「だから、あんたとはもう会わないつったろ。既婚者で、ましてや子供もいるとか聞いてなかったし……ありえねーよ」
うんざりした口調で諒太が言い放つと、スマートフォンの向こう側で相手が黙り込んだ。
だが、それも一瞬のことで、「今でも諒太が好きだ」などと言ってくるものだから、開いた口が塞がらない。
相手の名は
ヒゲ面の男でとにかくガタイがいい――いわゆる《ゲイにモテる容姿》とでも言ったらいいだろうか。アンニュイな雰囲気を漂わせているものの、話してみるとわりと優しくて紳士的だった。セックスの相性もよく、一緒にいて楽だと思ったからこそ交際を続けていたのだが、まさか妻子持ちなのを隠していたとは。
(まあ、どうせ今回も長続きしないとは思ってたけど……)
こう見えて、諒太は根っからのゲイセクシャルである。自覚したのは中学生の頃で、それ以来、同性としか付き合ったことがない。
男同士の恋愛なんて所詮は《ヤリ目》の関係だ。どのような相手とも長く続いた試しがなく、その程度のものだと割り切っていた。ただ、さすがに今回は話が変わってくる。
ひょんなことから相手が妻子持ちだということが判明し、諒太から別れを切り出したのはつい二か月前。ところが、いきなり電話をかけてきて、何を言うのかと思えば「考え直してほしい」だ。
今日も一日を終えて寝ようとしていたところなのに不快極まりない。唯一の救いは、美緒の寝かしつけが済んでいたことくらいだろうか。
諒太は深々とため息をついてから、おもむろに口を開いた。
「不倫とかしないで、奥さんと子供のこと大切にしろよ。修羅場に巻き込まれるのはごめんだ」
正直、二度と関わり合いたくないのだけれど、こういった場合はっきり言っておかねば、相手は図に乗ってますます付け上がってくる。
諒太が毅然とした態度を取っていたら、大道寺は「すまなかった」と謝罪の言葉を口にした。
『でも、たまにでいいから前みたいに会えないか? 諒太と過ごした日々が忘れられないんだ』
(猫なで声で言われても、困る)
こういったタイプが一番タチが悪い――自分が悪いことをしたという意識がないからだ。
謝罪なんて上っ面の言葉だけ。こちらの意志などお構いなしの様子に心底呆れてしまう。自分はこんな男を優しく紳士的だと思っていたのか。
「……あんた、最悪だよ。こっちはもうあんたなんかと寝たくないし、顔も見たくない」
だからこれ以上関わるな、と冷たい声を出して拒絶の意思を示す。
大道寺はそれでも諦められないらしく、しつこく食い下がってきたが、無言で通話を切ってやった。連絡先をブロックしたうえで、履歴も消去してしまう。
「クソッ」
スマートフォンを放ると、諒太は小さく悪態をついた。
別に大道寺に未練があるわけではないけれど、やはり腹立たしさはあるもので、むしゃくしゃとする。忘れようとしていたのに、余計な電話をかけてきたせいだ。
と、そこで、ふいに諒太のことを呼ぶ声が聞こえた。
「りょうたくん、どうしたの?」
見れば、美緒が眠たげな目を擦って立っていた。どうやら起こしてしまったらしい。
「ごめんな、起こしちゃったか?」
「ううん……りょうたくん、なんかおこってる?」
不安そうな表情を浮かべて訊ねてくるものだから、諒太は慌てて首を横に振った。表情を取り繕い、優しい笑みを浮かべてみせる。
「違う違うっ、ちょっと嫌なことあっただけだから。心配してくれてありがとう、美緒」
頭を撫でてやると、美緒はホッとしたように頬を緩めた。まだ五歳だというのに、随分と聡くて気が利く子だと思う。
(俺がこんなじゃ駄目だよな)
美緒を抱きあげて寝室へと向かい、そのまま一緒に布団に潜り込む。
美緒のあどけない顔を見ているうちに、ささくれ立った感情が落ち着いていくのを感じた。
「りょうたくんも、おやすみなさいする?」
「うん。一緒におやすみなさいしような」
「えへっ、おやすみなさあい」
「……おやすみ」
しばらくするとすやすやと寝息が聞こえてきて、諒太は静かに息をつく。
ただ、どうにも寝つきが悪く、結局眠りに就いたのは夜明けのことだった。
◇
翌日。諒太は美緒を保育園に預け、市民センターへ向かっていた。今日は月一度の料理教室が開催される日である。
いつものように電車に乗り、最寄り駅で降りてから徒歩で数分。到着すると、すでに受講生が集まっており、講師が来るまで雑談していた。
諒太はバッグの中からエプロンを取り出して身につける。と、そこへ橘が現れた。
「おはようございます」
「おはよ……って、なんだよ人の顔じろじろ見て」
挨拶してきたかと思えば、なぜか凝視してくるものだから、諒太は訝しげな視線を向けた。しかし、橘は眉一つ動かさず、
「いや、目の隈がひどいなと思って」
「あ、マジ……?」
「うっす。眠れてないんすか?」
「んー、ちょっとな」
昨晩の出来事を思い出して苦笑を浮かべる。諒太が曖昧に言葉を濁すと、それ以上追及してはこなかった。
「……そっすか」
が、気になってはいる様子で、視線を外しても横目でチラチラと見てくる。
あまりにあからさまなのがおかしく思えて、諒太は小さく笑った。
「なんつーか、ストレスに感じることがあってさ。そういうの、橘はどうやって解消してる?」
代わりにそのような質問をしてみると、橘はきょとんとした顔つきになった。言わんとすることは、なんとなくわかる。
「今、『大人なのに』って思っただろ。そうだよな、そりゃ子供じゃないんだから、自分のご機嫌くらい自分でとれよって話だろうな」
「いや、さすがにそこまでは。ま、月並みですけど――美味しいもの食べて、好きなことやるのが一番なんじゃないっすかね」
「……ははっ。大人になるとな? 悲しいもんで、自分の好きなものとかもわからなくなっちゃうんだよ」
「うわ……」
諒太が自嘲気味に言えば、橘は引いた表情を見せた。それから、少し考えるような仕草をして、
「じゃあ遊びましょうよ、俺と」
「え?」
今はこうして気さくに話しているけれど、学校ではまったく違う。言わずもがな、ほかの生徒と同じように接しているし、滅多なことでは話をすることもない。
だからこそ、思ってもみなかった誘いに諒太は目を瞬かせた。
(特定の生徒とそこまでいくと、さすがにマズい……よな?)
はっきりと禁止事項として定められているわけではないが、暗黙の了解としてどうなのだろうか。教職者であるならば、生徒たちとの接し方について慎重に考える必要がある――とは重々承知しているが。
(せっかくこうやって誘ってくれてるんだし。って、いやいや! 私情を優先するのは……)
どう返事をしたものか迷っていたら、微かに橘の顔が曇った気がした。
「誰かと遊ぶのって、いい気分転換になると思ったんですけど……やっぱ駄目っすかね?」
ぐらり、と決意が揺らぐ。橘の声がどことなく寂しげに聞こえて、諒太はたじろいた。
「い、いいんだけどさっ! でも、姪っ子いるしっ」
「だったら、先生の家に遊びに行くってのは? 一緒にご飯作って食べるとか、そういった軽いのでもいいですし」
「………………」
ただ純粋に息抜きをしようと誘っているだけであって、これといった他意はないのだろう。純粋な気持ちが伝わってきて、胸がじんわりとあたたかくなる――結局のところ、教職者だって人間なのだ。
諒太は言い繕うのもやめ、悩んだ末に決断を下した。
「姪っ子がびっくりしちゃうかもしんないから、確認とってからでいい? あと、そっちも親にちゃんと話しておくこと」
言うと、橘は頷いて、少し嬉しそうな表情を見せたのだった。