羊の紋章の先に降り立ったワタシとマウ、クライさんは、懐中電灯の光を頼りに、細い通路を通っていた。
やがて、通路の先で光が照らしたのは、はしご。
マウを頭に乗せてはしごを登り、ワタシは頂上を塞ぐフタに付けられた、スイッチの紋章に触れた。
「……なぜ……ここに……?」
その場所は……廃虚となった旧鳥羽差研究所の、隠し部屋だった。
マウがさらわれた時、イビルさんの助けによって見つけた……隠し部屋。
10年前の事件まで、お母さまのひとり娘によって
「クライさん……この部屋って、現場検証が行われていたはずだよね?」
「うん……内側からしか開けられないから、この先には行けないのはわかるけど……それでも……なにも気づけないほど精巧に擬態していたなんて……」
クライさんは、ワタシたちが出てきた床の穴を見ながらつぶやいていた。
「……それよりも……いったん出よう……個人的なことですまないけど……外の空気が吸いたいんだ」
申し訳なさそうにつぶやくクライさんに、マウは「同感だよ」とうなずく。
ワタシも……死体だから空気は吸えないけど、この胸に埋め込まれた感情を整理したかった。
ワタシたちが廃虚から出ると、薄暗い空が向かえてくれた。
空を見上げると、わずかに向こう側の山から太陽が見える程度だ。
あんな出来事があったなんて、
この街に、悲しい事件が起きていたなんて、
この街が、忘れようとしているように、
あっけなくて、静かだった。
「クライさんはどうするの?」
ワタシの足元で、マウは右手を耳に当てるクライさんを見上げていた。
スマホの紋章で鳥羽差署に連絡していたクライさんは、電話を終えてこちらを見る。
「うん……現場からは離れちゃいけないから……すまないけど……ふたりを送るのは……検察が来てからに……なるかな……」
そうつぶやきながら、クライさんは静かに廃虚の壁にもたれかかり……
まぶたを閉じて、座り込んだ。
「クライさん?」
「うん……ちょっと……休ませて……疲れちゃったから……」
そう言って、クライさんはしゃべらなくなった。
ただ静かに、スースーと寝息を立てている。
「こんなところだと風邪ひいちゃいそうだけど……まあ、仕方ないか……ん?」
マウは2階の窓を見上げ、指を刺した。
「あの部屋から……懐中電灯の明かりが見えたよ!?」
ワタシとマウは、再び廃虚の中へと侵入した。
窓から見えた、懐中電灯の正体を知るために。
ウア、そしてその手下であるローブの人間やインパーソナルではない。
根拠はないけど……ただ、ワタシに敵意を向けるような人物でないような……そんな気がしていた。
ワタシたちは、外から見えた光の位置があった記憶だけを頼りに階段を登り――
10年前の事件が起きた、あの場所へと、たどり着いた。
冷たい廃虚の中、薄暗い明かりが窓から差し込んでいた。
懐中電灯の光は、消えていた。
ワタシとマウは、傍観者のようにひとりの女の子を見つめている。
その女の子の顔は奥を見つめていて、よく見えなかった。
ただ、手に持っている懐中電灯に夢中なのか、ワタシが見えないのか、
こちらに見向きもしない。
「10年前……ウアは、ウアのお父さんとともにキャンプに参加していたの」
廃虚に、声が響く。
「同じようにキャンプをしにきた4人のお友達と仲良くなって――」
この声は……
「――バフォメットによって、お父さんを含むみんなが殺されるところを、目撃することになった」
ぐるりと辺りを見渡して、その人物はワタシに笑いかけた。
サイドに流したロングウェーブの金髪に、後ろを大きな赤いリボンが揺れる。
「ウアは、受け入れるために作品を作り始めた。事件から目を背けようとするウアのお母さんに、もう一度見てもらうために。彼らが殺されたことを、紋章が消えていくことを、恐れていたから」
サバトの元締めであり、ウアの友達……
リズさんはワタシの顔を見て、小さく口を開き、すぐに頬角をあげた。
「なんだか、バフォメットのオマージュみたいになったね。イザホ」
ワタシは思わず、お父さまが付けていた羊のヘルメットに手を当てて、ゆっくりとはずす。
するとリズさんは、バックパックの紋章から手鏡を取り出して、ワタシの顔を映してくれた。
ワタシの左半分の顔面は、骸骨が露出しており、目の紋章が埋め込まれた義眼がじっとこちらを見ている。
そして右半分は……白髪の少女の顔が、耳に半分だけのデニムマスクをぶら下げて、同じようにこちらを見ていた。
半分の骸骨は、
半分の人間の顔は、白髪の少女を……
それぞれ思い出す顔になっていた。
だけど、
これは、ワタシだ。
ワタシなんだ。
胸の中に出てきた言葉、そこに否定という文字は現われなかった。
「ねえ……ウアは見つかった?」
リズさんの言葉に、ワタシは首を振った。
それとともに、マウが前に出る。
「ウアは、いなかったよ。あったのは……ウアの記憶を引き継いだ、作品だけ」
「そっか……でも、終わらせてくれたんでしょ?」
その言葉に、ワタシたちはうなずいた。
リズさんは満足そうに「ふふ」と笑うと、ワタシたちに一歩近づく。
「教えて。ウアの作品のことを」
マウは、先ほどの裏側の世界のことを、話してくれた。
「章紋のトバサ……なんだか、ウアらしい。そういえば紋章も、サバトの紋章と逆だもんね。あの紋章も、章紋のトバサ……なんて名前だったり?」
リズさんは笑みを浮かべていたけど……その息づかいに、力はなかった。
やっぱり……悲しいんだ。
「リズさん……これで、よかったんだよね?」
「うん……マウの言葉で吹っ切れたよ。ウアはもう既に死んでいたって意識したら……ね」
リズさんは、ガラスのない窓へと歩いて行く。
「ウアは……小学校のころから言っていたんだ。あの事件があったから、わたしは作品を作ることを知ったって。悲しいことも、それを利用して作品を作れば……報われるって」
沈み行く太陽を眺めつつ、唇を震わせながら懐かしそうにつぶやいているリズさん。
「その時、ちょうどあたしがサバトの元締めに選ばれて……知らない人の記憶を紋章としてたくさん埋め込められて……なにもわからない状態で混乱していたから……あの言葉には救われたって思ってるから、サバトから抜け出してここにいるのかな」
その言葉を聞いたワタシは、自分の左胸に手を当てて、記憶を再生する。
10年前の事件から、ワタシが生まれた。
10年前の事件から、ウアは作品を伝えることに目覚めた。
ウアの作品によって、母親のハナさんは生きる希望を見つけた。
ウアの作品によって、悲劇を再び呼び起こした現代の事件が生まれた。
現代の事件によって、ワタシは……
過去に起きた悲劇によって、会えてよかった出来事が作られた。
その一方で、再び悲劇を迎え、苦しんだ者たちもいた。
まるで、作品を見た人々の賛否に別れる反応のように……
自分で作ったものではない、他人によって作られたものなのに……
そこに、自分だけの……存在理由を与えられる……
「イザホは、つなぎ合わせた死体にいろんな紋章を埋め込まれて作られた。でも紋章は、イザホが考えてできたわけではなく、作ったりしたわけでもない……」
マウが、かつてリズさんから聞いた言葉を、声の紋章から出した。
ワタシたちを助け、ワタシたちに襲いかかった……
紋章……
その二面性は……作品と似ている……
この死体に埋め込まれた
ワタシたち……
「イザホ、マウ」
振り返ったリズさんに、ワタシは顔を上げる。
「紋章は、他の誰かから埋め込まれて、初めて自分で使うことができる。紋章は、自分では作れない……」
リズさんは、笑ってた。
ウアが悲劇を起こしたという事実を……紋章を……
いい方向に、使おうとして。
「いろんな人に紋章を埋め込んでもらって、あたしたちは作られるの。本当の紋章じゃなくて……“心としての紋章”。その人がスゴイって思えたり、逆によくないって反面教師にしたり……時には勝手につけられたり……でも紋章をどう使うかは、自分で決めることができる」
リズさんが見せた
「この言葉の意味、気づけた?」
「うん。この事件は……ずっと忘れられないよ。鳥羽差市が忘れたって……ボクたちからこの紋章は消えないよ」
マウは自信をもって答えると、ワタシに顔を向けてくれた。
ワタシは、骸骨と人間の顔で笑みを作って、うなずいた。
それに答えるように、奥の非常階段が開かれた。
「……!!」
それは、全身が黒焦げになった、床をはいずる骸骨。
だけどよく見てみると、胸には人格と動作の紋章が、
喉には声の紋章が、輝いている。
わずかに残った肉は炭となり、今にも崩れそうなのか、
紋章の形が崩れそうになり、赤と青の点滅を繰り返していた。
「……ウア?」
それでも、骸骨は進み続けた。
床をはいずり……
リズさんの元へと。
「リ……ず……」
「……ウア!!」
リズに抱きしめられた骸骨……ウアは、
こぼれ続けるリズの涙に打たれながら、
最後の力を振り絞って、声の紋章を輝かせた。
「タの……シ……ン……で…………く………………レ……………………タ……?」
「楽しむよ……!! あたしが幸福になったわけじゃないけど……!! みんな……悲しんでいるけど……!! それでも……忘れるわけのない……!! ずっとこれからも見えない紋章として……残り続ける未来を……楽しむんだよ!!!」
リズさんはウアを抱きしめて、
天井の先にある空へと向かって、
叫んだ。
泣いた。
ワタシが作られてから、1番大きな悲しみを、表現して。
泣いた。
泣いた。
声が枯れていくまで、泣いていた。
そのリズさんの胸で、骸骨になったウアは眠るように頭を落とす。
それとともに、胸から紋章が崩れ落ちて、
本の形をした記憶の紋章は、バラバラになった。
窓から差し込んでいた光は、徐々に消えていき、
完全な暗闇となる。
暗闇の中、赤く輝いた
きえて、なくなった。