不笠木総合病院の6階にある院長室の扉が、ジュンさんの手によって開かれた。
書籍の詰まった本棚にデスク、来客用のソファーとテーブル、あとは1枚だけ貼られた窓ガラス……それ以外は特に目を引く物がない。
本棚の空いたスペースに飾られた、四角いカードがあることを除けば。
ふたつの穴が空いた、見たことのないカード。
周りが無機質な分、よりそのカードに目が映ってしまう。
「ねえジュンさん……あれって、カセットだよね? ラジカセに入れて音楽を聴くやつの」
ジュンさんは机の後ろにしゃがみながら、「さっさと座れ」と指示した。ワタシはソファーに飛び乗ったマウの隣に腰掛ける。
「このラジカセで音楽を聴いていた時代は、レコードを聞くことが気取っていると言われることもあったらしいな。それが今では、ラジカセがその立場になっている」
ジュンさんはテーブルに大きな機械……ラジカセを置き、次に本棚に飾ってあるカセットの元に向かう。
「それで、さっさと教えてくれよ。今起きている事件のことをよ。女子中学生がひとり死んで、紋章研究所の所長ともうひとりの女子中学生が姿を消した……それぐらいしか、警察から聞いてないからな」
マウはジュンさんの行動に戸惑いつつも、現在起きている事件の進境を伝えた。
最初の犠牲者、ウアさんのこと……
行方不明扱いされている紋章研究所の所長、テイさんが殺されたこと……
ウアさんの友達であるリズさんが、失踪したこと……
たびたび足を踏み入れている、裏側の世界のこと……
姿を現したバフォメット……
そのバフォメットの名前を出した瞬間、カセットは床へたたきつけられた。
床に落ちた衝撃でカセットの表面は割れ、銅色のヒモが癖毛のように絡まって飛び出している。
ジュンさんは落とした手を動かさず……唇を震わせる……
瞳孔ははっきりと小さくなっている。
「バフォメット……アイツを殺したやつが……」
ジュンさんはその小さな瞳孔でワタシをにらむと、こちらに近づき、
ワタシの肩を力強くつかんだ。
「なあ! ヤツの目的はなんだ!? ええ!? おまえか!? おまえなんだな!?」
その手の位置は、首に近い。
肩をつかんでいるといっても、ほとんど首を圧迫しているのに近い。
目は血管が見えるほど開かれている。
「おまえが来たせいで……ヤツはまた現れたんだな!! おまえを狙って!! 再び人を殺してまで!!」
ワタシの体をおおきく揺さぶるジュンさんは、もはや冷静さがなかった。
「ッ!!」
突然、ジュンさんはワタシから手を離し、右目を押さえて横に顔を向けた。
「ねえジュンさん、そこまでにしてよ」
本棚の前でマウは鼻をゆっくりと動かしていた。
反対側を見てみると、壊れたカセットが床に落ちている。
「……冷静さを取り戻す方法としては野蛮だな。当たり所によっては、俺様の目をつぶすことができるぞ?」
「ボクは落ち着いてほしいから投げたんじゃないよ。今、ボクも冷静に物事を考えにくいんだから」
……マウ?
「バフォメットについて問い詰めたっていいし、イザホを死体扱いにしたって構わない。ただ、イザホのせいだという言葉、それだけは撤回してよ。愛する人が無実の責任を負わされるのは、オリの中で縛られることよりも苦しいんだ。自分のことよりも、ずっとね」
……
「愛する? この死体を?」
ワタシが困惑して胸を押さえていると、ジュンさんは天井に顔を向かって――
「がはははははははははははは!!」
大声に出して笑った。
でも決してあざ笑っているのではなく、心の底から、嬉しいと思っているようだった。
「わかったよ。あんたの彼女さんにはもう手を出さんよ。とりあえず、次の話に行くぞ。今度はあんたたちが俺様に質問する番だ」
どう捉えたらいいのかわからないワタシとマウを置いて、ジュンさんは上機嫌に鼻歌を歌いながらソファーに座った。
さっきとは全然違う表情なんだけど……
マウがジュンさんに聞きたいことを聞いてくれた。
「そうか。遺族たちの話を聞きたいということは、俺様とアイツについても聞きたいということか」
「うん……あ、本当につらかったら……別に言わなくていいから……」
あまりの変貌に、マウはすっかり声が細くなってしまってる。
ワタシも胸の中でさまざまな気持ちが丸まった糸のように絡まっている。ジュンさんもそうだけど、先ほどのマウの行動も……
ジュンさんはまぶたを閉じて一度息をはくと、口を開いた。
「別にあんたたちが期待しているようなドラマチックなもんじゃねえ。ただアイツ……俺たちの息子はひとりで挑戦したいと思ってキャンプに参加して、事件に巻き込まれただけだ」
たしかに、人嫌いを克服しようとしてキャンプに参加したテイさんの母親と比べたら、想像しやすい子供の挑戦といった理由だ。
だけど、ハナさんやテイさん、ワタシのお母さまとその表現の違いはあれど、悲しいって思う気持ちは誰にも負けていないと思う。
悲しいという感情を見ただけのワタシであっても、それは理解できる。
「ねえ、俺
「ああ、今は別居中だがな。だからといって浮気者扱いはやめてくれよ? 俺様のナースたちと妻は別だ」
ジュンさんには妻がいる……その人が今、どんな状況なのかはわからないけど……
その時、エレベーターの中でジュンさんが言っていた言葉を思い出した。
「それじゃあ、他に聞きたいことはあるか?」
こちらに顔を向けるマウに対して、ワタシはスマホの紋章を起動させ、文字を入力した。
“どうしてワタシの死体を、引き取らなかったの?”
「それじゃあ、さっそく実験をしようか」
そう言うとジュンさんはラジカセのカセット挿入口を開けた。
次にカセットを手に取ろうとしたけど、テーブルにカセットが置かれていなかったので、別のカセットを本棚から取りに行った。
本当はさっき落としたカセットを使うつもりだったのかな。
改めてカセットを挿入すると、ジュンさんは再生ボタンを押した。
リーン、リーンと、虫の鳴き声が聞こえてきた。
「これは……スズムシの鳴き声?」
スズムシの声って確か、秋に鳴く虫だよね。ワタシは初めて聴いた。
鈴虫の鳴き声は、この院長室に響き渡る。
目を閉じてみると、まるで本当にそばにいるかのように……
「秋になれば実際に聴ける。どうだ? 本当にいると勘違いしただろ?」
停止ボタンをジュンさんが押すとともに、ワタシは即座にうなずいた。
だけど……隣のマウは首をかしげていた。
「そうとは思えないよ。まず、カセットだから仕方ないけど、ノイズがちらほら聞こえる。今はスマホの紋章から聞こえてくるノイズなんてほとんどないよ」
マウの意見に、ジュンさんは笑みを浮かべた。
「それに、あくまでも録音でしょ? “本当にいるようだ”ならともかく、“本当にいると勘違い”することは絶対にないよ。だって、ラジカセから流しているのを聴く前に知っているから」
盛大な拍手を、ジュンさんはマウに送った。
「正解だ。ただ、ウサギの彼女さんの天然な答えがあったからこそ、わかりやすいんじゃないか? 引き取らなかった理由は」
マウはその答えはすぐに思いつかないのか、腕を組んで首をかしげ始めた……
“記憶は紋章で引き継ぐことはできる……でも、それは記憶を再現したものに過ぎないの。録音した声が、電子のデータで再現されてスピーカーから流れるように”
お母さまの言葉が、胸の中で再生された。
ワタシはすぐにスマホの紋章に入力し、ジュンさんに見せる。
「“記憶を埋め込んでも、生き返るのではなく再現したものだけだから”……そのとおりだ」
ジュンさんは自分の首に手を当てて、天井を見上げた。
「あの時……まだ紋章蘇生意思表示カードがなかった10年前、俺は遺族の前で、記憶の紋章で蘇生できるかもしれないと言っちまった……期待の目で向けられる中、ひとりの遺族にこのことを指摘された……」
大きく息を吸い、天井に向かって大きく息をはく。
「本当は最初から俺もわかっていたんだよな……それで生き返ったのはアイツではなく、それを再現したものだって。脳みその中をデータ化して紋章にしただけの……アイツの記憶を持っただけの別人だというだけで……」
マウはじっとジュンさんを見つめ、声を出す。
「他の遺族たちも、それで断ったんだよね?」
「ああ、せめてもの救いだと思ったが……余計に失望させてしまった……そんな中、最初に指摘した遺族が引き取るといいだして……いざ記憶の紋章を埋め込もうとしたら、埋めるなと言われたんだからな」
そういえば……ワタシが作られた時の夢の中で、そんな会話が聞こえていたような気がする。
「人間って、自分勝手だよな。人の都合で生き返らせようとして、それを取りやめる……その理由が、残された人たちは“生き返ったとは思えない”と考えるためだ。本人の意思など、無視して……」
ジュンさんは静かにうつむいた。
「だからといって、アイツの面影を残したパーツを持った生まれ変わりなんて、思い出しそうで引き取る気にもなれない。きっと、他のみんなもそう思っていた」
その顔は、涙とともに、笑みを浮かべていた。
「アイツはもう死んだんだ。体をバラバラにされて、脳みその機能が停止した瞬間に……」
だから、みんな死体を引き取らなかったんだ。
たとえ記憶が移植されても、それは本人が生き返ったわけではないという、ノイズが残ってしまう。そのことを思ってしまうと、残された人にとっては生き返ったとは思えなくなる。
それを指摘した……お母さまの言葉で、みんな気づいてしまったんだ。
だから、みんなは紋章で動く死体を“生き返った”とは思えず、引き取りを拒んだ。
きっと、この事件の被害者たち……ウアさんとテイさんも……生き返ることはできない。
そして、ふたりの再現を作り出す人も、いないだろう。
知能の紋章が記録した先ほどのスズムシの音が、録音したものというマウの言葉を聞いてからは、本物のスズムシではないとしか思えないように……
……それなら、どうしてお母さまだけが、ワタシを作り上げたの?
その時、どこからか音楽が流れてきた。
ラジカセのスピーカーのようにノイズの入っていない、だけどどこからか流れているのは確実だ。
「おっと、もうこんな時間か」
ジュンさんはスマホの紋章に手を触れて、音楽を止めた。電話の着信ではなく、時計のアラームかな?
「実は今日、友人から相談を受けていたんだ。まったく、俺様の知恵が使いこなせるのかねえ」
話の途中で変わっていたジュンさんの一人称が、“俺”から“俺様”に戻った。なんだか、いつもの調子に切り替わったみたい。
そう思っていると、ジュンさんはソファーから立った。
「牧場を持つお金持ちのストーカー被害なんて、警察に通報したほうがよっぽど最善策だと思うがな」
!? 「!?」
部屋から出ようとするジュンさんに、マウはソファーから飛び降りて慌てて追いかける。
「ちょっと待って!? その人の名前って、テツヤさんじゃない?」
「ああ、知っているのか……悪いが、話は後にしてくれ。遅れたら俺様のナースたちに迷惑をかけてしまう。あと、テープとラジカセはあんたたちが戻してくれ」
そそくさと、ジュンさんは出て行ってしまった。
それとともに、こんどは聞き覚えのある着信音が鳴った。
マウのスマホの紋章だ。
「はい、もしもし……ああ、スイホさん?」
ワタシはマウの手に耳を近づけて、話を聞く。
刑事のスイホさんなら、なにか進展があったのかな……
「マウくん、ついに見つかったわ! 紋章研究所内の紋章の道具を持ち出した犯人が!!」