目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第44話 意識不明

日差しが優しく降り注ぐ午後、庭の一角に設えられた白いテーブルの上には、香り高い紅茶と美しく飾られた菓子が並んでいた。

心地よい風が吹き抜け、庭に咲く花々の香りを運んでくる。

クレアは椅子に腰かけ、向かいに座るローズを見つめた。


「初めまして、ローズ様」


クレアは少し緊張した面持ちで微笑む。


「私は……クレアです。」


ローズは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに優しく微笑んだ。


「初めまして、クレア様。私はローズ。あなたとは、以前からの知り合いなんですよ。」

「……そうなんですか?」


クレアは少し戸惑ったように目を伏せる。


「記憶がなくなる前の私が、どんな風だったのか……全然思い出せなくて。」

「無理に思い出さなくてもいいんですよ」


ローズは穏やかに言いながら、そっとティーカップを手に取った。


「今のあなたと、また新しく仲良くなればいいですわ。」


クレアは彼女の言葉に少し安堵し、小さく頷いた。


「ありがとうございます、ローズ様」


ローズは軽やかに笑った。

クレアはその表情にどこか懐かしさを感じた。

ふと目の前の紅茶に目を落とし、湯気の向こうに過去の自分を探そうとする。

しかし、霧がかった記憶は、まだはっきりと姿を現さなかった。


「それにしても……お菓子、お好きだったですよね?」


ローズは笑みを深めながら、綺麗に盛り付けられた焼き菓子を指さした。


「特に、これなんかお気に入りだったんじゃないですか?」


クレアは不思議そうに小さなフィナンシェを手に取る。


「……そうなのですか?」

「ええ。以前はこれを食べながら、よく話しましたわ。」



クレアはじっとフィナンシェを見つめる。

そして、恐る恐る口に運んだ。

その瞬間、ほんの僅かだが、胸の奥に何かが引っかかるような感覚があった。

けれど、それが何なのかは分からない。

ただ、確かに懐かしさを感じた。


「美味しい……。」


クレアはそう呟いた。


「そうでしょう?」


ローズは満足げに微笑む。


「これを食べながら、あなたはよくグレアスの話をしていたんですよ」

「グレアス様の?」


クレアは思わずローズを見つめる。


「そう。グレアスがどれだけ優しいかとか、どれだけ真剣にあなたのことを考えているかとか……そういう話をたくさん聞かされましたわ」

「……そんなに?」


クレアは少し頬を赤らめた。


「私……グレアス様のこと、そんなに話してたんですか?」

「ええ、とても幸せそうに」


ローズはくすくすと笑いながら紅茶を一口飲んだ。

クレアは少し考え込むようにして、カップを両手で包む。


「今の私には、その記憶がないけれど……でも、不思議とローズ様の話を聞いていると、そうだったのかもしれないって思えてきます」

「それでいいんですよ、クレア様」


ローズは優しく微笑んだ。


「焦らず、少しずつ思い出せばいいんです」


クレアは静かに頷く。

記憶を失ってから、どこか不安で、自分自身を見失いそうになっていた。

でも、こうして誰かと話し、過去の自分を知ることで、少しずつ自分の輪郭がはっきりしていくような気がした。

お茶会は和やかに進み、クレアは次第に自然な笑顔を見せるようになっていった。

記憶は戻らなくても、ローズとの会話の中で、心が少しだけ軽くなった気がした。

────────────────────────

クレアはベランダの手すりにそっと手を添え、夕焼けに染まる空をぼんやりと眺めていた。

オレンジと紫が混ざり合う美しい空。

雲がゆっくりと流れ、まるで時間が止まったような錯覚を覚える。

遠くの森には鳥のさえずりが微かに聞こえ、街の方角には灯りがちらほらと灯り始めていた。


「(……今日のお茶会、楽しかったな)」


ローズと他愛のない話をして、笑い合う時間は心地よかった。

記憶を失う前の自分は、あのような時間を何度も過ごしていたのだろうか。

ローズの話しぶりから察するに、きっとそうだったのだろう。


「(私は、元の私に戻れるのかな……)」


記憶が戻れば、今日の私の感じた喜びや不安は消えてしまうのだろうか。

新しく築いた関係は、一度失った記憶の影に埋もれてしまうのだろうか。


「(記憶をなくす前の私って、どんな人だったんだろう)」


屋敷の人々は皆、優しく接してくれる。

ミーシャも、ローズも、庭師のジョンも、そして───グレアスも。

彼らの言葉や態度からは、私はとても大切にされていたのだとわかる。

でも、それがどんな形だったのか、まだはっきりと理解できない。


「(……グレアスは、私にとってどんな存在だったんだろう)」


彼の隣にいると安心するし、優しく微笑んでくれると心が温かくなる。

けれど、それは記憶を失ったから生まれた感情なのか、それとも前から持っていたものなのか、自分でもわからない。

風が吹き抜け、クレアの髪をふわりと揺らした。

手すりの冷たい感触を感じながら、指先でゆっくりと木の表面をなぞる。


「(ずっと、このままでもいいのかな……)」


記憶を失ったまま、新しい関係を築く。

それは逃げなのかもしれない。

でも、知らない過去を思い悩むより、今目の前にあるものを大切にしたい──そう思ってしまう自分がいる。


「クレア様、お茶をお持ちしました!」


背後から明るい声が響いた。


「ありがとう、ミーシャ──」


振り返ろうとしたその瞬間──


「きゃっ!」


カチャーンッ!

ミーシャの悲鳴とともに、銀のトレイが宙を舞った。

ティーカップが音を立てて転がり、紅茶が鮮やかな琥珀色の軌跡を描く。

クレアは目を見開いた。

ミーシャがバランスを崩し、こちらへ倒れ込んでくる──


「(避けなきゃ——)」


そう思った瞬間、ミーシャの身体がクレアにぶつかる。


「えっ──」


次の瞬間、クレアの視界がぐるりと回転した。


「(落ちる……!?)」


手すりの感触が消え、足元が空へと向かう。


「クレア様!!!」


ミーシャの絶叫が、夕暮れの静寂を切り裂いた。

────────────────────────

グレアスは執務室の机に向かい、静かに書類へ目を走らせていた。

戦後処理や今後の政務についての案件が山積みで、一つ一つ丁寧に片付けていかなければならない。

しかし、どれほど仕事に集中していても、彼の頭の片隅には常にクレアのことがあった。

(少しずつ元気を取り戻しているように見えたが……)

彼女はまだ完全に回復したわけではない。記憶を失ったままのクレアは、以前のように振る舞おうとしながらも、どこか迷いを抱えているようだった。

そんなことを考えていた時——

「……?」

突然、背後の窓ガラスに鈍い衝撃が走った。小さく振動するガラスの向こうに、何かが落ちる音が聞こえた。

グレアスは眉をひそめ、ペンを置くと静かに立ち上がる。

(何か落ちたか……?)

窓へと歩み寄り、視線を下に落とした。

——そこで、彼の呼吸が止まる。

「……クレア?」

目を疑った。屋敷の中庭の敷石の上、そこに横たわっているのは、間違いなくクレアだった。淡いドレスが風に揺れ、長い銀色の髪が広がっている。

しかし——

「血……?」

白い石畳に赤が滲んでいく。

「クレア!!!」

グレアスの叫び声が屋敷中に響いた。

彼は即座に部屋を飛び出し、廊下を駆け抜ける。考えるよりも先に身体が動いていた。階段を飛ぶように駆け下り、中庭への扉を勢いよく開け放つ。

「クレア!しっかりしろ!」

地面に膝をつき、クレアの身体を抱き起こす。

「クレア……っ!」

彼女の顔色は蒼白だった。額から血が流れ、細い指が微かに震えている。呼吸は浅く、意識は朦朧としているようだった。

「目を開けろ、クレア!」

必死に呼びかけるが、彼女の瞼は重く閉じられたままだった。

「くそっ……!」

グレアスはすぐに彼女を抱え上げ、屋敷の中へと駆け込む。

「誰か!医師を呼べ!!」

彼の怒声に反応し、使用人たちが慌てて動き出した。ミーシャが駆け寄り、クレアの姿を見た瞬間、顔が青ざめる。

「クレア様……!」

「ミーシャ、説明は後だ!まずは治療を——」

グレアスの腕の中で、クレアの身体が小さく動いた。

「……ぁ……」

「クレア!」

微かに開いた瞳が、焦点の合わないまま揺れる。

「……グレア……ス……?」

そのか細い声が、グレアスの胸を締めつけた。

「そうだ、俺だ。大丈夫だからな……すぐに治療を——」

「……ごめ……んなさい……」

「何を謝るんだ……!」

「……おち……ちゃった……」

そう言って、再び意識が途切れた。

グレアスの心臓が、ぎゅっと締め付けられるような痛みを覚える。

「……絶対に助ける。だから、もう少しだけ耐えてくれ、クレア……!」

彼は強く腕に力を込めると、そのまま医師の元へと駆け込んだ。

────────────────────────

グレアスは医師の部屋の前で腕を組み、険しい表情を浮かべながら立っていた。

扉の向こうでは、医師と数人の侍女たちがクレアの処置をしている。

彼は今すぐにでも中に飛び込みたい衝動に駆られたが、治療の邪魔になることは明白だった。


「(頼む……無事でいてくれ)」


胸の奥に重たい不安を抱えながら、彼は拳を握りしめた。

──そんなとき、廊下の向こうから足音が聞こえてきた。


「グレアス様……」


震える声が彼の名を呼ぶ。

視線を向けると、そこには目に涙を浮かべ、今にも崩れ落ちそうなミーシャが立っていた。


「ミーシャ……話を聞かせろ」


グレアスは低い声で促した。

ミーシャは何度か震える息を吐き、ゆっくりと口を開いた。


「わ、私……クレア様に紅茶をお持ちしようとして……その……」

「落ち着いて話せ」


グレアスの静かな声に促され、ミーシャは深呼吸をした。

だが、それでも声は震え、今にも泣き出しそうだった。


「ベランダでクレア様が外を眺めていらっしゃったので、お飲み物をお持ちしようと思って……それで……でも、私……躓いてしまって……それで……」

「……」

「私が……クレア様を押してしまったんです……!私のせいで……!」


そこまで言うと、ミーシャの涙が堰を切ったように溢れ出した。


「クレア様が落ちた瞬間、私、すぐに手を伸ばしたんです!でも……届かなくて……っ!」


ミーシャは顔を両手で覆い、嗚咽を漏らした。


「ごめんなさい……!ごめんなさい……!私のせいで、クレア様が……!」


グレアスは黙ってミーシャを見つめていた。彼女の涙が床に落ち、小さな染みを作っていく。


「(……事故だったんだな)」


怒りは湧かなかった。

むしろ、ミーシャの涙を見る限り、彼女がどれほど自分を責めているのかが痛いほど伝わってきた。

グレアスは深く息を吐き出し、静かに口を開いた。


「……分かった」

「え……?」

「お前の話は分かった。だが、今はお前を責めることよりも、クレアを救うことが先だ」


ミーシャは唇を噛みしめ、震える手で涙を拭った。


「クレアはお前を大切に思っている。それは記憶をなくしても変わらなかった。だから……そんなふうに自分を責めるな」


グレアスの言葉に、ミーシャは目を見開いた。


「で、でも……っ」

「泣くのは後だ。クレアが目を覚ましたとき、泣き顔を見せるのか?」


その一言に、ミーシャの肩がビクリと震えた。


「……クレアが目を覚ましたら、笑顔で迎えてやれ。それがお前のすべきことだ」


ミーシャは涙をこぼしながらも、何度も頷いた。


「は、はい……!」


グレアスはそんな彼女を見て、小さく頷くと、再び医師の部屋の扉を見つめた。


「(クレア……もう少しだけ待ってくれ)」


彼の願いが届くことを祈りながら──。

────────────────────────

医師が診察室から出てきた瞬間、グレアスは勢いよく顔を上げた。

ミーシャも泣き腫らした目で医師を見つめる。


「クレアの容態は……?」


グレアスの問いに、医師は一瞬の沈黙を挟んだ後、落ち着いた声で告げた。


「クレア様は一命を取り留めました」


その言葉に、グレアスとミーシャは同時に安堵の息を吐いた。

ミーシャはその場に崩れ落ち、ぽろぽろと涙をこぼす。


「よかった……本当に……よかった……っ」


グレアスもまた、全身の力が抜けるような感覚を覚えた。

だが、医師は険しい表情を崩さず、続ける。


「ですが……クレア様の状態はまだ安定しているとは言い難い。大きな外傷は治療しましたが、頭を強く打っている可能性もあります。今は眠りについていますが、いつ目を覚ますかは分かりません」

「……目覚めるのが、いつか分からない……?」


グレアスの表情が硬くなる。


「そうです。数日で意識を取り戻すかもしれませんし、もっと長い時間がかかる可能性もあります。最悪の場合……」


医師は慎重に言葉を選びながら、グレアスを見据えた。


「目を覚まさないことも……?」


その言葉を口にするのも恐ろしかった。

グレアスの胸の奥が冷たく締めつけられるような感覚に襲われる。


「その可能性はゼロではありません。しかし、今は回復を信じて、できるだけ穏やかに見守ることが大切です」


医師の言葉に、グレアスは唇を噛み締めた。


「(何を言っている……クレアが目を覚まさない? そんなこと、あるはずがない)」


彼は静かに拳を握りしめる。

クレアは必ず目を覚ます——そう信じるしかなかった。


「……ありがとう、医師殿」

「クレア様の容態を引き続き見守ります。何か変化があればすぐにお知らせします」


そう言って、医師は一礼し、部屋へ戻っていった。

廊下には静寂が訪れる。ミーシャは袖で涙を拭いながら、小さく呟いた。


「クレア様……どうか……どうか目を覚ましてください……」


グレアスは彼女の肩にそっと手を置き、静かに言った。


「大丈夫だ。クレアは強い。必ず目を覚ます」


そう自分に言い聞かせるように──。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?