この世界を見てみたい。
それが彼女の願いだった。
アンデッドの沼地を抜けて闇の森の中心部にある塔がエシカの住み家だった。エシカは魔女だった。村人達も村を抜けた街の人間達も彼女をそう呼んでいる。
エシカは記憶を失っており、魔女として何をしたのか想い出す事が出来ない。
ただ一つだけ分かっているのは、エシカはこの広大な闇の森の敷地内から出る事は出来ないという事だった。
彼女は塔に戻ると、塔の中を彷徨っている人魂に話し掛ける。
「今日も何も無かったなー」
エシカは不貞腐れながら塔の最上階から森を見渡していた。
彼女の隣には
<大丈夫だよエシカ。もし“君の償いが終わったのなら”きっと君を連れ出してくれる人がいつか現れるよ>
そう
「そうだといいんだけど。早く現れないかな。私を此処から連れ出してくれる王子様―」
エシカは落ち込んでいた。
セージは“償い”が終われば、出られるとばかり言う。
しかし、それがいつの事なのか分からない。
この森の中に封印されて数十年の月日が流れた。
なんでもエシカはかつて邪悪な魔女として魔物達を率いて王宮へと攻め込んだらしい。それ以外にもありとあらゆる悪逆非道の限りを尽くしたのだろう。
まるで他人事みたいな話だが、今のエシカにはかつて邪悪な魔女だった時の記憶が無い。王宮にいる魔法使い達の手によって力と記憶を奪われて、この闇の森から出る事は出来ない。
……まるで前世の自分の話を聞かされているみたいだ。
そんなものは、何度、聞かされても他人の話にしか聞こえない。
塔の周りにある湖の水を眺めながら、エシカは水面に映る自らの姿を見て戸惑っていた。
「ねえ。セージ。私、外に出られないまま一生、この森の中で過ごすのかな?」
<そうだねエシカ。君は過去に所謂、悪役令嬢。ひらたく言うと数々の国を災いをなした悪女として数々の邪悪な所業をしてきたんだ。今、生かされているだけでも寛大な措置だと思うよ。もっとも、不老不死の君を殺せる魔法使いは存在せず、封印という形を取るしかなかったみたいだけど>
セージは諭すようにエシカに言う。
だがエシカ本人としては納得行くようなものではない。
それはまる見知らぬ人間の話を聞かされているようなものだ。
記憶を失った今の自分には何の関係があるのか。
水鏡に映る女は、まだ十代半ばの肌艶で、長い紫紺の髪を垂らしている。
自分がとても“災いの魔女”だとか“王宮を支配していた悪女”だと思えない。
「いつか私を迎えに来る王子様でも現れないかな? そうしてこの森の外に連れていって欲しいな」
エシカはそう一人呟くのだった。
先ほどと同じような独り言だ。
今度はセージは慰めの言葉を言ってくれなかった。
セージは彼女を諭しても無駄だと思ったのか、彼女の独り言を無視し、この辺りをゆらゆらと舞う事にしたみたいだった。
†
『闇の森』。
それは王都から隔離された場所だった。
別名、魔女の森と呼ばれている。
かつて強大な魔力を持つ不老不死の女を閉じ込めている場所なのだとリシュアは聞かされている。リシュアは幼い頃からこの闇の森に強い興味があった。
王宮での生活は窮屈なものだった。
一般人の冒険者のように、冒険がしたい。
それがリシュアの幼い頃からの夢だった。
夢が意外な理由で叶う事になった……。
「とは言ったものの、実際に来てみると本当に不気味だな……」
リシュアは一人呟く。
月夜に照らされたこの森は酷く不気味だ。
森中に魔物がひしめいていると聞かされている。
それでもリシュアは目的のものを探す為に森の奥深くへと入り込んだ。
リシュアは騎士団の制止を振り切り、彼らに隠れる形でこの闇の森へと入り込んだ。
十二歳になる妹のセレスが流行り病で倒れたからだ。
医師達の診療の結果、セレスの病気は重く一刻も早く薬を処方しなければ治らない。その薬というものが他でもない闇の森にのみ咲くと言われている“ランプ花”の蜜である。
だが。騎士団のメンバーでさえ闇の森には近付きたがらない。
何故なら、闇の森は魔物達の巣窟で、特にアンデッド系の魔物達がひしめいている。特に強力なドラゴンゾンビや毒の息を吐く沼の巨人など、王宮の騎士達ではまるで歯が立たないと言われている。
なのでリシュア本人が単独で暗い魔女の住む森へと入って、ランプ花の蜜を探し求める事にした。
森をかき分けながら短刀と魔法の杖のみを手にしたリシュアは、早々にランプ花を見つけて森を立ち去るつもりだった。
†
セージはゆらゆらとうごめきながら何かに勘付いたみたいだった。
「どうしたの? セージ?」
<どうやら。ランプ花が咲く場所へと人間が一人向かっているみたいだ。森の魔物達に襲われなければいいけど>
「どんな人間なの?」
エシカは訊ねる。
<それは言えない。言ったら興味を持つだろう?>
「もう興味が湧いたよ。最後に人間とお話したのは確か六年程前。商人の人だったと思う。お話と言っても、私が話しかけたら、その人は私の姿を見て悲鳴を上げて、すぐに逃げていったけど」
<それはそうだよ。君は“魔女”だから。さてと、僕の役割は森に迷い込んだ人間を無事、森の外に連れ出す事だ。そういう使命を帯びているからね。じゃあエシカ、出来れば、此処で大人しく待っているんだよ?>
セージはそう言うと、ふわふわと空高く飛び上がってランプ花の咲く場所へと向かっていった。
あのウィル・オー・ウィスプは何処まで行ってもエシカの“監視役”でしかない。
彼はエシカを慰めるような事を言うが、結局はエシカをどうにか此処に留まるように説得しているのだ。
これから先、何十年も。
あるいは何百年後も、何千年後も、人類の歴史が存続する限りそうするつもりなのだろう。
「私は私の事が分からない……。勝手に悪女だ魔女だって言われて…………。私、本当に気付けば、塔の中で暮らしている事しか知らないんだから!」
エシカは不貞腐れながらも、あのウィスプの要求を無視して、迷い込んだ人間に会いに行く事にした。
†