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7:翌朝の二人

「風邪気味なら、酒を断るべきじゃないのか」

 幸いにして、典都はそう言わなかった。ただ、

「風呂の設定温度は、早急に検討しよう。我慢を強いて、すまなかった」

と、家に着くなり正座をし、深々と頭を下げた。


 まさかこの年にして、大の男に土下座をさせてしまうとは。深良は徐々に熱の上がっていく頭で、己の妙な立ち位置にぼんやりと、思いを馳せた。

 愛人の家族に対して土下座をする両親の姿は、数限りなく見て来ていたが。


 ただ、謝罪と同時に提案を持ち掛ける典都の姿勢は、前向きで好ましいと感じた。

 加えて典都は、非常に合理的であった。自身が家長であり、稼ぎ頭であるが、それに対する誇りよりも「こちらの方がより、無駄がない」という判断を優先させた。


 深良が一番風呂を頂き、冷めた頃合いで彼が二番風呂を頂戴する、という案が可決されたのだ。やっていることは家政婦の延長版でしかない、深良本人の腰が少しばかり引けたが、光熱費を支払っている当人がそう決めたのであれば、特に反論もなかった。


 そんなわけで久々に熱いお風呂を堪能し、湯冷めする前に布団へ潜り込んだおかげで、翌日の体調はそれほど悪くもなかった。

 とはいえ昨晩は飲酒と夜歩きで体を冷やしたため、微熱は維持されていたが。


──今日は一日、大学を休もう。うん、これは戦略的撤退なんだ。

 布団から顔だけ出した状態のまま、手にした体温計を見上げて考える。相変わらず、頭はズキズキと、血管がうずいている。


 そうと決まれば、手回しが必要だ。深良は同じ講義を取る友人たちにメッセージを送り、後日ノートを貸してくれ、と頼み込んだ。


 早朝だったが、友人からの返事は早かった。「全然かまわないけど、風邪大丈夫?」、「お大事にね」といったメッセージへ手短に感謝の言葉を送りつつ、「要るものある? 帰りに寄ろうか?」という申し出には「来るな!」と伝えた。念を、十重二十重に押して。


 誰にも何も告げずに引越ししていた挙句、見知らぬ男と同居してまーす!などという事が明るみになれば、色々と気まずい。

「買い置きがあるし、病院にも行ったから、大丈夫! ありがとうね」

 そんなメッセージを送り、枕に頬を擦りつけて息を吐く。


 そういえば、喉が渇いた。空腹でもあった。

 えいやっ、と小さく掛け声を上げて身を起こす。実家にいた頃から布団生活であったため、現在も深良の部屋にはベッドがない。広々としたクローゼットが備え付けられているため、手狭さはなかった。


 ぼさぼさの栗毛に手櫛を通しながら、深良は擦りガラスが嵌められた、白い扉を開ける。そして足音をペタペタ鳴らし、ダイニングに向かった。うっかりスリッパを忘れて来たが、少しの間だ。別にいいだろう。


 まだ早い時間だったので、典都がそこにいた。ダイニングと続きになっているキッチンに立っている。相変わらず、シャツの第一ボタンまできっちり締めている。


「おはようございます」

 少しかすれた声で話しかければ、典都はコンロに向かったまま、視線だけを一時向けた。


「おはよう。学校は?」

「今日は休むことにしました」

「それがいい」

「……あのぅ」


 少しためらい、深良は一歩前に進んだ。

「あたし、顔ひどいですか?」

「え?」

「だって、こっち向かないから」

 気のせいだったらごめんなさい、と小さく付け加える。


 コンロの火を消し、典都が振り返る。

「そうじゃない。君が嫌かと思ったんだ」

 こちらを向いて、彼は小さくかぶりを振った。

「嫌って?」

「女性はノーメイク姿を他人に見られるのを、非常に嫌がると聞いたことがある」

 ぽかん、と深良は口を開けた。


 なんだそんなことか──呆気に取られた後、そんな思いがこみ上げ、笑いもふつふつ沸き上がる。

 ひょっとして今まで、室内で顔を合わせたがらなかったのも、これが理由なのかもしれない。


 白い手を当て、深良はにやける口を隠した。

「気にしてたら、こんな格好で出て来ると思いますか?」

 腕を組み、典都はしばし深良を見下ろす。なんだか感心しているようだ。

「思わん。しかし凄い頭だな。君は、お茶の水博士の末裔か?」

「あんなハゲてませんっ」

 寝癖が酷いことは否定しなかった。


 怒った風に声を荒げれば、典都もかすかに左の口角を上げた。

 やはり表情が分かり辛い人だ、と改めて感じる。

 典都は先ほどまで火にかけていた、片手鍋の蓋を持ち上げ、スプーンで中身を混ぜた。


「お粥を作った。食欲があれば食べてくれ」

「あれ。冷やご飯、ありましたっけ?」

 首をひねって、いぶかしむ。

 深良の記憶が正しければ、冷凍庫のご飯も使い切っていたはずだ。


「生米から炊いた。火は通っているはずだ」

「あ、ありがとうございます」

 存外、器用な人だ。

 目を丸くする深良の前髪をかき上げ、典都は何でもない仕草で額に手を重ねた。咄嗟の事に、深良も大人しく額を預ける。


 しばらくして、典都は顔をしかめた。

「平熱が違うから、触っても無意味だったな」

 何の実も結ばない行為へ、少し腹も立てている様子だった。

「そう、ですね」

 陽光差し込む室内だからだろうか。彼の手は、昨夜よりも温かい。しかしやはり、触り心地は抜群のままだ。


「とにかく、休んでいてくれ」

 額から離した手を、どうしたものかと少し彷徨わせた末、握りしめたまま体の脇に下ろした。

 その動きを眺めながら、深良も一つ頷く。


 彼女の了承を見とめ、典都はレンジの上に乗せていたジャケットを羽織る。続いて、床に置いた通勤バッグも手に取った。

「帰りに買い物もする。何か欲しいものがあれば、連絡してくれ」

 携帯の番号は、という問いかけに、深良はもう一度頷く。

「大丈夫。ちゃんと登録してます」


 安堵したように、典都は息をついた。その間も動きは止めず、キッチンからダイニングを通り、玄関へ向かう。深良も後に続いた。

「それじゃあ」

「うん。いってらっしゃい」

 半ば条件反射で言い、深良は右手を振った。


 一瞬、ビックリしたように典都は固まった。

 そして案外幼い表情で、はにかむ。

「良いもんだな、見送りがあると」

 今度は深良が、目を大きく見開く。頬も、かすかに熱を持った。


 しかし典都は、いつものほぼ無表情に戻っており、顔と同じ機械的な口調で「行ってきます」と告げたと思ったら、さっさと出て行った。

「たまに……噛み合わない気がする」

 静かに閉じられた鉄扉を見つめ、深良は呟いた。


 だが思い返せば、深良は朝ごはんの後片付けや夕飯作りにかまけて、ろくすっぽ見送りや出迎えをしていなかった。

 いくら社会人と学生では生活リズムが異なるとは言え、たしかにこれは、良くないことだろう。


 それに深良も、誰かを見送ったり、出迎えるのは嫌じゃない。

 明日からはもう少し早めに起きようか、と考えた。

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