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「待ち合わせ、美術室ですよ」

「……私はいいって言ってないだろ」

 言いながら隣の席を引いたら、先輩はそう答えてくれた。まさか来ないとは思ってなくて、一時間待ち惚けてから思い至ってここに来た。頼んだカフェラテをこくりと飲んで、ダメじゃないですか、と呟いた。

「あの絵は、完成させなきゃ。受験あるんだから」

 先輩は苦笑して、けど何も答えなかった。広げたタブレットに筆を滑らせる。白い画面に、向日葵が一本と、烏が一匹、ぽつりと描かれている。

「ここじゃ、怒鳴れないんですけど」

「別に、怒鳴られたくはないけど」

 こつこつ、とカップをカウンターで鳴らしながら、拗ねてみせる。

「ビンタもできないし」

「もっと嫌だよ」

「愛だって、囁けません」

 こつ、と鳴らす手を止めた。店員さんの足音が一つ、後ろを通り過ぎていった。先輩はしばらく、黙って筆を滑らせていた。それからカップを手に取って、静かに一口飲んだ。そして、ひそりとも音を立てずにカウンターに戻した。

「もっと嫌だよ」

「…………」

 私はこつこつ、と二回鳴らして、ぐいと傾けた。まだちょっと熱かったけど、そのままこくこくと飲み干した。カウンターに当てたときの音も、空っぽに軽くなっていた。

「私は、全部したいんです。怒鳴るのも、ビンタも、愛を囁くのも」

「おい」

 言いながら先輩の前からカップを取り上げる。それを揺らしながら呟く。カップからは、苦くて黒い匂いが立ち上る。

「美術室、行きましょう」

「お前、ブラック苦手だろ」

「今の先輩よりは大好きです」

 我ながら子供っぽい。思いながら勢いよく口を付けたら、ぐいと呑んだ一口目で思い切り口が窄まった。それでもちびちびと呑み進めると、先輩は溜め息を吐いた。

「……また思い出増やしたら、卒業すんのが寂しくなるんじゃないの」

 そんな軽口に、じわっと嬉しさか怒りかわかんない気持ちが浮かんで、おんなじように軽口で返した。

「これからもまだまだ、あの部屋で思い出重ねますしね。大丈夫です、寂しくなったら先輩呼びますし、私も卒業したら忍び込みます」

「いいね。SNSに上げて大炎上しろ」

「いいですね。そのときは先輩もちゃんと巻き込みます」

「そのときには、もう他人だろ」

「…………」

 いつものテンポに先輩は酷い言葉を載せて、だから私はこくこくと、カップを一気に傾けて、そのまま会話をぶつりと切った。今の言葉に比べたら、ブラックだって千倍くらいおいしかった。だから飲み乾したあともにっこり笑って、かつ、とまたカップを置いた。

「ほんと、最悪な味ですね。これから一生呑みたいくらいです」




 あの日のように向かい合って立った。お前が大事なことですとうるさいから、立ち位置はあの日とは逆にした。

「ビンタ、いいですか」

「嫌だ」

 震え声での切り出しがそれで、私は間髪入れずに首を振った。頷いたら多分遠慮なくやられるし、痛いのは素直に嫌だった。お前はわかりました、とあっさり頷いて、準備していた手の平をぎゅっともう一方で握って、すうはあと息を吐いた。

「なら、代わりに馬鹿って百回言いますね」

「……馬鹿かよ」

「うるさい、馬鹿って言う方が馬鹿なんですよ。てか数学は私より成績悪いですよね? テスト前も絵ばっかり描いてるし、クールぶってしっかりヤバい点取るし、馬鹿なのどっちですか? そんなんだから絵馬鹿馬鹿って言われるんですよばーか。ば叶先輩」

 そこまでを一息で言って、愛歩は息継ぎをした。

「……今何回」

「まだ一回です!」

「…………」

 めちゃくちゃな言葉は、それからも思い付くままに、散々に続けられた。遂に先輩もなくなって、私は単にば叶と呼ばれ始めた。心の中でカウントしてたけど、五十回くらいで愛步は百! とヤケクソに叫んだ。

「……これでビンタは、勘弁してあげます」

「……」

「痛いですか? 少しは響きました?」

「……泣いてるのはお前だろ」

 三〇回辺りから、ぽたぽたと。愛歩はやっぱり拗ねたように、堂々と頷いた。

「っはい。痛いので、ずきずき響いてるんで泣いてるんですよ。全部、全部全部ば叶のせいです。全部、っぜーんぶ先輩が悪いんです」

 先輩も泣いてくださいよ、ビンタしますよなんて理不尽な言葉に、私は力の抜けた笑みを返した。それから、涙のひとつも溢さないまま、すこし間を空けて、溜め息を吐いた。

「……これきりって言っただろ」

「私は、いいって言ってません」

「…………」

「いいって言ってませんし、ちゃんと本音も聞いてません。ほんとにむかつくし、ほんとに悲しかったし、今でも痛いし、許せません。でも」

 ごしごし、と涙を乱暴に拭いて、愛歩は私を笑いながら睨んだ。

「まだ、まだまだ全然好きなんですよ。先輩が言ったわけわかんないことも、意味がわかったらほっとして死ぬほど腹立ったくらい、まだ全然、先輩のこと好きなんですよ」

「…………何言ってんの」

 私の言った、わけのわからないこと。そんなはずがないと思いながら言ったこと。愛歩が私の絵を好きじゃないなんて、こと。その意味がわかった。そう言ったのに愛歩は、それでも私を好きだと言った。

「幻滅するだろ普通。わかったとか、絶対何か勘違いしてるでしょ」

「勘違いもしてませんし、幻滅とかしません。普段私のこと浅いとか馬鹿とか言ってますけど、先輩も大概じゃないですか。今更ですよそんなの」

「……」

「とにかく。まだまだ先輩のこと好きなんで、より戻すために今度は私から、告白しにきたんです」

 私、やっぱ告白もしたかったんですよね。そんな風に都合よく笑って、愛歩はまた、ぐっと唇を堪えた。零れる前に涙を拭って、息を吸って、吐いた。

「一回しか言わないからちょっと黙ってて。ほんと最悪の告白するけど、私の抱える全部ありのままに、ちゃんと伝えるから」

 あのときの私の一言目を、また一言一句違わずに繰り返して。挑発するように微笑んで、それからゆるゆると首を振って、お前は突き刺すように言った。

「……わかってないみたいだから、ちゃんと言いますね。私、叶先輩のこと、根暗だと思ってます。見栄っ張りだし繊細だし、弱いと思ってます」

「…………」

 黙ってろと言われたから黙って聞いてあげるけど、それは随分な言い草だった。今のだけでも十分、心に来るんだけど。けれど愛歩は私の失笑にもまだまだです、と言うように首を振って、それから尖った声を重ねた。

「浅いし、馬鹿だと思ってます。ダサいって、休日の私服見た時からずっと思ってます」

 お前さ、と口に出しそうになった。そういうこと。そういうのはもっと早く言えよ。今めちゃくちゃ痛いからな。愛歩はでも、と首を振って、泣き笑いで続けた。

「でも、……私と付き合ってから急にセンスよくなったのも、なんか、複雑でむかつきます」

「…………」

「通話中全然相槌打ってくれないのも嫌いだし、SNSで返事全然くれないのも嫌いだし、手繋ぐのとかは下手な癖に、キスとかその先は私よりうまいのもむかつくし、映画のセンスもわけわかりません。あと私がオススメしてるアーティスト聴いてください。靴かっこいいのにどこで買ってるのかわかりません。買い食いするとき一々ケチんないでください。あと私の寝癖見て笑わないでください」

「……」

「私より背高いのがむかつきます。誕生日一月しか変わんない癖に私のお姉ちゃんよりお姉ちゃんっぽいのもむかつきます。全然名前で呼んでくれないのも嫌いです。でも私も先輩のこと言えないんで言いません。私の好みな顔の癖に私の顔全然好きじゃないのも嫌です。血液型とか誕生日とか、もっと相性よくなってください。私より先に高校卒業するのも嫌いですし、私より先に大学生になるのも嫌いです。今こう言ってるのも全部子供みたいとか思ってるのもむかつきます。私と出かける用事ないときメイクも服も適当なのもよくないです。あと私の悪口言ってる後輩注意しないでください。チャラ男に絡まれたときにかっこよく割り込まないでください。そういうので心奪わないでください。勝手にミスコンにエントリーされないでください。出た癖に七位とか微妙な順位取らないでください。私がこんなに悔しかったのにマジで興味なさそうな顔しないでください。教室でキスくらいしてください。道端でハグくらいしてください。一緒にシャワーくらい浴びてください。クリスマスくらい朝までしてください。友達ももっと作ってください。でも私だけに見せる顔持っててください。大学で誰とも仲良くならないでください。皆に可愛い後輩の彼女のこと自慢してください」

「…………」

 脈絡もめちゃくちゃで、実現不可能なことも、矛盾も孕んでて。一言一句どころか、怒濤の中で何を言われたか、もう半分も覚えてない。そう言ったらまたそういうとこも嫌いですとか言われそうで、それも馬鹿らしくて笑った。そうしたらお前はちゃんと聴いてくださいと叫んで、私は小さく溜め息を吐いた。

「毎日好きって言ってください! 言わなくてもいいですけど思っててください。でもときどき言葉にしてください。もう少し重たい贈り物とかください。私と釣り合い取ってください。こんなに好きなんです。顔も好きだし、声も好きだし、ダサいのも弱いのも見栄っ張りなのも、センスずれてるのも背高いのも気取ってるのも時々ほんとにかっこいいのも、私のことちゃんと大切にしてくれてるのも、全部、……っ全部、好きなんです」

 全部。繰り返して。

「先輩の絵も、……っ好きです。好きに決まってるじゃないですか! 心から、多分先輩のフォロワーの中でいっちばん私が、先輩の絵好きです。舐めないでください、何言ってるんですか? 自分で何言ってるかわかりますか? 意味わかんないですよほんとに」

「…………」

「私は、先輩の絵、ちゃんと好きです!」

 そんなに改めて言われなくても、ちゃんとわかっていた。嫌というほど知っていた。お前はすこしの間溜めて、だから、と吐き捨てるように言った。



「……だからっ、……っ私の絵が嫌いってことくらい、ちゃんとっ……ちゃんと、言ってくださいっ……!」



「…………」

「もう喋っていいです! 返事してください!」

「……ん。うん、……」

 ああ、と思った。本当に、こいつらしい。私のちっぽけさも、どうしようもなさも、決して正しくはなく、けれど概して間違いでもなしに。全部全部わかった風に、でも大事なところを外したままに、それでもこいつはこんな、馬鹿みたいな告白をしてるんだ。本当に、どうしようもない馬鹿だと思った。お前も、私も。

「嫌いなんですよね、私の絵! それだけだったんですよね! でも私も先輩の色んなとこ嫌いですから! そんな気を遣わなくてもっ、私だって先輩のことめちゃくちゃ嫌いでっ、…………だから、そんなことくらいで私を好きなの、やめないでくださいっ……! 先輩のそういうところ、大っ嫌いです!!」

 だん、と地団駄を踏んで、ぶんと空気を殴りつけて。叫んだ愛歩に、私は私の情けなさも全部包んで、後悔も苛立ちも覚悟もを脇に置いて、首を振った。

「……そんな悔しそうな顔して、何言ってんだよ」

「悔しいに決まってるじゃないですかっ!!」

 ぎゅ、と唇を噛み締めて、お前は勢いよく首を振った。

「先輩に憧れて描き始めたのに、褒められるのが嬉しくて描いてたのに、……悔しくないわけ、ないじゃないですか……」

「…………」

「もう、描くの好きになっちゃったのに、……先輩のせいで、大切になったのに。ほんと、……ほんっと、酷いです」

 わかってた。傷付くだろうなんてこと。私より幸せそうで、脳天気で強そうに見えて、こいつもちゃんと繊細で、傷付きやすくて重たくて、本当に面倒で。

「……お前のそうやってすぐ泣くとこ、好きじゃない」

「……でも私のこと、好きですよね」

「…………うん」

 言ったのと同時に、唇に触れられた。愛歩は至近距離で微笑んで、また涙をこぼした。

「それで、いいじゃないですか」

「……」

「先輩も泣いてくださいよ。なんで私の絵が嫌いか、ちゃんと教えてください。はっきり教えてください」

「……鬼だな」

「鬼にも天使にもなりますよ。今日だけでもいいんで、ちゃんと教えてください」

 愛歩は一歩下がって、また元の位置に戻った。私は溜め息を吐いて、ずきずきと痛む胸に、手を当ててみた。

「本当に、幻滅するぞ」

「心配しなくても、もう底も底ですよ」

「……どんな自信だよ」

 どうして愛歩の絵が嫌いか。それを認められないか。おばさんの話も、私の絵のルーツも、お前に話したことはなかった。

 だから、はじめからを話した。バイオリンを習っていたこと。おばさんと絵に出逢ったこと。彼女が否定されていたこと。それが酷く悔しかったこと。私も同じ言葉を投げられて、何も答えられなかったこと。お前がそれに痛快にやり返したとき、私も同類だと気付いたこと。そのときに、私の絵が、わからなくなったこと。

「だから……私は私の絵を見失わないために、お前の絵、嫌ってるんだよ。ほんと、…………馬鹿で浅いんだよ、私は」

「……それが理由、ですか?」

「うん」

 いよいよビンタでもされるかと身構えたけど、愛歩はふう、と息を吐いた。

「……だっさ。ダサダサですよ先輩。しかもそれ、……もう半分くらい、私の絵認めてるってことじゃないですか」

「……だから嫌ってるんだよ、無理矢理」

 わざわざ言うなと思ったら、そういうとこも最悪です、と愛歩は首を振って、言いながら、嬉しそうに笑って。それからきゅっと、唇を噛み締めた。

「忘れたんですか? 先輩が言ったんですよ。自分の描きたいものを描けって。誰に囚われなくていいから、自分の中にある世界を表現しろって。だから私、ずっと、先輩への想いを描いてきたんですよ」

「……知ってるよ」

「それに、先輩も言ってましたよね、ありのままでも十分な世界に、多少の劣化版でもいいから気付かせるような絵が描きたいって」

「…………知らないな」

「私、先輩がどんな絵を描くか、先輩よりずっとわかってます」

 お前のそういう、私の一言一言を一々覚えてるとこ、嫌いだった。愛歩は私の顔を見て満足げに笑って、それから、宣誓するように言った。

「告白、続きです」

 私の両手を取って、言葉を発する前に唇を奪った。

「嫌いなとこもたくさんありますけど、叶先輩のこと、大好きです。私とずっと一緒にいてください。死んでも一緒に来てください。いつか心から、私の絵を好きって言ってください。いつか私を大好きって絵を、先輩も心から望んで描いてください。それまでは私の絵くらい、ちゃんと嫌いって言ってください」

「……わがままだな」

「はい。でも、そういうところは好きですよね」

「…………まぁね」

 取った手の指が絡められる。お前は両手をぎゅっと握って、それから、瞳を閉じた。

「わがままで、色々言いましたけど……それでもよければ、キスをください」

 お前はそうして、また線を引いた向こうで、手招きをした。




「愛歩」

 瞼を落として間抜けに待っている愛歩に、ラインを越えてやる前に小さく息を吸って、一言だけ掛けた。

「……一応言っておくけどさ。私も愛歩の顔、割と好きだよ」

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