まぶたを開けると、見慣れた天井が現われた。
「あ、イザホ……起きちゃった?」
ワタシの小さな右腕に抱きついていたマウが、ワタシの顔を見上げる。
おはよう、マウ。先に起きていたんだね。
右手は抱きつかれているので、大きな左手でなでて上げよう。
「それにしても、もう驚かなくなっちゃったね」
そう言われてみて、ワタシはこの寝室を見渡してみた。
マンション・ヴェルケーロシニの1004号室。
この部屋に来たばかりのワタシは、お屋敷に住んでいたころの記憶が強かったのか、朝起きたら知らない部屋にいたような錯覚に陥っていたんだったっけ。
「この街に引っ越して来てから……17日になるかな?」
……思っていたよりも、最近だったんだ。
まるで……1年以上も立つように長い日々だと、胸に埋め込まれている紋章が錯覚していた。
ウアの活動を停止させ、現代の事件に決着を付けたのが……1週間前。
この鳥羽差市に足を踏み入れてからの10日間は、
10年前の事件を知る人間たち……
ワタシの目の前で、インパーソナルとなった人間たち……
その悲しみを、そして醜さをさらけ出した人間たち……
ワタシという作り物に、影響を与えた人間たち……
彼らと出会った10日間は、
そして、10年前の事件を引き起こしたバフォメットとの出会いは、
リズさんの言っていた、見えない紋章を確かに埋め込んでいた。
「……?」
玄関からインターフォンが鳴らされ、マウは玄関の方向に耳を向けた。
「やっと起きたか」
玄関の扉を開けると、そこには二足歩行の猫……シープルさんが立っていた。
サバトでの言葉使いでこちらをにらむシープルさんに、パジャマ姿のマウは目をこする。
「シープルさあん……こんな朝早くに……んー、どうしたの?」
「あくびしながら答えるような用件でないことはたしかだ」
シープルさんはバックパックの紋章からなにかを取り出して、ワタシに差し出した。
「例のブツだ」
ワタシは、その黒い箱を大きな左手で手に取る。
見た目以上にヒンヤリとしていて、丈夫そうな……縦長の箱。
この中に、“アレ”が入っている……
「それともうひとつ……まもなく、あの方からメッセージが送られてくる。頼んだぞ」
そう言って、シープルさんは玄関の前から立ち去ろうとした……
「え!? ちょっと!! 頼んだって!?」
マウが前に出て呼び止めると――
「めんどくさいなあ」
――先ほどとは違ったトーン……気だるそうな声でシープルさんが答えた。
「オイラはただの清掃員だよお。ただでさえ本職に戻るっていうのに、そんなこと聞かれたって困るんだよねえ」
すっかり鳥羽差市での姿に戻ったシープルさんは、そのままエレベーターの方向へと立ち去ってしまった。
シープルさんの姿が見えなくなった直後、スマホの紋章から着信音が聞こえてきた。
スマホの紋章に、1通のメールが届いていた。
……サバトの元締めからだった。
そのメールに書かれていた内容は、今届いた箱の中身に入っている物の使い方。
そして……今回の事件の後処理、責任を取るために、しばらくサバトからは戻れないことが書かれていた。特にウアによる犯行である可能性があったにも関わらず、ウア周辺の調査に踏み切れなかったことが、一部の部下から不信感を抱かれているらしい。
最悪の場合、鳥羽差市に戻ってこれない可能性もあると……
最後の一文には……こう書かれていた。
――お父さんに伝えてくれる? もうしばらく、友達の家にいるってさ――
「……そうか。リズがそんなことを言っていたんだな」
ワタシたちは今、喫茶店セイラムの中に来ていた。
店長でありリズさんの父親であるイビルさんは、リズさんからの伝言を聞いて笑みを浮かべていた。
伝言と言っても、もちろんリズさんがサバトの元締めであることは隠している。
「……心配しないの?」
カウンター席に座って伝言を伝えたマウは、首をかしげる。
……そういえば、初めて裏側の世界に引きずり込まれたのって、この喫茶店セイラムだったなあ。シルクハットにタキシードという、この街に来たときと同じ格好をしていたマウを見て、ふと懐かしく感じてしまう。
「ああ……なんとなくだが、単なる友人とのお泊まりでないことはわかってる……だけど、そこまで心配する必要のないことだと、記憶のどこかで自覚しているんだ」
そのまま後ろを振り向いて作業を始めてしまった。
「それってちょっと無責任じゃ……」
目を細めたマウだったけど、すぐになにかに気づいたように目を見開いた。
そして、なにか伝えそうにワタシの肩をつついてきた。
耳を貸してみようっと。
「イザホ……リズさんの言ったこと覚えてる? どこでも寝てしまう理由」
……たしか、サバトでリズさんと対面した時に教えてもらったっけ。
サバトでの仕事は多忙のため、覚醒の紋章と呼ばれる、眠らなくなる紋章を埋め込んでいる。その効果を切ると、反動で眠りやすくなる……
「そしてリズさんは……過去の元締めの記憶が埋め込まれた記憶の紋章を埋め込んでいるでしょ?」
その記憶による知識のおかげで、リズさんにサバトの元締めが務められるんだよね。
それがどうしたの……?
「……もしもさ、記憶の紋章にも覚醒の紋章のような副作用があったらさ……その紋章の機能を停止させたら、すごく忘れっぽくなるってことじゃないのかな?」
その可能性に気づいたワタシは、思わずイビルさんの顔を見ようと前を向く。
「……今まで忘れていて、すまなかった」
イビルさんが2杯のコーヒーをワタシたちの前に出したタイミングと、ちょうど被ってしまった。
「ミルクはあらかじめ入れてある……この喫茶店セイラムのコーヒーには私すら忘れることのない、ミルクとコーヒーの黄金比があるもんでな」
マグカップに入った、黄土色の液体が……ワタシの顔を映していた。
「イザホ……これだよ! これが本場の……コーヒーだよ!」
マウまでもが、さっきの言葉を忘れて叫んじゃった。
だけど仕方ないよね。ワタシだって、声帯さえあれば叫んじゃいそうだもの。
今まで、缶コーヒーしか飲んだことのなかったワタシ。
なんども飲もうとしても、いろんな理由で飲めなかったワタシ。
そんなワタシが、マグカップの持ち手を握っている。
中身の液体を、口に少しずつ流し込む。
舌に埋め込んだ紋章は、
缶コーヒーとは違う、
そして、紋章が震えるほどおいしいと……感じ取った。
イビルさんはおでこに手を当てながらつぶやくと、店内の壁に目線を向けた。
「……それにしても、もう1週間もたったんだな」
その方向にあったのは、1枚の絵画。
それは、右に向いたヤギの頭をした絵。
鉛筆だけで書いた、背景のない絵画だ。
「そういえば……バフォメットって、本来は羊じゃなくてヤギの悪魔のことを言うんだっけ?」
「ああ……都市伝説が広まる内に羊とヤギが混じってしまい、バフォメットのイメージが重なって名付けられた……たしか、それを思い浮かべながら私が書いた絵だ」
イビルさんは絵画を見つめ、「ああ、思い出した」とつぶやいた。
「……ウアちゃんが失踪する数日前……ウアちゃんはこの喫茶店に来ていたんだ」
ワタシはコーヒーを片手に、絵画の下に書かれたタイトルに注目した。
【 章紋のイガチマ 】
人間としてのウアが死んだ日から……ウアが鳥羽差市から、姿を消した日から……数日前。
ウアは喫茶店セイラムに訪れ、悩みを打ち明けたらしい。
これから作る傑作……それは本当に、みんなから認められるのか。
その悩みを聞いたイビルさんは、ひとまずタイトルだけを聞いてみた。
「その名前は……【 章紋のトバサ 】。記憶にない言葉でありながら、どこか懐かしい言葉を聞いた私は……絵を描いてみたくなった。そして私はその名前を気に入ったから、一部だけ使っても構わないかと聞いてみたんだ。それとともに、ウアちゃんは吹っ切れたような笑顔を見せたんだ」
マウは両手にマグカップを添えて、絵画の下に目を向けた。
「【 章紋のイガチマ 】……逆から読めば、“間違いの紋章”……」
【 章紋のトバサ 】は……逆から読めば、“サバトの紋章”となる……
鳥羽差市の裏側である、“サバト”の名を冠した紋章になる……
「目の前のことだけを見たことによって、間違いが正解として、埋め込まれた紋章のように後世まで伝えられる。物事の逆から……裏側から見れば……本来の姿が見えてくる……」
ワタシは、サバトの橋の下でバフォメットが教えてくれた……バフォメットが生まれた経緯を思い出す。
バフォメットの顔である羊の頭は……本来はヤギであったところを親しみやすいように羊にした。だけどバフォメットの処分が決まり、匿ったお母さまのひとり娘は、不気味な羊の頭をバフォメットにあげた……
ヤギの悪魔と混同するように、この【 章紋のイガチマ 】と同じような意味を込めるために……あえて不気味な羊にしたのかな……
「最初は自分もやってみたいと思っただけなのに、いつの間にか独特な視点になっていたのは……自分でも驚いた……まだウアちゃんが……犠牲になっていなかったら――」
ふとイビルさんの顔を見てみると、目元を指で軽くこすっていた。
イビルさんも、きっと知らされていないんだ。
ウアがこの事件の犯人であることは、まだ公表されていない。
ただでさえ説明が難しい上に、鳥羽差市の裏側であるサバトが関わっている以上、公表の仕方で鳥羽差市とサバト両方に混乱をもたらす恐れがある。
ワタシもマウも、事件は解決したとひとまず伝えつつ、詳細は警察の発表があってからということにしている。
ゆがんだ
みんなが受け入れて、だけど忘れらてはいけない
「――ああ、また語り合いたい。今度は……リズと3人で……そう思うほど、彼女の姿は紋章のように残り続けている」
ワタシは胸の中で、狂った作者ではないウアの姿を想像しながら、ホットコーヒーを飲み干した。
「……ところでさ、イビルさん。ひとつ言っていい?」
「なんだ?」
「ボクたち……アイスで頼んだはずだけど?」
イビルさんはおでこに手を当て、ワタシたちをじっと見つめた。
「すまん、忘れた」
イビルさんからの入れ直しに対して、ワタシたちは断った。
「本当はぜひアイスも飲みたいんだ。なんだったら、アイスとホット、両方の料金だって払ったって構わない」
マウが席から降りて、イビルさんの顔を見上げる。
「それじゃあ、なにか用事があるのか?」
ワタシが代金を支払っている間、イビルさんがたずねるとマウはゆっくりとうなずいた。
「今日は、イザホの実家に帰るんだ。1日だけの、里帰りに」
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