【回想――八年前】
別に僕は誰かに祝福されたいとか、人並に幸せになりたいとか思っていたわけじゃない。ただ愛する人と共にいられればいいと。
僕は彼女のために海外移住を決意した。
それを実現するために僕は米国に留学し研究職を目指していた。いずれ日本から彼女を呼んで暮らす、そのために寂しい思いをしながらも努力していたのだが。
――どうして。
◇◇◇
『こいつは……。こいつは僕に殺されても仕方ないことをしたんだ』
僕は訊いた。
「何故、姉さんを売った?」
脚元の死にかけている男は、しかし消え入りそうな声でひたすら、済まない、と繰り返すだけだった。
「それでも父親か貴様……」
僕の心が粟立つ。
「姉さんだけを不幸にしないよ。……僕も一緒に堕ちるから……」
姉さんを奪った外道を全員地獄に送ってやるんだ。
こいつを殺したら、あの男を殺し、僕も命を絶つ。そう決めていた。
父は、息もたえだえに、済まない、と呟いた。
「俺は……お前に殺されても仕方……ない……な……」
苦しそうに、切れ切れに言った。
僕はぬらぬらと光る、己が手のひらを見つめていた。
眼前には刃物を腹に突き立てた父が横たわり、どこからか漏れ出る液体がフローリングの床を赤黒く染めている。
――父を刺したのは、おそらく僕だった。
マスコミにスキャンダルをバラすと脅され、姉を人身御供に差し出した男。
ちっぽけな政治家生命とやらのために、僕の命よりも大事なものを奪った男。
自誠党代議士、神崎総一郎――それが、こいつだ。
自分の妻でさえ、選挙活動での過労で自死に追いやった。
その末に行ったのが娘を売る事だとは、生かしておく理由などなかろうよ。
「己の死で
僕は血溜まりの中に片膝をついて、この死に損ないにとどめを刺すため、腹の包丁に手をかけた、そのとき――――
玄関のドアが乱暴に開き、誰かが居間に駆け込んできた。
「何やってんだ!」
背後から聞き覚えのある叫び声がした。
留学中の僕に姉さんの事を知らせてくれた、従兄弟の
姉さんは既にあの男の許に嫁いだ後だった。
僕は即座に床に抑えつけられてしまった。
貧相な僕の力では、空手有段者の有人の腕力に到底敵わない。
いくら足掻いても、僕の腕は少しも動かなかった。
腕の痛みと敗北感に打ち
玄関から、また誰かが駆け込んでくる音がする。
――これ以上来られては、最早とどめを刺すことは……。
――どうして止めるんだ? 悪いのは父なのに。
「先生! だ、大丈夫ですか」
父の秘書、須藤の声だ。
家の隣にある事務所から駆け込んで来たのか。
「須藤さん、早く救急車を呼んで!」
「は、はい」
須藤が慌てて電話をかけようとしたとき、
「須藤……やったのは暴力団だ……」父が掠れた声で言った。
「え? 何ですか、先生」
「俺を……刺したのは、暴力団……だ。こいつは……無関係……だ」
「分かりました、先生……」
何かを決心した須藤は、
「有人君、救急車が来る前に、怜央さんを別室に連れていってください。それと、血のついた衣類は処分して下さい」
「わかりました」
「離せ!」
「やかましい、引きずってでも連れていくぞ」
そう言い終わらぬうちに、有人は僕の腕をネクタイで後ろ手に縛り上げた。
「ぎゃああぁつ」
肩の関節が外れそうなほどの痛みに、僕は思わず声をあげた。
「ほら、立て」
強引に僕を立たせ、奥の部屋に無理矢理引っ張っていった。
「離せ! こいつを殺すんだ! 殺すんだあああああっ! ちくしょおおおおっ!」
僕は有人に引きずられながら、虫の息の父に向かって呪詛の言葉を何度も叫んだ。
「すまない、玲央」
有人のつぶやきを聞いた時、首の後に強い衝撃を感じた。
それを最後に、僕の意識は途絶えた。