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25:初恋は旦那様

 懇親会は、藤田が運び出されると同時にお開きとなった。

「今までで一番楽しい懇親会だったよ! いやー、こりゃほんとに痛快だ!」

 隊長である砂場も喜色満面だったので、無茶をした甲斐があった。


 しかし藤田のお仲間であろうスポンサーも大喜びしていたのはどうなのか、と島の暗部を見たような気もしつつ、深良はおおむね上機嫌でホールを出た。


 と、ここで記憶がいったん途切れ、次に意識が浮上したのは見慣れた他人の部屋だった。

 しかし、誰の部屋だったか。

 著者名順に書籍の並んだ本棚と、その隣にある事務的な壁掛けカレンダーを見つめ、典都の部屋だと遅れて気づく。そして、自分が横になっているのが彼のベッドだということも。


「なんで、ここに」

 ぼんやり天井を見つめ、深良はぽつりとつぶやいた。

「車の中で倒れるように寝付いたから、心配になって運んだ」

 窓際から、声がした。掛け布団を持ち上げて身を起こせば、机に向かう典都がいた。私物のノートパソコンのキーボードを、素早く叩いている。


「お仕事ですか?」

 ああ、と抑揚のない返事があった。

「日中も来場者に付きっきりだったから、仕事が溜まっている」

「あらら……お疲れ様です」

「島民と接点を持つことは大切だから、仕方ない」


 区切りの良いところまで終わったのか、両手が止まった。同時にキャスター付きの椅子ごと、くるりと深良へ向き直る。

「気分はどうだ?」

 怒っているかと警戒したが、いつも通りの真顔だった。安堵しつつ、深良は頷く。


「すっかり元気です。ちょっとだけ、喉が渇いてるけど」

「君の肝臓はどうなっているんだ」

 眉をひそめた典都は、新種の生き物でも見るような眼を向けてきた。失礼な、と深良はむくれる。


 だが、反論するより早く水入りのグラスを渡され、気勢を削がれた。

「あ、ありがとうございます」

「君がしてくれたことに比べれば、微々たるものだ」

 うつむきがちに、典都はぽつりと言った。そのまま己の足元をにらみ、淡々と続ける。


「本当は、嬉しかった。俺のために、君が怒ってくれて……もちろん、心配したのも本当だ」

「分かってます。心配かけて、ごめんなさい」

 くぴくぴ水を飲みながら、深良も苦笑する。


 そして己の細い指と、節くれだった夫の指にはまる、揃いの指輪を交互に見て、頬をかすかに赤らめた。

「あたしね……本当は、結婚する時に覚悟してたんです。学校に行ける内は、どれだけ酷い目に遭わされても我慢しようって」

「……俺は、そこまで極悪非道に見えたか?」


 かなり傷ついた顔が、のそりと持ち上がった。サイドボードにグラスを置いた深良は、違う違う、と両手を振る。

「あたしが疑心暗鬼だっただけです。誰かの一番になったことがなかったから、典都さんがその、あ……あたしを好きだって、全然思わなくて」


 もじもじと、薬指の指輪を撫でる。耳まで赤くなった彼女を、典都は静かに見つめていた。

 視線を感じ、どんどん速くなる己の鼓動を感じ、それでも深良は続けた。

「だから、優しくしてくれて、我慢したのなんてお風呂の温度ぐらいで……こっちだって、好きになっちゃいます」


 言えた。やっと言えた。羞恥と一緒に、深良はかすかな達成感も覚えた。

 しかし

「ハードルが、あまりにも低くないか?」

返って来たのは、若干呆れた声だった。なんだその反応は、と深良は唇を尖らせる。


「もうちょっと喜んでよ……こっちは死ぬ気で言ったのに」

「いや、不安しかない」

「なんでよ!」

 深良が唇を尖らせ、詰問する。


「他の男に、掠め取られるんじゃないかと不安になる」

 軽口か照れ隠しかと思いきや、どこまでも生真面目が過ぎる声音と表情だった。


 たまらず深良は呆れた。

「惚れっぽかったら、初恋が旦那様、なんてことにならなかったはずです」

 彼女のその言葉に、典都の目が見開かれて、固まった。

「だから、なんでそういう反応するの?」


 こめかみのひび跡を撫でながら、典都はなぜか視線をさまよわせた。

「いや、その……初恋なのか?」

「……前にも言ったじゃないですか。好きになった人がいないって……」

 そこを強調されると、恥ずかしい。深良もむっつりする。


 椅子から身を乗り出した彼が、彼女の手を握った。

 そして、じっと深良を見つめる。

「俺で、いいのか?」


 人のことを言えた立場ではないが、彼もなかなか愛され下手だ。深良はにやける気持ちを、不機嫌顔で隠す。

「よくなけりゃ、飲み比べなんてしませんっ」


 痛いぐらい真摯な眼差しを向ける典都を、まっすぐ見返した。黒曜石の瞳が、凪いだ夜の海のようにきれいだ、と思った。

 束の間、彼の熱くなった手が離れる。少しの寂しさを覚えるが、椅子から降りた典都が、深良の腰かけるベッドに乗り上げ、ドキリとした。


 緊張で頭がくらくらする一方、逃げたいという思いは一片も浮かばない。典都に抱きすくめられながら、おずおずとだが、体を預ける。


 だが、彼の唇が額に落とされた時、はっと気づいた。

「で、典都さん、だめ。お風呂、まだ……」

 自分でもびっくりするぐらい震えた甘え声で、どうにかそれだけ振り絞る。


 しかし彼女の頭に刺さるヘアピンを引き抜きながら、典都は馬耳東風と言わんばかりに泰然たいぜんとしていた。

「大丈夫だ。後で入ればいい」

「やっ、やだ! 汗かいてるもん!」

「どうせまたかく。後で入った方が効率的だ」


 何をして汗をかくんだ、と問い詰めたかったが、抗弁は初めての口づけに飲み込まれた。

 こんなに優しくキスをされれば、もうどうでも良くなった。


 それにこれから、汗のことなんて忘れるような恥ずかしい思いをするのだから、と諦めたように体も弛緩しかんする。

 ベッドに縫い付けられながら、上機嫌かつ色気たっぷりに微笑む夫と目を合わせ、深良も気恥ずかしげにはにかんだ。

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