるー」

「あっそう……」聞いてて気持ちが悪いのだが、どうせすぐ飽きるだろうからほっとく。

 僕が未希の隣に腰かけると、満面の笑みで両手を差し出してくる。俺の胸に飛び込んでこい、ということのようだ。僕はヒロインか。まあ飛び込まさせて頂きますが……。

「みーちゃん……」

 僕は未希をぎゅっとすると、未希は伸ばした両手で僕の首をホールドした。あったかい。昨日からの寂しさがすっと消えていく。息苦しさもいささか減って、深呼吸を数回すると気分が落ち着いてきた。

「ありがと」

「よしよし。玲央兄ちゃんは未希がいないとすぐ寂しくなっちゃうんだから」

「まったく……僕はダメな男だな。すぐ甘えるし意気地もない。でもってすぐ壊れるしすぐ落ち込む。いいとこなしだよ」

「ちがうよ。玲央兄ちゃんは繊細なだけ。ダメな男じゃない」

「ダメ男だよ」

「ちがう。いいとこなしじゃない。ただの寂しがり屋だよ」

「それ、物は言いようってだけでしょ」

 未希が耳元で、ふっと短く息を吐いた。

「玲央兄ちゃんは何と比べてるの? うちのお兄ちゃんなら間違ってるよ。あれは強いんじゃなくて鈍くて単純なだけ」

「とはいっても、僕が未希に甘えるのはよくないでしょうに?」

「未希は甘えられるの歓迎なんだけど?」

「そうなの?」

 僕は少し体を離して、未希の顔を覗き込んだ。彼女は少し寂しそうな表情で僕を見つめていた。

「わすれちゃったかな」

「ん?」

「玲央兄ちゃんはさみしいからいつも未希といたでしょ」

「……どういう、こと?」

 未希は僕の首に回した手を降ろして、僕の胸にこてん、と頭を預けてきた。

「私がちいさいころ、玲央兄ちゃんいつも未希を抱っこしてぬいぐるみのかわりにしてた」

 全く記憶にない……。本気で分からないんだが。

「未希のこと、ぎゅーっとして、さみしそうで、たまに泣いてた」

「え……僕が、泣いてた?」

「玲央兄ちゃん、さみしいんでしょ? また未希をぬいぐるみにしていいよ」

「うん……」

 しばらく未希を抱いて、遠い昔の記憶を手繰ってみる。

 未希を抱っこしていた記憶……は。えっと……。

「え?」

 ぽろ、と何かが目から零れ落ちた。眼鏡のレンズに落ちた、水滴。下を向いていたせいだ。

 あれ。なんで。

 思い出してはいけなかったのか?

 ためしに、ぎゅーっとしてみる。

 ノーガードで心臓の音を聞かれるのが少し恥ずかしい。

 でも、何かを思い出せれば――。

 何故か、息苦しくなってきた。これはまずい記憶だ。

 未希が胸元で僕のシャツをぎゅっと掴み、つぶやく。

「だいじょぶだから」

 いやだ。何が? えっと……。そうだ。

『父が』いやだった。

 それで僕は。

 それで。

 それだけじゃないけど、でも。ああ、そうだ。僕は。

『毒親の虐待から逃げたくて従妹の世話を口実に隣家に入り浸っていた』

 そうだ。後継者として過度な期待をして、僕に無理難題を押し付けていた父。しつけと称して暴力を振るった父。友達も遊びも勝手に選別して処分してきた父。あらゆる自由と人権を奪っていた父。その父から僕は逃げたかった。

 未希の言ったことは正しかったんだ。僕は都合のいいように記憶を改ざんしたり欠落させたりしてたんだ。

 僕は未希に逃げて、いつしか姉にも逃げて、そして自分の手で終わらせた。はずだった。

「みーちゃん、思い出したよ」

「よかった」

「でも僕は親から逃げたくて君を口実に……」

「ちがう。逃げるのはおまけ。玲央兄ちゃんは未希といっしょにいたかった。でしょ?」

 どういうつもりで言ってるのか、正直僕には分かりかねたのだが、逃げなければならない相手はとうに死んでいる。事実なんて、最早どうでもいいことなんだ。そう思えるだけの時間は経っていた。

「ああ。さみしいから、未希と一緒にいたかった」

「だよね。前みたいに、未希とずっと一緒にいて。そしたら玲央兄ちゃんも未希も、さみしくない」

「うん。さみしくないよ、みーちゃん」

 僕は日が暮れるまで、ずっと未希を抱きしめていた。ぬいぐるみに悲しみを吸い取らせるかのように。やっぱり僕はロクデナシだ。そう思わないか? 未希。

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