「最近掃除をしていなくて……汚いけど、我慢してね」
ハナさんの手によって、1002号室の扉が開かれた。
言っている割には、廊下は奇麗だった。
まるで……その場所をあまり移動していなかったかのように。
玄関で靴を脱いだワタシは、ハナさんに連れられてリビングに足を踏み入れる。
リビングも、ほとんど同じ状態だった。
ハナさんに「そこのソファーに座って」と促されたので、それに従おう。
待っている間、ワタシは自分のおでこに手を触れた。
おでこの真ん中に小さな穴が空いていて、左手の人差し指……その第一関節がはいるぐらいの大きさ。
ベッドに頭を打ち付けている時に、気がつかずに角にぶつけて、刺さっていたみたい。
「おまたせ。すぐに治してあげるわ」
部屋を離れたハナさんは、救急箱を持って戻ってきた。
そして、ソファーの後ろから包帯を巻いてくれた。たぶん、治療の紋章が埋め込まれた包帯だろう。
「あれからもう、1週間になるわね……」
ハナさんの言葉に、ワタシは今座っているソファーを確認した。
たしか……1週間前もハナさんはこのソファーに座っていたはずだ。
冷たいまなざしだった昼間とは違ったうつろ目で、手にスケッチブックを持っていたんだっけ。
それとは違って……今日のハナさんはまるで……
「ねえ、気分はどう? その傷……自分で痛めつけていたみたいだけど……」
ワタシのお母さまのように、優しかった。
どう答えればいいのか迷っていると、「だいじにしてあげてね。あたしたちの大切な人の体だから」と左腕をなでられた。
たしか、この筋肉質の左腕は……ハナさんの夫のものだったはず。
「……これでもうだいじょうぶよ」
ハナさんの言葉に、ワタシは振り返ってハナさんの顔を見てみた。
「よかったら、プリン食べていかない? つい作り過ぎちゃって……」
ワタシがうなずくと、ハナさんはほほえんで上機嫌に台所に向かっていった。
どうして、うなずいたんだろう?
さっきパスタを食べて、もう魔力は十分なのに……
それに、あのハナさんの目……
ハナさんの失った娘である、ウアさんを見ている目なのかもしれない。
ワタシとウアさんを、重ねて……いや、ウアさんそのものとして見ているのかもしれない。
なにをしようとしているのか、読み取れない。
それなのに、どうしてワタシはうなずいたんだろう?
ダイニングルームのテーブルの上に、プリンが置かれた。
「あの日までは、プリンなんて作ったことなんて……なかったけど……この1週間で上達するものなのね」
ハナさんは向こう側の席で、テーブルに肘をつけてワタシを見ていた。
その目線から逸らすように、ワタシは近くにあったゴミ箱を見てみる。
ゴミ箱には、プリンの素の箱。
それが山盛りになるように、入れられていた。とても1日1箱とは思えない、1日になんども使ったような量だ。
どうしてキッチンのゴミ箱に入れられていないのかも、気になるけど。
「あの子に、もっとやさしくあげられたら……ずっと……そのことばかり考えていた」
視線をハナさんに戻すと、ハナさんもゴミ箱を見つめていた。
「10年前……夫を失ったあたしは、どうすればいいのかわからなかった。それでも今思えば、ウアの時よりもまだあたしを保つことができていた」
するとハナさんは、席を立ち、ダイニングルームから立ち去って行った。
「先が見えなかったあたしに、光を照らしてくれたのは……ウアだった」
戻ってきたハナさんが持ってきたのは、アルバム。
ワタシに見せるように開かれたそのアルバムの中には、1枚の絵が描かれた画用紙が入っていた。
それは、クレヨンで描かれた絵。
それは、女の子の絵。
それは、白髪の少女の頭を持った、女の子の絵。
女の子は、笑顔だった。
頭だけの少女も、笑顔だった。
心なしか、彼女たちの足元にある被害者のパーツたちも、生き生きと描かれている。
「この絵……ウアの初めての作品……これを見て、あたしはようやく道を見つけたの」
テーブルの上にアルバムを置いて、ハナさんは再び向かいの席に座る。
「本当はウアもつらかったはずよ。だけど、ウアはそれを受け止めて、絵を描いたの。あたしを励ますために」
絵の中の女の子をなでるように、ハナさんは手で触れる。
「ウアは本当に、あたしの夫……お父さんが大好きだった。昔は世界中を旅していたお父さん。その話をお父さんは絵を描いて、ウアに見せていた。お父さんのはとても下手な絵だったけど、それをウアは書き直してあたしにも見せてくれた……」
そういえばウアさんって……今は美術部に入っていたんだっけ。
ワタシが見たウアさんの作品は水彩画だったけど、昔はクレヨンだったんだ……
「この絵を見た時、あたしは決心した。ひとりでも、ウアを育てるために頑張るって……ウアのために、強くなろう……って」
ハナさんはまぶたを閉じ、笑みを浮かべる。
だけどその笑みは、悲しさが混じっていた。
「でも本当は……ただ忘れたかっただけだった。あたしは親から引き継いだ会社の仕事に取り組みすぎて……ウアを放置していた。ウアが作品を見せに来ても、あたしは見向きもしなかった……ウアに甘えちゃいけないって……思って……」
……
「いくら悔やんだって、ウアは帰ってこない。この絵が動き出すことがないのと、同じように」
いくら悔やんだって……ウアさんは帰ってこない。
いくら……救えなかったことを悔やんだって……
マウも……帰ってこない……
……? 本当に……帰ってこないの?
「ねえ、イザホさん」
ハナさんは、手を差し伸べた。
ワタシが左手を差し出すと、
ハナさんは両手で、力強く握りしめてくれた。
「本当に……ありがとう。ウアを見つけてくれて……ありがとう。あなたのおなかを刺したあたしを……止めずに受け止めてくれて……ありがとう」
胸の中に隠れていた思い……
それを、ワタシは思い出した。
困った人がいたら、手を差し伸べて上げて……
あの時、ワタシはその思いでハナさんを追いかけていた。
事件を追いかけているうちに……それを忘れていた。
だけど……手を差し伸べたつもりがなかったのに……
ハナさんにとっては、手を差し伸べてくれた……
そう捉えて……くれていた。
ぽた……ぽた……と……
テーブルの上に、しずくが落ちる。
「ねえ……約束してくれる……?」
ワタシは泣いていない。
涙なんて、出てこないから。
顔を上げると、ハナさんが泣いていた。
……笑顔で。
「このお父さんの手で……ウアの……ウアが生きていたという……事実を握りしめてほしいの。どんな時でも……落とさないように」
ウアさんは……生きていた。
ワタシがウアさんの存在を知った時には……既にウアさんは死んでいた。
だけど……ウアさんが生きていた事実ということは、知っている。
ウアさんのことを……
ハナさん……リズさん……イビルさん……フジマルさん……テツヤさん……
それに、小学生のアンさんが……話してくれたから。
こぼすことなんて、ないのに。
この左腕に……ウアさんのことは埋め込まれているんじゃないかと、ワタシは考えた。
「イザホさん。プリン、食べてね」
ハナさんに指をさされるまで、ワタシはそのことをすっかり忘れていた。
スプーンを手に取り、プリンをすくい、
口の中に入れる。
ふと、目もとから熱さを感じた。
だけど、“悲しい”ってわけではなかった。
ハナさんは涙を指でぬぐい、「くすっ」っと口元を指でなでた。
ワタシは指で自分の口元をなでて、付着していたプリンのかけらをとった。
ハナさんの住んでいる1002号室。
その玄関の扉を、外廊下の方向から閉めた。
1002号室から立ち去るまで……ハナさんは最後まで、笑顔でいてくれた。
まるで、悲しみはすべて吐き出していたみたいに……
ワタシの胸の中では、あの言葉がなんども再生されていた。
プリンを食べ終えた後、ワタシは気になることについてハナさんにたずねた時……
「あ! イザホさん!!」
突然、横から人に話しかけられ、再生が中断された。
「イザホさん! 何回も電話かけても出てこないから、来ちゃったっすよ!!」
そこに立っていたのは、太めの体形の男性だった。
角刈りの髪形で、白衣を着た男性……
……誰?
「そんな印象に残らなかったから覚えてないって表情で首をかしげないでくださいっす!!」
男性は叫んだ後、ひとつせき払いする。
「俺っちですよ!! アグスっす!!」
!!
知能の紋章が、アグスさんの情報を再生してくれた!
アグスさんは、紋章研究所の所長であるテイさんの助手……ワタシたちがウアさんの検視で訪れた時に、説明していた人だ!!
しばらく会っていなかったから、情報を取り出すのに時間がかかっちゃった……
「思い出してくれてよかったっす……と安心している場合じゃないっす!!」
アグスさんは、いきなりワタシの両腕をつかんだ。
「イザホさん!! 見つかったんっすよ!!! テイ先生を殺した犯人につながる、手がかりが!!!」
エレベーターに向かって、アグスさんとともに走り出す中……
改めてワタシは、プリンを食べ終えた後の、ハナさんとの会話を胸の中で再生する。
「10年前……死体を見つけた子……?」
ウアさんのクレヨンで描いた絵を見た時から、胸の中に疑問が思い浮かんでいた。
そのことについて、スマホの紋章で文字を入力して、ハナさんに見せたんだ。
ハナさんの答えは、すぐに返ってきた。
「もちろん、ウアよ。あの子はお父さんと一緒にキャンプに参加して、あの事件を自分の目で見たの」