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 私、やっぱり欲張りだ。

「…………」

 もう見飽きたSNSの画面。その通知欄を更新までして、増えてないことを確認する。とっくに既読になってる先頭は三〇分前、最近よく見るアイコンの人から、先週あげた新しい絵にお気に入りの気持ちがひとつ。

 唇があ、じゃなくう、の形に力なく丸まって、ふー、とくたびれた溜め息が零れる。先輩以外の話題がごろごろしてるスマホをぽいっと脇に放って、ごろりと反対に寝返りを打つ。視界に入る、小学校からずっと使ってる学習机と、その輪郭で薄く凸ってる、出しっぱなしのタブレット。画面はきっともう消灯してるけど、お絵かきアプリを立ち上げたままだった。描かなきゃなぁ。思ったけど、ごそりと手近な掛け布団をたぐり寄せて、それをぎゅっと抱き締めた。

「……」

 前の絵、まだ見てくれてないんだ。

 そんな湿っぽい気持ちが、じくりと心に滲み出てくる。濡れてふやけたそこを破くと、中には黒ずんだ不安がどろりと溢れている。見てない。違うかも。見てないんじゃなくて、見たけど、何の反応もくれなかっただけ。かもしれない。かもしれないというか、多分そうだろうって確信から、目を逸らしてるだけだともわかっていた。微かな希望に縋るために、毎日直接会っているのに話題にも出せなかった。それでも、わかってる。

 手探りで背中の向こうにあるスマホを掴んで、またSNSを開く。先輩のアカウントに飛んで、お気に入り欄をこっそり覗く。ずきりと痛みが走って、さっきは疲れた溜め息を吐いた唇を、ぎゅっと結んだ。今何かを吐き出しても多分、ヘンなろくでもないものしか出ない。

 三時間前に上げられた、先輩の好きな絵描きさんの新作。昨日も別の人の絵を二つ、お気に入りに加えていた。

「……」

 まぁ、そう。お気に入り、って機能なんだし。別に気に入らなかっただけ。個人的には今までで一番上手くいった気がしたし、皆からの反応だって上々だったけど。けど、先輩のお気に入りじゃなかった。ただそれだけ。そんなことで一々落ち込んで、てかそもそも勝手に期待して、そう、私はやっぱ、欲張りなのだ。それだけ、だ。言い聞かせながら布団をごそごそ引っ張り上げて、顔をぼすりと押し付けた。

 先輩にこないだ言われた細部の色の載せ方も、私なりに気を遣ってみた。青空と海と女の子。上げたのは先週末。もう秋に入ったのに、季節を引き摺ってるのがいけなかったのかもしれない。それとも、この間と似たような構図になったのがダメだったか。あるいは私が満足してただけで、やっぱりクオリティもまだまだだったのか。

「……」

 埋めた顔を持ち上げる。前はもっと、ここの色がとかここ適当にしたでしょのダメ出しと、一緒にけどまぁここはよかった、もくれたのに。一つ前の絵もその前も、くれたのはただのお気に入りだけ。コメントも特にしてくれなければ、誰かにシェアされることもない。

 自分のアカウントに飛んで、投稿した画像をひとつひとつ、ぼんやりと見返していく。下手になったのかなぁ。思ってみたけど、思えなかった。先輩以外からの反応は少しずつ増えている。先輩が素っ気なくなってから一層いろんなことに気をつけて、丁寧に仕上げてるのも自分で見てわかった。そういうのがダメなのかも。思ったけど、やっぱり前よりもずっと、いい絵を描けてると思った。

「…………」

 どろり。心の中に満ちた不安が、体を起こしたのと一緒に大きく波打つ。さっき空けた穴から黒い不安がこぼれて、心臓を伝っていく。それを無視したまま机に掛ける。先輩の真似して買ったタブレット。ロックを解除して、描きかけの絵を見つめる。女の子の後ろ姿と、向日葵畑。

 ほんの一瞬、全部消して別の絵にしたいって気持ちが浮かんで、けどかつり、力なくペンで画面を突いた。進める気なんて起きなかったはずなのに、見直すとどこもかしこもダメな気がして、ため息と一緒にペンを動かしていく。

 ただ近付きたいなんて口実で始めて、けどいつからか、本気以上の趣味になった絵。

 告白をもらった美術室も、かけがえない場所には違いないけど。行き付けのカフェでタブレットに凜と向き合ってる姿の方が、ずっと記憶に重なった。あんな風になりたい、わけではなかったけど。真似して背伸びをする私を、先輩が褒めてくれたらそれがよかった。

 そのシルエットに、横顔に、私は惹かれたのだから。

「…………」

 画面の中の向日葵畑。そのなかにひとつ、周りより背の高い一輪。女の子を見つめるその花を、丁寧に塗っていく。

 絵に描いたような一目惚れだった。

 中学に上がったばっかりの頃。入ろうと思ってた軽音部を諦めて、でも遅くなるかもと言っていた手前、時間を潰しにカフェに寄って。あったかいカフェオレを受け取って店内を見渡したとき、奥のカウンター席でひとり、タブレットに向き合うあなたに目が吸い込まれた。凜と伸びた背とポニーテールが印象的で。綺麗だと、思ったのが最初だった。

 絵を描いてるとわかったから、邪魔するには忍びないと思って、私はすこし離れた席の彼女が見える位置に座った。見えたネクタイのストライプで上級生だとわかって、それでも声を掛けたい気持ちはすこしも薄れなくて。すぐ後ろを人が通ってもすこしも気に掛けずに、イヤホンもせずに描き続けるあなたを見てるだけで、視界の外で何時間も零れていった。それに気付いたときにすごい集中力だと、あなたにも、私にも思った。

 声を掛けようと近づけたのは二日後で、邪魔をしないよう描き出す前の、タブレットを取り出したばかりのあなたにそっと歩み寄って。けれど言葉を発する前に、今度は画面に目を奪われた。ガードレールに添えられたくたびれた献花と、降る雨と、無関心に朝を急ぐ人々の足。近所の道だった。すぐに気付いた。

『じろじろ見るの、やめてください』

 思わずあ、と声を上げた私に、振り向いた先輩はこっちも気付いてますから、と不快そうに付け足した。羞恥で真っ赤になったけど、必死で弁解して、勢いで名乗って、名前を訊いて。からかうつもりかと疑ってるらしい先輩に、思い返せば思いっきり怪しく、全力で仲良くなりたいことを伝えた。不審者認定されずに隣にいることを許してくれただけでも奇跡のようなものだけど、知り合ってみればぼっちで押しに弱い先輩だったから、あれが正解だったかもしれない。名前ついでに連絡先まで交換できてるんるん気分だったから、これ以上は絵を描く邪魔はできないと、迷惑ですよね、と立ち去ろうとしたら、話しながらでも描けるので、とすごくかっこいい台詞で、先輩は私を引き留めてくれた。

 まぁ。仲良くなれたと思ったら次の日行っても先輩はいなくて、翌々日に別のカフェで見つけて、見つけたらまた隣にいることを許してくれて。そんな追いかけっこも、四月の間は続いたんだけど。

 あれからもう四年と半年。付き合ってからは二年とすこし。我ながら、長くてしつこい一目惚れだと思うけど、知れば知るほど好きになるからどうしようもなかった。

「……」

 画面の青空に深みを足した。遠くに立ち上る雲と溢れる向日葵のディテールを微修正する。

 先輩みたいにカフェで描くのは、気恥ずかしくてまだ一人ではできない。けれど先輩と二人だったり、それとも家でコツコツだったり、私なりに筆を重ねて、何度も色を載せてきて。先輩との日々を通して、少しずつ上手くなってる気がしていて。

 そんな成長のひとつひとつを、先輩は言葉足らずに、それでも褒めてくれたのだ。褒めてくれてたのだ。近付くため、なんて不純な動機で始めた癖に、先輩の言葉のひとつひとつで、絵を描きたいという心は私の手には収まらないほど、私の背丈を越えるほど、大きく育ってしまったのだ。

「…………」

 先輩に認められたいと、思うようになってしまったのだ。

 嫌われた、のかもしれない。思いたくなくて目をそらしていた不安が、ぽつりと意識にまで浮かんだ。どろりと垂れた黒い不安。そんなはずない、とは思い切れなかった。

 タブレットからボイチャのアプリに切り替える。話したいですのメッセージに返った、今日は話し疲れたからの文字列。了解です、にくっつけた絵文字には、浮かんだ不安や不満は隠して、寂しさだけを乗せていた。確かに美術室でも散々話したし、調子に乗って先輩の告白まで再現してしまったのはちょっとよくなかったかもしれない。でも喋ってたのは私ばっかだし。話し疲れた、としても、一方的に話させるくらいはいいじゃんか。元々そんなに相槌もくれないんだし。私が完璧ラジオになって、先輩はただ無音を返してくれるだけで、それで満足なのに。ここんとこぐるぐるしてるこの不安も、先輩が聴いてくれるだけで、ただ聞き流してくれてるだけでさえ、誤魔化せるのに。

 帰りの寄り道を断られた。今日はあんまり目が合わなかった。先輩から話を始めてくれなかった。この間は出かけるのだって断られたし、大体の問いに生返事だし。手も繫いでくれないし。次々と、辿るようにいくつも浮かんでくる。もう高校三年で、推薦入試に向けてのポートフォリオ制作だったり色々忙しいのはわかるけど。それで浮かぶ不安をしかたないって飲み下せるほど、私は大人になれてない。一旦距離を置こうなんて思えるほど、一目惚れは薄れてない。

 チャット欄に打ちかけた、さみしいです、の文字を消していく。寂しい。そうじゃない。怖かった。

「…………」

 怖かった。どろりと身じろぎするこの不安を、冗談交じりにさえ訊けてないくらい。

 何をした覚えも、つもりもない。だから知らないうちに傷つけたなら謝りたいし、自分を呪いたい。でも、それならまだいい。理由があるなら。

 私たちの気持ちが対等じゃないことは、未だに痛いくらいわかってる。いつ先輩に呆れられて、飽きられてもおかしくないと、笑っちゃうくらいわかってるから。

 私は、先輩が思うよりもずっと弱いし、ずっとさみしがりで、ずっと欲張りだから。

 アプリを切り替えて絵に戻す。ペンを握って、じっと絵を見つめる。思い出す。初めて見せた絵を散々に笑って、でも私の最初の絵よりずっと上手いよ、なんて優しい言葉をくれた先輩。一つ一つを褒めてくれて、指さしなぞってくれた先輩。唇をかんだ。

 怖かった。なんとなくで嫌われるのが。嫌うとまで言わなくとも、ただなんとなく、私を好きじゃなくなるのが。

 どうか、私にどうしようもない理由で、私を嫌いになりませんように。願いながら、背伸びをした一輪に重ねるように、涙のようなレンズフレアを足した。

 私はいつも、風景と女の子の絵を描いた。全部、先輩に向けた憧れを、絵にしたものだった。




 仕上げを終えて、絵をアップして。散々に迷った挙句、新しい絵描きました、と、チャットを飛ばした。いつもならぎりぎり起きてる時間だったけど、返事は翌朝、いいんじゃない、の一言だけだった。

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