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第8話 そして、新たなスタートへ(2)

「『来ちゃいました』ってねえ」

「だって、これならお互いに忙しい日々が続いたとしても、すぐに会いに行けるでしょ?」

「……君ってやつは、もう」

 臆面もなく言うものだから、照れくさくてかなわない。それでも、こんなにも真っ直ぐに好意を示してくれることが嬉しくて、つい頬が緩んでしまう。

 ちょっと未だに信じられないが、愛しい恋人が隣の部屋に住んでくれるだなんて。それはどんな日々になるのだろう――想像するだけで胸が躍るものがある。

(あんなことやこんなこと……いや、そんなっ)

 心がふわついて、めくるめく妄想が止まらない。諒太は赤くなった顔を逸らしつつ、己を必死に律した。

「あの、諒太さん?」

「なな何でもないよっ、ヘンなこと考えてないから!」

「……俺は考えてましたけど」

「え?」

「一人暮らし始めたら、諒太さんを部屋に呼んで……何しようかなあとか」

 橘がそっと頬に触れてくる。そのまま優しく撫でられて、諒太の胸はドキリと音を立てた。

 言葉の意味を考えれば考えるほど、期待感ばかりが膨らんでいく。まだ数えるほどしか肌を重ねていないけれど、初めて結ばれた日からというもの、橘はどんどん色気を増している気がしてならなかった。

「大地……」

 見つめ合う瞳は熱を帯びていて、二人の間に甘い空気が流れる。

 諒太はゆっくりと瞼を閉じた。すると、橘が顔を寄せてくる気配がして――、

「だいちくん、あそびにきてくれたのっ?」

 その時、美緒の明るい声が響いた。会話を聞きつけてやって来たようだ。

(い、いけない……場の空気に流されるところだった!)

 諒太はすぐにハッとして体を離す。玄関先、しかも美緒がいるというのに何をしようとしていたのだろう。

「美緒ちゃん、こんにちは。俺、今日から隣に住むことになったよ」

「えっ、うそ! だいちくんがおとなりさん、ですか!?」

「はい、お隣さんです」

 橘が微笑みかけると、美緒は興奮気味に目を輝かせた。きゃーっ、と声を上げてぴょんぴょん飛び跳ねている。

 まるで兄のように接してきた相手が、いつでも会える距離に越してきたというのだから当然の反応だ。何の戸惑いもなく喜ぶ姿は子供らしく、また羨ましいものがあった。

「そうだ、おうちはいってきて! ランドセルみせたげるっ」

「こらこらっ、そんな勝手に」

 美緒が橘の手を引っぱって家の中に招き入れようとする。諒太は慌てて引き止めようとしたのだが、当の本人は楽しげに笑っていた。

「いっすよ。業者来るまで時間あるし、ヒマしてたところなんで」

 お邪魔します、と橘が靴を脱いで部屋に上がる。

 そう言われてしまったら返す言葉もない。諒太は苦笑しながらあとに続いた。

「ねっ、みてみて! かわいいランドセルでしょっ」

 ランドセルを背負ったまま、美緒はくるりと回ってみせる。

 紫色のパール生地に、刺繍があしらわれた可愛らしいデザインのランドセルだ。

 昔は赤や黒が定番だったが、近年はすっかりカラフルな色合いが人気で、女子の間ではこういったデザインが増えているのだという。

「うん、キラキラしてて可愛い。美緒ちゃんによく似合ってるよ」

 スマートフォンで写真を撮りながら橘が言った。褒められた美緒は満面の笑みを返し、はしゃいだ様子で抱きつく。

 そんな光景を見ていると、なんとも微笑ましい気分になってしまうから困りものだ。

(あーあ、若いってのはいいなあ)

 この歳になると、新年度なんて気が重たくて仕方がないが、若者にとっては新生活への期待の方が大きいのだろう。

 新しい環境、新たな人間関係。不安もあるに違いないけれど、それを上回る楽しさがあるはずだ。どうせなら、期待を胸にいろんなことへと挑戦してもらいたい。それはきっと自分の糧となるのだから――。

 年寄りくさいことを考えつつも、諒太は我に返って軽く首を振った。自分だってまだまだ負けていられないぞ、と。

「諒太さん?」

 あれこれと物思いにふけっていたら、橘が不思議そうな顔をしていた。

「いや、大地も美緒も、あっという間に大人になっていくんだなあと思ってさ」

 諒太がしみじみと言えば、橘もまた静かに返してくる。

「……俺、早く大人になりたいです。そしたら、諒太さんも美緒ちゃんも支えられると思うし」

「は、ははァ~ん。言うねえ」

「あのときは嫌だって言いましたけど、もう嫁でも何でもいいっすよ」

「うわあっ、思い出させないでよ!」

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