大学の学生課から呼び出しがあった。
学内にある学生課のオフィスを訪れると、「学費免除が適用されましたよ」という旨の通知書と共に、新しい学生証を受け取った。
氏名が「酉島 深良」から「麻生 深良」に変わった。ただそれだけ。他に変更点はなし。
もちろん、ペアの指輪や挙式などといったものも存在しない。なんとも殺伐とした婚姻である。
しかしその変更点によって、深良の生活は一変した。
住まいはワンルームの学生向けアパートから、2DKのマンションに。築年数も浅く、二人で暮らすには何の不満もない物件だ。また、監視カメラも各所に設置されており、防犯面でもばっちりだ。
大学からは少しばかり遠くなったが、自転車で通えばそう問題ではない。
ただ雨の日は、「危ないから」と自転車通学に難色を示されている。深良の、名義上は夫となった典都によって。
戸籍上のつながりだけで、二人の間に夫婦らしいものは特段なかった。
男女の関係を迫られることも、今のところ皆無だ。
内心覚悟……というかその点は諦めていたので、拍子抜けと言えばその通りだった。
両親のお陰で恋愛に憧れも持ち合わせていないため、「初めての相手」へのハードルもなかったのだが、幸か不幸か清らかなままである。
しかしその一方で、典都は深良と顔を合わせること自体を、極力避けている節がある。そんな気がする。
結婚を持ち掛けたのだから、顔を見るほど深良を嫌悪している、ということはないだろう。と思う。
ならば
「ひょっとして、同性愛者とか?」
新しい学生証を財布に入れながら、ふと呟いた。
周囲へのカモフラージュのため、同性愛者が偽装結婚をする、という話は聞いたことがある。
だが、それならそれで、そっとしておくべきだろう。
典都が誰を好きでいようと、深良に何か害が及んでいるわけではない。
さすがにゴリゴリマッチョな男を家に連れ込み、目の前でイチャイチャされれば、
「見苦しいので外でやってくれ。または出て行くので、遊ぶための小遣いをくれ」
と頼むだろうが。同性愛でも異性愛でも、他人様の乳繰り合いを見るのは好きではない。
まぁいいか、と深良はそれ以上考えないことにした。家庭環境が家庭環境だったため、人間関係に踏み込むことが、彼女は苦手なのだ。
その時、喉に異物感と痛みを覚え、深良はたまらず二度、痰の絡んだ嫌な咳をした。
そうだ。一つだけ、困っていることがあった。
典都はなぜか、妙に風呂の設定温度が低いのだ。
最初は嫌がらせか、とも思ってしまったのだが、彼が入浴時に湯船を沸かすそぶりも見せない。どうやら、かなりの暑がりあるいは、独自の健康法を身に着けている人物らしい。
出来るだけ典都の後で風呂に入り、湯船を追い炊きするよう心がけているが、それでも、どうしても体が冷えてしまう。
そのため、少しばかり風邪気味だった。大学後期に入ったばかりとはいえ、夏と呼ぶには少し肌寒いのだ。仕方がない。
ほぼほぼ赤の他人同士が結婚したがため、こういった些細なことも、どう指摘して良いのか分からない、と深良は考えあぐねいていた。
生活費を負担してもらっている、という負い目もある。実のところ、追い炊きするのも少しばかり気が引けているのだ。
「せめて今月中には言えたらな──へくっ」
間抜けなくしゃみにも見舞われ、深良はしばし脱力した。
しかし、背後に足音を感じ、むずがる鼻をグッと押さえて振り返る。
「あ、
英会話の授業で隣に座る、藤田
彼は真倉瀬島育ちであるため、隠れすぎて採算が不安になるような、隠れ家カフェ等々を教えてくれる便利屋でもあった。
「酉島、風邪引いたの?」
噂によるとお坊ちゃんらしい仁八は、皺の無い真っ白なシャツが似合う好青年だ。
その穏やかな笑顔と、もはや旧姓となってしまった呼び名が、ほんの少しくすぐったいような、居心地が悪いような。
「ちょっと湯冷めして。藤田くん、三限目の授業は?」
お湯というか、常温に近いもので冷えたわけだが。
薄らぼんやりと覚えている友人の時間割を思い出し、深良は首をかしげる。
「休講。なんか先生が腹壊して、トイレから出られなくなったって。助手の人がさっき来た」
明るい茶色に染めた髪を撫で、バイクのガソリンが無駄になった、と彼は笑う。
「酉島は──あれ、今日三限目あったっけ?」
よく人の時間割を細かに覚えているな、聡い奴め、と深良はわずかに頬を引くつかせる。
背景が背景なので、結婚したという事実はまだ、誰にも言っていない。
「学生証、再発行してもらってたの」
だから、取るに足らない事実だけを口にする。
「学生証失くしたの?」
「うん、なんかそんな感じっぽい」
「感じっぽいって。何それ。そそっかしいな」
カラカラと笑いながら、仁八はメッセンジャーバッグから島内のフリーペーパーを引っ張り出した。
「よく行く服屋で貰ったんだけど、面白そうなケーキ屋が載っててさ。店長がオカメインコの大ファンで、インコカフェなんだって」
行かない?と人懐っこい笑みが訊いてくる。
深良に嫌いな食べ物はない。甘いものも平気、というか大好きな部類に入る。また、ふわふわと毛の生えた小動物も、大好きだ。
猫カフェなどの動物主体の店であると、相手の種族によっては気を遣うこともある。
犬の獣人であれば、たしかに猫好きの集まる店は肩身が狭い。猫大好きの犬系獣人ならば……問題はないかもしれないが。
その点霊人同士であれば、さほど気兼ねもない。しかし──
「ごめん、本当にごめん。これからちょっと、知り合いに届け物があって」
自分の夫を「知り合い」と評するのは、少し薄情かもしれないが。まだ、惚気られる境地には至っていない。至るのかも未定だ。
人の好い仁八は、たちまち表情を切なげに変えた。
「あ、俺こそごめん。急ぎ?」
「うん、ちょっと」
「良ければバイク出すけど」
「大丈夫、そこで路面拾えばすぐだから」
ちらりと腕時計を確かめ、大学の正門へ足を向ける。目の前には、路面電車の停車場が設けられている。典都の勤務先まで、ものの十分でたどり着ける。
仁八も少し名残惜しそうに手を振りながら、途中で左手に持ったフリーペーパーをかざした。
「じゃあ今度、ここ行こうな」
「うん、皆で行こうね」
一瞬きょとん、と不思議そうに目を丸くしたものの、仁八も笑顔で頷く。
少し自意識過剰な返答だったかも、と照れ臭くはなった。仁八には同性も異性も、友人が多い。深良もその一人だ。
しかし深良には、たとえ形式的な結婚だとしても、そこに義理を立てたいという矜持があった。