「風邪気味なら、酒を断るべきじゃないのか」
幸いにして、典都はそう言わなかった。ただ、
「風呂の設定温度は、早急に検討しよう。我慢を強いて、すまなかった」
と、家に着くなり正座をし、深々と頭を下げた。
まさかこの年にして、大の男に土下座をさせてしまうとは。深良は徐々に熱の上がっていく頭で、己の妙な立ち位置にぼんやりと、思いを馳せた。
愛人の家族に対して土下座をする両親の姿は、数限りなく見て来ていたが。
ただ、謝罪と同時に提案を持ち掛ける典都の姿勢は、前向きで好ましいと感じた。
加えて典都は、非常に合理的であった。自身が家長であり、稼ぎ頭であるが、それに対する誇りよりも「こちらの方がより、無駄がない」という判断を優先させた。
深良が一番風呂を頂き、冷めた頃合いで彼が二番風呂を頂戴する、という案が可決されたのだ。やっていることは家政婦の延長版でしかない、深良本人の腰が少しばかり引けたが、光熱費を支払っている当人がそう決めたのであれば、特に反論もなかった。
そんなわけで久々に熱いお風呂を堪能し、湯冷めする前に布団へ潜り込んだおかげで、翌日の体調はそれほど悪くもなかった。
とはいえ昨晩は飲酒と夜歩きで体を冷やしたため、微熱は維持されていたが。
──今日は一日、大学を休もう。うん、これは戦略的撤退なんだ。
布団から顔だけ出した状態のまま、手にした体温計を見上げて考える。相変わらず、頭はズキズキと、血管がうずいている。
そうと決まれば、手回しが必要だ。深良は同じ講義を取る友人たちにメッセージを送り、後日ノートを貸してくれ、と頼み込んだ。
早朝だったが、友人からの返事は早かった。「全然かまわないけど、風邪大丈夫?」、「お大事にね」といったメッセージへ手短に感謝の言葉を送りつつ、「要るものある? 帰りに寄ろうか?」という申し出には「来るな!」と伝えた。念を、十重二十重に押して。
誰にも何も告げずに引越ししていた挙句、見知らぬ男と同居してまーす!などという事が明るみになれば、色々と気まずい。
「買い置きがあるし、病院にも行ったから、大丈夫! ありがとうね」
そんなメッセージを送り、枕に頬を擦りつけて息を吐く。
そういえば、喉が渇いた。空腹でもあった。
えいやっ、と小さく掛け声を上げて身を起こす。実家にいた頃から布団生活であったため、現在も深良の部屋にはベッドがない。広々としたクローゼットが備え付けられているため、手狭さはなかった。
ぼさぼさの栗毛に手櫛を通しながら、深良は擦りガラスが嵌められた、白い扉を開ける。そして足音をペタペタ鳴らし、ダイニングに向かった。うっかりスリッパを忘れて来たが、少しの間だ。別にいいだろう。
まだ早い時間だったので、典都がそこにいた。ダイニングと続きになっているキッチンに立っている。相変わらず、シャツの第一ボタンまできっちり締めている。
「おはようございます」
少しかすれた声で話しかければ、典都はコンロに向かったまま、視線だけを一時向けた。
「おはよう。学校は?」
「今日は休むことにしました」
「それがいい」
「……あのぅ」
少しためらい、深良は一歩前に進んだ。
「あたし、顔ひどいですか?」
「え?」
「だって、こっち向かないから」
気のせいだったらごめんなさい、と小さく付け加える。
コンロの火を消し、典都が振り返る。
「そうじゃない。君が嫌かと思ったんだ」
こちらを向いて、彼は小さくかぶりを振った。
「嫌って?」
「女性はノーメイク姿を他人に見られるのを、非常に嫌がると聞いたことがある」
ぽかん、と深良は口を開けた。
なんだそんなことか──呆気に取られた後、そんな思いがこみ上げ、笑いもふつふつ沸き上がる。
ひょっとして今まで、室内で顔を合わせたがらなかったのも、これが理由なのかもしれない。
白い手を当て、深良はにやける口を隠した。
「気にしてたら、こんな格好で出て来ると思いますか?」
腕を組み、典都はしばし深良を見下ろす。なんだか感心しているようだ。
「思わん。しかし凄い頭だな。君は、お茶の水博士の末裔か?」
「あんなハゲてませんっ」
寝癖が酷いことは否定しなかった。
怒った風に声を荒げれば、典都もかすかに左の口角を上げた。
やはり表情が分かり辛い人だ、と改めて感じる。
典都は先ほどまで火にかけていた、片手鍋の蓋を持ち上げ、スプーンで中身を混ぜた。
「お粥を作った。食欲があれば食べてくれ」
「あれ。冷やご飯、ありましたっけ?」
首をひねって、いぶかしむ。
深良の記憶が正しければ、冷凍庫のご飯も使い切っていたはずだ。
「生米から炊いた。火は通っているはずだ」
「あ、ありがとうございます」
存外、器用な人だ。
目を丸くする深良の前髪をかき上げ、典都は何でもない仕草で額に手を重ねた。咄嗟の事に、深良も大人しく額を預ける。
しばらくして、典都は顔をしかめた。
「平熱が違うから、触っても無意味だったな」
何の実も結ばない行為へ、少し腹も立てている様子だった。
「そう、ですね」
陽光差し込む室内だからだろうか。彼の手は、昨夜よりも温かい。しかしやはり、触り心地は抜群のままだ。
「とにかく、休んでいてくれ」
額から離した手を、どうしたものかと少し彷徨わせた末、握りしめたまま体の脇に下ろした。
その動きを眺めながら、深良も一つ頷く。
彼女の了承を見とめ、典都はレンジの上に乗せていたジャケットを羽織る。続いて、床に置いた通勤バッグも手に取った。
「帰りに買い物もする。何か欲しいものがあれば、連絡してくれ」
携帯の番号は、という問いかけに、深良はもう一度頷く。
「大丈夫。ちゃんと登録してます」
安堵したように、典都は息をついた。その間も動きは止めず、キッチンからダイニングを通り、玄関へ向かう。深良も後に続いた。
「それじゃあ」
「うん。いってらっしゃい」
半ば条件反射で言い、深良は右手を振った。
一瞬、ビックリしたように典都は固まった。
そして案外幼い表情で、はにかむ。
「良いもんだな、見送りがあると」
今度は深良が、目を大きく見開く。頬も、かすかに熱を持った。
しかし典都は、いつものほぼ無表情に戻っており、顔と同じ機械的な口調で「行ってきます」と告げたと思ったら、さっさと出て行った。
「たまに……噛み合わない気がする」
静かに閉じられた鉄扉を見つめ、深良は呟いた。
だが思い返せば、深良は朝ごはんの後片付けや夕飯作りにかまけて、ろくすっぽ見送りや出迎えをしていなかった。
いくら社会人と学生では生活リズムが異なるとは言え、たしかにこれは、良くないことだろう。
それに深良も、誰かを見送ったり、出迎えるのは嫌じゃない。
明日からはもう少し早めに起きようか、と考えた。