己の感情の変遷に気付いたところで、深良の周囲は何も変わらない。
そもそも、好意を抱きつつある相手は、自分の結婚相手なのだから。
関係としては、もはや出来上がり過ぎている。
それに加えて彼女は、こういったことに酷く不慣れだった。なにせ恋愛脳の両親に、延々振り回され続けていたのだ。
恋をする行為そのものを、どうしても忌避すべき、汚らわしいもののように考えていた。
だから努めて態度も変えず、顔色も変えず、色目も使わず、彼女はこれまで通り過ごそうと考えた。
そこに、相手の心情が全く考慮されていない点は、彼女の精神的な幼さが原因だろうか。
今日は病み上がりだからという理由で、学校まで車で送ってもらえることになった。運転手はもちろん、深良の夫だ。
「わざわざありがとうございます」
落ち着かない様子で助手席に座りながら、深良はペコリと頭を下げる。
前を見据えて運転する典都も一瞬、ちらりと視線だけ隣に向けた。
「通勤途中に学校があるんだ。別に大したことじゃない」
とはいえ通学時間に合わせると、典都の出勤はいつもより三十分は早まっていた。
その点を詫びる、あるいは感謝しようとして、深良は止めた。あまり恐縮しても、きっとこの人は眉をひそめて困るだろう、と察した。
深良もそうだが、典都も過剰な感謝は好きでない性質らしい。同居生活の中で、その人となりを少しずつ学んでいた。
だから感謝の言葉を飲み込み、ニコリと笑みを向ける。彼へ見せる笑顔が、少しずつ自然になっている気はした。
「お休みしちゃった分も、勉強頑張ってきます」
「無理のないように」
「はい」
頷けば、典都の口角もほんの少し上がった。そのことが僅かだが、嬉しかった。
車が大通りに面した、大学正門に到着する。人通りも多いこちらに停まるのは気恥ずかしかったが、裏門は住宅街の途上に設けられており、車で入り込むのは難しかった。道も、自転車がすれ違える程度の広さしかない。
気まずそうな深良を察してか、あるいは自分が照れ臭いからか、典都は駐車場の一番奥に車を停めた。幸い、そこは無人だった。
一呼吸置き、深良がシートベルトを外し、膝に置いたカバンを抱えなおす。
「いってきます」
「ああ──いってらっしゃい」
見送りの言葉が出るまで、少しためらいがあった。しかし典都はそれを、しかつめらしい顔で知らんぷりしている。
つい、深良は吹き出す。そして、彼を見上げてふと気づいた。
「あれ、典都さん。首のところに──」
そこから言葉が出なかった。
深良が指さすよりも早く、典都はワイシャツから覗く首を押さえこみ、のけぞるように窓側へ身を寄せた。過剰過ぎる反応はまるで、深良を恐れているようだった。
「首が、どうした?」
あんたこそどうしたんだ、という言葉も呑み込んでしまう程、典都の真っ黒な双眸は怯えで揺れていた。表情は生真面目そうなままなのが、余計に痛々しい。
「え……あ、そこに、絆創膏が貼ってたから……」
指摘して良いのか、と深良はためらいがちに言った。途端、典都が細く長い息を吐く。
警戒心に満ちていた瞳も、わずかに和らいだ。
「昨日、隊長が振り回していた、冷凍バナナで引っかかれた」
「バナナ……?」
「冷凍の」
全く、状況が想像できなかった。いや、想像は一応できたのだが、どうしてもコント風味になってしまった。砂場は、そのバナナで釘でも打とうとしたのか。
「お仕事中に、何してるんですか」
「全くだな、すまん」
先ほどの取り乱した様子など露ほども感じさせず、いつもの泰然とした態度の彼に、深良も気付かなかった振りをするしかなかった。ぎこちなく、笑う。
次いで、そそくさと車から降り、正門を抜けていく青い乗用車を見送った。
そう言えば、彼は顔周りと両手以外、全くと言って良いほど素肌を見せていなかった。
記憶が正しければ、家でもずっと、堅苦しい服装のままだ。
「全身、入れ墨が入ってる……とか?」
細い顎に指を添え、深良はひとりごちる。
民間組織である護花隊は、実力主義だと聞いている。優秀であれば、たとえ元ヤクザでも加入できる──かもしれない。ヤクザではなく、若気の至りで入れた可能性もあるが。
そもそも、入れ墨だと決まったわけではない。ひょっとしたら先祖代々の呪いで、全身に未知の植物等々が生えている可能性も、ゼロではない。
しかし誰にだって、他人に知られたくないことはある。仮にも家族である自分へ見せてくれない事実は、ほんのりと深良を傷つけたが、深良だって彼に気持ちを伝えていないのだ。おあいこである。
まあいいか、と生来の深追いしない性格が表に出て、深良は考えを打ち切った。カバンを肩に掛けなおして、講義のある文学部棟へ向かう。
「酉島」
だが途中で、聞き慣れた声に呼び止められ、ぎくりと足が止まった。
二秒ほど、そのまま固まる。
息を少し浅くして、振り向くと、そこには仁八がいた。
「……おはよう」
返した声音は、自分でも驚くほど冷え冷えとしていた。
仕方がない。脳裏には今、「車から降りるところを、見られた」という衝撃しかなかったのだ。
それを裏付けるように、いつも穏やかな仁八も、どこかぎこちなく、何かをためらっているようだった。
「……ごめん、見ちゃいけなかった? さっき、男の人と──」
──あー、ほら、見られてた! ばっちり同乗者まで!
胸中で絶叫する。
金のための結婚とはいえ、お互い合意の上なのだから、後ろめたいことは何もないはずなのに。深良は顔をしかめるしかなかった。
「別に、見ちゃいけないわけじゃないけど。でも、盗み見されるのは嫌」
平素と違って攻撃的な口調の友人に、仁八も面食らう。
駐車場の一番端っこであるため、周りにあるのは塀と、各教授の個室がある研究棟だけだった。おかげで人気もない。
「ごめん。酉島に彼氏いるって話、聞いたことなかったから、声かけそびれて……」
こちらが非難の目を向けても、仁八は春風のような柔らかさを崩さなかった。ただ、静かにうなだれる。
それがむしろ、深良の心に罪悪感を植え付ける。彼女も視線を足元に落とした。
「あたしもムキになって、ごめん。こういうの初めてで、恥ずかしくて」
「酉島って、照れ隠しで怒るよな」
そう優しい声音で言われると、深良もはにかむしかなかった。
「だって、誰もいないと思ってたから」
「さっき、先生に本借りてたんだ。いつもならここに来ないよ」
仁八は大学図書館所蔵の印とラベルが付いた、古めかしい専門書をカバンから取り出した。教授が図書館の蔵書を、いつまで経っても返却しないのはよくあることだ。
「彼氏は、社会人?」
『彼氏』という表現が、くすぐったい。深良は「彼氏でなく、夫です」と爆弾発言をしたい誘惑に駆られた。それをぐっと堪える。
「うん」
「ちょっとしか見えなかったけど、カッコいい人だったね」
「……うーん」
あいまいに笑って流す。強面気味でガタイも良いので、たしかに同性からの評価は高そうだ。特に仁八のような、もやしっ子からは。
「いつから付き合ってるの?」
「藤田くん、しつこいよ」
芸能レポーターばりの食いつきに、深良は苦い笑いを浮かべる。
教授から借りた本の表紙をいじりながら、仁八はもじもじと返す。
「だって酉島の浮いた話って、初めてだから……それにさ、あの人、結晶人、だよね?」
唐突な質問だった。
「うん、そうだけど」
それがどうしたんだろう、と深良は首をかしげる。
「いや、いいなって」
「え?」
「酉島はさ、相手の種族とか、あんまり気にしないだろ?」
「あ、うん」
その点だけは、両親に感謝している。恋愛中毒とも言える両者は、対象も霊人に絞らなかった。ある意味、博愛主義であろう。
おかげで他種族との交流も、他の家庭より多かったのだ。非平和的交流が、大半ではあったが。
「それが、羨ましいんだ」
悲しい笑顔だった。羨望と、自虐が、ない混ぜになった。
「藤田くんは、そうじゃないの?」
「俺よりも、親が。父親が、差別感情丸出しでさ……交友関係にも、口出されるし」
いつも笑顔を絶やさぬ仁八の、思わぬ苦労を見てしまった気がした。
お金持ちの家庭で生まれ育った、と人づてに聞いた時は、深良の方が羨んでいた。だが、裕福な家庭であっても、火種が全くないわけではないのだろう。
言葉以上の悲しみをにじませる仁八に、なんと声をかけて良いのか分からず、深良は視線を彷徨わせる。
そこで、気付いた。周囲に人がいたのだ。複数人の、ガラの悪い、真面目な大学生には見えない風貌の男たちが。二人は彼らに囲まれていた。
「藤田の坊ちゃんと、その彼女さん。ちょっと来てくれない?」
深良の右手側にいた、マスクを付けた小太りの獣人がもごもごと言った。
映画やドラマの中で、ヒロインは気絶させられた後に、誘拐される。
しかし現実は、そんなまどろっこしいことはしない。
なにせナイフ一本ちらつかせるだけで、一般人でしかない深良も仁八も青ざめ、従うしかないのだから。