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第86話 焦りの森





 まぶたを開けると、目の紋章の映像に、のぞき込む男性の顔が映し出された。

 目の瞳孔の半分はまぶたで隠れた、暗い顔の……クライさん。


 後ろには、大樹の葉っぱが見えている。

 まばたきをすると、クライさんの頬角が上がった。


「よかった……イザホちゃんの……体に埋め込んだ紋章が……消えかかっていた……から……」


 そのクライさんの手には、しわだらけになったゼリーの容器が握られていた。

 容器の表紙を見ると、栄養補給用のゼリー。飲むタイプのゼリーだ。


 体を起こしてみる……

 なんだか、重い。小さな右手を挙げるだけでも、関節に石が詰まっているように重い。それに、まだ胸がボーッとする。


「イザホちゃん……無理しないで……紋章が消えかかっていたってことは……魔力が消えかけていたんだよね……?」


 クライさんは、2個目のゼリーを差し出してくれた。




 大樹にもたれかかって、2個目のゼリーを飲むことにした。

 唇に力が入らず、袋を押す指の力も足りなかったので、クライさんに袋を押してもらって無理やり口の中に入れる。


 それだけではまだ力が出なかったので、クライさんに3個目のゼリーを用意してもらった。

 今度は自分の力で、ゼリーを口の中に入れることができた。




 ……胸に埋め込んだ紋章が、だんだん目が覚めてきたみたい。知能の紋章が、うまく機能するようになってきたんだ。

 シワだらけになった3個目のゼリーの容器を片手に、胸に手を当てよう。











 ワタシは、なにをしていたんだろう?

 たしか、クライさんとホウリさんに引きずられて……裏側の世界から出たはず……




 いや、それは昨日の出来事だ。




 あの後、裏側の世界へと続く入り口である羊の紋章が、いつものように消えてしまった。


 ワタシは、すぐにクライさんたちから離れて、あの裏側の世界に続く羊の紋章を探しに行った。


 本当はそんなものは用意されているはずがないのに。

 ワタシは、ただそれを探しに行った。


 今まで訪れていた場所……屋外、屋内……

 サバトには、行けなかった。フジマルさんの事務所にあるサバトの紋章は……誰かが削り取ったのか……消えていたからだ。




 それでも、ワタシは探し続けた。


 それでも、見つからなかった。


 手がかりを得ていたのかは、覚えていない。

 当然だ。手がかりなんてひとつもなかったから。




 真っ暗になっても……探し続けた。


 鳥羽差市を囲む山奥で、体がふらふらになっても……探し続けた。




 そして……ワタシはバランスを崩し、崖から落ちた。




 落ちた後もしばらくは意識が残っていたのに……ワタシは立ち上がれなかった。


 それもそのはずだ。最後に食べたのは……サバトの中でリズさんと一緒に食べたビーフストロガノフ。

 あれから……もう40時間は経っている。


 ワタシは食事を取ることによって魔力を補っている。

 人間が食事を取らないと死んでしまうように、ワタシも食事を取らなければ体に埋め込んだ紋章が消えてしまう。


 そのことを、忘れていた……

 必死になっていて、忘れていた……




 ……こんなことをしている場合じゃない。

 もう、立ち上がれるはずだ。


「! イザホちゃん……!」


 ワタシは立ち上がって、歩き始める。


 羊の紋章を探さなきゃ……

 マウを助けなきゃ……!!











「愚か者がっ!!!!」











 大木から聞こえてきた大声が、周りの木たちを揺らした。




 振り返って、ワタシは気づいた。


 大樹のそばにあったのは、コテージ。

 10年前、事件の被害者たちが泊まっていたというコテージだ。




 その大樹は……辺鳥へんとり自然公園の管理人、パナラさんだった。




「イザホ……おまえはなぜこのような状況になっているのか、判断できておらん」


 ワタシの……この状況……


「言ったはずだ。結果を出さなければ、意味がないと」


 ……ワタシは首を振る。

 わかっている……わかっているから……動かないと……マウを助けないと……


「あの白ウサギを助け出すことが、結果であると考えているな? 言葉を話さなくたって、ワシにでもわかるわ」


 !!


「それ自体は間違っておらん。だがな、自分を動かすための紋章が消えることが、白ウサギを助けることにつながるのか?」


 ……


「イザホ。おまえは過程を忘れておる。結果を出さなければ意味はない。それを達成するために行うのが過程だ」


 過程と……結果……


「一度帰って頭を冷やせ。それができなければ、ただの死体に戻るがいい。白ウサギを人知れないところで殺したいのならばな」




 パナラさんの言葉で、ワタシはその場に崩れ落ちた。


 ワタシが取っていた行動は……ただ、紋章を自ら消そうとしていただけ……

 マウを助けることとは、つながっていなかった。




「パナラさん……ひとつ言っていいですか?」


 見上げるクライさんに、「なんじゃ?」とパナラさんが答える。




「少しは……素直になったらいいと思いますよ……」




 言葉を探していたのか、パナラさんはしばらく黙っていた。


「……あいにくだが、ワシにはこの言い方しかなくてな。結果を出すために、持っているものを使うしかないだろう」

「たまには……周りの人間も使ってくださいよ。……頼ってきたら……教えることはできますから。マウちゃんを助けるために、しばらく休むといい……そう言った方がいいと……」


 鼻で笑うように、周りの葉っぱが静かに揺れた。


「そんな度胸があるとは思えない若造に、相談できると思うか?」

「これから度胸があると思うようになりますよ……たぶん……」


 葉っぱは大きく揺れ、「愚か者がっ!! 今思ったわ!!!」と笑う声。




「……それよりも、イザホをそのまま放っておいていいのか?」

「あ……」


 クライさんはワタシの肩をたたいて、「歩ける……?」とたずねてきた。


 ワタシはうなずいて、その場で立ち上がる。


「下に車を置いてあるから……自分が送るよ……」


 クライさんの後に、ワタシは続いた。




 ……とにかく、マンションに戻ろう。


 クライさんとパナラさんの言葉を聞いていると、少しだけそう思えるようになった。




「……これでいいんだろう? 若造」




 立ち去り際、話しかけてきたパナラさんに、


 クライさんはほほえみながら、うなずいた。






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