「マウくん、もうだいじょうぶ?」
ダイニングルームの中、長いテーブルの前にあるイスに座って、スイホさんはマウの手に治療の紋章が埋め込まれた包帯を巻いてくれた。
「うん。もう平気だよ……スイホさんも、だいじょうぶ?」
マウはスイホさんの前のテーブルに置かれている、写真立てを見てつぶやいた。
先ほどまでスイホさんは、マウのことは忘れたみたいに、しばらく写真立てを見続けていた。
「ちょっと懐かしく……思っちゃってさ……」
そう言いながらも、スイホさんは再び写真立ての写真に目を向ける。
まるで、名残惜しい……そんな感じに。
体格の整った、色黒の女性。
そして……その隣に立っている……
ボサボサの髪で目元を隠した、学生服姿の男性……
その写真を見て、マウは鼻をゆっくりと動かしながらスイホさんを見つめた。
「ねえスイホさん。この写真の男の人……のちの紋章ファッションデザイナーの、ナルサさん……だよね?」
「!」
マウの推測に、スイホさんは体を固める。
「それも……姿の紋章を使ってない……ありのままのナルサさん。ナルサさんがこの姿の紋章で変えていたとしても……言い方悪いけど……あんな地味な格好はしないと思うんだ」
「……そっか。ナルくんのファン……だったよね。マウくんって」
スイホさんは観念したようにため息をついて、テーブルに両肘をつく。
それとともに、マウがこっちを見る。
だいじょうぶだよ。今からマウが話すことは、ワタシの話したいことだから。
その意味をこめて、うなずく。
「そして……その隣にいる女性って……10年前の事件の被害者……そのひとりでしょ?」
スイホさんは、「フフッ」と息のような笑い声を出した。
「……どうしてそう思ったの?」
「このテーブルにスイホさんが肘をつけているのを見てさ、思い出したんだ。紋章研究所でイザホの正体がバレちゃった後のこと。あの時も、こうやって肘をついていたでしょ?」
あの時、スイホさんはワタシが10年前の死体から作られていたことにショックを受けていた。
その時、マウは10年前の事件についてスイホさんにたずねたんだっけ。
――わがままいうのもなんだけど、その話はできればしたくないんだけどね――
たしかスイホさんは、そう答えていたはずだ。
「……イザホちゃん。たしかにあなたの胴体の持ち主は……この女性よ」
スイホさんは写真立てを手にとって、ワタシに見せてくれた。
「彼女はかなりやり手の弁護士で……やり手過ぎて、私の目には悪徳弁護士に写っていたわ。そんな彼女の弟が……ナルくんだった」
この人が……ナルサさんの姉で……弁護士?
「彼女がいなければ私はナルくんと出会っていなかった。彼女の葬式が、ナルくんとの初めての出会いだったから」
「でも、どうして“悪徳”ってつくの?」
「……そう言っているのは私だけだったわ。彼女のやり方は……法には触れないけど、まさに裏技って感じでね……」
スイホさんは、自分の左手を右手でつかんだ。
それと共鳴するように、外の吹雪は強くなり、窓は心拍のように音を立てる。
「イザホちゃんにマウくん……今は廃虚になっている、旧紋章研究所のことは覚えている?」
「10年前の死体が発見された場所だよね。えっと……たしか、紋章による技術を専攻していた私立大学のキャンパスだったっけ?」
ワタシの記憶が確かなら、資金難により阿比咲クレストコーポレーションに買い取られたはずだ。
市街地の研究所は新たに地下が作られ、移動のコストがかかっていた山奥の研究所は廃止された……
「ええ……私を育ててくれた母さんは、あそこの学園長だった」
スイホさんは、窓の外に目を向けながら、旧紋章研究所のことについて語り始めた。
大学の資金難で困っていたところに、阿比咲クレストコーポレーションから買収の話を持ち込まれた当時。
最初はスイホさんの母親や教職員、生徒たちは、大学を取り壊さないために奮闘していた。
資金難は自分たちで乗りこえる。
たとえ、裁判で争っても、渡すもんか。
……そう、意気込んでいた……はずだった。
再び、スイホさんは写真の中の女性と向き合った。
「それが……この弁護士が現地に行って、みんな言いくるめてしまった」
たったひとりがその意気込みを失うと、まるで病気が広がるように、みんな大学を手放すことを考えはじめた。
そして、まだかたくなに買収を拒む者に対して、手放すことに賛成な者が説得をし始める。賛成する人間の数が、反対する人間の数を上回るのは、そこまで時間がかからなかった。
最後には、スイホさんの母親も考えを改め、買収が決まったという……
「今思えば、その弁護士は大学を失った後のことも、考えていたんだと思う。だから教職員たちのほとんどは阿比咲クレストコーポレーションに紋章研究の職員として雇ってもらえたし、そうでない者にも再就職に向けての援助も行ってくれた」
テーブルの上に、スイホさんは写真立てを置く。
「でも……話を聞いていると、スイホさんは納得できなかったんだよね?」
「ええ。小さいころから大学に忍び込んでは、生徒たちと向き合って講義する教授たちを見てきたもの。彼らの生きがいを奪うなんて、許せなかったわ」
続いて、スイホさんは前を見た。
その視線の先にあったのは、写真立てでも、窓でもなく……
壁に飾られた、ログハウスの絵だった。
額縁によって飾られたログハウスは、写真と間違うほど、
繊細に描かれた水彩画だった。
「だから、10年前の事件で犠牲になったって聞いた時は……複雑な気分だったわ。買収される前だったら、また違う感情だったと思うけど……ね」
早めのテンポでまばたきを繰り返しながら語るスイホさんに、マウは鼻をプウプウと鳴らした。
「そういえばスイホさんって……よく髪の毛をいじっているよね」
マウに言われて、スイホさんは巻き付けていた髪の毛から人差し指を離した。
「……なおさなくちゃ、このクセを。緊張するとどうしてもやっちゃうから」
「でも、悪くないと思うよ。どんな風に思いながら昔のことを話してくれているのか、よくわかるから」
マウの言葉に、スイホさんは笑みを浮かべて、再び人差し指に髪の毛を巻き付け始めた。
今までよりも、軽く、かわいらしく。
その様子は、まるで心に抱えていた荷物の一部を、手放すことができたように感じられた。
ワタシは、自分の胸に手を当ててみた。
最後のひとりが、今、わかった。
この胴体は、ワタシたちが引っ越して来た1004号室の隣の住民……ナルサさんの姉だったんだ。
そして、スイホさんにとっては複雑な心境を抱えている……弁護士だった。
右腕、左腕、左足、右足、頭部、そして胴体……
10年前に犠牲となった被害者の見元が、すべてわかった。
被害者の関係者に関しては、あとはナルサさんに直接聞きたい。
それで、ワタシの引っ越して来た動機は果たせる。
ワタシの存在理由を知る、手がかりとなる。
だけど、どうしてかな。
胸の中になんどもフジマルさんの影が現われて、将来の自分の姿が映し出せない。
フジマルさんの耳を見たことに、人格の紋章がまだショックを受けているのかな……
ふとスイホさんに意識を戻すと、スイホさんの表情は固まっていた。
スイホさんの向いているダイニングルームの入り口に、ワタシとマウも振り向いてみる。
「クライ……先輩!?」
入り口の扉は開かれており、
そこにはクライさんがドアノブを握ったまま、固まっていた。
その直後、どこからか皿の割れるような音が聞こえてきた!
「!!」
クライさんは音に驚くようにドアノブから手を離し、その場から走り去ってしまった。
「待って!!」
スイホさんは立ち上がり、クライさんを追いかけはじめる!
「イザホ! ボクたちも行こう!!」
ワタシはうなずき、スイホさんの後に続いた。
ダイニングルームを出て、周りを見渡してみる。
玄関の扉は、閉まったまま。
一方、玄関から見て奥にある扉は、開いていた。
その中にちょうど、スイホさんが入っていく!
「スイホさんっ!!」
その部屋の中は、倉庫のように狭い空間。
暗闇でなにも見えない空間の中で、ただスイホさんは入り口の前でぼうぜんと立ちすくんでいた。
「なんで……こんなものが……!?」
そこにあったのは、羊の形をした紋章。
ただ、これは裏側の世界の出入り口である羊の紋章ではない。
左ではなく、右……
羊の紋章とは逆方向を向いている、羊……
鳥羽差市の裏側、サバトへの入り口となる紋章、
サバトの紋章だった。