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深く暗い霧に覆われて、朝方頃に湖畔の中を出発した。
湖の中を帆船が揺れている。
なんだか、異様な寒気のようなものがした。
冷えないように、エシカとリシュアの二人はコートのようなものを渡された。
「じゃあ、ちゃんと船内にいろよ。甲板の方にいて。どんな危険にあっても俺は知らねぇーからなっ!」
船長はぶっきらぼうに告げる。
三名はおとなしく、船内にいた。
船はゆらゆらと揺れていた。
船員達の何名かは辺りを見回していた。
「何か嫌な予感がするな」
リシュアは船内にある窓から外を眺めながら座り込んでいた。
「嫌な予感、ですか?」
<船が転覆するとかは無いと思うぞ。此処、何年もそんな事は一度も起きていないそうだ。船長の腕がいいんだろう>
ラベンダーは相変わらず、リシュアの杞憂を疑っていた。
ごぽりごぽりと、水音が聞こえる。
それに混ざって、何か音色のようなものが聞こえた。
リシュアは息を飲んだ。
真っ白なドレスを着た美しい女が、湖から出た岩肌に腰掛けてハープのようなものを奏でていた。とても美しくも悲しい旋律。歌声が鳴り響いていた。
「セイレーンの類だ。湖や海に現れて、船を難破させる魔物だ。ウチは船長を筆頭に特殊な訓練を受けているから、セイレーンの歌声でどうこうなるわけでもないけど、嬢ちゃん、坊ちゃん達は耳を塞いだ方がいいかもしれないぜ?」
船内で掃除をしていた船員がエシカとリシュアの二人に告げる。
「セイレーンなんて魔物が出るのか。この湖はっ!」
リシュアは驚いた顔をする。
「いや。それだけじゃない。もっとやばい魔物も出る…………」
「やばい魔物って、なんだよ…………」
「今に出るから、しばらく待っていれば分かる」
船員はそんな不吉な事を口にした。
霧が少しずつ晴れていく。
それと同時に、遠くで大渦のようなものが現れた。
それは巨大な魚だった。
十数メートル程の体躯はあるだろう。
巨大な魚は飛び跳ねると、そのまま船の上を通過していった。
どぼん、どしゃあー、と、船が大きく揺れた。
正直、リシュアは生きた心地がしなかった。
「あの魚が出た後は、もうすぐ吸血鬼の城。ノヴァリー様の城がある岸に辿り着く。それにしても、あの魚は圧巻だっただろ?」
船員は楽しそうに笑った。
「二度とお目に掛かりたくないな」
リシュアは船が揺れたお陰で、後頭部を少し打っていた。
「帰りの船でもう一度、出会う事になるかもな。心配するな。此処、何年も、この船は転覆事故なんて起きた事が無いんだ」
そう言うと、船員は楽しそうに笑った。
†
ようやく、不気味な湖畔を渡り終える事が出来た。
船長は気楽そうに、屈伸運動をしていた。
辿り着いたのは、山道だった。
真っ白の顔をした御者が待っていた。
おそらく、彼も吸血鬼であり、ノヴァリーという男の使いの者なのだろう。
エシカとリシュア。そしてラベンダー。
三名は幌馬車の中へと入る。
「気を付けてくださいね。外は決して見えないように。人の血を吸う吸血植物が沢山、生息しておりますから」
御者はそう脅すように言う。
「なんだ。また化け物共を怖れないといけないのか」
リシュアは少しウンザリしたような顔をする。
馬は走り出す。
そう言えば、普通の馬よりもかなり早い。
もしかすると、吸血馬か何かなのかもしれない。
三十分も経たないうちに、圧倒いう間に、城まで辿り着く。
「本来ならば、庶民は、ノヴァリー様に謁見する事が出来ません。使いの者を通して、この城の一階で話をする事が出来ます。しかし、リシュア様…………。貴方はヘリアンサス国の第三王子。リシュア様ですね?」
吸血鬼の御者は、すぐにリシュアの素性を見抜いてしまっているみたいだった。
「あ、ああ、そうだけど」
「そうですよね。ノヴァリー様の方でも。貴方とは一度、お話をしてみたいとの事です。是非、良い歓談になるといいのですが」
そう言って、御者はリシュアとエシカ、ラベンダーの三名を城の中へと案内した。
途中から、城の中にいた甲冑姿の男が三名の案内役を務める。
浮かんだり、消えたりする階段を登っていって、三名は謁見の間へと辿り着いた。
吸血鬼の領主、ノヴァリーは豪奢な宝石が散りばめられた玉座に座り、楽しそうな顔で三名を見ていた。真っ白な顔に端正な顔をしている。
リシュアとエシカの二人は軽く領主にひざまずく。
「お顔をおあげください。ヘリアンサス国のリシュア・・ヴラド・ヘリオス王子。ヘリアンサス国は貿易面で大変、ご協力いただいております」
リシュアは言われた通り、顔を上げ、立ち上がる。
「そうか。ウチの国と貿易の協定を結んでいるのか」
リシュアはこのノヴァリーという男は、油断がならないな、と思った。
「はい。先代の国王様からも、先々代の国王様からも、とてもよくしていただいております。この城の窓からは沢山の葡萄畑が見えるでしょう? エトワールの街にも沢山の葡萄畑がある。その葡萄の輸入によって、我が城と、あの街は栄えているので御座います」
「そうか」
<吸血鬼は貿易が得意なんだな>
ラベンダーは口を挟む。
口を挟んだドラゴンに対して、ノヴァリーは少したじろぐ。
「これはこれは。青き竜。貴方様はリシュア様に仕えている、気高いドラゴンなのだとお聞きしております」
<そうか。さっそくシャイン・ブリッジの件が、此処まで耳に入ってきたんだな>
ラベンダーは空中を飛び回る。
そして、まるでノヴァリーを吟味するかのような態度だった。
<頼まれて欲しいんだが、俺達は“災厄の魔女”を連れ出したお陰で、王宮、つまりヘリアンサス国に間違いなく追われている。何とかして、追っ手を匿う為のアドバイスが欲しい>
少し面倒な事をラベンダーは頼んでみる。
「なるほど。それはそれは大変ですね。心中、お察しします。しかし、そこにいるのは、災厄の魔女エシカ様ですね。闇の森に封じられていたとお聞きしたのですが…………」
<闇の森から出る事になった。リシュアと逃避行を続けている。二人共、世界中を旅したいって考えだからな。幾ばくかの報酬を出す。こいつらの追っ手を見つけたら、それなりに痛め付けてくれないか?>
ラベンダーは物騒な取引を持ちかけた。
「いいでしょう。私は貴方達の役に立てるのでしたら、出来る限りの事はいたしましょう」
<そうか。本当に助かる>
「今日は、この城に泊まっていきませんか? まだ昼間で、船で湖畔を渡って街に帰る事は出来ますが。世界中を見て周りたいのでしょう? よければ、この城を見ていきませんか?」
ノヴァリーはある種、邪悪さの欠片も見当たらない表情だった。
リシュアは応じる事にした。