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「はぁー……先輩とここで駄弁ってられるのも、もう半年もないんですね」

「駄弁るとこじゃないだろ、部室は」

 白のキャンバスが完全で、私はそれを傷つけていく。

 ひとつ色を重ねる度に、キャンバスは醜く汚れていく。手垢のつかない自然の内から、人間を削り出すように。八号の丸平筆を動かしながらいつものように、私は愛歩の軽口に答える。出会ってしばらくは耳元の羽虫くらいに雑音だったこの声も、鬱陶しく付き纏われる間に、換気扇の回転音くらいには気にならなくなっていた。

 ええーと視界の右端、見せつけるように不満げに忍び寄って、触れそうな距離で止まる手も。窓から差し込む太陽の傾きと同等に、意識の外に置けるようになった。怒られると学習したようで、私が筆を動かすうちは、彼女は触れてはこなかった。

 動揺のひとつも見せずにいるとやがて、手はつまらなさそうに引いていった。そしてかわり、とん、と内履きの音。窓から差し込んで床に落ち、張られた板を温める太陽を踏んで、彼女はすくりと立ち上がった。

「まぁ確かに、先輩から絵のこと教わったり、先輩の描いてるとこを眺めたり、先輩の項を眺めたりとか、そういうのも大切な思い出ですけど」

 とん、とん、と重なる足音が背後を回る。床に反射した光が淡い影を生んで、それがキャンバスの色合いをほのかに変えていく。

「でも、こうやって浅くて下んない話で先輩と盛り上がったりとか、ときどき真面目に話してみたりとか、熱烈に愛を囁き合ったりとか、……してきた日々も、この場所に詰まってるんで。……やっぱ、寂しいなって」

「……駄弁りなら、カフェとかのが頻度高いでしょ」

 左からひょこりと顔を覗かせた愛歩に零すと、愛を囁くのは否定しないんですね、とにこにこ笑った。事実だからねと淡泊に返せば、きゃーとわざとらしくはしゃぐ声。

 実際、他の部員に嫌われてる私がここを訪れるのは、アナログで取り組んでいる作品があるとき、それも人の少ない休日くらいで。自然ついてくるこいつと二人きりになることが多く、そのぶん口も軽くなった。今のように。

「まぁー、カフェにもですし、なんならうちにもスマホにも、先輩との思い出はいーっぱい詰まってますけど」

 その幾つもを振り返るように、視線をくるりと宙に巡らせて。うちひとつに焦点を当てて、瞳が部屋の反対を見つめた。

「告白は、ここじゃないですか。それもかなえ先輩から」

「捏造するな」

「してませんー先輩からでしたあれは。一回しか言わないからちょっと黙っ――」

 再現を始めた愛歩の声は聞き流しつつ、深い藍をそっと塗り重ねた。光を吸いきらず、美しい艶を持つその羽を、丁寧に。

 確かに一度だけだと前置いて、言葉にしたのは私の方だ。この教室の反対で、がちがちに緊張しながらもお前ときちんと向かい合って、逃げてたまるかと視線を合わせて、伝えたのは私だ。けれどその二日前、意味深な言葉で私を唆したのは、お前だ。

 愛歩と知り合って二年が経ち、私が高校生になった夏。青春っぽいことしませんか、とどこかの引用のような台詞を、もう中学も終わっちゃうんでとはにかんで告げて、そんなものとは無縁で不要だと思っていた私を、愛歩は旅行に連れ出した。海を見たり、花火を聴いたり、バーベキューをしたり映画に浸ったり。そしてどうしてもとせがまれて、外で、二人で絵を描いた。私は二日で済ませたけれど、お前は幾分気合いを入れて、お蔭で一週間弱の半分以上は向日葵畑の記憶になった。

 自慢ではないが灰色の人生、二人だけでどころか大人が同伴じゃない旅行はそれが初めてで、ひとつ違いとはいえ中学生を預かるのだからと多少気を引き締めて、けれど予感以上に青春の青は鮮明で、多分にはしゃいで。

 その青の眩しさも明日には現実に褪める、夜。

 海辺のちいさいペンションを借りていた。寝室はふたつあったけど、わける理由も特段なかった。お風呂上がりにその扉を開けるのも、四日繰り返せば謎の緊張も薄れて、潜り様の上がったよ、の言葉も自然に発せて。けれど並んだ布団は空っぽで、探し出た浜辺に愛歩のシルエットが浮かんでいて、随分綺麗な月だな、と思ったのを、覚えている。

『青春っぽいこと、できました?』

『一生分くらいはね』

 軽口で返すと、愛歩は何かを言いかけて、けれど珍しくそれを呑み込んだ。それから、寄せる波音の間にするりと、質問を投げ込んだ。

『先輩は、好きな人いますか?』

『さあ』

『私は、いますよ』

 唐突な問いに跳ねた鼓動も、続く言葉に刺された喉も、おくびにも出さなかったはず。

『……青春してんね』

『してますよ、でも、……一生分には、まだ足りません』

『足りないって、……』

『先輩』

 好きな人が、いるだけじゃ足りない。その言葉に思考を巡らせる前に、お前は振り向いて笑った。

『私ともっと、青春しませんか』

『…………なに、告白、とか、そういうの?』

 発した声よりも動揺の方がうるさくて、どんな声音で訊けたのかは覚えていない。そうしたらお前は憎らしく笑って、首を振った。

『告白、されたいんですよ、私』

 絵筆の先の藍を、キャンバスにべとりと塗り足す。

 思い出すのすら惨憺たる、腐った林檎のような記憶だ。青春とか色恋だとか、お前と出会う前の私であれば袖も振り合わないほど、縁もなければ近づきもしない世界。私をそこに連れ出したのはお前で、引かれるままついていったのは私。

 引かれたラインの最後の一歩。そこまで強引に引っ張った癖に、向こう側で手招きをしたのは、お前で。

「――ね? 先輩じゃないですか」

 あのときの長ったらしい言葉を、多分一言一句違わずに繰り返して。得意げに腰に手を当てた愛歩に、私は沈黙を返してやった。愛歩はそれでも満足げに笑うと、またすとりと座って、私の絵を覗き込んだ。

 お前が手招きをしたから、私は線を越えてお前に伝えたんだ。お前の言葉に応える為にと、最上の思い上がりを貫き通して。腐った林檎を心の中から取り上げて、けれど捨てずに、どころか思い切り齧り付いて。

 だからこのままずるずると腐っていくのも、悪くはないと思っていた。一度狂わされた人生ならば、最期まで狂ってしまうのも。キャンバスの白を穢すように、お前に私を寄り添えるのも。

 けれど。

「……なんか、いつもより優しい絵ですね」

 雨上がり、ずぶ濡れの一羽。黒々とした烏が、アスファルトの水溜まりを覗く。真上から、太陽が落ちている。

「けど、すこし切ない」

 いつもの通り、描きかけの絵にもお前は遠慮なく、好き勝手に言葉を溢す。私もいつもの通り、それを聴きながらも、迷わずに筆を動かしていく。その感想にも推測にも、何の言葉も返さずに。

「憧れ、……ですか?」

「…………」

 決して正解ではないが、概して間違いでもない。そんな言葉に、絶妙な一致を認めてやるのも、微妙な差異を説明するのも、どうにも癪に障ってしまうから。そんな私の気質さえお前はいつからか見抜いているようで、黙りこくったままでもここの反射がとかこの色がとか、気ままに言葉を重ねていった。

 脳天気で浅くて空っぽで、幸せで日々が溢れてそうな癖に。私と出会うまでは絵なんかからきしで、ルノアールとドガの区別もついていなかった癖に。でもそんなことはどうでもよかった。お前がたとえ水彩と油彩の違いさえ知らなかろうが、バラエティ番組で馬鹿笑いしたその口で私の絵を評価しようが、そんなことは、どうでもよかった。

 お前に私がどれだけ釣り合ってなかろうが、本当に、どうでもよかったのに。

 お前の描く絵が嫌いだった。私の嫌いな絵を描く癖に。そう思う私が嫌いだった。それでも私の絵を知ったように、中途半端に正しく捉えてしまうお前を、それでも私は。

「でも、……私、この絵、好きです」

 混じりけのないその本音に、私は薄く笑った。

 これは、お前と私だ。

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