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3:男友達と義理立て

 大学の学生課から呼び出しがあった。

 学内にある学生課のオフィスを訪れると、「学費免除が適用されましたよ」という旨の通知書と共に、新しい学生証を受け取った。

 氏名が「酉島 深良」から「麻生 深良」に変わった。ただそれだけ。他に変更点はなし。

 もちろん、ペアの指輪や挙式などといったものも存在しない。なんとも殺伐とした婚姻である。

 しかしその変更点によって、深良の生活は一変した。


 住まいはワンルームの学生向けアパートから、2DKのマンションに。築年数も浅く、二人で暮らすには何の不満もない物件だ。また、監視カメラも各所に設置されており、防犯面でもばっちりだ。

 大学からは少しばかり遠くなったが、自転車で通えばそう問題ではない。

 ただ雨の日は、「危ないから」と自転車通学に難色を示されている。深良の、名義上は夫となった典都によって。


 戸籍上のつながりだけで、二人の間に夫婦らしいものは特段なかった。

 男女の関係を迫られることも、今のところ皆無だ。

 内心覚悟……というかその点は諦めていたので、拍子抜けと言えばその通りだった。

 両親のお陰で恋愛に憧れも持ち合わせていないため、「初めての相手」へのハードルもなかったのだが、幸か不幸か清らかなままである。

 しかしその一方で、典都は深良と顔を合わせること自体を、極力避けている節がある。そんな気がする。

 結婚を持ち掛けたのだから、顔を見るほど深良を嫌悪している、ということはないだろう。と思う。


 ならば

「ひょっとして、同性愛者とか?」

新しい学生証を財布に入れながら、ふと呟いた。

 周囲へのカモフラージュのため、同性愛者が偽装結婚をする、という話は聞いたことがある。

 だが、それならそれで、そっとしておくべきだろう。


 典都が誰を好きでいようと、深良に何か害が及んでいるわけではない。

 さすがにゴリゴリマッチョな男を家に連れ込み、目の前でイチャイチャされれば、

「見苦しいので外でやってくれ。または出て行くので、遊ぶための小遣いをくれ」

と頼むだろうが。同性愛でも異性愛でも、他人様の乳繰り合いを見るのは好きではない。


 まぁいいか、と深良はそれ以上考えないことにした。家庭環境が家庭環境だったため、人間関係に踏み込むことが、彼女は苦手なのだ。

 その時、喉に異物感と痛みを覚え、深良はたまらず二度、痰の絡んだ嫌な咳をした。

 そうだ。一つだけ、困っていることがあった。


 典都はなぜか、妙に風呂の設定温度が低いのだ。

 最初は嫌がらせか、とも思ってしまったのだが、彼が入浴時に湯船を沸かすそぶりも見せない。どうやら、かなりの暑がりあるいは、独自の健康法を身に着けている人物らしい。


 出来るだけ典都の後で風呂に入り、湯船を追い炊きするよう心がけているが、それでも、どうしても体が冷えてしまう。

 そのため、少しばかり風邪気味だった。大学後期に入ったばかりとはいえ、夏と呼ぶには少し肌寒いのだ。仕方がない。

 ほぼほぼ赤の他人同士が結婚したがため、こういった些細なことも、どう指摘して良いのか分からない、と深良は考えあぐねいていた。

 生活費を負担してもらっている、という負い目もある。実のところ、追い炊きするのも少しばかり気が引けているのだ。


「せめて今月中には言えたらな──へくっ」

 間抜けなくしゃみにも見舞われ、深良はしばし脱力した。

 しかし、背後に足音を感じ、むずがる鼻をグッと押さえて振り返る。


「あ、藤田ふじたくん」

 英会話の授業で隣に座る、藤田 仁八じんぱち少年が立っていた。同窓で同種族というよしみで、他の友人と共に、食事をするような間柄になっている。

 彼は真倉瀬島育ちであるため、隠れすぎて採算が不安になるような、隠れ家カフェ等々を教えてくれる便利屋でもあった。


「酉島、風邪引いたの?」

 噂によるとお坊ちゃんらしい仁八は、皺の無い真っ白なシャツが似合う好青年だ。

 その穏やかな笑顔と、もはや旧姓となってしまった呼び名が、ほんの少しくすぐったいような、居心地が悪いような。

「ちょっと湯冷めして。藤田くん、三限目の授業は?」

 お湯というか、常温に近いもので冷えたわけだが。

 薄らぼんやりと覚えている友人の時間割を思い出し、深良は首をかしげる。


「休講。なんか先生が腹壊して、トイレから出られなくなったって。助手の人がさっき来た」

 明るい茶色に染めた髪を撫で、バイクのガソリンが無駄になった、と彼は笑う。

「酉島は──あれ、今日三限目あったっけ?」

 よく人の時間割を細かに覚えているな、聡い奴め、と深良はわずかに頬を引くつかせる。

 背景が背景なので、結婚したという事実はまだ、誰にも言っていない。


「学生証、再発行してもらってたの」

 だから、取るに足らない事実だけを口にする。

「学生証失くしたの?」

「うん、なんかそんな感じっぽい」

「感じっぽいって。何それ。そそっかしいな」

 カラカラと笑いながら、仁八はメッセンジャーバッグから島内のフリーペーパーを引っ張り出した。


「よく行く服屋で貰ったんだけど、面白そうなケーキ屋が載っててさ。店長がオカメインコの大ファンで、インコカフェなんだって」

 行かない?と人懐っこい笑みが訊いてくる。


 深良に嫌いな食べ物はない。甘いものも平気、というか大好きな部類に入る。また、ふわふわと毛の生えた小動物も、大好きだ。

 猫カフェなどの動物主体の店であると、相手の種族によっては気を遣うこともある。

 犬の獣人であれば、たしかに猫好きの集まる店は肩身が狭い。猫大好きの犬系獣人ならば……問題はないかもしれないが。

 その点霊人同士であれば、さほど気兼ねもない。しかし──


「ごめん、本当にごめん。これからちょっと、知り合いに届け物があって」

 自分の夫を「知り合い」と評するのは、少し薄情かもしれないが。まだ、惚気られる境地には至っていない。至るのかも未定だ。

 人の好い仁八は、たちまち表情を切なげに変えた。

「あ、俺こそごめん。急ぎ?」

「うん、ちょっと」

「良ければバイク出すけど」

「大丈夫、そこで路面拾えばすぐだから」


 ちらりと腕時計を確かめ、大学の正門へ足を向ける。目の前には、路面電車の停車場が設けられている。典都の勤務先まで、ものの十分でたどり着ける。

 仁八も少し名残惜しそうに手を振りながら、途中で左手に持ったフリーペーパーをかざした。

「じゃあ今度、ここ行こうな」

「うん、皆で行こうね」


 一瞬きょとん、と不思議そうに目を丸くしたものの、仁八も笑顔で頷く。

 少し自意識過剰な返答だったかも、と照れ臭くはなった。仁八には同性も異性も、友人が多い。深良もその一人だ。

 しかし深良には、たとえ形式的な結婚だとしても、そこに義理を立てたいという矜持があった。

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