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第4話 暫定一位

 昨日は遅くまでアニメを観てたので寝坊してしまった。普段なら叔父さんの喫茶店でモーニング営業が始まる頃には顔を出してるのだけど、今日はすっかり遅くなって、もう午後2時を回っている。

 今日も来ると未希が言っていたから、さすがに身だしなみくらいは整えないと。〆切前の薄汚い格好で彼女と再会したことが本当に悔やまれた。


 無精ひげを剃り、髪を梳いてコードで結び、ボタンダウンのシャツに留学先で買ったインディアンジュエリーのループタイを締め、貧弱な体を隠すためのベストを着てジャケットに袖を通す。姿見の中の己は、明らかに浮かれている。気持ち悪いな。でも今日はかっこつけたいんだ。おかしいだろうか。


 最早、夕樹乃さんの前で身支度を整える気も失せて結構な時間が経っているけれど、そもそも作家が担当編集者に良からぬ気を起こす方が悪いのであって、この程度の距離感で丁度いいのだ、と己に言い聞かせる。何かの言い訳のように。そう、何かの。


     ◇


 叔父さんの店に着くと、すでに未希が来ていて、僕の指定席にちゃっかり座っていた。僕は自分の顔がだらしなく緩むのを止められなかった。

「玲央兄ちゃん」

「みーちゃん、お帰り。待った?」

「ううん。なんか今日、かっこいいね! テレビで見たのとおなじ!」

 未希の目がキラキラしている。ちょっと安心した。

「ありがと。ていうか、昨日はみっともない格好でごめん」

「しょうがないよ、急に来たんだから」

「うん」

 なぜだろう。今日の未希はキラキラして見える。おかしいな。目の前の女の子が自分に気があると思うだけで、なんかドキドキしてしまう。

 いい年をしてみっともないな。恋ってこういうもの?

「玲央兄ちゃん、未希、暫定一位の恋人だよね?」

「ああ。そうだよ」

 確実に言質を取りに来た未希に、僕は肯定で返す。彼女は満面の笑みを僕に投げてくれた。八年越しの願いの一部が叶った喜びなのだろう。僕は少し胸が痛んだ。

 僕が未希の隣に腰かけると、すかさず腕を絡めてきたので、テーブルの下で恋人繋ぎをした。

 彼女がこてんと僕の肩に頭を預けてくると、信じられないくらいの多幸感で胸がいっぱいになった。これは僕が女性慣れしてないせいなんだろうけど、ハニトラにかかったら一発だなあと我ながら思う。

 しばらく二人で、繋いだ手をにぎにぎしてたのだけど、やっぱり僕に必要だったのは恋人なんだろうなと実感してしまう。無理矢理半身を裂かれた僕の飢えは、別の半身で埋め合わせるしかなかったってことで、その空白部分にちゃっかり収まった未希はラッキーなような不幸なような。

 僕が彼女の向かいじゃなくて隣に座ったのは、イチャつきたいからというよりも、店の入口に背を向けたかったからというのが大きい。普段のダサい格好ならともかく、メディアの前に出てる時の格好だし、大学のすぐ近くなので、僕に気づく人もいるかもしれないから。……やはりかっこつけないで普段はもうちょっと地味な格好にするか。

『ぐ~~……』僕の腹の虫が盛大に鳴いた。

「玲央兄ちゃん、おなかすいてるの?」

「僕起きたばっかなんだ。みーちゃんパフェおごるから付き合ってよ」

「やったー! たべる!」

 僕はランチセットと叔父さんご自慢のパフェを注文した。昨日の晩からろくなものを食べてないので、かなり空腹だ。

 僕は家から持ってきた紙袋から数冊の本を取り出した。

「これ、僕が新人時代に使ってたやつ。使い込んでて悪いんだけど、みーちゃんにあげるよ」

「玲央兄ちゃんが使ってたやつ? やったー! 家宝にするね!」

「いや使ってよ。……といっても、しばらくは必要ないと思うけど。困ったときのために持ってって。使い方が分からなかったら教えるから」

「わかった」

 僕は、文章の書き方、小説の書き方の教本を数冊と、国語辞典、類語辞典などを未希にプレゼントした。授賞式のためにアメリカから一時帰国した際に買い集めたものばかりだ。今の僕はもうデジタルの辞書を使っているから、紙の辞書に用はない。未希に有効活用してもらえるなら本望だ。

「でも、最初はこんなの見たらだめだから」

「どうして?」

「ルールに縛られちゃうから良くないんだ」

「ふーん」

「エンタメは、最初から手足を縛って書いては面白いものが書けなくなっちゃうからね。文章が多少おかしくたって、あとで直せばいい。だから気にせず書いて、困ったら見るカンジで」

「わかった、玲央兄ちゃん」

 僕は教本を紙袋に戻して、未希に渡した。

「あ、そうだ。私も玲央兄ちゃんに書いてもらおうと思ってこれ」

 未希が手提げから何冊もの本を取り出してテーブルの上にドカッと置いた。

「げ、僕の本じゃないか。読んだことないって言ってなかったっけ?」

 だからか。有人の奴が知ってたのは。

 僕が普段書いている小説は一般文芸とかキャラ文芸と呼ばれるカテゴリーで、幻想小説――いわゆる恋愛ファンタジーだ。

 タイトルは『エーゲの薔薇』。これが僕のデビュー作で巻数もそこそこ出ている。舞台がギリシャなものだから英語版のほか十数か国語に翻訳されていて、特に欧州で人気がある。……って、えらい量を持ってきたもんだな。

「ふっふっふ。お年玉で全刊揃えたんだー。机に飾ってるよ!」

「なんと! お買い上げありがとうございます!」

「というわけで、サイン書いて!」

「まあいいけど、学校とかで見せびらかしたり転売しないでよ」

「わかってるってば~。家宝にするから」

「しなくていいから読んで。――はい、出来た」

 僕は高速でサインを書いた。もちろん未希さんへ、と名前入りだよ。

「わーい、ありがと~」お礼のつもりか、ほっぺにチューが飛んできた。

 わーい、たのし~。なんだこれ。アオハルかな。

 ……まあ、そうだな。

 僕は姉と隠れて愛し合ってたから、こんな経験ないんだ。喫茶店で恋人とイチャコラなんて……できなかったから。誰に憚ることのない恋愛に憧れなかったと言えばウソになる。

 だから今が青春なのかもしれない。

 マジか。もうじき三十路だってのに僕は何やってんだろうな。

 でも、いままで何もいいことなかったから、これから幸せになってもいいのではないでしょうか。


 ――いや、ダメだろ。姉さんは救えなかったし、父も僕は。


 食事を終えた僕らはいよいよ本題に入ることにした。

「それじゃ作業開始しようかな。どこまで出来てるの?」

「んー……、なにも書いてないけど」困り顔の未希。

「OK。別に出来てなくても大丈夫だから。一から作ってこ」

「うん!」

「じゃあ、作りたいお話しのイメージとかはある?」

「それならある!」

「そしたら、お話しのジャンルと世界観……って言ってわかる?」

「あんまり」

「ジャンルは、恋愛とかミステリーとかギャグとかバトル物とか、お話しの傾向ね。世界観は、ざっくり言ってお話しの舞台のこと。西洋ファンタジー世界とか、現代の学園とか、江戸時代とか未来とか宇宙とか」

「あーわかった」

 とりあえず僕はメモ帳を用意して、彼女の創作イメージを書き留めることにした。考えながら書かせると、迷走したり、おかしくなりそうなので。まあサービスだ。

「えっとねえ、現代で学園で恋愛で転生で人外で三角関係で記憶喪失」

「お、おう……盛るねえ」収拾付くのか? 初手から不安になってきた。

「そうかな」

「主人公の目的は……恋愛が成就する、でいいのかな。まだ具体的に決まってなければ今決めなくてもいいけど」

「恋愛がじょうず、じょうじゅでおけまる!」

「結ばれてエンド、と(メモメモ)多分……学校で出会う?」

「うん」

「恋愛の障害とか考えてることある?」

「えっとねえ、おとこの人は人外で長生きで、おんなの人は人間で、元の奥さんの生まれ変わりなのね。奥さんだけ何回も生まれ変わって結婚するの」

「ふむふむ。元奥さんは元旦那の記憶とかあるの?」

「ないの。元旦那さん、かなしいやつ。通ってる学校を見つけて迎えに来るの」

「おお、具体的になってきたね。思い出してほしくて苦労するとか?」

「ふつうなら記憶あるんだけど、今回はたまたま記憶なくって苦労するやつ」

「ああ、行き違いとかいろいろエピソード書けそうだね(メモメモ)」

「元奥さん、他の人に告白されたりとか三角なんとかで大変になるやつ」

「おお……それはモメるやつだな。胸熱 (メモメモ)」

「元旦那さんちょー必死になる。自分が正しい相手なのにって。でも元奥さんに引かれたりして告ってきた人のとこ行ったりしてつらいやつ」

「うう、それはかわいそうだ……必死になるしかないな。がんばれ元旦那さん」

「で、なんやかんやでくっつく!」

「……お、おう。そのなんやかんやはまだ考えてないのね」

「うん!」

「おーけー。大筋は出来てるね! すごい! 障害の克服方法は書いてるうちに思いつくから今なくても大丈夫だよ」

「やったー! 玲央兄ちゃんありがとー」

 僕は未希の頭をよしよし、と撫でてやった。

 僕だってオリジナルストーリー考えるの苦手なのに、二か月前から作家目指して読書始めた子が、いきなりこんなに切なくてファンタジックな純愛ストーリーを思いつくなんて、絶対僕より才能あるとおもう。

 この子は全力で世に出さないといけないやつだ……。プチ嫉妬。

「大筋が出来たら、次は肉付けが必要だね。ラブストーリーはお話しが一本道になりやすいから、ページ数稼ぐためには事件を起こす必要があるんだよね。告白しました、オーケーしました、では1ページで終わっちゃうでしょ」

「た、たしかに! どうしよ~。すぐ終わっちゃいそう……」

「さらに舞台が学園だから、あまり突飛なイベントも起こせない。でもその代わりに季節イベントとかが使えるから、そのへんを上手に利用して小さいドラマをいくつも埋め込んでいくと長編になるってわけで。たとえば春に同じクラスになって出会って、告白してくっついたらもう終わっちゃうじゃん。なので、なかなか距離を縮められないまま、学園のイベントが発生するわけよ。たとえば委員会とか部活とか遠足、社会科見学、家庭科や美術、音楽などの特殊な授業、体育祭、文化祭などなど。個々のイベントのエピソードは短編みたいに作って、長編の中に入れる。もちろん学園と無関係のエピソード、たとえばバイトの話でもいい。で、その短編の中で距離が少しづつ近くなっていく、ってのを繰り返していくんだ」

「ゲームのイベントみたいだね!」

「そのとおり。未希さん飲み込みが早い! イベント、エピソードの内容をどんどん入れ替えながら、大筋の話が進んでいくんだ。そうして、一番盛り上がるところで告白! とか、くっつく! とか一番見せたい大きなエピソードをブチ込む! これで一冊できあがり。イメージできた?」

「おおー! お話しってそういうふうに作るんだね!」

「あくまで基本の話だけどね」

 とはいえ僕は、そんな風に自分の小説を作ってるわけじゃないので、自分で言っててイヤになってしまう。やってることといえば、せいぜい夢のエピソードの取捨選択、どうでもいい話を削る作業だけだ。

「イベントとエピソードってどうちがうの?」

「そうだなあ。たとえば体育祭を例にしよう。わかりやすくいうとね、イベントってのは体育祭っていう大きな事件。学園の全員に関係する事件だ。で、エピソードっていうのは、登場人物ごとや、時系列によって発生する小さい枠組みのお話しのこと。生徒や先生など、立場が違えばいろんなお話しが発生するよね。たとえば生徒会役員のキャラクターなら、来賓の接待をしたり体育祭という催し物の仕切りをしたりする。校庭での放送とかも、放送委員じゃなくて生徒会がやる場合がある。あるいは、保健委員なら、当日の負傷者や病人が発生することを想定して、救護テントや必要な薬品や道具などを養護教諭の指示で準備したり、役割分担をしたりする。目玉競技の選手になった生徒なら、放課後に自主練習したりとか、団体競技の練習をクラスのみんなとやったりとか。大きな催し物には参加者からは見えない裏方の仕事や、事前の準備が大量に発生するから、どこを切り取っても物語が作れるし、どこにでも人間が関わっているから、キャラクター同士の関係性を深めることが出来る……ってごめん、つい、いっぱい話しすぎちゃった」

「うふふ。ちゃんと聞いてるし、すごい分かりやすかったらから大丈夫だよ。それよか、昔の玲央兄ちゃんを思い出しちゃった」

「え? 昔の僕、なんか変なこと言ってた?」

「言ってた」

 未希がニヤニヤして僕を見る。イヤな予感しかない。

「未希もお兄ちゃんもぜんぜんわかんないのに、玲央兄ちゃんずっと一人で難しいこと言ってること、よくあったよ」

「うわあ……まんまこじらせオタクで聞いててつらい」僕は頭を抱えた。

「でもさ、玲央兄ちゃんはみんなの中で一番頭良かったから、高校もお兄ちゃんと違っていい学校行ってたし、すごい大学に留学だって出来たわけでしょう」

「ま、まあ。正直僕は他に取り柄がなかったから、大学に行ってバイオテクノロジーの研究者になろうとしたんだ」

「やっぱ玲央兄ちゃんはすごい! ……でも今は作家さんだよね」

「うん……」

 留学前から大学在学中の話に関しては、これまで誰にもしてこなかった。

 正直僕にとってはつらい話だし、それを分かってるから叔父さんも深くは聞かないし、僕もあえて語ろうとはしなかった。

 叔父さんと飲みに行ったとき、たまにふっと言いたくなったことはあったけど、やっぱり言えなかった。そんな話をこれから女子高生相手にしようかすまいか悩んでる僕がいる。

「みーちゃん」

 僕の逡巡を読み取ったのか、彼女はとてもやさしい表情で僕を見る。

「なあに?」

「いつか、僕がアメリカにいたときの話を聞いてくれる?」

「今じゃなくていいの?」

「ごめん、今はまだ……言う勇気がない」


 この後、未希の作品の細かい部分のアイデア出しとか、ストーリーのたたき台の書き方を教えたりでタイムアップ。そして未希を迎えに来いと有人を呼ぶ。

 奴が店に着くと僕は二人にゴシップ対策を話した。兄貴の方は快く協力を申し出たが、まあ当然だな。こいつは未希と僕をくっつけたいから喜んで未希のナイト役を買って出た。

 珍しく有人が駒場に来たので、叔父さんも僕と一緒に二人を見送ることにした。まあ、これだけ同じ姓の親族がいればゴシップもヘチマもないだろう。というわけで、未希と逢った帰りは毎回有人に来てもらうことにした。雨の日は……その時に考えればいいか。

「二人とも気をつけてね」と叔父さん。

「おやすみ、みーちゃん」

 有人は未希をバイクの後ろに乗せて、エンジンを始動させた。

「またね~、玲央兄ちゃん」

「じゃ」有人は海軍機乗りみたく二本指の敬礼をすると、バイザーを下げて走り去って行った。


 閉店後、僕は店でセルフ缶詰めになり、そのまま朝を迎えた。おかげで原稿を完成させることが出来た。寝て起きたら夕樹乃さんに送らなきゃ。

 叔父さんはというと、僕に夜食を作ったあと、二階の住居に戻っていった。こんな僕のわがままに付き合ってくれるのも、叔母さんを早くに亡くして独り身なせいかもしれない。

 まだ学生も歩いていないような早朝に僕は自宅へ戻った。脳がすっかり焼き切れてた僕は、服をそこらに脱ぎ捨てると、下着だけで布団に潜り込んですぐ深い眠りに落ちた。


     ◇


 目を覚ますと、すでに日は傾き始めていた。

 春先の太陽は、やや駆け足だ。布団から出ると肌寒いけれど、眠っていたのが日中だったから、こんな格好でも大丈夫だったんだろう。寝ぼけまなこでシャワーを浴びると、僕は原稿のデータを夕樹乃さんに送信した。赤入れした原稿が戻ってくるまでの間、しばらくは休めるだろう。


 忙しくてほったらかしにしていた携帯に、SNSの通知がいくつか。全部未希だ。さて、どうしたものか。毎度毎度返事をしてもいられない。

 贅沢な悩みなんだろうけど。

 でも仕事もしてるから、あんまりは、なあ。

「やっぱ返事しとくか。僕のカノジョに」

 ああ……自分でカノジョとか口にするの、どうしようもなく気持ち悪いな。


 そうか。

 この違和感。

 僕にとって好きな人って「姉」だからか。

 僕はこのまま、未希との恋を楽しんでていいのか?


 浮かれては奈落に自分を突き落とす行為を昨日から何度も繰り返している。だが落ちっぱなしでないところを見ると、よほど僕は浮かれているらしい。

 それほどまでに未希の魅力が強いということなのだろうか。それとも相手が夕樹乃さんでも、僕は同じようになっていたんだろうか。

 誰かに好いてもらう、誰かを好いてよい、そんな状況が多幸感を与えないわけがなく、だから怖い。


 未希からきたメッセージを見ると、今日も叔父さんの店に来るという。さすがに毎日はアレだけど、まあ初稿入れた後だからいいか。

 今日は目立たないように、長い髪をカスケットにねじ込んで、グラサンにパーカーという怪しい格好で家を出た。トレードマークの長髪を隠すと案外バレないことが実験の結果分かった。この出で立ちで何度も駒場東大の大学生協をウロウロしていても、誰も僕に気づかなかったからね。

「みーちゃん、お帰り」

「たらいま、れおにーちゃん」

 相変わらず指定席に陣取っている未希。遅れるからスイーツでも食べていてって言っといたので、今日はチーズケーキをパクついている。彼女のおやつ代は全て僕のツケで処理することになった。まあ僕のために高校生のお小遣いをむやみに減らすこともないだろう。

「叔父さんのチーズケーキおいしいよね。たまにしか作らないから、今日は当たりだよ」

「ホント? やったー」

 本当にうれしそうに言う未希。実家にいたころは、毎日この笑顔を見ていた。

 それにしても、カノジョと一緒に食べるチーズケーキの、なんと美味しいこと。

 やっぱり僕は信じられないほど浮かれているな。


 未希は、生まれた時から八歳までのあいだ僕が育ててきた女の子だ。

 授業が終わると彼女を保育園や学童に迎えに行き、彼女の家に連れ帰って叔父夫婦のどちらかが帰宅するまで、勉強や読書をしつつ面倒を見ていた。

 僕の姉や、未希の兄は、自分が遊ぶのに忙しく、あまり未希のお世話をすることはなかった。子どもなのだから、本来はそれでいいんだ。

 甲斐甲斐しく幼児の世話を焼いてた僕の方がおかしいんであって。


 未希はずっと、「玲央兄ちゃんのお嫁さんになる」という幼い頃のあこがれを大事に育てて生きて来た。僕の大卒後、姉と共に海外移住をしていたら、彼女の気持ちも霧散していただろうに……。

 しかしそんな未来はこなかった。姉は奪われてしまったから。

 そして未希は、フリーになった僕を八年待っていて、万難を排して僕の前に現れた。だからそんな彼女に心底申し訳なく思うし、彼女の気持ちにどうにか報いてやりたいとは思ってる。


 だけど――姉さんは苦しんだままなのに。

 彼女を救えもしなかった僕が。

 未希と幸せになってもいいのだろうか?

 いや、だからこそ未希を幸せにしなければならないのでは……。


 そろそろ自問自答と自己嫌悪コンボでぐるぐるするのも面倒になってきた。

 そのうち気持ちも追いつくだろう。

 彼女と同じ『すき』になれる日が。


「みーちゃん、今日は君の宿題をやるよ。まだ半分しか消化できてないからガンガン読まないと」

 彼女がおやつタイムを満喫する横で、僕は彼女が置いていったラノベを読みはじめた。

「え! もう半分も読んだの? はやーい」

「また忙しくなるから、今のうちにやっつけようと思ってね」

「玲央兄ちゃん、ありがと~」

「いえいえ。みーちゃんのためならお安いご用で」

 ふふん、と意味深に笑う未希。

「今日の玲央兄ちゃんの服、かわいいね」

「え、そう? ただの身バレ防止コーデなんだけど」

「ふうん。じゃあ、これあげる」

 何かと思ったら、小さな缶バッジだった。

 かわいらしいモンスターの絵が描いてある。そういえば、未希のスクールバッグにも同じモンスターのマスコットがぶら下がっているな。

「ありがとう。お揃いだね」

「うん! かわいいでしょ。学校で流行ってるの。異界獣キッズっていうんだよ」

「へえ~。かわいいね。これ、どこかで見たような……あ、コンビニでキャラクターグッズのくじをやってたっけ」

「うん。一回引くのけっこう高いからやってないけど……」

 未希は少し残念そうな顔をした。これは僕の出番だな。

「僕に任せろ。あとでコンビニ行こう」

「やったあ!」

 ……まったく僕は未希に甘い。



「……で、この荷物なんなんだ」

 夜、迎えに来た有人がうんざりした顔で僕に言う。

「いやあ、その……」

「えへへ……」

 あの後、未希を連れてコンビニでくじをやったのだが、僕のくじ運が泣けるほど悪かったせいで、棚をカラにする勢いでくじを引くハメになった。結果、お土産が山のように発生してしまったのだ。

「未希も。いくらこいつが金持ってるからって、あんまタカるのは感心せんぞ。ほどほどにしろ」

「いや僕が好きでやってるからあんまり――(ボソボソ)」

「お前そういうとこホント治ってねえな。子どものうちから贅沢させたらダメだろうが」

「「だってー」」

「お前が言うな、未希」

「でも欲しかったんだもん」

「ねー」

「ねーじゃねえわ、ったく気持ち悪い。玲央も自重しろ。タカり癖がついたらかなわんぞ」

「へいへい、自重するよ」と言いつつ、僕は未希にウインクした。未希のためなら、いくらでもATMになりますよ、僕は。さすがにマンションを要求されたら困るけど。


     ◇


 こんな調子で、叔父さんの店の隅っこでパーテーションの影に隠れてコソコソイチャイチャ過ごして数日経ったある日。僕は未希を連れて駒場東大の生協に文房具を買いに出かけた。

 キャンパス内は一般人も通行可能で、当然ながら店舗類も利用できる。近場で品ぞろえも良いので、よく利用させてもらっているが、未だに身バレしていないのは、いいのか悪いのか。

 まあ、ここで講演会でもした日には僕の顔を覚える人も増えるのだろうけど、そんな日が来ないことを祈っている。少なくとも未希が卒業するまでは、ね。

「大学って初めて来た~」

 未希がキャンパス内をキョロキョロしながら言う。

「有人の大学には行ったことなかったの?」

「遠かったし」

「なるほど」

 文化祭などもあったろうに、わざわざ行く気にもならなかったということか。可哀想な兄貴だな。

 あ、僕の母校は海外だった。人のこと言えないな。

 今にして思えば海外留学なんてしなければよかった。日本にいれば姉さんを奪われることもなかったのだし。たとえば、東大こことか。やることなすこと裏目ばっかりの僕は、運がかなり悪いんだろう。その帳尻をベストセラー作家なんて肩書や、従妹との恋愛で埋め合わせるのだとしたら、そんなもの最初から不要だったのだ。

 取返しのつかないことを考えてもしょうがない。今は、未希の望みを叶えることだけ考えよう。あの子を作家デビューさせる、その手伝いを。


 文房具を購入して生協を出た僕らに、春の強い風が吹きつける。サングラスをしているとはいえ、いくらかの異物が目に飛び込んできた。

「くぅ~~~、目がっ、目が~」

「大丈夫? 玲央兄ちゃん」

「あんまダイジョブじゃない」

「えええ」

「帰国してから花粉症になってしまって、春はいつも目が痒くなるんだ。担当さんにもらった目薬を店に置いてきちゃったんだよなぁ」

「じゃ、戻ろう、玲央兄ちゃん」

「ごめん、みーちゃん。もうちょっと散策したかったんだけど、また今度ね」

「いつでも来れるから気にしないで」

 目をやられた僕は、未希に手を引っ張られつつ叔父さんの店に戻った。手をつないで歩いている最中の未希が、ずいぶんとご機嫌だったから、それはそれで良かったのかもしれないが、僕としては災難だ。


 ようよう店まで戻った僕は、夕樹乃さんにもらったアレルギー用目薬を注して一心地ついたところだ。未希は僕の横で学校の宿題をやっている。

 ラノベの作業をするんだと言ってたけど、学業の方が優先。じゃないと書き方を教えないぞと念押しをした。僕のせいで未希の成績が落ちたとあっては、有人に殺されかねない。

 それに、うっかり彼女を付けて来た同級生や教師に「ここは叔父さんの店で、僕は勉強を教えてる親戚のお兄さんです」なんて言い訳が出来なくなってしまう。有人に殺されるまでもなく、社会的に殺されてしまう。それだけは避けなければ。


 未希の向かいでラノベを読んでいた僕に、背後から声が。

「玲央先生、こんにちは。……そちらは、このあいだお話しされていた従妹のお嬢さん?」

「あ、夕樹乃さん、こんにちは。そうです、この子です」

 何故か少し彼女に後ろめたさを感じてしまう。

「こんにちは」と未希。

「はじめまして、未来の作家さん。私はこちらの山崎先生の担当編集者、岬夕樹乃です。よろしくね」

「はい! よろしくお願いします!」

「元気なお嬢さんね。先生、初校お持ちしました」

「ありがとうございます」

 夕樹乃さんは分厚い茶封筒を僕に手渡した。

 先日デジタルデータで送った原稿をプリントアウトして、赤ペンで訂正などを書き入れたものだ。これを元に原稿を手直しして、また夕樹乃さんに送る。校正担当者からの赤ペンが入ったものをまた僕に送って……ってのを何度も繰り返して完成原稿にして、やっと印刷できる。

 この作業がまたしんどいんだけど、いつも夕樹乃さんが直接こうして持ってきてくれるのでモチベーションを何とか維持出来てた。今後は……どうかな。

「玲央兄ちゃん、本物の作家さんみたいだ~」

「いや本物だけど。みーちゃんもなるんでしょ?」

「あ、そうだった」

「がんばってくださいね」

「ありがとうございます!」

 ……あれ。なんか夕樹乃さんの雰囲気が妙にトゲトゲしいんだが。なんだろう。逆に未希は余裕だな、初対面なのに。

「先生ちょっと」

 夕樹乃さんが僕の腕をぐいぐい引っ張って、カウンター席の端に連れていく。何か怒ってるみたいだ。

「何なんです? 夕樹乃さん」

 夕樹乃さんは声を落として言った。

「玲央さん、貴方あの女子高生と付き合ってるんですか」

「なッ! ……なんで分かったんですか」

「それだけマーキングされてれば分かりますよ」

「マー、え?」

「お揃いのキャラクターグッズに、テーブルの上に並んでるマスコット。しっかり匂いつけられてるじゃないですか。おまけに急に身綺麗になってるし」

 くじのせいで大量に入手したグッズが僕の席に点々と置かれているし、帽子やパーカーには缶バッジがいくつもくっついている。まあ、未希に着けられちゃったんだが。

「に、匂いだなんて人聞きの悪い」

「人聞きの悪いことをしてる人が何言ってるんですか。JKと付き合ってるなんて週刊誌に抜かれたら大変ですよ」夕樹乃さんらしからぬ、切羽詰まった様子だ。

「その点ならご安心を。店か自宅でしか会いませんし、帰りには彼女の兄が迎えに来ます。……御社に迷惑はかけませんよ。だから協力して下さい」

「御社……玲央さん? ご自分が何をして――」

「どうしたんですか、夕樹乃さん。必死ですよ」

「ッ、」

「四年も片思いの相手に何度モーションかけても無視するどころか僕の神経を日常的に逆撫でしてくれるんで、諦めて幼なじみに乗り換えました。ただそれだけのことです。何か問題でもありますか?」

 今まで溜め込んでいたものが噴出してしまった。

「だからそういう話じゃなくてですね先生」

「これまでさんざん、のらくらのらくら、年下の奥手男をもてあそんで、楽しかったですか? それが急に若い女にオモチャを取られそうになったからって、ちょっと虫が良すぎませんか、夕樹乃さん」

 一度堰を切った怒りはとどめることが出来ない。可愛さ余って憎さ百倍とはこのことだろうか。

「そんな……」

 彼女の顔から血の気が引いていく。だが悪いのは君だ。

「僕、今でも貴女のこと、愛してますよ」

 彼女の顔がみるみる歪んでいく。……どうして、そんな顔をするんだ。

「でも、もうオモチャ扱いに疲れました。これからは、自分に向き合ってくれる子と幸せになります」

「玲央さん……」

 僕を呼ぶ声は、掠れて消えていった。

「僕の気持ちは全部、あの本に、コーヒーミルに書いた。時間はありましたでしょう。最後のチャンスが、前回店に来た時だった。なのにトンビに掻っ攫われたのは自業自得です」

 言いたいことを言ってやった。すっきりした、はずなのに。

 夕樹乃さんが何故かボロボロと大粒の涙をこぼして泣いている。泣きたいのは僕の方なんだが。それでも、ひどく胸が痛い。

「どうぞ」

 僕はハンカチを彼女に差し出した。

 すっきりなんてするもんか。今でも大好きな女性を自分で泣かした。

 何故泣いたのかわからないけど。

 正直、最悪な気分だ。

 文雄叔父さんが僕を伺うけど、目を逸らすことしかできなかった。

 とんだ修羅場を未希に見せてしまったけど、しょうがない。

「……分かりました。では、著者校お待ちしてます」

 夕樹乃さんは憮然とした表情で店を出て行った。

 僕が席に戻ると未希が話しかけてきた。

「玲央兄ちゃんのこと相手にしてくれなかったのって、あの人?」

「なッ! よ、よくわかったね……なんで?」

「ふふふ。私のこと、すごい睨んでた。背中向けてたから、分かんなかったんでしょ、お兄ちゃん」

「睨んでたの? なんでだろう」

「やだなあお兄ちゃん。私にお兄ちゃんを取られちゃったからじゃん」

「まさか。四年も相手にしてくれなかった人だよ? 僕のこと好きなわけないでしょうに」

「どーだろ。こんなイケメンほっとく方がどうかと思うけどねー」

「イケメン……ねえ。自覚ないけど」

 でも未希にそう言われれば、嬉しいのは間違いない。

 しばらくして未希が宿題を終えたので、ラノベ執筆の作業を許可した。今日はおおまかなストーリー案を元に、発生した事象を時系列に書き起こして並べるワークだ。

「本当に起った順番に書くんだね」

「設計図みたいなもんだから、かっこよく書けばいいってもんじゃないよ。でも必ず守らないといけないってもんでもないんだ」

「そうなの?」

「書いてるうちに、入れ替えたり変更した方が面白くなりそうって時が発生するから」

「へ~」

「だから、慣れないうちはカードに書く場合もあるね。入れ替えが簡単だし、視覚的にも分かりやすいよ」

「ふむふむ」

「じゃあ、まずはこのカードにシーンごとに書いてみて。起承転結とかそういうの気にせずに、まずは好きなように作ってね」

「はーい」

「それと並行して、登場人物のカードも作ってみよう。えっと、ラノベの口絵に書いてあるキャラ紹介のもうちょっと詳しいやつを想像して。いきなり全員書かなくていいから。出てきた時に書いて増やしていくカンジ」

 僕はさっき買ったばかりのカードをレジ袋から取り出し、未希に渡した。

「じゃあがんばって。僕はみーちゃんの宿題やるから」

 彼女が作業を始めたので、僕は読書を再開した。

 なんだか部活みたいだなあ、と思った。僕の高校には文芸部はなかったから、実際にどんなことしてるか知らないけれど。

 要領を得ないのか、カード作りが難航したようで未希が作業を完了した頃にはもう夕食時になっていた。そろそろ有人を呼び出さないと。バイクで片道二十分程度とはいえ、毎度毎度ご苦労なことだ。


     ◇


 店先から未希と有人を見送った僕は、自宅に戻ってベランダに出た。さっきの夕樹乃さんの様子が気になったが、涼しい夜風のおかげで気にならなくなった。気持ちが落ち着かない時や、原稿の内容を考える時は、いつもこのベランダでぼーっとする。眼前に木々が広がっていて、心を穏やかにしてくれる。


 僕が新人賞を受賞したとき、大学三年の僕はアメリカに住んでいたから出版社もちょっと対応に苦慮していた。

 すぐに本を出版しなければいけなかったので、早速担当がついて改稿などの作業を始めた。その際、ネット会議を使って編集長や担当者と打ち合わせをしたのだけど、そこで初めて夕樹乃さんと出会った。

 僕はあまりに姉と雰囲気の似ている彼女を見て、己の運命に苦笑せざるを得なかった。そうか、僕にそういう罰を与えたのかなと。失ったもののレプリカを見せびらかして、僕を苦しめようとしているのかと。

 リアルで彼女に初めて会ったのは、実は授賞式の時じゃなく、彼女が単身渡米して僕に会いに来た時だった。

 彼女にしてみれば、ただの出張で顔見せで打ち合わせで契約書を書かせるための旅行だったのだろうけど、僕はろくすっぽ会話もできず、ただ彼女の言うことに頷いてるしかできなくて、でもそれでなんとかいい具合に進めてくれていたのだから、やはり優秀な人を寄越したんだなと思っていたが、確かにその認識は正しくて、その後の諸々は僕を煩わすことなく彼女が全て処理してくれていた。


 最初の二年間、彼女は数か月に一度は渡米して、その度に新刊やファンレターや日本の食べ物なんかを差し入れしてくれていた。

 渡米の合間にもひんぱんにネット会議で打ち合わせを繰り返すうちに、だんだん姉と重ねて自分を苦しめることも減り、いつしか失ったものを埋め合わせるように、彼女への恋慕が募っていた。


 米国への最後の来訪の際、僕は気持ちを伝えてみたけれど、ずいぶんと鈍感なのか全く届いていなかったようだった。

 帰国後も何度かトライしたけどなしのつぶてで、僕も他人のことを言えた義理じゃないけど彼女の鈍感力は相当なものだと思う。


 姉がいてくれたら、作家になんてならなかったら、僕は米国の住まいを引き払って帰国することもなかっただろう。

 だが姉のいない僕を引き留めるものは、あの国には最早存在しなかった。研究室のみんなは引き留めてくれたし、気が変わったらいつでも戻って来いとも言われてたけど未練はなかった。

 僕に帰国を促す存在が夕樹乃さんだと知ったら、彼女自身はどう思うのだろうか。


「さて、原稿の直しでも始めるかな」

 僕はベランダの観葉植物に水をやってから部屋に戻った。

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