クレアはゆっくりと意識を取り戻した。
まぶたを開くと、目の前にはぼんやりとした光が広がっていた。
現実のようで現実ではない、不思議な感覚が彼女を包み込んでいる。
「……ここは?」
自分が横たわっていたはずのベッドはなく、代わりに広がっていたのは一面の白い空間だった。
足元すらも曖昧で、まるで雲の上に立っているような気分になる。
ふと、気配を感じて顔を上げる。
そこには、自分と同じ顔をした女性がいた。
「──っ!」
驚きに目を見開くクレア。
だが、それだけではなかった。
その周囲には、他にも何人もの女性がいた。
みんな、自分とどこか似ている。
けれども微妙に違う。
彼女たちは穏やかな表情でクレアを見つめていた。
だが、その中心にいる一人——リーダー格らしき女性が一歩前に出て、静かに口を開いた。
「……目が覚めたのね」
澄んだ声。
その響きに、どこか聞き覚えがあるような気がした。
「あなたは……?」
クレアが問いかけると、その女性は微笑んで言った。
「私はあなたよ。記憶を失くす前の、"本来の"あなた」
「……え?」
理解が追いつかない。
だが、その女性の瞳には確かな知性が宿っており、まるでクレアの心の奥底を見透かしているようだった。
「そして、ここはあなたの精神世界。この空間にいるのは、あなたの記憶の欠片——つまり、"かつてのあなた"たち」
クレアは困惑しながらも、周囲の女性たちを見渡した。
「私の……精神世界?」
「そうよ」
リーダー格の女性は頷き、静かに続ける。
「あなたは今、心の奥深くに閉じ込められている状態なの。外の世界では、あなたの身体はまだ目覚めていないはず……」
その言葉に、クレアは息を呑んだ。
「じゃあ……私は、まだ……?」
「そう。あなたはまだ現実の世界に戻っていない」
クレアは手を見つめる。確かに感覚はあるが、どこか現実味がない。
ここが精神世界だというのなら、それも納得できるような気がした。
「なぜ……私はここに?」
リーダー格のクレアは、少しだけ悲しそうな表情を浮かべた。
「あなたはまだ、自分を取り戻していない。記憶を失い、自分が何者なのかも分からないまま、心が迷子になっているのよ」
「……」
「だから、あなたには"選択"が必要になる」
「選択?」
クレアの問いに、リーダー格のクレアは頷く。
「ええ。あなたが本当の自分を取り戻し、現実へと戻るのか……それとも、このまま記憶のないまま、新しい自分として生きるのか」
その言葉に、クレアの心は大きく揺れた。
「(私の……選択……?)」
果たして、自分は何を選ぶのか──。
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ミーシャは、静かな室内の片隅から、グレアスがクレアの手を握りしめる姿を見つめていた。
その目は優しさと切なさに満ちているが、その表情には何とも言えない複雑な感情が浮かんでいた。
何度も深呼吸をしてみるが、心の中のもやもやは晴れず、手に汗をかきながらもその場を動けずにいる。
「(どうしてこんなことに……)」
彼女の心は不安と自責の念で溢れていた。
クレアがあんなにも傷つき、そして無力に横たわっているその姿を目の当たりにしたとき、ミーシャは自分の無力さを痛感せざるを得なかった。
彼女が転落してしまった瞬間、ミーシャはただ立ち尽くし、クレアを支えることができなかった自分が恥ずかしくてたまらなかった。
「(私はただ、ここにいるだけで、何もできなかった)」
その思いが胸に重くのしかかる。
自分ができることといえば、ただただグレアスに報告することだけだった。
だがそれでも、グレアスがどれほど辛い思いをしているか、その肩を支えることができなかったことに、ミーシャは深い疚しさを感じていた。
グレアスがクレアの手を握りしめるその姿に、彼の心の中の絶え間ない苦悩がにじみ出ているように見える。
ミーシャはそれを見ていると、胸が締めつけられるような痛みを覚えた。
どんなに心を尽くして支えても、クレアの傷は消えず、痛みは募るばかりで、グレアスがどれほど無力に感じているのか、ミーシャにはひしひしと伝わってきた。
「(グレアス様は、こんなにもクレア様を大切に思っているのに、どうしてこんなに辛いことが続くのだろう……)」
そのとき、ミーシャの目に映るのは、ただ一心にクレアを看病し、そばに寄り添うグレアスの姿だけだ。
その優しさが、逆にミーシャの心を揺さぶる。
グレアスの心の奥底で、クレアに対する愛情と共に抱え込んでいる苦しみが伝わってきて、ミーシャは思わず目を背けたくなる。
それがどんなに辛いものか、彼女は身をもって感じ取っているから。
「(私には、どうしてもできないことがある。どんなに頑張っても、どんなに努力しても……クレア様を守れなかったことは、永遠に消せない)」
それでも、ミーシャはもう一度深呼吸をして、自分に言い聞かせるように言った。
彼女は、グレアスがクレアを愛し、必死に支えていることに感謝し、今自分ができることを考えようと決意した。
クレアのために、グレアスのために、どんな些細なことでも自分にできることを見つけ、精一杯力にならなければならないと。
「(私は、ここにいる。私ができることを精一杯しよう……どんな形でも支えるから)」
その思いを胸に、ミーシャは足を踏み出し、今度はグレアスに声をかける決意を固める。
少しでも彼を支えられるように。
少しでもクレアを守れるように。
彼女は背筋を伸ばし、静かに歩みを進めた。
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クレアは目の前の女性をまじまじと見つめた。
「私の……前世?」
リーダー格の女性は静かに頷いた。
「そう。ここにいる彼女たちは、あなたの魂が辿ってきた過去の姿……つまり、"前世のあなた"たち」
そう言うと、周囲にいた女性たちがそれぞれ一歩前に出る。
「私は医者だった頃のあなた」
落ち着いた表情の女性がそう名乗る。
彼女は長い白衣を纏い、どこか知的な雰囲気を漂わせていた。
「私は農家だった時のあなたよ」
次に出てきたのは、優しげな笑みを浮かべた女性だった。
彼女の手はどこかたくましく、土に触れていた時間の長さを物語っていた。
「私は司書だった頃のあなた」
知的な眼差しを持つ女性が本を胸に抱えてそう言う。
次々と名乗りを上げる彼女たちに、クレアの混乱は深まっていった。
「……そんな、馬鹿な」
頭を振るが、彼女たちの姿は消えない。
これは夢なのか、それとも何かの幻なのか──。
リーダー格の女性は、困惑するクレアの様子を見つめながら、そっと口を開いた。
「あなたは今、記憶を失っている。でもね、"記憶"とは何も、今の人生だけに縛られるものじゃない」
「……どういうこと?」
「あなたの魂は、これまで何度も生まれ変わってきた。そのたびに違う人生を歩み、違う知識や経験を積んできた。でも、それらの記憶は通常、次の人生に引き継がれないもの……ただ、今回だけは特別なのよ」
「特別……?」
クレアはさらに困惑した表情を浮かべる。
リーダー格の女性は真剣な眼差しで続けた。
「あなたの記憶喪失は偶然ではない。何かが、あなたにこの"選択"を迫っているのよ」
「選択……?」
また、その言葉。クレアは無意識に喉を鳴らす。
「そう。あなたはこれから、"自分が何者であるか"を決めなければならない」
「……」
クレアは目の前の女性たちを見つめた。
医者の自分、農家の自分、司書の自分——他にもたくさんの前世の自分がいる。
彼女たちはどこか優しげに、そして懐かしげにクレアを見つめていた。
「私は……」
自分は何者なのか?
記憶を取り戻すべきなのか?
それとも、新しい自分として生きるのか?
答えの出ない問いが、クレアの心に重くのしかかっていた──。
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グレアスは、しばらくの間静かにミーシャを見守っていた。
彼女の目に浮かんだ涙、震える肩、無意識に頬を伝う涙。
それら全てが、彼の胸に痛みを引き起こしていた。
ミーシャが自分を責め、苦しんでいることが、何よりも辛かった。
彼女の心の中で、何度も繰り返されるその悔しさが痛いほど伝わってきたからだ。
それでも、グレアスは彼女を責めることはしなかった。
ミーシャがどれだけ自分を追い詰めても、それは彼女の本意ではないことを知っていた。
そして、何よりも今はミーシャが少しでも楽になれるよう、言葉をかけ、彼女の苦しみを和らげることが最も大切だと感じていた。
「君が自分を責める理由はわかる。でも、君がそのときにできたことはすべてしていたんだ。」
グレアスは穏やかな声で続けた。
「君が無理にクレア様に近づいても、事態は変わらなかったかもしれない。それに、君が助けたからこそ、今クレア様はまだ生きているんだ。」
その言葉が、ミーシャに少しでも届いてくれることを祈りながら、グレアスはさらに続けた。
「君ができることを、全力でやったんだ。それがどんなに小さなことでも、君がしたことがクレア様の命を救った。それを忘れないでほしい。」
ミーシャは耳を傾け、必死にその言葉を理解しようとしていた。
しかし心の中では、自分が足りなかったという思いがどうしても消えなかった。
悔しさが込み上げ、また涙が止まらなくなる。
しかし、グレアスがそっと彼女の肩に手を置いたとき、心の中に少しずつ温かな感情が芽生え始めた。
「ミーシャ、君がどんなに苦しんでいても、クレア様は君のことを決して否定しないよ。」
グレアスの声には、静かな確信があった。
「君が最善を尽くしたことは、どんなに素晴らしいことか。君が自分を責めることは、クレア様も望んでいないと思う。」
その言葉に、ミーシャは少しずつ落ち着きを取り戻し、胸の中に湧き上がった熱い思いを感じ取ることができた。
自分がやれることを、必死にやった。
それを、グレアスは理解してくれている。
クレアもきっと、そう思ってくれている。
「ありがとう…グレアス様。」
ミーシャの声は震えていたが、それでも何度もグレアスに感謝の言葉を伝えた。
「私、少しだけ楽になった気がします。」
その言葉に、グレアスはほっと息をつき、微笑んだ。
「それが聞けて、僕も少し安心したよ。」
そして、優しくミーシャの肩を抱き寄せる。
「君が楽になれるなら、僕も心から安心できる。」
グレアスの温かい言葉と、彼の手が包み込んでくれる感触が、ミーシャの心に染み渡る。
少しずつではあるが、彼女の心の中にあった不安や悲しみが薄れていくような気がした。
「君が辛いとき、僕が支えるよ。ずっと、君を見守っているから。」
グレアスはその後、さらに穏やかな声で言った。
「君が前を向いて歩けるように、僕も一緒に歩むから。」
その言葉を聞いた瞬間、ミーシャは深い安心感を感じ、再び涙が頬を伝った。
しかし今度の涙は、悔しさからではなく、ほっとした気持ちからのものだった。
彼女は胸をいっぱいにして息を吸い込むと、グレアスに感謝の微笑みを返した。
「ありがとう、グレアス様。私、もう少しだけ頑張ってみます。」
グレアスは、微笑み返しながら、優しく彼女の背中をさする。
「頑張らなくてもいい。君が辛いときは、無理せずに休んでいいんだよ。」
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クレアは自分の置かれている状況に、深い混乱を感じていた。
目の前には、自分にそっくりな女性が立っている。
彼女の目はどこか遠くを見つめているようで、時折クレアの目を見つめながらも、言葉を発する際にはどこか冷徹な印象を与えていた。
「私……?」
クレアは声を漏らす。
その言葉すら、どこか定かでないように感じた。
自分の存在に疑問を抱くようになったのはこれが初めてではなかったか。
目の前の女性は、確かに自分に似ているが、それがどうしてなのか、何故なのか、全く理解できなかった。
女性はクレアの動揺を感じ取ったようで、少し微笑んだ。
それが冷たい微笑みにも感じられ、クレアの不安をさらに煽る。
「あなたには、これまでに何度も辛いことがあった。心に傷を残すようなことも。」
その言葉が耳に入ると、クレアの胸が締めつけられるように痛んだ。
次第にその言葉がクレアの心に染み込んでいき、どこからか過去の記憶がうっすらと浮かんできた。
しかし、記憶の断片は不明瞭で、曖昧だった。
思い出すのが怖かった。
「それを思い出す必要はない。」
女性の言葉が、クレアをより一層混乱させた。
「思い出すことが、必ずしもあなたにとって良いこととは限らない。」
その声は、まるでクレアを守ろうとするようにも、同時に封じ込めようとしているようにも聞こえた。
「でも……でも、私は本当にわからない。自分が誰なのか、何を信じるべきなのか、全く分からない。」
クレアは自分を見失ったように、両手で顔を覆った。
心の中の暗闇が、どんどん広がっていくようで、息が詰まる。
「思い出さなくても、あなたは今、ここにいる。それだけが大切なこと。」
女性は優しく語りかける。
しかし、その言葉がどこか冷徹で、クレアの心には重く響いた。
「どうして……?どうして私はこんなにも混乱しているんだろう?」
クレアは震える声で呟く。
その問いかけには、何も答えることができなかった。
女性は再び、クレアを静かに見つめる。
「答えを急ぐことはない。焦らず、ただ今を受け入れることが大事だ。」
その言葉は、まるでクレアを誘導しているように感じられ、彼女の心にさらに迷いを引き起こした。
「でも……今の私は誰なのか、どうしてこんなに不安なんだろう。」
クレアの声は震えていた。
女性の顔が少し柔らかくなった。
「あなたが誰であろうと、今のあなたを受け入れることが必要だ。」
そして、その目には深い優しさが宿っていたが、同時に何かを遮断しようとする力が隠れているように感じた。
クレアはその言葉を耳にしながらも、心の中で自問自答し続けた。
今、自分が何を信じて良いのか、どうすれば安心できるのか、それすらわからない。
それがどれほど怖く、辛いことかを痛感していた。