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第7話 演劇を観よう

 僕は書類棚から古いノートパソコンを取り出した。電源を繋いで起動、現状を確認する。ほとんどのものは今使っているPCに移したので必要なものはないはずだ。ファイルだけ削除して渡してもいいのだが、出来れば中身だけでも新しくしてやりたい。

 僕はノートパソコンを初期化し、OSを入れ替え、執筆に必要そうなソフトをガンガンDLして入れていった。テキストを扱うだけなら、現在のスペックでも事足りるはずだ。万一未希が動画編集やイラスト制作に興味を持つようならば、その時は有人を説得して最新のハイスペPC一式を揃えさせてもらう。

 社会人の恋人なのだから、そのくらいしてもバチは当たるまい。そもそも有人はうるさすぎるんだ。僕の金を何に使おうと勝手なはず。そう、これは推し活。未希は僕の推しなのだから課金するのは当たり前だろう。

 諸々のインストール作業中はヒマなので、アクセサリや必要なものをまとめて、使ってないPCバッグに詰め込む。外部記憶用にUSBメモリーも数本用意した。当座はこれで大丈夫なはず。そして、家のWi-Fiに繋ぐよう、有人への手紙も同梱した。未希が自宅で作業する際に不便があってはならないからな。あの気の利かない男に任せていては、未希が苦労してしまう。つまらない障害は未然に防いでやるのが僕の役目ではなかろうか。

 というか、僕に出来ることなんて、せいぜいこの程度しかないんだ。一番苦労するのは未希本人。それを支えることはできても、助けることは僕にはできない……。


     ◇


 翌日。僕は未希にあげるノートパソコンを持って叔父さんの店に行った。いろいろアクセサリーも詰めたのでちょっと重くなったが、どうせ有人が運ぶんだから構わないだろう。

 ランチタイムが終わって、僕が店内の清掃をしているところに未希がやってきた。

「ただいま玲央兄ちゃん」

「おかえりみーちゃん。パソコン持ってきたよ」

「ありがとう」

 未希は当たり前のように僕の指定席に座るとスクールバッグからプリントと筆箱を取り出して宿題を始めた。

 掃除を終えた僕は、叔父さんにケーキセットを2つ注文して席に戻った。

「宿題終わったらパソコンの使い方教えるね」

「はーい」

 未希にはちゃんと勉強しないとダメって言ってあるので、今日も真面目に宿題をやっている。毎日のように店には来るが、毎度小説の作業をしているわけではない。

 今日のように宿題をしたあと僕とだべって終わる日や、宿題が多くて迎えが来るまでプリントをやってる日、ラノベの新刊をひたすら読んでる日、体調が悪くて僕の横で寝てるだけの日 (こういう時は早めに有人に来させる)、僕が勉強を教える日 (英語、国語、数学、化学くらいなら今でも分かる)、おやつを食べるだけと言いつつ僕にベタベタする日など、まあいろいろである。

「はい、おまちどうさま」

 叔父さんがコーヒーとケーキを二人前持ってきた。今日の日替わりケーキはチョコレートケーキだ。わりと甘さ控えめでおいしいんだよな。

「わーい、いただきまーす!」

「ありがとう叔父さん」

「がんばってね」

「はーい」

 姉の一件以降、あまり食事を楽しめなくなった僕だが、甘いものだけは大丈夫だったのは僥倖だ。叔父さんの手作りケーキを楽しめるのだから、それだけでも得をしたというものだ。

 そんなわけで僕は日頃、店でどうしてるかというと、おおむねパソコンを叩いていることが多い。その他にもいろいろやってる。たとえば叔父さんの店の手伝い。掃除や調理補助、食材の買い出し時の荷物持ちや経理 (税金の申告も)などの軽作業とか、駅前の古本屋で買った本を読んだり、店に置いてる新聞や雑誌を読んだり、夕樹乃さんと仕事の打ち合わせをしたり雑談したりなど。

 大学を卒業して行くあてもなかった僕を引き取ってくれたのが、この喫茶店のオーナーである文雄叔父さんだ。

 しばらくは店の上で叔父さんと一緒に寝泊まりをしていた。今とは比べ物にならないほど陰鬱として空っぽだった僕に、旨いコーヒーと仕事と寝床を与えてくれた。それからだいぶ時間をかけて、人間らしさを取り戻した僕は近所にマンションを購入して叔父さんの部屋から巣立ったんだ。

 叔父さんは僕のことをよく「玲央は可哀想な子だ」と言うけど、客観的に見れば確かにそうなのだろう。僕を実子のように大切にしてくれる彼を、僕も実の父親以上に親だと思ってる。父? あんな男、親だと思いたくもない。というか、文雄叔父さんの子供に生まれたかった。だけど叔父さんには子供はいない。子を授かれないまま、叔母さんは病気で亡くなった。

 帰国して以来それほど楽しいことに興味もなく陰鬱に暮らしてきたので、人生の希望に満ち溢れているような女子高生と、これからどう接していけばいいのか正直わからない。ただ、ご要望があればそれにお応えするくらいは出来るので当面はそれでいいかなと。

 いくら未希の愛が重いとて、こんな面白みのない男なのだから、いつ飽きられてもそれは仕方のないことだと諦めもつく。結局自分の価値なんて大してない、という現実に直面して暗い気分になるだけだ。

 自分勝手が過ぎるとは思うけど、人様を楽しませるという点において、あまり自信がないんだ。エンタメ作家のくせにと言われてしまうと立つ瀬もないのだが。

 宿題のプリントを終えた未希が、僕に耳打ちをした。

「玲央兄ちゃんの家に行きたい」

「なんで」

「わかってるくせに」

 普段の元気な子供っぽさが減って、色気が増している。僕は彼女の急な変化に困惑するしかなかった。

 僕を大きなため息をひとつ吐いた。

「仕事が出来なくなるからダメ」

「ええ~~」

「気持ちは分かるけど少しは自重して、みーちゃん」

「でもぉ~」

 僕は彼女の手を取り、自分の心臓の上に当てた。

「未希、僕だってしんどいんだ。分かる?」

「うん……ドキドキしてる」

「欲に溺れたら僕も未希もダメになる。僕は絶対ダメになる自信がある」

「ええ~~」

「未希が可愛すぎるから」僕は思いっきり真顔で言った。

 渋い顔をしていた未希が、にやぁと笑った。

「ほんとにぃ?」

「本当だよ。家に行ったら、こないだみたく自制できなくなる。いや、もっと。仕事なんか絶対出来ない。僕はメンタルよわよわで特に女の人の魅力には抵抗できないの。だから分かって。僕を助けると思って。ね?」

「……うう」

「今度デートしよう。ね?」

「……わかった」

「よーし、いい子だ」

 僕はちらと店内を伺って誰もいないのを確認すると、長椅子の背もたれの影に隠れて未希をぎゅっと抱きしめ、貪るように口づけをした。未希から歓喜の吐息が漏れる。今日の未希はチョコ味だった。

 結局僕はなるべく欲情しないよう、未希の向かいに座って仕事を始めた。未希がむくれるのは分かっているが仕方ない。

 僕の仕事といえば単行本の原稿を打つことばかりと思われがちだけど、実はあの出版社から出ている色んな雑誌にコラムやエッセイを寄稿したり、他の作家の帯を書いたりしてるんだ。正直面倒なんだが、それもこれも全ては夕樹乃さんのため。ちなみに他の出版社からの依頼は夕樹乃さんの実績にならないから全て弾いている。

 こんなに尽くしてるのに、ちっとも振り向いてくれないんだから、ひどい人だよ夕樹乃さんは。

 今日の仕事―喫茶店に関するコラム―を書き終えた僕は、未希にパソコンの使い方を教えることにした。おそらくキーボードもまともに打てないだろうと思い、タイピングソフトも抜かりなくDLしておいた。しかし、時間的にもどうしようもなくなったら、音声入力や、フリック入力用デバイスの購入も視野に入れている。これはスマホとPCの間に噛ませて使うもので、スマホをテキスト入力デバイスとして使えるようにしたものだ。今回はそれで何とか間に合わせる作戦だが、次回はちゃんとキーボードを使ってテキストを入力できるように訓練してもらわねば。

 パソコンやキーボードについて未希からヒアリングしてみたが、あまり良い状況ではなさそうだ。というのも、学校の図書室やPCルームで検索をする程度で、アプリケーションを使用したり書類を作った経験はないとのこと。幸い、日本語入力の基礎は習得している様子なので、あとはタイピングソフトで速度を上げてもらう必要がある。

「みーちゃん、新人賞の応募締め切りまでそれほど余裕があるわけじゃないので、できれば早めにブラインドタッチを覚えてもらいたいんだけど……できそう?」

「見ないで打つやつ?」

「うん。普段僕がやってるやつ」

「えー……と。どうだろ」

 僕はノートパソコンを操作して、タイピングソフトを起動させた。なるべく女の子が喜びそうな、かわいいキャラクターが登場するものをチョイスした。

「これがキーボード入力の練習用ソフトなんだけど、家で練習して、課題をクリアしたらスマホで写真を送って」

「ゲームみたいだね!」

「そう。進み具合に応じて、ご褒美あげる」

 僕はグラビア撮影の時みたいな、素敵スマイルを作って言ってみた。小悪魔に対抗するならこの程度、許されるはず。

 ひととおり使用説明をしたところで夕飯時になったので、有人を召喚した。

 普段有人は店に着くと、外でバイクに跨ったまま未希を呼ぶのだが、今日は店内に来るよう僕が手招きをした。有人はヘルメットを脱いで、カラコロとカウベルを鳴らして店に入ってきた。

「おう。何かあったか?」

「ちょっとこっち来い」僕は未希の隣の席を指さした。

 ん、と短く受け答えをすると、彼は妹の横にどっかと座った。

「このノート、未希にあげたから、お前これ家のWi-Fiに接続してやってくれ。一応メモをPCバッグに入れてあるから」

「え、これ未希にくれんのか? いいのかよ」

 高額なプレゼントに眉をひそめるケチくさい兄貴。

「僕のお古、もう使ってないんだ。長編小説を書くのにPC持ってないっていうからさ」

「はあ。なんかいつも悪いな」

「どこかのケチンボな兄貴がいなければ、最新型でもっと薄くて軽いのを買ってやれたんだがな~」

 未希がイシシ、と笑っている。

「くッ、そういうのは自分で稼いでからでいいんだよ。まあ、中古だってんなら有難く。未希もお礼言ったのか?」

「とっくに言ったよー」

「これは必要なものなんだ。決して贅沢品じゃあないんだよ。いちいち目くじら立てたら未希の将来に関わるぞ」

「ぐッ」くやしそうな顔で僕を見る有人。

「それに……僕はまだ、みーちゃんに入学祝いもあげてないんだが?」

「そうだった!」未希は今気づいたようだ。実は僕もうっかりしていた。

「へいへい、わかったよ。んでー、これを家のネットにつなげりゃいいんだろ?」

「そうだ。今晩中にきっちりやれよ。未希のためなんだから」

「へいへい」

「じゃあ今日はこれでお開き。みーちゃん、タイピングがんばってね」

「はーい」

「あんがとよ」

 僕は二人を見送ると、叔父さんに休憩を取ってもらうためエプロンをつけてカウンターに入った。

 デザートやフードを作ったりは出来ないけど、コーヒーを淹れるくらいなら僕でも出来る。書くことがなくなって僕が筆を折ったら、このまま学生街のカフェの店員で余生を過ごしてもいいのかもしれない。人付き合いが苦手な僕でもやっていけそうだから。酒を出す店はコミュ力が要求されるから、僕には絶対無理だろう。

「玲央、お前も変わったな」叔父さんが晩のまかない―トルコライス―を食べながら僕に言う。

「そう?」

「明るくなったな。未希のおかげかねえ」

「多分ね」

 ただでさえ喪失感を抱えてる状態で、日々傷口に粗塩を擦り込んでくれる担当編集がいたら、僕が朗らかに暮らせるわけがない。その苦痛を和らげる効果が未希には確実にある。


     ◇


 それから数日後の叔父さんの店で。

 学校から帰ってきた未希が、藪から棒に紙切れを突き出した。

「玲央兄ちゃん、これ近所でやってるやつ?」

 学校の職員室で配っていたのを貰って来たとのこと。どれどれと見てみると、町内の劇場で上演する芝居のチケットのようだ。近隣の学校に撒いていたのか。そういえば、時々ウチの店にもチラシを置かせろだのポスターを貼らせろだのと面倒な連中が来ていたな。店が汚れるから、吊るすタイプのチラシ置き場だけ許可しているのだけど。

 上演日時を見るに、これから観劇しようと思えば間に合うが。

「そうだね。今から観にいく?」

「え、お芝居デート? 行く行く~」

 未希さんはノリノリのようだ。でも……彼女が観劇して楽しめる内容なのかどうか少々疑問。だが、何事も経験だ。歩いてすぐの場所だし、チケットは無料。せいぜい浪費するのは僕らの時間だけとなれば、行ってみるのも一興だろう。

「じゃあ叔父さん、ちょっと行ってきます」

「いてきまー」

「はい、いってらっしゃい」

 僕と未希は文雄叔父さんに見送られ、てくてく町内を歩いていった。ものの数分で劇場に到着すると、

「こんなに近所だと思わなかった! うわ~学校で観に行くやつ以外ではお芝居って初めてだよ~」

 未希の期待値がかなり高い。ちょっぴり心配である。


 小一時間ほどで観覧を終えたぼくらは、微妙な空気のまま叔父さんの店に帰ってきた。

「「ただいまー」」

「おかえり。二人ともお通夜みたいな顔してどうした」

「いやあ、なんとも……」

「つまんなかったー」

 まあ、そういうことである。最初から期待はしてなかったが。

「おかえりなさい、玲央先生」

 このタイミングで夕樹乃さんに出迎えられるのも微妙な空気に拍車をかけている。

 普段のすまし顔なのがかえって怖い。

「あ、お疲れ様です。どうなさったんですか」

「様子を見に来ただけなんですが……何があったんです?」

「叔父さんケーキセット2つ。口直ししないとやってられん」

「玲央兄ちゃんごめん~」

「気にしなくていいよ。これも経験。デートに向かないお芝居を二人で見た、という経験をしたんだ。次は内容を吟味してからチケットをもらえばいいんだから」

「お芝居?」夕樹乃さんが、キョトンとした顔で訊く。

「未希が学校で演劇のチケットを貰って来たんで、一緒に観に行って帰ってきたとこです。僕らにはちょっと難しい内容だったので、こんな顔してるわけで」

「なるほど……。じゃあ、私はこれで」

「もう帰るんですか?」

「玲央先生の顔を見に来ただけですから。では」

 夕樹乃さんはすうっと去っていった。

 ホントに何しに来たんだろう、と思ったけど、少しして気が付いた。あんなひどいケンカをしてそのまんまだから、和解をしたいんだろうなと。でも未希がいたから……。

 正直僕としては複雑な気持ちだ。それでも僕は今でも彼女を愛している。付き合ってもいないのに手酷く振ったみたいな気分で、胸がひどく痛む。


 夜になり、未希と入れ替わりに夕樹乃さんが店に戻ってきた。

「どうしたんです? なにか忘れ物でも?」

「あの……これ、うちの社で後援しているお芝居なんですが、よかったら一緒に行きませんか?」

 夕樹乃さんが、僕に演劇のチケットを差し出した。こちらは大きな劇場で上演される、ちゃんとしたお芝居だ。

「僕と……ですか」

「仲直りしたくて」伏し目がちに言う夕樹乃さん。

 そう言われてしまったら断る理由がない。

 受け取ろうとすると、差し出した彼女の白い手が小刻みに震えている。

 普段は自信満々な彼女が、たかが僕ごときに紙切れ一枚手渡すのに、こんなに動揺するなんて……。

 僕は彼女の手からチケットを受け取った。

「いいですよ。でも、大丈夫? 会社に戻った後なにかあったんですか?」

「別になにも……。社に戻ったら、ちょうどお芝居のチケットがあったので頂いてきただけですよ」

 明らかに彼女の様子がおかしい。その理由は、KYレベルの高い僕には伺い知ることは出来ない。だから聞いてるのに……教えてくれない。

「急に作家辞めるとか言ったから? それなら心配しないで。まだ大丈夫だから。ね?」

「そう……よかった」

 夕樹乃さんは少しほっとしたように見えるが、それでもまだ、浮かない顔をしてる。これが原因ではない? うーむ……。


 結局、たいして聞き出せないまま、明日の夜、初台で待ち合わせることになった。あまり行ったことのない場所だけど大丈夫かな。迷子にならないか少し心配だ。


     ◇


 翌日の夜。

 無事ドレスアップした夕樹乃さんと合流した。今日の彼女は、昨日よりは少し元気になったように見える。

 席につき、演目が始まったけど、隣に彼女がいるので何も頭に入らなかった。何度も手を握ろうとしたけど、意気地がなくて触れることすら出来ず、ただ時間だけが過ぎていった。チャンスがあったって僕は……。


 劇場を出て夜風に当たっていると、夕樹乃さんが神妙な顔で話し始めた。

「お芝居、あまりお気に召しませんでしたか」

「演劇自体あまり観たことがないので、善し悪しはよく分かりません……が、そうですね。今夜は楽しかったです」

 内容なんか覚えてない。覚えていたところで、興味なんてなかった。

 今日のデートの趣旨は、仲直りだ。がんばらなきゃ。

「ゆ、夕樹乃さん、こないだはひどいこと言ってごめんなさい」

 よし、言えたぞ。

 だが本心なのは確かだ。言葉を撤回する気はない。

「いいえ、私も……」

 彼女は、困った様子で目を泳がせている。僕はもう謝罪をしているのだし、積極的に仲直りしたいのなら、多分違う表情をしているはずだ。でも今の彼女の態度からは違和感しか覚えない。やはり彼女が何かを隠していることは、鈍感な僕でも分かる。

「夕樹乃さん、僕で助けられることがあるなら言ってください」

 彼女は一瞬、目を見開いたがすぐいつものクールな顔に戻って、

「……いえ。ただ、お仕事に差し支えがありますから、仲直りしたいなと思っただけです」

「ほんとに?」

「ええ」そう言う彼女の目は動揺を隠せていない。

「夕樹乃さんは僕のこと、嫌いですか?」

「ッ、いいえ、とんでもない!」

「そう、ですか」

 僕は彼女の目の奥を覗き込もうと思ったが、煌めく街の灯りが映り込んで伺い知ることは出来なかった。

 ただ僕は本当のことが知りたかった。

「先生……このあとお食事でもいかがですか?」

「それはデートの一環ですか?」僕も意地が悪い。

 彼女は儚げに笑って、

「いいえ、山崎先生への接待です」

 僕は自分の顔が引きつるのを明確に自覚した。

 これまで、僕が何度誘っても食事すら一緒に行ってもらえなかったのに、接待なら向こうから誘ってくれるなんて、あんまりだ。

 未希が言っていた、夕樹乃さんが僕のことが好きだという話。本当なんだろうか。正直、半信半疑だ。

 僕は、劇場の前景に広く浅く湛えられた水を一瞥すると、すうっと息を吸い込んだ。

「雨の日、君が濡れて店に入ってきても、僕には暖めてやることもできなかった」

「それって、『コーヒーミル』の一節……」

「街がクリスマスに沸き立つ頃、僕は君にプレゼントを贈ることも許されなかった」

 夕樹乃さんの顔が曇っていく。何かを覆い隠すように。

「女性たちがバレンタインの贈り物選びに苦心している最中、誰よりも君からの本命チョコが欲しかったのに、結局君がくれるのは、いつも豪華なだけのお義理なんだ」

 彼女が何かに耐えるように口を引き結んでいる。

「君が誰かとの電話口で泣いてるのを見たけど、僕にはその涙をぬぐってやる資格もないなんて、あんまりじゃないか」

 ここまで言って僕は、『もう一度、君の気持ちを確認するよ』と心に念じて、彼女の目を真っ直ぐ見た。その瞳は潤んで、都会の灯りを溶かし込んでいた。

「……ごめんなさい」

 そんな苦しそうな、ごめんなさい、ホントやめてほしい。

 振るならちゃんと振って欲しい。

 そうでないなら事情を聞かせて欲しい。

 絶対に彼女は何かに困っている。

 宙ぶらりんが一番いやなのに……。

「何も言えないのなら、結構です。……今日はありがとうございました。お休みなさい、岬さん」

「……はい。お気をつけて。山崎先生」

 夕樹乃さんの声は都会の喧騒にかき消されそうなくらい小さかった。

 僕は彼女も見ずに、タクシーを拾って帰った。歩くには遠く、車では近すぎる距離を。


     ◇


 結局、僕と夕樹乃さんの間の険悪さのみが解消され、それ以外は何ら改善されないどころか新しい悲しみが生まれた実りなき接待の翌日、僕は未希に詰め寄られることになった。


 昨晩接待という名の拷問を受けた僕は、陰鬱な気分で店の指定席に突っ伏していた。正直、行かなければよかった。僕と彼女の間にある見えない壁を実感しただけだ。こんなに愛してるのに。つらみしかない。

「ううう……」

「なにこれ」

 ふいに頭上から未希の声がした。手元から何かをむしり取られた感触がある。あ、やば! もう帰ってきてたのか!

「あああ、返して」

「へぇ~、お芝居? 新国立劇場で? ふうん」

「あうう……」

 向かいの席にスクールバッグを放り込んで、未希は僕の隣に体を強引にねじ込んできた。しょうがないので僕はじり……と席の奥に己の尻をずらしてやった。

「後援に……玲央兄ちゃんの本だしてる出版社さん入ってるね」

「え、そうなの……」

 僕の顔を横から覗き込んで、じぃ~っと見つめる未希。

「昨日そわそわしてると思ったら、ふうん。誰と行ったの?」

 分かってて詰めにくる未希。その詰め方、血筋ゆえか。

「あの……取引先の人と……」

「編集の岬さんでしょ」

「……はい」

「これって未希と行ったのの口直しなわけ?」

「ち、ちがうよ! た、ただの……取材、だよ」

「取材ぃ~?」

「……接待、でした」

「接待。よくわかんない」

「だろうね。僕もわかんなかったよ……」

 未希が僕の頭をナデナデする。

「そんなにつまんないお芝居だったんだ。かわいそ」

 僕は余程ひどい顔をしてたんだろう。浮気を詰められてたはずなのに、いつのまにか哀れまれている。

「ねえ、玲央兄ちゃん」

「なに」

「未希って、いま暫定一位だよね?」

 実質一位の人がエントリーしてくれないもので。

「……そう、だけど、どうして」

 未希が自分の頬を僕の頬にくっつけて、ささやく。

「今から玲央兄ちゃんちいこ」

「い、今っ? 家はちょっと……」

「あの人ならいいの?」

「そういう問題じゃない」

「じゃあいいよね?」

「……」激しく気が進まない。

「いいよね?」

 やっぱり僕は未希に逆らえない。

「分かった」

 僕は未希に強制連行され、途中コンビニに寄って自宅に帰った。

 コンビニでは念のため多少の買い物 (謎の小箱)と、慰謝料として数回、異界獣キッズ第二弾のくじを引かされた。僕が引くとろくなものが出ないので未希が引いたら一等が出た。やっぱ未希は持ってる子だ。僕は何も持ってないから、最初から運なんてアテにしてなかった。でも運はないと、イザというときに致命的な事態を引き起こす。僕のように。ホント最悪。

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