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9:バナナの怪

 己の感情の変遷に気付いたところで、深良の周囲は何も変わらない。

 そもそも、好意を抱きつつある相手は、自分の結婚相手なのだから。

 関係としては、もはや出来上がり過ぎている。


 それに加えて彼女は、こういったことに酷く不慣れだった。なにせ恋愛脳の両親に、延々振り回され続けていたのだ。

 恋をする行為そのものを、どうしても忌避すべき、汚らわしいもののように考えていた。


 だから努めて態度も変えず、顔色も変えず、色目も使わず、彼女はこれまで通り過ごそうと考えた。

 そこに、相手の心情が全く考慮されていない点は、彼女の精神的な幼さが原因だろうか。


 今日は病み上がりだからという理由で、学校まで車で送ってもらえることになった。運転手はもちろん、深良の夫だ。

「わざわざありがとうございます」

 落ち着かない様子で助手席に座りながら、深良はペコリと頭を下げる。


 前を見据えて運転する典都も一瞬、ちらりと視線だけ隣に向けた。

「通勤途中に学校があるんだ。別に大したことじゃない」

 とはいえ通学時間に合わせると、典都の出勤はいつもより三十分は早まっていた。


 その点を詫びる、あるいは感謝しようとして、深良は止めた。あまり恐縮しても、きっとこの人は眉をひそめて困るだろう、と察した。

 深良もそうだが、典都も過剰な感謝は好きでない性質らしい。同居生活の中で、その人となりを少しずつ学んでいた。


 だから感謝の言葉を飲み込み、ニコリと笑みを向ける。彼へ見せる笑顔が、少しずつ自然になっている気はした。

「お休みしちゃった分も、勉強頑張ってきます」

「無理のないように」

「はい」

 頷けば、典都の口角もほんの少し上がった。そのことが僅かだが、嬉しかった。


 車が大通りに面した、大学正門に到着する。人通りも多いこちらに停まるのは気恥ずかしかったが、裏門は住宅街の途上に設けられており、車で入り込むのは難しかった。道も、自転車がすれ違える程度の広さしかない。

 気まずそうな深良を察してか、あるいは自分が照れ臭いからか、典都は駐車場の一番奥に車を停めた。幸い、そこは無人だった。


 一呼吸置き、深良がシートベルトを外し、膝に置いたカバンを抱えなおす。

「いってきます」

「ああ──いってらっしゃい」

 見送りの言葉が出るまで、少しためらいがあった。しかし典都はそれを、しかつめらしい顔で知らんぷりしている。


 つい、深良は吹き出す。そして、彼を見上げてふと気づいた。

「あれ、典都さん。首のところに──」

 そこから言葉が出なかった。


 深良が指さすよりも早く、典都はワイシャツから覗く首を押さえこみ、のけぞるように窓側へ身を寄せた。過剰過ぎる反応はまるで、深良を恐れているようだった。


「首が、どうした?」

 あんたこそどうしたんだ、という言葉も呑み込んでしまう程、典都の真っ黒な双眸は怯えで揺れていた。表情は生真面目そうなままなのが、余計に痛々しい。


「え……あ、そこに、絆創膏が貼ってたから……」

 指摘して良いのか、と深良はためらいがちに言った。途端、典都が細く長い息を吐く。

 警戒心に満ちていた瞳も、わずかに和らいだ。


「昨日、隊長が振り回していた、冷凍バナナで引っかかれた」

「バナナ……?」

「冷凍の」

 全く、状況が想像できなかった。いや、想像は一応できたのだが、どうしてもコント風味になってしまった。砂場は、そのバナナで釘でも打とうとしたのか。


「お仕事中に、何してるんですか」

「全くだな、すまん」

 先ほどの取り乱した様子など露ほども感じさせず、いつもの泰然とした態度の彼に、深良も気付かなかった振りをするしかなかった。ぎこちなく、笑う。


 次いで、そそくさと車から降り、正門を抜けていく青い乗用車を見送った。

 そう言えば、彼は顔周りと両手以外、全くと言って良いほど素肌を見せていなかった。

 記憶が正しければ、家でもずっと、堅苦しい服装のままだ。


「全身、入れ墨が入ってる……とか?」

 細い顎に指を添え、深良はひとりごちる。

 民間組織である護花隊は、実力主義だと聞いている。優秀であれば、たとえ元ヤクザでも加入できる──かもしれない。ヤクザではなく、若気の至りで入れた可能性もあるが。


 そもそも、入れ墨だと決まったわけではない。ひょっとしたら先祖代々の呪いで、全身に未知の植物等々が生えている可能性も、ゼロではない。

 しかし誰にだって、他人に知られたくないことはある。仮にも家族である自分へ見せてくれない事実は、ほんのりと深良を傷つけたが、深良だって彼に気持ちを伝えていないのだ。おあいこである。


 まあいいか、と生来の深追いしない性格が表に出て、深良は考えを打ち切った。カバンを肩に掛けなおして、講義のある文学部棟へ向かう。

「酉島」

 だが途中で、聞き慣れた声に呼び止められ、ぎくりと足が止まった。

 二秒ほど、そのまま固まる。


 息を少し浅くして、振り向くと、そこには仁八がいた。

「……おはよう」

 返した声音は、自分でも驚くほど冷え冷えとしていた。

 仕方がない。脳裏には今、「車から降りるところを、見られた」という衝撃しかなかったのだ。


 それを裏付けるように、いつも穏やかな仁八も、どこかぎこちなく、何かをためらっているようだった。

「……ごめん、見ちゃいけなかった? さっき、男の人と──」

──あー、ほら、見られてた! ばっちり同乗者まで!

 胸中で絶叫する。


 金のための結婚とはいえ、お互い合意の上なのだから、後ろめたいことは何もないはずなのに。深良は顔をしかめるしかなかった。

「別に、見ちゃいけないわけじゃないけど。でも、盗み見されるのは嫌」

 平素と違って攻撃的な口調の友人に、仁八も面食らう。


 駐車場の一番端っこであるため、周りにあるのは塀と、各教授の個室がある研究棟だけだった。おかげで人気もない。

「ごめん。酉島に彼氏いるって話、聞いたことなかったから、声かけそびれて……」

 こちらが非難の目を向けても、仁八は春風のような柔らかさを崩さなかった。ただ、静かにうなだれる。


 それがむしろ、深良の心に罪悪感を植え付ける。彼女も視線を足元に落とした。

「あたしもムキになって、ごめん。こういうの初めてで、恥ずかしくて」

「酉島って、照れ隠しで怒るよな」

 そう優しい声音で言われると、深良もはにかむしかなかった。


「だって、誰もいないと思ってたから」

「さっき、先生に本借りてたんだ。いつもならここに来ないよ」

 仁八は大学図書館所蔵の印とラベルが付いた、古めかしい専門書をカバンから取り出した。教授が図書館の蔵書を、いつまで経っても返却しないのはよくあることだ。


「彼氏は、社会人?」

 『彼氏』という表現が、くすぐったい。深良は「彼氏でなく、夫です」と爆弾発言をしたい誘惑に駆られた。それをぐっと堪える。

「うん」

「ちょっとしか見えなかったけど、カッコいい人だったね」

「……うーん」


 あいまいに笑って流す。強面気味でガタイも良いので、たしかに同性からの評価は高そうだ。特に仁八のような、もやしっ子からは。


「いつから付き合ってるの?」

「藤田くん、しつこいよ」

 芸能レポーターばりの食いつきに、深良は苦い笑いを浮かべる。


 教授から借りた本の表紙をいじりながら、仁八はもじもじと返す。

「だって酉島の浮いた話って、初めてだから……それにさ、あの人、結晶人、だよね?」

 唐突な質問だった。

「うん、そうだけど」

 それがどうしたんだろう、と深良は首をかしげる。


「いや、いいなって」

「え?」

「酉島はさ、相手の種族とか、あんまり気にしないだろ?」

「あ、うん」


 その点だけは、両親に感謝している。恋愛中毒とも言える両者は、対象も霊人に絞らなかった。ある意味、博愛主義であろう。

 おかげで他種族との交流も、他の家庭より多かったのだ。非平和的交流が、大半ではあったが。


「それが、羨ましいんだ」

 悲しい笑顔だった。羨望と、自虐が、ない混ぜになった。

「藤田くんは、そうじゃないの?」

「俺よりも、親が。父親が、差別感情丸出しでさ……交友関係にも、口出されるし」

 いつも笑顔を絶やさぬ仁八の、思わぬ苦労を見てしまった気がした。


 お金持ちの家庭で生まれ育った、と人づてに聞いた時は、深良の方が羨んでいた。だが、裕福な家庭であっても、火種が全くないわけではないのだろう。

 言葉以上の悲しみをにじませる仁八に、なんと声をかけて良いのか分からず、深良は視線を彷徨わせる。


 そこで、気付いた。周囲に人がいたのだ。複数人の、ガラの悪い、真面目な大学生には見えない風貌の男たちが。二人は彼らに囲まれていた。

「藤田の坊ちゃんと、その彼女さん。ちょっと来てくれない?」

 深良の右手側にいた、マスクを付けた小太りの獣人がもごもごと言った。


 映画やドラマの中で、ヒロインは気絶させられた後に、誘拐される。

 しかし現実は、そんなまどろっこしいことはしない。

 なにせナイフ一本ちらつかせるだけで、一般人でしかない深良も仁八も青ざめ、従うしかないのだから。

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