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第64話 あのお方






 ワタシは思わず、毛布を蹴り飛ばした。


 ……あの夢だった。

 ワタシが初めて炎を見た、あの時の夢……


 あの炎のせいで、ワタシはお母さまに危害を与えてしまった。

 幸い、大したケガにはならなかったけど……お母さまのひとり娘の代わりという役目を果たせていないと思って、あの後すごく悩んだんだよね……


「……イザホ、だいじょうぶ?」


 ワタシの腕の中で、パジャマ姿のマウが心配そうに見上げてきた。


 だいじょうぶだよ。今となっては、夢の中だけの出来事だから。

 マウの頭をなでて、安心させてあげよう。




 隙間から朝日が差し込むカーテンを見て、違和感に気づく。


 そういえば、どうしてリビングのソファーの上で寝ていたんだろう……




「あ、あの……」




 寝室の方から、誰かが話しかけてきた。


「イザホさん……」


 出てきたその女性は、ツインリングをほぐした髪形に、肩なしニットにデニムパンツ……


 占い師のホウリさんだ。




 昨日の夜、ワタシたちの済んでいる1004号室に、なぜかホウリさんが侵入していた。不審者だと思ったマウの跳び蹴りで気を失ったけどね。

 しばらく起きる気配がなかったので、とりあえず寝室に寝かしておくことにした。だからワタシとマウは、リビングで寝ていたんだっけ。











「……それで、どうして不法侵入をしていたの?」


 リビングで正座をするホウリさんに対して、マウはソファーの上に座って腕を組んでいた。


「実は……その……」


 ホウリさんは落ち着きがないように、部屋のあちこちに目を向けている。


 やっぱり、恐れているのかな。

 ホウリさんの父親は10年前の事件で犯人と間違えられたことがある。クライさんの父親からの感情にまかせた取り調べを受けて……自ら命を絶ってしまった。

 それが原因で、ホウリさんは自分が疑われることを恐れているんだっけ。


「あの……これを……」


 ホウリさんはバックパックの紋章からなにかを取り出して、ワタシたちに見せた。




 それは1枚の折りたたまれた画用紙。




「……」


 マウは警戒するような目線を画用紙に向けていた。

 ワタシも、この画用紙を開くのなら警戒しなければならない。初めて裏側の世界に引きずり込まれた時も、1枚の折りたたまれた画用紙に羊の紋章が埋め込まれていたのだから。


 …… 「……」




 画用紙を開くと、そこには赤い文字が書かれていた。











【 本物の 裏側の世界へ 来い 】










「本物の……裏側の世界?」


 マウににらまれて、「ヒッ!」とホウリさんは背を伸ばす。


「ボクたちが今まで入っていたのは……裏側の世界の偽物だったってこと?」

「言えませんっ! アタイの口からは言えませんっ!!」


 ホウリさんはおびえながらも、まるでなにかの意地のように叫んだ。


「あのお方からの……お願い……なんですから……」


 必死になっているホウリさんの表情を見て、思わずマウと顔を合わせてしまった。














「今日の12時……フジマルさんの事務所に来てください。鍵は空いているはずなので……」


 ワタシたちが服を着替えた後……

 ホウリさんはそう言って、1004号室から立ち去ってしまった。




「手紙を届けるにしても、わざわざ夜中に侵入してくるのかなあ……なにか、まだあるんじゃないかって思うよ」


 マウは玄関でホウリさんを見送りながら、ブッブッと鼻を鳴らしていた。


 そのマウの今日の服装は、久しぶりにタキシードに……黒色の中折れハット。マウいわく、マフィアっぽい服装をイメージしたんだって。

 ちょっと怖そうな服装だけど、マウだからかわいい。


「だけどイザホ、どうして瓜亜探偵事務所を指定したんだろう? あそこって、鍵が閉まっていないのかな?」














 ワタシとマウは、エレベーターの中にいる。


 あれからフジマルさんとは、一切連絡が来ていない。本当なら、今日の予定は瓜亜探偵事務所で、フジマルさんに昨日調べてもらったことを聞く予定だった。

 瓜亜探偵事務所に行けば、なに食わぬ顔でフジマルさんが待っているのかも知れない。そんな予感が、ワタシの胸の中できっとそうだと主張する。




 ――イザホ……マウ……休めと……言っただろう?――




 昨日のフジマルさんのローブ姿と言葉が、その主張を論破してしまった。











 1階のエントランスに降り立ち、玄関に向かって足を進める。


 今日は鳥羽差署で取り調べがある。昨日の裏側の世界のことを、詳しくスイホさんたちに話さないと。


「そういえば、あの人どうなったのかな。スイホさんに聞かないと」


 あの人……阿比咲クレストコーポレーションの本社にある紋章研究所から、紋章を埋め込む道具を盗んだ人だよね。

 たしか、昨日スイホさんが接触したことで、向こうから自供したんだっけ……




「おはようございます、イザホさまにマウさま」




 自動ドアに近づいた瞬間、後ろから声をかけられた。


「わあ。驚かせないでよ、管理人さん」


 マウは開かれた管理人室の扉に両耳を向けた。

 そして続けて、首をかしげた。


「そういえば、管理人さん……聞きたいことが――」

「ホウリさまが1004号室に無断で入ったことですね?」


 あまりの即答に、マウは三日月の白目を出した。


「先日は失礼しました。ホウリさまからは事情を聞いております。決しておふたりに危害を与えたり、物品を盗んだわけではないので、ご安心ください」

「いや、安心できるわけないよ……」


 でも、それなら納得がいく……かも。

 前に一度、ワタシたちが不審者に間違われて拘束されたことがある。その時のセキュリティシステムと管理人さんの反応を見ていると、ホウリさんが無事でいたことに少し疑問を持っていた。


「ねえ、どうしてホウリさんはボクたちの部屋に入る必要があったの?」


 マウが管理人室の扉に向かってたずねると、「ええ」とまるでうなずいているように、このマンション自体に人格を与えられた存在である管理人さんが答える。


「あのお方からの依頼であること……ワタクシにはそれしか言えないのです」


 ……あのお方? 「あのお方?」


 そういえば、さっきホウリさんも、あのお方からのお願いと言っていたような気がする。


「そうそう、このことはホウリさんのことも含めて、他人に口外しないようにお願いします。ワタクシでもおふたりの命が保証できないことになってしまいますので」


 忠告が終わる前に、マウがワタシの1歩先に出てきた。


「そんなことよりも、あのお方って――」




 マウが聞き返そうとした時だった。


 着信音が、響き渡った。




「はい、もしもし」


 マウはすぐにスマホの紋章を起動させて、耳にあてる。

 ワタシも近づいて聞いてみよう。


「イザホちゃん!? マウくん!?」

「スイホさん? どうしたの?」


 聞こえてきたスイホさんの声は、どこか慌てているようだった。




「紋章研究所の……テイさんの死体が!! 見つかったの!! 鳥羽差署の前にッ!!」




 ワタシとマウは、思わず自動ドアから飛び出した。




 後ろでは、顔のないはずの管理人さんが、笑みを浮かべているような気がした。








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