まぶたを開けると、目の紋章の映像に、のぞき込む男性の顔が映し出された。
目の瞳孔の半分はまぶたで隠れた、暗い顔の……クライさん。
後ろには、大樹の葉っぱが見えている。
まばたきをすると、クライさんの頬角が上がった。
「よかった……イザホちゃんの……体に埋め込んだ紋章が……消えかかっていた……から……」
そのクライさんの手には、しわだらけになったゼリーの容器が握られていた。
容器の表紙を見ると、栄養補給用のゼリー。飲むタイプのゼリーだ。
体を起こしてみる……
なんだか、重い。小さな右手を挙げるだけでも、関節に石が詰まっているように重い。それに、まだ胸がボーッとする。
「イザホちゃん……無理しないで……紋章が消えかかっていたってことは……魔力が消えかけていたんだよね……?」
クライさんは、2個目のゼリーを差し出してくれた。
大樹にもたれかかって、2個目のゼリーを飲むことにした。
唇に力が入らず、袋を押す指の力も足りなかったので、クライさんに袋を押してもらって無理やり口の中に入れる。
それだけではまだ力が出なかったので、クライさんに3個目のゼリーを用意してもらった。
今度は自分の力で、ゼリーを口の中に入れることができた。
……胸に埋め込んだ紋章が、だんだん目が覚めてきたみたい。知能の紋章が、うまく機能するようになってきたんだ。
シワだらけになった3個目のゼリーの容器を片手に、胸に手を当てよう。
ワタシは、なにをしていたんだろう?
たしか、クライさんとホウリさんに引きずられて……裏側の世界から出たはず……
いや、それは昨日の出来事だ。
あの後、裏側の世界へと続く入り口である羊の紋章が、いつものように消えてしまった。
ワタシは、すぐにクライさんたちから離れて、あの裏側の世界に続く羊の紋章を探しに行った。
本当はそんなものは用意されているはずがないのに。
ワタシは、ただそれを探しに行った。
今まで訪れていた場所……屋外、屋内……
サバトには、行けなかった。フジマルさんの事務所にあるサバトの紋章は……誰かが削り取ったのか……消えていたからだ。
それでも、ワタシは探し続けた。
それでも、見つからなかった。
手がかりを得ていたのかは、覚えていない。
当然だ。手がかりなんてひとつもなかったから。
真っ暗になっても……探し続けた。
鳥羽差市を囲む山奥で、体がふらふらになっても……探し続けた。
そして……ワタシはバランスを崩し、崖から落ちた。
落ちた後もしばらくは意識が残っていたのに……ワタシは立ち上がれなかった。
それもそのはずだ。最後に食べたのは……サバトの中でリズさんと一緒に食べたビーフストロガノフ。
あれから……もう40時間は経っている。
ワタシは食事を取ることによって魔力を補っている。
人間が食事を取らないと死んでしまうように、ワタシも食事を取らなければ体に埋め込んだ紋章が消えてしまう。
そのことを、忘れていた……
必死になっていて、忘れていた……
……こんなことをしている場合じゃない。
もう、立ち上がれるはずだ。
「! イザホちゃん……!」
ワタシは立ち上がって、歩き始める。
羊の紋章を探さなきゃ……
マウを助けなきゃ……!!
「愚か者がっ!!!!」
大木から聞こえてきた大声が、周りの木たちを揺らした。
振り返って、ワタシは気づいた。
大樹のそばにあったのは、コテージ。
10年前、事件の被害者たちが泊まっていたというコテージだ。
その大樹は……
「イザホ……おまえはなぜこのような状況になっているのか、判断できておらん」
ワタシの……この状況……
「言ったはずだ。結果を出さなければ、意味がないと」
……ワタシは首を振る。
わかっている……わかっているから……動かないと……マウを助けないと……
「あの白ウサギを助け出すことが、結果であると考えているな? 言葉を話さなくたって、ワシにでもわかるわ」
!!
「それ自体は間違っておらん。だがな、自分を動かすための紋章が消えることが、白ウサギを助けることにつながるのか?」
……
「イザホ。おまえは過程を忘れておる。結果を出さなければ意味はない。それを達成するために行うのが過程だ」
過程と……結果……
「一度帰って頭を冷やせ。それができなければ、ただの死体に戻るがいい。白ウサギを人知れないところで殺したいのならばな」
パナラさんの言葉で、ワタシはその場に崩れ落ちた。
ワタシが取っていた行動は……ただ、紋章を自ら消そうとしていただけ……
マウを助けることとは、つながっていなかった。
「パナラさん……ひとつ言っていいですか?」
見上げるクライさんに、「なんじゃ?」とパナラさんが答える。
「少しは……素直になったらいいと思いますよ……」
言葉を探していたのか、パナラさんはしばらく黙っていた。
「……あいにくだが、ワシにはこの言い方しかなくてな。結果を出すために、持っているものを使うしかないだろう」
「たまには……周りの人間も使ってくださいよ。……頼ってきたら……教えることはできますから。マウちゃんを助けるために、しばらく休むといい……そう言った方がいいと……」
鼻で笑うように、周りの葉っぱが静かに揺れた。
「そんな度胸があるとは思えない若造に、相談できると思うか?」
「これから度胸があると思うようになりますよ……たぶん……」
葉っぱは大きく揺れ、「愚か者がっ!! 今思ったわ!!!」と笑う声。
「……それよりも、イザホをそのまま放っておいていいのか?」
「あ……」
クライさんはワタシの肩をたたいて、「歩ける……?」とたずねてきた。
ワタシはうなずいて、その場で立ち上がる。
「下に車を置いてあるから……自分が送るよ……」
クライさんの後に、ワタシは続いた。
……とにかく、マンションに戻ろう。
クライさんとパナラさんの言葉を聞いていると、少しだけそう思えるようになった。
「……これでいいんだろう? 若造」
立ち去り際、話しかけてきたパナラさんに、
クライさんはほほえみながら、うなずいた。