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第98話 砂場


 スイホさんの右手の甲からは、赤い液体があふれ出ている。


 それをスイホさんはじっと見つめて、ただ泣き叫んでいる。


「痛い!! 痛い!! 痛い!!」


 人間だから、痛みを不快に思うんだ。


 人間だから、その不快を口に出さないと、耐えられないんだ。




 だけど、ワタシはその痛みがどう感じるのかは、理解できない。


「……ぃ!!」


 ワタシが1歩近づくと、スイホさんの声が止まる。




 ワタシは、死体という名フランケンシュタイン作り物かいぶつ


 人間の感じる痛みも、感覚も、悲しみも、本当の感覚を知らない。


 他人の感じる痛みも、感覚も、悲しみも、本当の感覚を知ることなんて、誰にもできるはずがない。


 同情をしても、それは他人を見て、知った気になっているだけ。


 ワタシが自分で悲しいと思って、初めて悲しいという感情に気づいたように。




「……ぁ……ぁ……」




 だから、ワタシはワタシでいるしかない。


 マウを探さないと。


 ワタシのマウを探さないと。




「!! わ……私の……スマホの紋章を……!?」




 シャープペンシルが刺さったスイホさんの右手でも、人差し指は無事だ。


 右の手首を握って……もう片方の左腕もつかんで……


 スイホさんのスマホの紋章を起動させる。




「待って……!! それは……私のメモを……」




 だって、ワタシのスマホの紋章……穴が空いてて使えないんだもの。


 スイホさんのを借りないと、伝えたいことが伝わらないから。


 スイホさんの左腕の手首を、ワタシの大きな左腕に持ち替えて、小さな右手で入力しよう。




 スイホさん。

 マウの居場所、教えて。


 ワタシが最初の一文を入力すると、スイホさんは汗を流して首を振った。


「……教えられない……!! 教えられない……!!」


 教えてくれるだけでいいの。

 マウは、ワタシの大切な存在。


「知らないわよ……!! あなたとウサギの関係なんて……なんなの!? 彼女気取りなの!?」


 ……


 彼女気取りか……ふうん。




 マウとワタシは、相思相愛。


 彼女という言葉だけじゃ、全然足りない。


 恋人という言葉だけじゃ、まったく足りない。


 彼女気取りという言葉は、今すぐに撤回してほしい。


 スイホさんとナルサさんなんかより、はるかに強い思いで、繋がっているんだ。




「……」


 ねえ、スイホさん。どうして固まっているの?


 ワタシとマウの関係、ちゃんとわかってくれた?


 わかったのなら……


「……」




 教えろよ。




「だから……」




 いい加減、場所を教えろよ。




「言えない……」




 あんな駄作に、ワタシのマウを使うな。




「あの子に従わないと……ナルくんに……バラされる……」




 さっさと言ってしまえばいいのに。




「バラしたくない……バラしたくない……」




 あの子って? もう目星はついてきているけど、だからといって黙るのは許さない。




「あの子は……あの子は……!!」




 そして……




 マウを返せ。




「……返せない……返せないのおッッッッッッ!!」




 スイホさんは、ワタシの手を振り払い、


 足元にある拳銃を拾って、部屋を飛び出してしまった。




 ……逃がしてたまるか。


 破壊した時に折れたであろう、テーブルの棒。

 それを足元から、拾い上げる。


 すぐにワタシは、スイホさんの後を追いかけて扉を開いた。











 テーブルの棒は、握りやすい鉄パイプのようだ。


 その鉄パイプを、大きな左手で握ったまま、


 ワタシは廊下を走る。




 その先を……見苦しいように走るスイホさん。


 曲がり角を曲る度に、転けそうになって両手でバランスを取っている。


 その……後頭部に向かって……ワタシは走る!!




「もう来ないでえええええええええぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!」




 階段を前にして、スイホさんは涙とともになにかを投げつけた。




 それは、1枚のカード。




 そのカードには……バックパックの紋章が青色に光っていた。




 ……紋章が起動している、青色だ。




「どろぼー」




 紋章から、ブリキのネズミたちが飛び出す。




 それがどうした。




 ワタシは身をかがめ、右の手の甲に埋め込んだスタンロットの紋章を起動させ、


 ブリキのネズミたちがこちらに飛びかかった瞬間、自らの体に電流を流す。




 ワタシの体が、けいれんする。


 持っていた鉄パイプは、一度床に置いていたから、どこかに投げ出してしまうことはなかった。

 しゃがんでいるから、バランスを崩して転けてしまうこともない。


 張り付いてきたブリキのネズミは、はじけ飛んだ果実のように飛び散る。


 その隙にワタシは鉄パイプを持って立ち上がり、小さくなってしまったスイホさんの後ろ姿に向かって階段を登る。




「どろ――」




 うるさい。


 ワタシの足元でなにかを言おうとしたブリキのネズミは、パリッという音とともになにも言わなくなった。









 ワタシは、廊下を走り続ける。


 スイホさんは後ろを振り返り、ワタシの顔を見てさらに顔をこわばらせる。





「こないでって言っているでしょおおおおおおお!!!!!」





 その手に握った拳銃をワタシに向け、引き金を引いた。




 ……どこに向かって打ってるの?


 弾丸はたしかに当たっている。

 だけどスイホさん、おとといはちゃんと左胸に当てていたよね?


「はあ……!! ああ……!!」


 スイホさんは、なんども引き金を引く。


 ワタシの体に、銃弾が撃ち込まれていく。


 右目に命中して、義眼がはじけ飛ぶ。


 だけど、知能の紋章や人格の紋章が埋め込まれている左胸には、当たらない。




 慌てているんだ。


 動揺しているんだ。


 銃身が震えて、狙いが定まらないんだ。


 自分を、落ち着かせることができないんだ。




「!? ……」




 スイホさんは、なんども引き金を引いた。


 だけど、もう銃弾は出てこなかった。


「た、弾が……っ!!」


 スイホさんはそのままバランスを崩し、後ろ向きに倒れた。




「ああ……あああ……!!!」




 そのスイホさんを、ワタシは見下す。


 ねえ、マウはどこ?


 早く教えろよ。




「あっあっあっ……」




 ワタシは手に持っている鉄パイプを持ち上げ……




 スイホさんの足に目掛けて、振り下ろした。




「いやああああああああああああああああああ!!!!!!」




 木製の床の一部が割れる音とともに、スイホさんの悲鳴が響き渡る。

 すんでのところで、スイホさんにかわされてしまった。


「もういや!! もういや!! もういやああぁぁ!!」


 スイホさんはすぐに立ち上がり、近くの階段を上がる。


 きっと、あの階段の上は屋上に続いているんだ。

 ワタシは木製の床から鉄パイプを引き抜くと、スイホさんの後を追って階段を駆け上がる。










 屋上の扉の前に見えたのは……教室の机。




 その机の上に、スイホさんは手をつけて、


 机に吸い込まれるように、姿を消した。




 ワタシも階段を駆け上がり、机の前に立つ。


 そして、机の上に埋め込まれた羊の紋章に、ワタシは両手を乗せた!!










 たどり着いた場所は……




 砂漠だった。




 いや、よく見てみると……


 床に巻かれている砂は本物だけど……

 周りの景色は……太陽が昇る砂漠の絵が書かれた、壁だった。




 スイホさんの姿は見えなかったけど、


 代わりに扉がひとつ、奥に見えていた。




 反対側にあったのは……羊の紋章が埋め込まれた机。


 その上には、200ミリリットルのペットボトルサイズのツボ。

 紫とピンクが混じった、怪しい色をしている。




 ――安心してくれ。君の将来を作り上げる、“砂場”を作ったんだ――



 胸の中で、紋章研究所で聞いたテツヤさんの録音を再生する。


 ここが……テツヤさんの言っていた、砂場……




 ……これが、アンさんの将来を作り上げる、砂場?


 こんななにもない場所で、


 誰もいないこの場所で、


 道具もなく、どうやって作り上げるつもりだったの?




 ……今は鑑賞している暇なんてない。


 改めて振り返り、扉に義眼を向ける。




 左手で鉄パイプを握りしめ、


 ワタシは扉を、開いた。










「ひっ……!!」




 隣の部屋も、同じような砂漠。


 前の部屋と違うのは、空が夕焼けのようにオレンジ色に染まっていたことだ。




 部屋の隅にいたのは……スイホさん……!!

 ワタシを目にして、座り込んでガタガタと歯を鳴らしている……




「お願い……こないで……」


 ……スイホさん、教えてくれる?


 その意味を込めてワタシが首をかしげると、スイホさんは首を振った。


「言えない……ナルくんに……知られたくない……から……おまえにも……言えない……」


 ……まだ、続けるのか。


 だったら……もういいよね。


「……!!」




 スイホさんは、この事件の犯人に加担し続けた。


 その中で、仲間だったテツヤさんを引きずり回した上に殺害して、


 その次に、ワタシの恩人であるフジマルさんを……殺した。


 そして……ワタシのマウを連れ去って……


 作品にしようと……した……




 殺すつもりはない。


 おまえと違って、殺すつもりはない。


「……! ……!」


 恐怖で、もう言葉も出ていないみたいだけど……スイホさん。


 痛みを感じたら……その口を開いてくれる……よね……?




 ワタシは、手に持った鉄パイプを振り上げ、




「!!!!」




 下ろした。










「イザホさんッッッッッッッ!!!!!!」








 ワタシの左手を、誰かがつかんだ。




「もう……いいんだ……」

「ナル……くん……?」




 ナルサさんだった。

 ワタシの後ろで、ナルサさんが鉄パイプを持つワタシの左腕を、掴んでいた。


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