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 なんとなく、終わるのだろうとわかっていた。

「……した?」

 小さな、震えた囁きだった。雨の静寂に落ちたのに、頭は怯えに食い千切られていた。聞き返さなくても、何を言ったのかはわかった。お前はそれでも、はっきりと繰り返した。

「……私の絵、……ダメでした?」

 普段は大抵を取り繕う癖、肝心なとこですぐにこみ上げて泣くのは、愛步のずるいところだと思っていた。




 私鉄の改札を抜けて、西口の階段を下る。駅を出る前に傘を開く。薄汚れたアスファルトを、勢いの弱まってきた雨が打っている。正面に延びる栄えた通りには入らず、一本左にずれる。あの頃からシャッターの降りてる果物屋。玄関口からも人が覗けるパチンコ店。緑の看板の法律事務所。記憶にはないチェーンの牛丼屋。通りは緩やかに湾曲して、駅前の通りからはどんどん離れていく。居並ぶ建物もアパートや一軒家、個人経営のクリニックに姿を変えて、擦れ違う人の姿も疎らになっていく。

 そのうち寂れた児童公園が左手に現れるから、その角をなぞるように左折する。低い塀越しに雨に打たれる遊具が見える。まだ教わるのを許される前に、連れてこられたことがあった。多分あの頃にはすでに、憧れていたのだと思う。

 ぱしゃりと水溜まりを踏み抜いた。そのままぱっと足を上げても、靴にじわりと水が染み込んだ。そこでふと、雨が上がっていることに気付いた。公園の通りを突き当たりまで歩いて、傘を畳んだ。通りを渡れば、見慣れた木造家屋がある。

「……」

 土ばかりのプランターを持ち上げたらいつもの場所に鍵が置かれていた。少し迷ってそのまま戻し、チャイムを鳴らして待った。背後を二台、自転車が通り過ぎた。いないか。思ったときに、物音がした。

「……家出?」

「いえ、…………」

 扉の隙間から覗いた不審げな顔に首を振って答えた。理由を言おうとしたけど、声も言葉も思うように出なかった。今多分不細工な顔をしているなと思って、手で目元を拭った。

「いきなりそんな、漫画じゃあるまいし……いいよ、入んな」

 溜め息と一緒にドアが優しく開かれたから、頷いて一歩を玄関に入れた。




 アトリエ以外は記憶の通り、ぐちゃりと汚いままだった。そこら中に不健康な食事の残骸と、脱ぎ捨てた服とが転がっている。おばさんは唯一綺麗なソファの周辺から適当に物をどかして、はい、とそこに私を座らせた。

「通報いる?」

 振られた携帯に、首を振る。すると彼女はそ、と頷いて、奥の部屋へ引っ込んでいった。そんな大層な理由ではないのに、泣いてしまっている私が情けなかった。けれど確かに後悔も痛みも、未練も、こびりついたままだった。

「ココアあったけどね、期限ヤバかった。これ多分飲めるやつ」

 淹れられた緑茶は、やけに渋かった。一口飲んで、舌をぎゅっと縮めて、飲み下して。それから、口を開いた。言う数瞬前にも、我ながらちっぽけだ、と思った。

「付き合ってた子を、振ったんです」

「ほう」

 くる、と目が丸くなって、おばさんは言った。それからあまり間を置かず、ぽろりと付け加えた。

「叶ちゃん、私のこと好きなのかと思ってた」

「……はは、……それ言いますか」

 本当に、この人は。

「今から告白でもする気だった? 振るけどさ」

「いえ、………………その子に惚れてから、おばさんのことは単に憧れだったかなって、わかったんで」

「おー、振る前に振られた」

「ふふ、……すいません」

 目を見ずに、私はそう答えていた。

「てか敬語ね。叶ちゃんもすっかり大人になっちゃったねー」

 指摘されて、気恥ずかしくなる。ドアが開くまでどう切り出そうか迷っていたけど、空いた歳月と多少の見栄が、私に背伸びをさせた。

「子供ですよ。大泣きしましたし」

「大人も泣く泣く。叶ちゃんがバイオリンやめたとき、お姉ちゃんも泣いてたし」

「……」

「けどさ、まだ好きなんじゃないの? なんで?」

「……」

 聴きたくないことを言うし、言いたくないことを訊くなぁと思った。でも、おばさんのそういうところが好きだったし、訊かれたかったのかも、とも。

「……傷付けたく、なかったんで」

「うーん、……最悪な手に思えるけど」

「…………」

「言っておくけどさ、私たちみたいなのは出会いがめちゃめちゃ少ないんだから、つまんない理由で離しちゃダメだよ」

 言って、おばさんは紅茶をすすって、渋、と顔をしかめた。そんな軽口のような言葉でさえ、ぎゅっと心臓が縮まる。あの子が私を見つけたのがどれだけ馬鹿らしい確率での過ちかなんて、十分に知っている。

「……これ」

 答えずに、スマートフォンを操作して。画面にあの子の絵を出した。向日葵畑と女の子。

「どう思いますか?」

「うん? …………ふーん、その子の描いた絵?」

「はい」

 鼓動が、痛かった。期待しているのがどんな言葉か、どうしてこれをあなたに問いたかったのか。未だに、答えを知らなかった。あなたはしばらくじっと画面を見つめた。見つめて、視線が絵の細部までをなぞって、やがて、あっさり頷いた。

「うん、いい絵じゃん」




 なんとなく、終わるのだろうとわかっていた。

 私の絵、ダメでしたか。

 日曜。いつもの通り、先輩の絵を見守るために訪れた美術室で、気付けば私はそう尋ねていた。天気予報で言っていた時々雨が、降り始めたくらいだった。問いの一度目は雨音に掻き消されたから、私はもう一度、繰り返した。

「いや……別に、ダメじゃないでしょ」

 先輩は淡々と絵筆を動かしながら、冷たく答えた。そのときに、ああ、やっぱり、と。目をそらして、逃げ続けていた不安が、どろりと溢れだした。穏やかな絶望が、絶対的な諦念が溢れて。

「じゃあ、……」

 尋ねる前から、ぽたぽたと。先輩は身構えるように、ほんの少し、絵筆を持つ手を強張らせた。そして私ははっきり、それを尋ねた。

「……私のこと、嫌いになりました?」

「…………、………………え?」

 ぱたぱたと落ちる雨の音が、余韻を地面に攫っていった。先輩はようやく私を見てくれた。どうしてそこで聞き返すのか全然わからなくて、いっぱいの涙を溜めながら、私はぎゅっと痛いまま、思わず笑ってしまった。聞き返さないでくださいよ、の言葉に、痛みの分だけ棘を交えた。

「わた……私のこと、嫌いになりましたかって、……そう訊いたんです」

 繰り返すと、先輩はそれこそ呆れたような、悲しそうな表情になった。

「……お前、……馬鹿だね」

 それから、私の目を見て、はっきりと言ってくれた。

「私は、愛歩が好きだよ」

 だから。けれど。でもどんな言葉も続けないまま、先輩はそれで言葉を終えた。それでもそれが心からの言葉で、確かに愛が滲んでいることを、馬鹿らしいほど感じてしまった。

「それじゃ、…………どうして、ですか」

 歯止めの効かなくなった想いが、ぎゅっとこぼれた。痛みを頑張って噛み殺しても、それは次々溢れ出した。

「なんで、褒めてくれなくなったんですか……? 前に言われたことも気を付けてたし、うまく描けたと思います。先輩から見たらまだまだかもですけど、……こんなこと、うざいかもですけど、私、…………」

「……褒められるために描くものじゃないだろ、絵は」

 言葉を見失った私に、先輩は目を逸らしながら答えた。私はきゅっと唇を結んで、それから、ゆるゆると首を振った。自分勝手を自虐して、結んだ唇が吊り上がった。

「私は、馬鹿で浅いんで。ずっと、先輩に褒められるために描いてるんですよ。でもそれじゃ、……それだけじゃダメだってわかってるんで、私なりに本気で向き合って描いてます。それでも、…………それとも、そんなんだから、ダメですか?」

「…………」

 先輩は目を逸らしたまま、答えをくれなかった。静寂が時を奪っていった。唯一時を数えていた雨足が不意に強まって、私はまた、っ、と唇を結んだ。

「……ごめんなさい。やっぱ、嫌われましたよね。そんな理由で描いてるから、ダメなんですよね」

「……違うって」

 苛立ったような口調で、きっぱりと。そんな言葉に、心がざわりと騒いだ。曖昧に濁すくらいなら、まっすぐ突き刺してほしかった。だから先輩の代わりに、私がナイフを取って、自分に刺したのだ。

「嫌いじゃないって、言ってるだろ」

「いいんです、……それでも私は、先輩のこと好きなんで」

 言った、瞬間。先輩の纏う空気が変わった。時々ある、逆鱗に触れてしまったときの目だった。けど私も引く気はなかったから、真っ向からそれを受け止めた。先輩は首を振って、静かに呟いた。

「……勝手に決めんな。好きだっての」

「――ッだったら!」

 だん、と。思い切り、床を踏んで。

 もうすぐだと思った。本音が聞ける。終わってしまう。それは絶対に嫌なのに。私は好きで、ずっと一緒にいたいのに。でもこのまま先輩といても、そのうち別れを切り出されると予感してた。避けようもない未来から逃げたくて、でも逃げ出す先もなくて、多分訪れる前に自分から、幕を引こうとしていた。

「っだったら、はっきり言ってくださいよ! ダメならダメって、いいならいいって……見ない振りされるのが一番やなんです! わたし、そんなに馬鹿じゃないですから!」

「…………」

「こんな、…………面倒でごめんなさい、……でも、…………」

 最悪だった。制御できない感情が嫌いだった。言葉の代わりに落ちる涙が鬱陶しかった。それを乱暴に拭ってる間も、こみ上げて言葉を出せない間も、先輩は沈黙しかくれなかった。

「……先輩、最近私のこと避けてますよね」

 吹っ切れたような心地で、まっすぐに尋ねた。忙しいからだ、と無理矢理納得していたはずの不満が、絵の具のチューブを押すように、心の中からどろりと溢れた。

「……うん」

 先輩は、残酷に首肯した。自分から望んだ癖に、抜き身の返事は深々と刺さった。先輩は淡々と、冷たく、はっきりと続けた。

「顔も見たくないし、声も聴きたくなかった。絵にも、触れたくなかった」

「…………」

 刺された傷口が抉られて、息もうまく出来なくなった。オーバーキルだ。あんまりなくらい。先輩は、でも、と首を振った。

「でも、………………好きなものは、好きなんだよ」

「…………わかりません」

 そんなふざけた返事にも。怒りは爆発させてしまった後だったから、溢れてくるのは悲しみくらいだった。もう私にできることは、何も残っていなかった。

「わかりません。先輩、全然、わかりません」

「この絵は、……お前と私なんだよ」

 それで説明は足りていると言うように、先輩はキャンバスを無感情に見つめた。その目が眇められて。

「お前は、……」

 先輩は、痛みを堪えるように笑った。首を振って、吐き捨てるように。

「………………お前は私の絵なんか、……好きじゃないだろ」

 これきりにしよう、と小さい言葉が、雨音にぽつりと放られた。



 は、と。

 零せた頃には、先輩はもう、美術室にはいなかった。何度考えてみても、先輩が何を言ったのかは、ひとつも理解できなかった。

 描きかけのキャンバスの中で、烏が太陽から目を背けるように、それでも水溜まりの虚像に目を奪われるように、黒々と俯いていた。絵の中では雨は上がっているのに、窓の外の太陽は、ざあざあと隠れたままだった。

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