教会の外は、雪が広がっていた。
空は満月の暗闇で、懐中電灯がなくても足元の雪を視認することができる。
だけど、奥になにがあるのかは、視認ができないほど……広かった。
ワタシは、その雪の上を駆けていく。
なにかから、逃げているように。
どこを走っているのか、どのぐらい走っているのか、わからなくなるほどに。
ワタシの胸の中で、なんども再生されているのは……あの巨大な炎。
バフォメットを包んだ……あの炎。
あの炎自体が怖いんじゃない。
ワタシの知能の紋章は、その巨大な炎がフジマルさんのインパーソナルを解体していく様子を、なんども再生していた。
!!
足が雪の下に隠れたなにかにつまづき、ワタシは地面に頭をぶつける。
足元の雪は、ワタシの体をやさしく受け止めてくれなかった。
顔に少量の雪と、固いものにぶつかった振動が伝わる。
顔を上げて見つけたのは……大きな鐘。
ワタシが倒れた地面には、石でできた段差が存在しており、その段差から伸びているアーチを飾る植物には、雪が積もっていた。
まるで……誰かがここで結婚式を挙げていたような……
そんな雰囲気を出している、ガーデンウェディング。
手の存在しない、左右でサイズの違う両腕で……ワタシは体を起こした。
そして、這いつくばった状態で鐘の下に移動して……
手のない右腕で、左胸を当てた。
ワタシは……感情を理解しきれていない。
感情を持っているのに……感情を理解しきれていない……
悲しいという感情を知っても……今、感じている、この恐怖の理由がわからない。
「ワガ……ムス……メ……ヨ……」
振り返ると、巨大な炎が立っていた。
バフォメットをつつむその炎は、空から舞う粉雪とともに、小さな火の粉を飛ばしていた。
「ワガ……ムス……メ……?」
ワタシは、体を後ろに移動させようと腰を動かす。
恐怖から、逃げようと。
「ワガ……ムス……メ……ホノオ……コワ……イ……?」
そうだ……あの炎……
ワタシを火葬しようと迫り来る……あの炎が……
違う。
炎よりも……怖いもの……
知能の紋章が、先ほどの映像を再び再生する。
巨大な炎が……インパーソナルを解体する姿を……
バフォメットが……フジマルさんを解体する姿を……
「……ワレ……ガ……怖イ……?」
……違う。
ワタシは首を振る。
声を持たないワタシは、
手のない両腕で、ワタシの人格の紋章を指した。
ワタシは、
ひとり娘を失って悲しんでいたお母さまを慰めるために作られた、作り物。
人間のために作られた、作り物。
そんな作り物が、作られた目的から離れた思考を持っていること……
それが、怖い。
バフォメットがフジマルさんを解体しようとオノを振り下ろした時……
ワタシの人格の紋章は“オノを振り下ろして……”と、状況を理解していた。
その状況を理解する言葉は……
状況を説明するための、文章だったのかな……?
ワタシが、バフォメットにしてほしいと願った、願望だったのかな……?
“オノを振り下ろして”
この言葉が……スイホさんを殺害し、バフォメットとワタシに炎を付けた……怒りを……バフォメットに晴らしてほしい……
そう考えた可能性に気づいたことが、怖かった。
そして……昨日、学校の裏側の世界で、スイホさんを追い詰めた時の怒り……
ナルサさんが来てくれなかったら、スイホさんを殺していたあの怒り……
誰かを慰めるために作られた作り物が、誰かに殺意を抱いた。
この鳥羽差市の出来事が……この殺意を作りだしたのかな。
10年前の事件で、心を傷つけられた人の話を聞いたことが……怒りになったのかな。
ワタシの心を作る……見えない紋章が……誰かに埋め込まれているみたい……
あの葬儀場で、人間だったものが……ただの骨になっていくように……
本来作られた目的と……別の存在になっていく……ワタシが……
怖かった。
怖かったんだ。
誰かに作ってもらうのではなく、ワタシがワタシ自身を作ることが……
怖かった。
「ワレハ……」
炎に包まれたバフォメットは、ワタシに近づくこともなく、声を出した。
「ワガ……ムス……メ……慰メ……ラレナイ……」
……!!
「ワレ……ホノオ……包マレテ……イル……タクサン……ニンゲン……殺シタ……ホノ……ニ……包マレテ……イル……」
バフォメット……
「ワレ……ハハノキタイ……果タセ……ナカッタ……ワガ……ムス……メ……抱キシ……メラレ……ナカッタ……」
……
「ワレ……チチ……チガ……ウ……ワガ……ムス……メ……ノ……チカラ……ナレナカ……タ……」
……ワタシの知能の紋章が、ある言葉を再生した。
その言葉を受けて……ワタシは首を振った。
「……?」
だって……バフォメット……
あなたは……
おまえは……
ワタシ……の……
「ほんっとうに……気づいていない……」
!! 「……!?」
ワタシが立っている下から……聞き覚えのある声が……
「オレはキミだよ」
もうひとり……さっきとは別の声が、続いて聞こえた。
「ほんっとうに……気づいていない……」「オレはキミだよ」
こんどは……ふたり同時に……声が聞こえてきた。
「……!!」
巨大な炎は……宙に……浮いた……
足元から……生えた……ヤリによって……
ヤリによって……?
「ワガ……ムス……メ……ヨ……」
バフォメットの体……は……少しずつ……上に……上がっていく……
どこからともなく照らされる、スポットライト。
それとともに、聞こえてくる鐘の音。
ヤリを持って、地面の雪から現われたのは……
鐘を頭に乗せた新郎と、プラスチックの胴体を持った新婦。
ナルサさんと、スイホさんの……インパーソナル。
「ねえナルくん」「いいね……スイちゃん」
ふたりのインパーソナルが……向いた先は……
「ア……アガ……ウス……エ……」
ウエディングケーキを入刀するように突き出された、ヤリの先。
バフォメット……の……人格の……紋章……
「……ヨ……」
人格の紋章は……赤く点滅しはじめた……
形が削れて……魔力を失って……
消えていく。
人格が。
バフォメットが。
ワタシを、
作るきっかけを……与えてくれた、
ワタシの……
お父様が!!
消えていく!!!
「ねえナルくん」「いいね……スイちゃん」
ふたりは、持っているヤリの柄をワタシの側の地面に刺す。
そして……足元の雪に隠れていた羊の紋章に触れて姿を消したかと思うと、再び姿を表わした。
その手に持っていたのは……消化器……
それとともに、バフォメットの体がずるりと、ヤリの柄に向かって落ちていく……
ワタシの元に……
合わせるようにふたりは左右に分かれて、
「ねえナルくん」「いいね……スイちゃん」
やめて!!
バフォメットを……消さないで!!
その炎を、消さないで!!
ワタシに本当の恐怖を教えてくれた……その炎を消さないで!!
染まっていく……!!
お願いだから……!!
白く染めないで!!
ワタシのお父様を……!!
消さないで……
消さないで……
消すな……
消すな……!!!
消すなああア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッッッッッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!
「わが娘よ」
!!
「短かったけど、本当に、楽しかった」
ワタシの目の前に……
真っ白になったお父様が……
ワタシを抱えて……
ワタシとともに……雪へと倒れ込む……
ワタシの後ろに、なにかがボトリと、落ちる音がした。
「あの子と、幸せに」
機械で作られたような……声しか出せなかった……お父様が……
はっきりとした発音で……口にした……?
「……」
お父様……
もう一度……聞かせて……
仰向けになったワタシは、覆い被さっているお父様の顔と見つめ合う。
「……人格ノ紋章ハ、接続ガ切レマシタ」
……お父様?
「自立行動スルニハ、命令ガ必要デス」
なに……言っているの……?
ほら……もう一度……言ってよ……
「命令ヲクダサイ」
もう一度……言ってよ……
「命令ヲクダサイ」
本当に……奇麗な声で言っていたのか……
たしかめたいの……
ワタシの……紋章が……聞き間違えたかもしれない……
その疑惑を……晴らしたいの……
「命令ヲクダサイ」
手のない右腕で、お父様の人格の紋章に触れる。
なんども、なんども、
光を失った、人格の紋章に。
「命令ヲクダサイ」
お父様は、ただのマネキンになってしまった。
ワタシを……守ってくれたお父様を……
ワタシは……守れなかった……
「こうして……10年前の殺人鬼は、事件によって狂わせられた新郎新婦の手によって、その人生に幕を下ろしましたとさ」
どこからか、女の子の声が聞こえてきた。
ウアさんの……声だ。
「そして、10年前の事件で作られたかわいそうな子も……ようやく、その役目を終えることができたのです」
……かってなこと……言わないで……
ワタシの胸からお父様を、ふたりのインパーソナルが引きはがす。
まるで、物みたいに淡々と。
「もう安心して眠っていいよ。キミは、わたしの作品として、生き続けるから」
ウアさんの言葉に共鳴するかのように、
スイホさんのインパーソナルが、お父様からヤリを抜き取り、
ナルサさんのインパーソナルとともに、ワタシの左胸に向けた。
「おやすみ、イザホ」
いい加減にしろ、悪趣味な人間。
ワタシは体を起こして、ヤリの先の刃に向かって頭を突き出した。
おでこから後頭部にかけて、骨を突き破っていく……
抜けなくなるほど深く刺さる前に、ワタシは手のない左腕を、ヤリの柄に押し当て……!
つかんでいるふたりのインパーソナルとともに、横に倒す!!!
すぐにワタシは、ヤリの柄を手のない両腕ではさみ、ワタシの頭部から引っこ抜くと、
地面の雪に向かって飛び込む!
お父様が立っていた場所にある……物を手にいてるために……!
「ほんっとうに……」
後ろで、スイホさんのインパーソナルの声が聞こえた。
「気づいていない……」
気づいていないのは、おまえだ。ウア。
スイホさんでもなく、ナルサさんでもない。
ふたりを殺して……操っている……ウアだ!
ワタシは、地面の物を口にくわえて、スイホさんに向かって勢いよく体をひねった。
スイホさんの持つ、ウエディングナイフ。
そのナイフと交錯したのは、ワタシが加えた……
骨に刃が突き刺さった音は、1度しかこの雪に響かなかった。