日差しが優しく降り注ぐ午後、庭の一角に設えられた白いテーブルの上には、香り高い紅茶と美しく飾られた菓子が並んでいた。
心地よい風が吹き抜け、庭に咲く花々の香りを運んでくる。
クレアは椅子に腰かけ、向かいに座るローズを見つめた。
「初めまして、ローズ様」
クレアは少し緊張した面持ちで微笑む。
「私は……クレアです。」
ローズは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに優しく微笑んだ。
「初めまして、クレア様。私はローズ。あなたとは、以前からの知り合いなんですよ。」
「……そうなんですか?」
クレアは少し戸惑ったように目を伏せる。
「記憶がなくなる前の私が、どんな風だったのか……全然思い出せなくて。」
「無理に思い出さなくてもいいんですよ」
ローズは穏やかに言いながら、そっとティーカップを手に取った。
「今のあなたと、また新しく仲良くなればいいですわ。」
クレアは彼女の言葉に少し安堵し、小さく頷いた。
「ありがとうございます、ローズ様」
ローズは軽やかに笑った。
クレアはその表情にどこか懐かしさを感じた。
ふと目の前の紅茶に目を落とし、湯気の向こうに過去の自分を探そうとする。
しかし、霧がかった記憶は、まだはっきりと姿を現さなかった。
「それにしても……お菓子、お好きだったですよね?」
ローズは笑みを深めながら、綺麗に盛り付けられた焼き菓子を指さした。
「特に、これなんかお気に入りだったんじゃないですか?」
クレアは不思議そうに小さなフィナンシェを手に取る。
「……そうなのですか?」
「ええ。以前はこれを食べながら、よく話しましたわ。」
クレアはじっとフィナンシェを見つめる。
そして、恐る恐る口に運んだ。
その瞬間、ほんの僅かだが、胸の奥に何かが引っかかるような感覚があった。
けれど、それが何なのかは分からない。
ただ、確かに懐かしさを感じた。
「美味しい……。」
クレアはそう呟いた。
「そうでしょう?」
ローズは満足げに微笑む。
「これを食べながら、あなたはよくグレアスの話をしていたんですよ」
「グレアス様の?」
クレアは思わずローズを見つめる。
「そう。グレアスがどれだけ優しいかとか、どれだけ真剣にあなたのことを考えているかとか……そういう話をたくさん聞かされましたわ」
「……そんなに?」
クレアは少し頬を赤らめた。
「私……グレアス様のこと、そんなに話してたんですか?」
「ええ、とても幸せそうに」
ローズはくすくすと笑いながら紅茶を一口飲んだ。
クレアは少し考え込むようにして、カップを両手で包む。
「今の私には、その記憶がないけれど……でも、不思議とローズ様の話を聞いていると、そうだったのかもしれないって思えてきます」
「それでいいんですよ、クレア様」
ローズは優しく微笑んだ。
「焦らず、少しずつ思い出せばいいんです」
クレアは静かに頷く。
記憶を失ってから、どこか不安で、自分自身を見失いそうになっていた。
でも、こうして誰かと話し、過去の自分を知ることで、少しずつ自分の輪郭がはっきりしていくような気がした。
お茶会は和やかに進み、クレアは次第に自然な笑顔を見せるようになっていった。
記憶は戻らなくても、ローズとの会話の中で、心が少しだけ軽くなった気がした。
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クレアはベランダの手すりにそっと手を添え、夕焼けに染まる空をぼんやりと眺めていた。
オレンジと紫が混ざり合う美しい空。
雲がゆっくりと流れ、まるで時間が止まったような錯覚を覚える。
遠くの森には鳥のさえずりが微かに聞こえ、街の方角には灯りがちらほらと灯り始めていた。
「(……今日のお茶会、楽しかったな)」
ローズと他愛のない話をして、笑い合う時間は心地よかった。
記憶を失う前の自分は、あのような時間を何度も過ごしていたのだろうか。
ローズの話しぶりから察するに、きっとそうだったのだろう。
「(私は、元の私に戻れるのかな……)」
記憶が戻れば、今日の私の感じた喜びや不安は消えてしまうのだろうか。
新しく築いた関係は、一度失った記憶の影に埋もれてしまうのだろうか。
「(記憶をなくす前の私って、どんな人だったんだろう)」
屋敷の人々は皆、優しく接してくれる。
ミーシャも、ローズも、庭師のジョンも、そして───グレアスも。
彼らの言葉や態度からは、私はとても大切にされていたのだとわかる。
でも、それがどんな形だったのか、まだはっきりと理解できない。
「(……グレアスは、私にとってどんな存在だったんだろう)」
彼の隣にいると安心するし、優しく微笑んでくれると心が温かくなる。
けれど、それは記憶を失ったから生まれた感情なのか、それとも前から持っていたものなのか、自分でもわからない。
風が吹き抜け、クレアの髪をふわりと揺らした。
手すりの冷たい感触を感じながら、指先でゆっくりと木の表面をなぞる。
「(ずっと、このままでもいいのかな……)」
記憶を失ったまま、新しい関係を築く。
それは逃げなのかもしれない。
でも、知らない過去を思い悩むより、今目の前にあるものを大切にしたい──そう思ってしまう自分がいる。
「クレア様、お茶をお持ちしました!」
背後から明るい声が響いた。
「ありがとう、ミーシャ──」
振り返ろうとしたその瞬間──
「きゃっ!」
カチャーンッ!
ミーシャの悲鳴とともに、銀のトレイが宙を舞った。
ティーカップが音を立てて転がり、紅茶が鮮やかな琥珀色の軌跡を描く。
クレアは目を見開いた。
ミーシャがバランスを崩し、こちらへ倒れ込んでくる──
「(避けなきゃ——)」
そう思った瞬間、ミーシャの身体がクレアにぶつかる。
「えっ──」
次の瞬間、クレアの視界がぐるりと回転した。
「(落ちる……!?)」
手すりの感触が消え、足元が空へと向かう。
「クレア様!!!」
ミーシャの絶叫が、夕暮れの静寂を切り裂いた。
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グレアスは執務室の机に向かい、静かに書類へ目を走らせていた。
戦後処理や今後の政務についての案件が山積みで、一つ一つ丁寧に片付けていかなければならない。
しかし、どれほど仕事に集中していても、彼の頭の片隅には常にクレアのことがあった。
(少しずつ元気を取り戻しているように見えたが……)
彼女はまだ完全に回復したわけではない。記憶を失ったままのクレアは、以前のように振る舞おうとしながらも、どこか迷いを抱えているようだった。
そんなことを考えていた時——
「……?」
突然、背後の窓ガラスに鈍い衝撃が走った。小さく振動するガラスの向こうに、何かが落ちる音が聞こえた。
グレアスは眉をひそめ、ペンを置くと静かに立ち上がる。
(何か落ちたか……?)
窓へと歩み寄り、視線を下に落とした。
——そこで、彼の呼吸が止まる。
「……クレア?」
目を疑った。屋敷の中庭の敷石の上、そこに横たわっているのは、間違いなくクレアだった。淡いドレスが風に揺れ、長い銀色の髪が広がっている。
しかし——
「血……?」
白い石畳に赤が滲んでいく。
「クレア!!!」
グレアスの叫び声が屋敷中に響いた。
彼は即座に部屋を飛び出し、廊下を駆け抜ける。考えるよりも先に身体が動いていた。階段を飛ぶように駆け下り、中庭への扉を勢いよく開け放つ。
「クレア!しっかりしろ!」
地面に膝をつき、クレアの身体を抱き起こす。
「クレア……っ!」
彼女の顔色は蒼白だった。額から血が流れ、細い指が微かに震えている。呼吸は浅く、意識は朦朧としているようだった。
「目を開けろ、クレア!」
必死に呼びかけるが、彼女の瞼は重く閉じられたままだった。
「くそっ……!」
グレアスはすぐに彼女を抱え上げ、屋敷の中へと駆け込む。
「誰か!医師を呼べ!!」
彼の怒声に反応し、使用人たちが慌てて動き出した。ミーシャが駆け寄り、クレアの姿を見た瞬間、顔が青ざめる。
「クレア様……!」
「ミーシャ、説明は後だ!まずは治療を——」
グレアスの腕の中で、クレアの身体が小さく動いた。
「……ぁ……」
「クレア!」
微かに開いた瞳が、焦点の合わないまま揺れる。
「……グレア……ス……?」
そのか細い声が、グレアスの胸を締めつけた。
「そうだ、俺だ。大丈夫だからな……すぐに治療を——」
「……ごめ……んなさい……」
「何を謝るんだ……!」
「……おち……ちゃった……」
そう言って、再び意識が途切れた。
グレアスの心臓が、ぎゅっと締め付けられるような痛みを覚える。
「……絶対に助ける。だから、もう少しだけ耐えてくれ、クレア……!」
彼は強く腕に力を込めると、そのまま医師の元へと駆け込んだ。
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グレアスは医師の部屋の前で腕を組み、険しい表情を浮かべながら立っていた。
扉の向こうでは、医師と数人の侍女たちがクレアの処置をしている。
彼は今すぐにでも中に飛び込みたい衝動に駆られたが、治療の邪魔になることは明白だった。
「(頼む……無事でいてくれ)」
胸の奥に重たい不安を抱えながら、彼は拳を握りしめた。
──そんなとき、廊下の向こうから足音が聞こえてきた。
「グレアス様……」
震える声が彼の名を呼ぶ。
視線を向けると、そこには目に涙を浮かべ、今にも崩れ落ちそうなミーシャが立っていた。
「ミーシャ……話を聞かせろ」
グレアスは低い声で促した。
ミーシャは何度か震える息を吐き、ゆっくりと口を開いた。
「わ、私……クレア様に紅茶をお持ちしようとして……その……」
「落ち着いて話せ」
グレアスの静かな声に促され、ミーシャは深呼吸をした。
だが、それでも声は震え、今にも泣き出しそうだった。
「ベランダでクレア様が外を眺めていらっしゃったので、お飲み物をお持ちしようと思って……それで……でも、私……躓いてしまって……それで……」
「……」
「私が……クレア様を押してしまったんです……!私のせいで……!」
そこまで言うと、ミーシャの涙が堰を切ったように溢れ出した。
「クレア様が落ちた瞬間、私、すぐに手を伸ばしたんです!でも……届かなくて……っ!」
ミーシャは顔を両手で覆い、嗚咽を漏らした。
「ごめんなさい……!ごめんなさい……!私のせいで、クレア様が……!」
グレアスは黙ってミーシャを見つめていた。彼女の涙が床に落ち、小さな染みを作っていく。
「(……事故だったんだな)」
怒りは湧かなかった。
むしろ、ミーシャの涙を見る限り、彼女がどれほど自分を責めているのかが痛いほど伝わってきた。
グレアスは深く息を吐き出し、静かに口を開いた。
「……分かった」
「え……?」
「お前の話は分かった。だが、今はお前を責めることよりも、クレアを救うことが先だ」
ミーシャは唇を噛みしめ、震える手で涙を拭った。
「クレアはお前を大切に思っている。それは記憶をなくしても変わらなかった。だから……そんなふうに自分を責めるな」
グレアスの言葉に、ミーシャは目を見開いた。
「で、でも……っ」
「泣くのは後だ。クレアが目を覚ましたとき、泣き顔を見せるのか?」
その一言に、ミーシャの肩がビクリと震えた。
「……クレアが目を覚ましたら、笑顔で迎えてやれ。それがお前のすべきことだ」
ミーシャは涙をこぼしながらも、何度も頷いた。
「は、はい……!」
グレアスはそんな彼女を見て、小さく頷くと、再び医師の部屋の扉を見つめた。
「(クレア……もう少しだけ待ってくれ)」
彼の願いが届くことを祈りながら──。
────────────────────────
医師が診察室から出てきた瞬間、グレアスは勢いよく顔を上げた。
ミーシャも泣き腫らした目で医師を見つめる。
「クレアの容態は……?」
グレアスの問いに、医師は一瞬の沈黙を挟んだ後、落ち着いた声で告げた。
「クレア様は一命を取り留めました」
その言葉に、グレアスとミーシャは同時に安堵の息を吐いた。
ミーシャはその場に崩れ落ち、ぽろぽろと涙をこぼす。
「よかった……本当に……よかった……っ」
グレアスもまた、全身の力が抜けるような感覚を覚えた。
だが、医師は険しい表情を崩さず、続ける。
「ですが……クレア様の状態はまだ安定しているとは言い難い。大きな外傷は治療しましたが、頭を強く打っている可能性もあります。今は眠りについていますが、いつ目を覚ますかは分かりません」
「……目覚めるのが、いつか分からない……?」
グレアスの表情が硬くなる。
「そうです。数日で意識を取り戻すかもしれませんし、もっと長い時間がかかる可能性もあります。最悪の場合……」
医師は慎重に言葉を選びながら、グレアスを見据えた。
「目を覚まさないことも……?」
その言葉を口にするのも恐ろしかった。
グレアスの胸の奥が冷たく締めつけられるような感覚に襲われる。
「その可能性はゼロではありません。しかし、今は回復を信じて、できるだけ穏やかに見守ることが大切です」
医師の言葉に、グレアスは唇を噛み締めた。
「(何を言っている……クレアが目を覚まさない? そんなこと、あるはずがない)」
彼は静かに拳を握りしめる。
クレアは必ず目を覚ます——そう信じるしかなかった。
「……ありがとう、医師殿」
「クレア様の容態を引き続き見守ります。何か変化があればすぐにお知らせします」
そう言って、医師は一礼し、部屋へ戻っていった。
廊下には静寂が訪れる。ミーシャは袖で涙を拭いながら、小さく呟いた。
「クレア様……どうか……どうか目を覚ましてください……」
グレアスは彼女の肩にそっと手を置き、静かに言った。
「大丈夫だ。クレアは強い。必ず目を覚ます」
そう自分に言い聞かせるように──。