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第87話 役立たず



「パナラさんの言う通り……イザホちゃん。今日は食事を取って休んだほうがいい」




 マンション・ヴェルケーロシニの前で、クライさんの車は止まった。


 ワタシが車から降りると、クライさんは運転席の窓を開ける。


「イザホちゃん……マウちゃんのことは……自分に任せて……今日……今日だけは……いっぱい食べて……ゆっくり休んで……」


 クライさんに対して、ワタシは力なくうなずくことしかできなかった。


 声なんて元から出せない。

 スマホの紋章に文字を入力する……気力はなかった。




 自動ドアをくぐり、ロビーを通過する。


 エレベーターに乗り込んで、10と書かれているボタンを押す。


 誰もいない、ワタシ以外誰もいない、エレベーターの中で扉が開くのをただ待つだけ。


 開いたら、雪崩れ込むように扉をくぐるだけ。


 風を感じて……だけど、開放感が感じられないまま、外廊下を進む。


 1004号室の前に、ワタシは死人のように立った。











 クライさんに言われたとおり、食事を取ることにした。


 ダイニングルームのテーブルに置いたのは、コップとパスタ。


 ゆでていないパスタ。

 1束のパスタを、皿の上に乗せている。


 料理する気も、出なかった。




 固いパスタを手にとって、歯でかみちぎる。

 芯のような食感とともに、細切れになったパスタが喉を通っていく。


 パスタの破片が、喉に引っかかった。


 ワタシはそれを不快に感じないまま、コップの中にある水道水で流し込む。


 人間だったら、苦しいのかな。

 喉に引っかかって、息ができなくて、苦しいのかな。




 最後までパスタを食べた。

 皿の上には、パスタの切れ端が落ちている。それらもつまんで残さず食べた。


 人間だったら、最後まで食べきれることもなく吐き出しちゃうのかな。


 だけどワタシは、なにごともなく食べきった。

 プラスチックの胃袋は、それを問題無く栄養を魔力に変えて吸収している。




 両手の手のひらを見てみた。


 右手は、細い女性の腕。

 左手は、筋肉質の男性の腕。




 ふと、目もとから熱さを感じた。




 ワタシは、人間じゃない。











 皿をダイニングルームに放置したまま、ワタシは寝室へと向かった。


 白い壁に、家具が設置されている寝室。

 まるで色のない、白黒の世界だ。


 ワタシは付けているデニムマスクを床に投げ捨てると、


 ベッドの上に、糸が切れるように倒れ込んだ。


 しばらくうつぶせにしていても、マウは話しかけてくれない。

 マウはいないんだ。どこかにいってしまったんだ。


 ただひとり、ベッドのシーツを握る。




 胸の中に、感情が渦巻いている。


 とても不快で……どうすることもできなくて……そして内側から締め付けてくる感情……


 それらがぐちゃぐちゃに混ざり合い、胸の中で暴れている。


 今まで……殺されてきたウアさん、テイさん、テツヤさん……

 3人が殺された時には気づけなかった……


 フジマルさんが殺されて、マウが消えて……初めて気づいた感情……











 悲しい。











 そう、“悲しい”……










 お母さまが感じ続けていた……これが“悲しい”……なんだ……









 この感情……本当は、初めてじゃなかった。


 ただ、お母さまの前では悲しんではいけない。悲しむと、お母さまのひとり娘の代わりという役目を果たせなくなるから。


 そう、自分に言い聞かせて、目を背けていただけ。




 本当は……


 火葬場で、炎に包まれたフジマルさんの母親を見た時も……


 お母さまが病気で倒れ、余命宣告を受けた時も……


 ウアさんを失ったハナさんに、言葉で責められながらおなかを引き裂かれた時も……


 紋章研究所で、テイさんを助けられなかった時も……


 リズさんが消えて、落ち込んでいるイビルさんを見た時も……


 フジマルさんが、仮面の人物の一員かもしれないという疑惑が生まれた時も……




 本当は、今と同じ感情を抱えていた。


 それを、“悲しい”と呼ぶ感情とは気づかなかった。


 それを、“悲しい”と呼ぶ感情とは認めたくなかった。




 人格の紋章が、渦巻く感情を吐き出したがっている。




 ワタシは大きく口を開けて、息を吐き出した。




 だけど、声は出ない。


 息が出ないから、声が出ない。




 ワタシは、喉に意識を向けた。




 だけど、声は出ない。


 声帯も、声の紋章も、埋め込まれていないのだから。




 こんな時、人間だったら涙を流しているのかな。


 顔に付けているベッドのシーツも、涙でシミがつくのかな。




 だけど、涙も出なかった。


 当たり前だ。ワタシは死体という名フランケンシュタイン作り物かいぶつ


 涙を流すことなんて、できない。




 ワタシは……この頭をベッドの上に打ち付けた。


 なんども……


 なんども……


 なんども……!


 なんども……!

 なんども…!

 なんども!




 なんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんども!!!





 打ち付けることしか……できない!!



 痛みは感じないけど……ただ、自分を痛めつけることでしか……


 感情をはき出せない!!!




 どうして声がでないの!!?


 どうして人間みたいに声で感情をはき出せないの!!?




 どうして涙がでないの!!?


 どうして人間みたいに涙で感情を洗い流せないの!!?




 どうして!!? どうして!!? どうして!!?




 ああ!! ああ!! ああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!




 ワタシは!!! ただの作り物だ!!!




 死体という名フランケンシュタイン作り物かいぶつだ!!!




 作り物のくせに!!! わき上がる感情に苦しんでいる!!!


 人間じゃないくせに!!! 感情を押さえ込んでいる!!!




 お母さまを慰めるために作られたのに!!! その役目を果たせていない!!!




 この役立たず!!! この役立たず!!! この役立たず!!!





 あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!












 ああ……ああ……




 マウ……ワタシ……どうすればいいの……?




 シープルさんがただの猫に戻った……


 その光景がなんども再生される。




 フジマルさんが、インパーソナルにされたことがわかった……


 その光景がなんども再生される。




 マウ……マウも……


 あんなになっちゃうの……?




 いやだ……




 いやだよ……




 マウが……ワタシにとってのマウが……消えちゃうなんて……




 いやだよう……











 部屋に、チャイムの音が鳴り響いた。









 ……出たくない。


 ひとりにして。




 言葉がでないせいで、向こうには伝わらなかった。


 なんども、なんども、チャイムの音が鳴る。




 ワタシは、ベッドの角から頭を引きはがす。


 もう……ひとりにしてほしい……


 なにも……考えたくない……




 チャイムを鳴らす人物を追い返すために、ワタシはふらつく足で玄関に向かった。












「こんにちは、イザホさん」









 玄関に立っていた人物を見て、ワタシの思考は停止した。




「あら、だいじょうぶ? 頭にぽっかり穴が空いているわよ?」




 ……お母さま?


 そう間違えそうな……やさしい声でその人物は、ワタシのおでこに手を当てた。




「そのケガを治してあげるわ。ウアを探してくれたお礼、してあげなくちゃ」




 パーカー型のパジャマを着た……


 ベリーショートの髪形……




 阿比咲クレストコーポレーションの社長……ハナさん。




 娘であるウアさんを失って、感情を爆発させていたハナさんは、




 メガネをかけていないその顔で……


 お母さまのような……




 やさしい笑みを、浮かべていた。









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