ワタシが人格の紋章に傷を付けようとしたあの時、“マウさん”はやって来た。
二足歩行のウサギ……マウさん。
マウさんが来たその夜から、ワタシは毎日、その声を聞いていた。
耳元がくすぐられるような声を。
かわいらしい子供の声帯が、そのまま移植されたかのような声を。
「イザホ。ボクの声は、声の紋章で出しているんだよ」
そうなの? マウさんと一緒にベッドの上に乗ったワタシは、思わずまばたきを早めてしまう。
たしか、お母さまも声の紋章のことについて口にしたことがあるけど……お母さまはワタシに声帯を移植することを拒んでいたから、今までは効果に関して興味がなかった。
「イザホのお母さんから聞いているけど……イザホも、紋章で動いているよね?」
その通りだ。
ワタシは8年前の事件の被害者たち……その遺体をつなぎ合わせられて、紋章によって作られた。
「ボクも似たようなもので……正確には、生きているウサギなんだけど……それに知能を高める紋章、声を出す紋章、視力を上げる紋章……いろんな紋章を埋め込んで、二足歩行で歩いたり、しゃべったりできるようになったんだ」
そうなんだ……
ワタシと……同じ……
だけど違う……マウさんは生きたウサギ……
なのになぜだろう。
ワタシとマウさんは、とても気が合う。
「……イザホ、たしかにボクたちって、とても気が合うよね」
!?
ワタシはなにも伝えていないはず……
声が出ないのに……文字もなにも書いていないのに……
マウさんは、ワタシの思っていることをピタリと当てた。
「やっぱり! どうして当てられたのって顔をしているね。だってイザホは表情が作れるんだもん。ボクはそこから、思っていることを当てたんだ」
ワタシは思わず、顔に手を当てた。
たしかに、人間は“表情”というものを作ることができる。顔の筋肉を使って、思っていることを表現する……だけど、そこまで思考を当てられるとは、思っていなかった。
それに……
ワタシは、寝る前なのに外すことを忘れていたデニムマスクを、外した。
口元が隠れているのに……マウさんは目元でワタシの思考を読み取ったのだろうか?
「それだけどさ……イザホ」
マウさんは、顔を近づけてきた。
少しだけ、頬を赤らめながら。
「たぶんね……ボクたちは、愛し合っているんだよ」
愛し……合っている……?
「首をかしげて不思議がっているね。そうだよ。相思相愛ってやつ」
相思相愛……
ワタシは胸に手を当てて、その言葉を知識の紋章の中から探し出す。
相思相愛とは、互いを愛し合うこと。
互いを愛し合うことは、恋愛感情を持つこと。
だけど、ワタシの知能の紋章は、人間の男女の姿でしか恋愛感情の姿が思い浮かばなかった。言葉の意味だけ記録されている動物の生殖行動を思い浮かべても、ワタシは死体だからそのような機能はない。
愛し合うこととは、その人が大好きだということ。
大好きだということは、仲良しであるということ。
きっと、マウさんはその意味で使ったんだ。
ワタシとマウさんは、相思相愛。
ワタシとマウさんは、相思相愛。
ワタシとマウは、相思相愛。
だから、とっても仲良し。
「ふふ……イザホ、ボクの言葉が伝わったんだね」
マウの言葉に、ワタシはうなずく。
「えへへ……それじゃあこれからも……一緒だよね。ボクたちはずっと……一緒だよね?」
もちろんだよ。マウ。
そう思った瞬間、ワタシの右手がひとりでに動きだし、
マウのおでこに、乗った。
マウをなでると、人格の紋章にまで温もりが伝わった。
あの記憶……火葬場の出来事が……記憶の奥へと押し込まれていく。
マウをなでていること……マウが存在してくれていることが……
人格の紋章に、幸せという感情を与えてくれた。
人格の紋章に、存在していいという実感を与えてくれた。
マウ……これからも……一緒……なんだね……
そのマウの姿が、くしゃりとつぶれた。
右手を上げてみると、あったのは灰。
……おかしい。これはワタシの夢だ。
過去の経験を再現した、夢だ。
マウが消えるなんて、あり得ない。
あの白い毛並みの、マウを……
あの白い……の、マウ……?
どうしてだろう。思い出せなくなってきた。
マ……は……ワタシの大切な……?
名前まで、思い出せなくなってきた。
周りの景色は灰になって崩れ、何もない暗闇へと吸い込んでいく。
ワタシはイザホ……思い出そうとしている……マ……は大切な……
ワタシはイザ……思い出そう……マ……はたいせ……
ワ……自分は……ザ……思……出……マ……は……い……
自分の名前は……思……マ……は……
自分の名前は……思い出すことを失敗した。
人格の紋章が、恐怖という感情を感じた。
人格の紋章が、感情を出すことに失敗した。
人格の紋章と、知能の紋章。
消滅する。あと3時間40分。
魔力が、なくなる。
魔力の残量が、なくなる。
今まで、食事を取っていなかった。
人格の紋章による感情によって、食事という概念が忘れられていた。
最後に食事を取ったのは、40時間23分前。
最後に魔力の補給を行ったのは、40時間23分前。
ワタシは、消える。
……マ……
わずかに覚えている言葉を、再生する。
……マ……
……マ……
……
……
「……ザホ……ん!」
わずかに機能していた紋章が、誰かの声を読み取った。
「これ……飲ん……」
口からなにかを入れられ、喉を通過していく。
ワタシの体に埋め込んだ紋章が、再び活動を始めた。