スイホさんの右手の甲からは、赤い液体があふれ出ている。
それをスイホさんはじっと見つめて、ただ泣き叫んでいる。
「痛い!! 痛い!! 痛い!!」
人間だから、痛みを不快に思うんだ。
人間だから、その不快を口に出さないと、耐えられないんだ。
だけど、ワタシはその痛みがどう感じるのかは、理解できない。
「……ぃ!!」
ワタシが1歩近づくと、スイホさんの声が止まる。
ワタシは、
人間の感じる痛みも、感覚も、悲しみも、本当の感覚を知らない。
他人の感じる痛みも、感覚も、悲しみも、本当の感覚を知ることなんて、誰にもできるはずがない。
同情をしても、それは他人を見て、知った気になっているだけ。
ワタシが自分で悲しいと思って、初めて悲しいという感情に気づいたように。
「……ぁ……ぁ……」
だから、ワタシはワタシでいるしかない。
マウを探さないと。
ワタシのマウを探さないと。
「!! わ……私の……スマホの紋章を……!?」
シャープペンシルが刺さったスイホさんの右手でも、人差し指は無事だ。
右の手首を握って……もう片方の左腕もつかんで……
スイホさんのスマホの紋章を起動させる。
「待って……!! それは……私のメモを……」
だって、ワタシのスマホの紋章……穴が空いてて使えないんだもの。
スイホさんのを借りないと、伝えたいことが伝わらないから。
スイホさんの左腕の手首を、ワタシの大きな左腕に持ち替えて、小さな右手で入力しよう。
スイホさん。
マウの居場所、教えて。
ワタシが最初の一文を入力すると、スイホさんは汗を流して首を振った。
「……教えられない……!! 教えられない……!!」
教えてくれるだけでいいの。
マウは、ワタシの大切な存在。
「知らないわよ……!! あなたとウサギの関係なんて……なんなの!? 彼女気取りなの!?」
……
彼女気取りか……ふうん。
マウとワタシは、相思相愛。
彼女という言葉だけじゃ、全然足りない。
恋人という言葉だけじゃ、まったく足りない。
彼女気取りという言葉は、今すぐに撤回してほしい。
スイホさんとナルサさんなんかより、はるかに強い思いで、繋がっているんだ。
「……」
ねえ、スイホさん。どうして固まっているの?
ワタシとマウの関係、ちゃんとわかってくれた?
わかったのなら……
「……」
教えろよ。
「だから……」
いい加減、場所を教えろよ。
「言えない……」
あんな駄作に、ワタシのマウを使うな。
「あの子に従わないと……ナルくんに……バラされる……」
さっさと言ってしまえばいいのに。
「バラしたくない……バラしたくない……」
あの子って? もう目星はついてきているけど、だからといって黙るのは許さない。
「あの子は……あの子は……!!」
そして……
マウを返せ。
「……返せない……返せないのおッッッッッッ!!」
スイホさんは、ワタシの手を振り払い、
足元にある拳銃を拾って、部屋を飛び出してしまった。
……逃がしてたまるか。
破壊した時に折れたであろう、テーブルの棒。
それを足元から、拾い上げる。
すぐにワタシは、スイホさんの後を追いかけて扉を開いた。
テーブルの棒は、握りやすい鉄パイプのようだ。
その鉄パイプを、大きな左手で握ったまま、
ワタシは廊下を走る。
その先を……見苦しいように走るスイホさん。
曲がり角を曲る度に、転けそうになって両手でバランスを取っている。
その……後頭部に向かって……ワタシは走る!!
「もう来ないでえええええええええぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!」
階段を前にして、スイホさんは涙とともになにかを投げつけた。
それは、1枚のカード。
そのカードには……バックパックの紋章が青色に光っていた。
……紋章が起動している、青色だ。
「どろぼー」
紋章から、ブリキのネズミたちが飛び出す。
それがどうした。
ワタシは身をかがめ、右の手の甲に埋め込んだスタンロットの紋章を起動させ、
ブリキのネズミたちがこちらに飛びかかった瞬間、自らの体に電流を流す。
ワタシの体が、けいれんする。
持っていた鉄パイプは、一度床に置いていたから、どこかに投げ出してしまうことはなかった。
しゃがんでいるから、バランスを崩して転けてしまうこともない。
張り付いてきたブリキのネズミは、はじけ飛んだ果実のように飛び散る。
その隙にワタシは鉄パイプを持って立ち上がり、小さくなってしまったスイホさんの後ろ姿に向かって階段を登る。
「どろ――」
うるさい。
ワタシの足元でなにかを言おうとしたブリキのネズミは、パリッという音とともになにも言わなくなった。
ワタシは、廊下を走り続ける。
スイホさんは後ろを振り返り、ワタシの顔を見てさらに顔をこわばらせる。
「こないでって言っているでしょおおおおおおお!!!!!」
その手に握った拳銃をワタシに向け、引き金を引いた。
……どこに向かって打ってるの?
弾丸はたしかに当たっている。
だけどスイホさん、おとといはちゃんと左胸に当てていたよね?
「はあ……!! ああ……!!」
スイホさんは、なんども引き金を引く。
ワタシの体に、銃弾が撃ち込まれていく。
右目に命中して、義眼がはじけ飛ぶ。
だけど、知能の紋章や人格の紋章が埋め込まれている左胸には、当たらない。
慌てているんだ。
動揺しているんだ。
銃身が震えて、狙いが定まらないんだ。
自分を、落ち着かせることができないんだ。
「!? ……」
スイホさんは、なんども引き金を引いた。
だけど、もう銃弾は出てこなかった。
「た、弾が……っ!!」
スイホさんはそのままバランスを崩し、後ろ向きに倒れた。
「ああ……あああ……!!!」
そのスイホさんを、ワタシは見下す。
ねえ、マウはどこ?
早く教えろよ。
「あっあっあっ……」
ワタシは手に持っている鉄パイプを持ち上げ……
スイホさんの足に目掛けて、振り下ろした。
「いやああああああああああああああああああ!!!!!!」
木製の床の一部が割れる音とともに、スイホさんの悲鳴が響き渡る。
すんでのところで、スイホさんにかわされてしまった。
「もういや!! もういや!! もういやああぁぁ!!」
スイホさんはすぐに立ち上がり、近くの階段を上がる。
きっと、あの階段の上は屋上に続いているんだ。
ワタシは木製の床から鉄パイプを引き抜くと、スイホさんの後を追って階段を駆け上がる。
屋上の扉の前に見えたのは……教室の机。
その机の上に、スイホさんは手をつけて、
机に吸い込まれるように、姿を消した。
ワタシも階段を駆け上がり、机の前に立つ。
そして、机の上に埋め込まれた羊の紋章に、ワタシは両手を乗せた!!
たどり着いた場所は……
砂漠だった。
いや、よく見てみると……
床に巻かれている砂は本物だけど……
周りの景色は……太陽が昇る砂漠の絵が書かれた、壁だった。
スイホさんの姿は見えなかったけど、
代わりに扉がひとつ、奥に見えていた。
反対側にあったのは……羊の紋章が埋め込まれた机。
その上には、200ミリリットルのペットボトルサイズのツボ。
紫とピンクが混じった、怪しい色をしている。
――安心してくれ。君の将来を作り上げる、“砂場”を作ったんだ――
胸の中で、紋章研究所で聞いたテツヤさんの録音を再生する。
ここが……テツヤさんの言っていた、砂場……
……これが、アンさんの将来を作り上げる、砂場?
こんななにもない場所で、
誰もいないこの場所で、
道具もなく、どうやって作り上げるつもりだったの?
……今は鑑賞している暇なんてない。
改めて振り返り、扉に義眼を向ける。
左手で鉄パイプを握りしめ、
ワタシは扉を、開いた。
「ひっ……!!」
隣の部屋も、同じような砂漠。
前の部屋と違うのは、空が夕焼けのようにオレンジ色に染まっていたことだ。
部屋の隅にいたのは……スイホさん……!!
ワタシを目にして、座り込んでガタガタと歯を鳴らしている……
「お願い……こないで……」
……スイホさん、教えてくれる?
その意味を込めてワタシが首をかしげると、スイホさんは首を振った。
「言えない……ナルくんに……知られたくない……から……おまえにも……言えない……」
……まだ、続けるのか。
だったら……もういいよね。
「……!!」
スイホさんは、この事件の犯人に加担し続けた。
その中で、仲間だったテツヤさんを引きずり回した上に殺害して、
その次に、ワタシの恩人であるフジマルさんを……殺した。
そして……ワタシのマウを連れ去って……
作品にしようと……した……
殺すつもりはない。
おまえと違って、殺すつもりはない。
「……! ……!」
恐怖で、もう言葉も出ていないみたいだけど……スイホさん。
痛みを感じたら……その口を開いてくれる……よね……?
ワタシは、手に持った鉄パイプを振り上げ、
「!!!!」
下ろした。
「イザホさんッッッッッッッ!!!!!!」
ワタシの左手を、誰かがつかんだ。
「もう……いいんだ……」
「ナル……くん……?」
ナルサさんだった。
ワタシの後ろで、ナルサさんが鉄パイプを持つワタシの左腕を、掴んでいた。