胸ぐらを捕まれたマウは、まるでタカに連れ去られたウサギのように、手足を宙に浮かせていた。
「いいか? 俺は面倒くさいことが大っ嫌いなんだ」
前にあったシープルさんは、けだるそうだけどものんびりとした口調だったはず。
それが、威圧感の強い声で、マウを圧倒している。
今にもナイフを取り出して、眼球に刺しそう。
そう思えてしまうように。
「指定した時間は早いほうがいい。そんな甘い言葉が染みついているんじゃないよな?」
胸ぐらがシープルさんに近づけられ、マウの三日月の白目が大きくなった。
「言っておくが、30分も早く来られると面倒くさいんだよ。その30分間に面倒くさくなるようななにかをされるかもしれない。それを考えるだけでも、面倒くさいんだ……わかるか?」
マウだけでなく、そばにいたワタシまでシープルさんの長い言葉を止められなかった。
もしかして……こっちがシープルさんの本性……?
その時、着信音が鳴り響いた。
「チッ……」「はうっ!?」
シープルさんはマウを壁に突き飛ばした!
だいじょうぶ!? マウ!?
「いてて……だいじょうぶだよ」
よかった。ケガはないみたい。
シープルさんはそんなマウに目を向けず、手のひらに埋め込んだスマホの紋章を起動させて耳に当てた。
「あー、もしもしー? シープルだけどー」
!? 「!?」
電話に出たとたん、元のシープルさんに戻った――
「なんだ、おまえか」
!! 「!!」
――と思ったら、さっきの威圧感のある声に戻った!
「……そんなことを忘れて、よくぬけぬけと俺に電話をよこしたな。まあいい。時間まで事務所に待機させておく」
きっぱりと言って、シープルさんはスマホを切った。
「ホウリがヘマをやらかしてすまなかったな。あのアマ、早くても面倒くさいことになることを伝え忘れていたらしい」
一応、許された……のかな。
でも、やっぱり口が悪い。病院長のジュンさんよりも悪い。
「なにぼさってしているんだ。早く入れ」
気がつくと、シープルさんは瓜亜探偵事務所の扉を開いていた。
言う通りに事務所に入ろっか、マウ。
「……極道?」
「なんか言ったか」
「ううん!!? なんにも言ってないよ!!?」
……圧倒されているマウ、ちょっと珍しい。
ソファーに座って、メモのアプリに記入を終える。
だけど、なぜか落ち着かない。普段はここでフジマルさんと一緒に今後の予定について話し合っていたのに。
フジマルさんがいないからかな。
それとも、目の前に豹変したシープルさんがいるからかな。
シープルさんは足を組んで、鋭い目つきでスマホの紋章をつついている。時々、見張るようにこっちをにらむことがある。
マウがいきなり、顔をこすり始めた……
緊張をほぐしているのかな……
「……ねえ、シープルさん」
勇気を振り絞るように、マウが声をかける。
シープルさんに鋭い目つきを向けられて、一瞬だけ毛を逆立てたけど、すぐに首を振って毛を戻した。
「フジマルさんのこと、知っているよね?」
「知ってどうする?」
マウは深呼吸をすると、まっすぐシープルさんに鋭い視線を飛ばす。
肉食動物と草食動物が、にらみ合っている。
「ボクたちは、10年前の事件を知るために現代に起きている事件を追いかけている。それはきっと、フジマルさんも同じなんだと思ってる」
「それで?」
「そんなフジマルさんがローブを着て現われたのは、きっと意味がある。ボクたちよりも、1歩先に真相に近づいている……そんな予感がするんだ」
マウはソファーから飛び降り、鼻を動かす。
「ねえ、
それに対してシープルさんは鼻で笑い、右手を上げた。
「その推理は、このポーズからか?」
ピンク色の肉球をこちらに向けて、ツメを右から3本だけ伸ばした。
瑠璃絵小中一貫校でも見たことがある。
あの時、ワタシとマウ、フジマルさんは美術室に向かおうとしていた。
そこでシープルさんがあのサインを見せると、フジマルさんは考えを改め、その場に残った。
あのサインは、フジマルさんに向けられた合図だったんだ。
「ねえ……ド直球にフジマルさんとの関係性じゃなくてもいい。シープルさん……それにホウリさん、フジマルさん……キミたちは、何者なの? この事件とどんな関係があるの?」
「……」
シープルさんは、顔をそらした。
「そろそろ時間だ」
つられてシープルさんが向いている方向に、ワタシは顔を向けた。
そこにあったのは、コンクリートむき出しの壁際に設置されている、柱時計。
その柱時計の長針と短針が、ちょうど12時を指した……
その柱時計の振り子が、ピタリと止まった。
上の針も、同じように止まる。
針が存在する文字盤が、
まるで小窓のように、開いていく。
そこから現われたのは……女性の頭。
女性はずるりとはい出て、床へと落ちた。
「……ホウリさん?」
マウはそのツインリングをほぐした髪形の女性……ホウリさんに近づいた。
ワタシたちが住むマンション・ヴェルケーロシニの1004号室に侵入して、今朝立ち去っていった、あのホウリさんが。
「ふう……」
ホウリさんは立ち上がると、着ている肩なしニットとデニムパンツに手を当てて、はたく動作をした。
「……まったく、変なところに入り口を設けたものだ。フジマルは」
「あ……どうも、イザホさんにマウさん」
その様子を前から知っていたようにため息をつくシープルさんに、何事もなかったかのようにあいさつをしてきたホウリさん。
それよりも、ワタシとマウはあるものから目が離せなかった。
「まさか……瓜亜探偵事務所にも……あったなんて……」
開かれたままになっている、柱時計の文字盤。
その奥には……緑色に輝く、羊の紋章……
「勘違いするな。おまえたちが見てきた
シープルさんに言われて、確かに今までの羊の紋章と違和感があった。
ワタシはスマホの紋章を起動させて、今まで見た写真を見てみる。
今までの羊の紋章は、“左”に向いた羊の頭の形をしていた。
喫茶店セイラムの出来事以降は、羊の形の方がイメージに残りやすくて、向きなんてあまり意識していなかったけど……
だけど、目の前にある紋章は逆だった。
羊が、“右”を向いている……
「あれが、
あんなに臆病だったホウリさんが、まるで強い意思を持っているかのように柱時計に近づく。
それに続いて、普段はけだるそうな口調、先ほどは荒い言葉遣いを放ったシープルさんが向かって行く。
まるで、彼らの裏側……いや、本当の一面を見せるかのように。
ふたりは柱時計の前に立ち、くるりとワタシとマウに体を向けた。
「ようこそ、
「この“サバトの紋章”が、その入り口だ」