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19:茶ノ庵にて

 夕食にはまだ早い時間だったので、茶ノ庵は空いていた。

 先客はカウンター席に座る、見慣れた白い綿毛頭のご婦人と、夫らしい紳士だけだった。


「あ、布里絵さん」

 深良が声をかけると、お猪口を持ったほんのり赤い顔の布里絵が振り返る。二人を見とめ、輝くような笑顔になった。

「おや、深良ちゃんじゃないか。典都君と仲良くやってるようだね」

「おかげ様で」

 先ほどまでの甘い空気は微塵も匂わせず、いつも通りの淡白な調子で典都が会釈する。


 布里絵の夫である大戸氏も、隣の席を指し示し、二人を手招きする。

「愛想も物覚えも良くて、器量よしのバイトちゃんが入ってくれたと、妻がいつも嬉しそうに話してくれるんです。おかげでなんだか、初めて会った気がしません」

 布里絵のべた褒めに、深良の頬が赤くなる。最近、よく赤面している気がする。自分の毛細血管は大丈夫だろうか。


「いえ、そんな! こっちこそ、ほんとに色々助けていただいて。とっても感謝しています」

「お若いのに、謙虚だね。旦那様も、とても優秀な自警団さんなんでしょう?」

 仏のような大戸氏の笑顔と声音に、深良もつい顔がにやけた。


 ほかほかのおしぼりを持って来た優枝が、締まりのない笑顔を見て、小さく笑う。

「深良さん、この前来られた時よりきらきらしてますね」

「そう、ですか?」

「ええ。幸せなんだなぁって、見ていて思いますもの。この前は、ちょっと、飼い主が変わって困っている猫ちゃんみたいでしたし」


 言い得て妙だ。たしかに、お湯の温度にすら異議を唱えられない、借りて来られた猫ではあった。

 よく見ているな、と深良は目を僅かに泳がせる。


 優枝は笑顔に申し訳なさを織り交ぜて、実は、と続けた。

「麻生さんの奥さんが霊人の方と聞いて……最初は、少し警戒しちゃっていたんです。駄目ですよね、種族で偏見持ったりしちゃ」

「いえ、仕方ないと思います! だって嫌な人、多いですから!」


 即座に藤田の憎らしい顔を思い出し、深良は語気も強めて同意する。鼻息すら荒い彼女に、典都も喉を鳴らして笑う。

「……なんで笑うのよ」

「すまん。必死過ぎたもので」


 口に手を当てて笑いを噛み殺し、もう片方の手でぐりぐりと、深良の頭を乱暴に撫でる。なんだか子ども扱いされている気分だ。ただ、頭を撫でられること自体は嫌じゃないので、仏頂面ながらも、されるがままでいる。


 二人のじゃれ合いに、布里絵もビーズのような目を柔和に細める。

「私も実のところ、典都君を血も涙もない冷血漢ではなかろうか、と勘ぐっていたからね……これも接客業ではやっていけない、酷い偏見だね。ごめんよ、典都君」

 霊人と非霊人間だけではなく、非霊人同士でも勿論、思い込みや偏見は存在するのか、と深良は再認識した。


 そりゃそうだ。現に深良の中には、直接話したこともない藤田への悪感情が渦巻いている。

 人付き合いって難しい、と広く浅くの交友関係しか築いてこなかった深良は思い知る。

 まずは典都と、深く密な関係を築ければ、と続いて願った。


「俺は愛想も人相も悪いので、それこそ仕方がないです。……あだ名がブロッケンJr.ですし」

 不意打ちのあだ名に、優枝と大戸夫妻は顔を見合わせ、気の抜けた吐息を漏らした。小刻みに、肩を震わせて。そりゃ笑うだろう。深良だって笑った。


「それ、気にしてたんですね」

 だが当人の声は案外ほの暗いので、深良は慰めるように彼を見上げた。

「気にするだろう。しかも一緒なんだ」

「何がですか?」

 はぁ、と典都はため息をつく。肩も落として。

「身長」

「なんというか……だいたいブロッケンなんですね」


 だいたいブロッケン、という深良の指摘に、優枝が体をくの字に折って笑いだす。

 典都はへの字口になっている。ただ否定しないのは、本人にも「だいたいブロッケン」の自覚があるからか。


「ご、ごめんなさぃ……でも、深良さんの言葉選びもおかしくてっ」

 笑いすぎたかすれ声で、優枝が目尻の涙をぬぐいつつ謝罪する。人前で大爆笑、というのは決して上品な行いではないが。しかしなぜだろう。女神のごとき美貌でやられると、神々しさすら感じてしまう。


 優枝は深呼吸で息を整えながら、だけど良かった、と呟いた。深良は、首をかしげる。

「奥さんが、優しくて可愛らしい方で。今まで麻生さんが笑ったりふてくされたところ、お店で見かけたことがなかったので。そうよね、お父さん?」


 厨房で黙々と手を動かしている店長こと父へ、優枝は首を伸ばして意見を求める。背中を向けている店長が、黒い羽越しにこくり、と頷いた。なんとも渋い。

「奥さんといると表情豊かだから、料理のし甲斐もございます」

 お声も渋い。さすがは美貌の看板娘の父である。


「深良ちゃんも、表情が前よりずっと明るくなったな」

 テーブルに頬杖をつきながら、布里絵もにんまり首肯する。

「私やお客さんと話している時は、笑顔だけど何というか……ここから先には入らせない、踏み出さない、ときっぱり線引きを決めている印象があったからね」


 思い当たる節はごまんとあるので、深良も苦い顔で恐縮する。

「ごめんなさい」

 お人好しの布里絵は、かえって申し訳なさそうに首を振った。

「いやいや、悪いことばかりじゃないんだよ! 人の心にずかずか土足で入るより、よっぽど行儀が良いに決まっている!」


 必死な彼女はそこで、一度深呼吸をした。そして、表情を緩める。

「ただちょっと、寂しく感じたり、心配していたんだ。もちろん今日は、安心出来たけどね」

 彼女の細い指が、深良の頬をちょん、と突いた。

「典都君の隣だと、笑顔が自然だ。優枝ちゃんの言うように、きらきらしている──幸せになるんだよ」


 深良の家庭環境を知る彼女からの言葉は、とても温かだった。たまらず潤んだ目を瞬かせ、深良は笑顔で大きく頷いた。

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