数日が経ち、クレアはようやく自室から出るようになった。
最初はほんの少しの時間だけ、屋敷内を歩くことから始め、少しずつ日常の一部を取り戻していった。
最初のうちは、グレアスがそっと見守りながら一緒に歩いたり、静かに座って話すだけでもクレアにとっては大きな進歩だった。
だが、次第にクレアはそのペースを上げ、グレアスに対して甘えることが増えていった。
手を引いて一緒に歩いてほしい、少しだけ抱っこしてほしい、何かお願いごとをするたびに、クレアは少し照れたように、そして少しだけ甘えるような声で頼んできた。
グレアスはその度に少し呆れながらも、心の中で安堵していた。
彼女が少しずつ心を開き、元気を取り戻していく様子を見て、グレアスはその変化に嬉しさを感じずにはいられなかった。
クレアが側にいることが、グレアスにとってどれほど心強いことか、言葉では表しきれなかった。
「お前、またそんな甘えて……」
「ダメですか?」
「そういうわけではないが……」
グレアスが少し苦笑いしながらも、クレアが手を伸ばしてきた時はしっかりと受け入れることができる自分に気づいていた。
彼女が過去の痛みを乗り越えようとする姿に、ただただ心が温かくなる。
その日も、クレアが少しだけ甘えた表情を浮かべながらグレアスに近づいてきた。
だが、クレアが席を外したタイミングで、部下から報告が届いた。
「お疲れ様です、殿下。」
グレアスは部屋の扉を開け、部下の一人が持っていた報告書を受け取る。
紙に目を通すと、内容に驚愕した。
「シークエンス家……?」
報告書には、誘拐事件の真相についての詳細が記されていた。
誘拐犯たちを雇っていたのは、なんとクレアの実家であるシークエンス家だというのだ。
グレアスは一瞬、言葉を失った。
「まさか、シークエンス家が……」
その報告書には、クレアを誘拐して連れ去った犯人たちが、シークエンス家の命令を受けて動いていたことが記されていた。
しかも、その理由ははっきりとしないが、家族間の力関係や、クレアが持つ資産や立場を巡る陰謀が絡んでいることは明白だった。
グレアスはその報告書を持ち、深い思索にふけった。
今までの事件が思い返され、次第に怒りがこみ上げてきた。
クレアを守るため、必死で戦い、彼女を取り戻したというのに、その裏で自分たちを狙っていたのが彼女の家族だとは……
だが、怒りの感情に押し潰されることなく、グレアスは冷静を保つことを心がけた。
まずは事実を突き詰め、真実を明らかにしなければならない。
すぐに行動を起こすことが必要だと感じた。
「シークエンス家か……」
グレアスは自ら決意を新たにし、そのまま部下に指示を出した。
「すぐに調査を進めろ。クレアには、できる限り事実を知られないように注意しろ」
その時、クレアが部屋の扉を少しだけ開け、顔を覗かせた。
「どうかしました?何かあったのですか?」
その問いに、グレアスはすぐに優しく微笑みかけたが、その心の中で波立つ感情を抑えきれずにいた。
「いや、何でもない。お前が心配することは何もないさ」
クレアが小さく頷きながら、部屋に足を踏み入れてきた。
グレアスはその姿を見ながら、まだ彼女を守るためには何をすべきかを深く考えていた。
そして、心の中で誓った。
シークエンス家がどうであれ、クレアを守ると。
どんなに暗い陰謀があろうとも、クレアには二度と傷つけさせない。
彼女が恐れることなく幸せを取り戻すその日まで、グレアスは絶対に諦めないと心に誓った。
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翌日、グレアスは報告書をしっかりと握り締めながら、何度もその内容を読み返した。
シークエンス家が背後におり、誘拐犯を雇ったという事実は予想通りであった。
「シークエンス家か……」
グレアスは静かに呟き、その名前を噛み締めた。
確かに、クレアの実家は彼女をあまり大切にしていなかった。
母親は特に、クレアを軽視し、無視しているように見えた。
そのことがずっと彼女の心に傷を残していたことを、グレアスは知っていた。
クレアが記憶喪失になったと聞き、シークエンス家はクレアの返還を求めてきた。
それは、ロレアス王国を立て直すのにクレアが必要だと判断し、さらにその上、記憶喪失なら尚更丁度いいと考えたのだろう。
「最悪だな……」
クレアを切り捨てたのにもかかわらず、自分たちの都合が悪くなればクレアを呼び戻して彼女を利用しようとしているのだ。
その思いがついに現実となったとき、グレアスの心に沸き上がった感情はただ一つ、怒りだった。
「こんなことになるなんて……」
だが、それと同時に、冷静に事実を整理することが大切だと自分に言い聞かせた。
どんな手段を使ってでもクレアを守らなくてはならない。
部下たちに指示を出す前に、グレアスは一度深呼吸をして、心を落ち着かせることを試みた。
だが、心の中で感じる怒りと不安は簡単には収まらなかった。
その時、席を外していたクレアが扉をそっと開けて、顔を覗かせた。
「グレアス様?」
その声は、普段と変わらず穏やかで優しいものだった。
グレアスはその声を聞いて、つい顔を上げてしまう。
そして、クレアが不安そうにこちらを見つめているのを見て、胸が痛んだ。
「いや、何でもない」
グレアスは微笑みかけながらも、その心の中で起きている波乱をどうしても隠しきれなかった。
クレアは少し首を傾げながら、その言葉に疑問を持った様子だったが、グレアスの表情を見て、すぐにそれを口にすることはなかった。
「……そうですか。なら良かったです」
クレアは微笑みながら部屋に入ってきた。
その笑顔は、グレアスを一瞬だけでも心から安心させたが、その後すぐにまた、心の中で起きている不安や焦りに押し潰されそうになった。
「何かあれば言ってくれ。俺ができることは何でもするから。」
グレアスはそう言って、クレアに近づき、優しく手を取った。
クレアはその手をそっと握り返してくる。
その手の温かさを感じ、グレアスは少しだけ胸を撫で下ろした。
グレアスは自分の決意を胸に、しばらく考え込んでいた。
だが、どんなことがあってもクレアを守るという誓いは、揺るぎないものだった。
シークエンス家が何を企んでいるのか、そしてその裏に隠された真実を暴かなければ、クレアを危険に晒すことになる。
そのためには、グレアスはどんな犠牲を払ってもいいと心に誓った。
「(必ず、クレアを守り抜く)」
その思いが彼の中でさらに強くなった時、クレアが静かに話しかけてきた。
「グレアス、私、ちょっとだけ外に出てみたいです」
その一言に、グレアスはすぐに反応した。
「外に?でも、今は無理だろう。お前、まだ……」
「ううん、少しだけです。お願いします。」
クレアのその頼みには、どこか希望を持っているような強い意志が込められていた。
グレアスはしばらく黙って考えたが、最終的にはクレアの希望に応えようと決めた。
「わかった。少しだけだぞ、クレア。」
そう言って、クレアを連れて屋敷の外へと足を踏み出した。
何もかもが未解決で、不安定な状態にあることは十分にわかっていたが、今だけはクレアの笑顔を守りたいと思った。
どんな困難が待ち受けていようとも、クレアが笑顔でいられるその瞬間を、少しでも守りたい。
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爽やかな風が吹き抜ける庭。
緑に包まれた広い空間には、色とりどりの花が咲き誇り、芝生の上では小さな昆虫たちが忙しく動き回っていた。
晴れ渡った空の下、クレアとグレアスはゆっくりと歩いていた。
「今日はとても気持ちがいいですね」
クレアは顔を上げ、空を見上げながら言った。
彼女の目に映る青空は、これまでにないほど澄み切っていて、すがすがしい気分が広がっていく。
グレアスは少し微笑みながら、その言葉に頷いた。
「そうだな。こうして君と歩いていると、どんなに忙しくても、心が落ち着く。」
クレアは照れくさそうに笑った。
「私も同じです、グレアス様と一緒だと、何だか安心します」
二人は並んで歩きながら、時折視線を交わすだけで、何も言わなくても互いに伝わる心地よい静けさが漂っていた。
クレアの手が少しずつグレアスの方に近づき、やがて彼の腕に触れる。
「グレアス様」
クレアは、そっとその腕を掴んだ。
「ありがとうございます。最近、すごく幸せを感じるんです。あなたがいてくれるから」
グレアスは驚いたようにクレアを見下ろし、そして優しく微笑む。
「クレア、そんな風に言ってくれるなんて…。私は、君が幸せでいることが一番大事だ」
その言葉に、クレアの胸が温かくなった。
心の中で何度も繰り返し、彼に言いたい言葉があった。
でも、今の自分にはその全てを言葉にするのは難しい。
だが、少なくともこの瞬間は、心が満たされていると感じていた。
「私は、あなたと一緒にいるとずっと幸せです」
クレアはその言葉をようやく口にした。
そして、グレアスの腕にしっかりと手を絡める。
グレアスは何も言わず、彼女の手を軽く握り返した。
その手の温もりが、彼の心にも深く染み込んでいくのを感じた。
二人の間に言葉は必要ない。
ただ、一緒にいるだけで十分だった。
空に浮かぶ白い雲が、時間の流れを告げている。
ふと、二人は足を止め、静かな一瞬を楽しむ。
「どこかに行こうか?」
グレアスが提案する。
「はい、行きましょう」
クレアは笑顔で答える。
二人は再び歩き出し、少しずつ色が変わる空を見上げながら、共に過ごす時間の大切さを噛み締めるように歩き続けた。
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数日後の夜、クレアはソファに静かに座り、グレアスの方をじっと見つめていた。
少しずつ、彼女の心も癒されていくことを感じてはいたが、それでも過去の傷が完全に消えることはなかった。
けれど、今、目の前にいるグレアスがその傷を少しずつ癒してくれる存在だと、心から信じることができていた。
「グレアス様、今日も忙しかったのですか?」
クレアは静かな声で尋ねると、グレアスは微笑みながら首をかしげた。
「まぁ、忙しかったが大丈夫だ。お前が元気でいることが何よりだし、仕事はそれからだ。」
その言葉に、クレアは心の奥が温かくなるのを感じた。
彼の気遣い、優しさに胸が満たされる。
少しずつ、自分の中の不安が消えていくのを感じた。
記憶が戻らない自分がどこかで心配になっていたけれど、グレアスの優しさに包まれることで、それが少しずつ解けていくようだった。
「そう言ってくれると、すごく安心します」
クレアは少し照れたように微笑み、グレアスの側に体を寄せた。
彼女のその仕草を見て、グレアスはくすっと笑いながら、優しく彼女の頭を撫でた。
「何も心配しなくていいんだ。お前が元気でいてくれることが、俺にとっては何よりの幸せだから。」
その言葉にクレアは無意識に目を閉じ、しばらくグレアスの手のひらの温もりを感じていた。
久しぶりに感じる、無邪気な安心感。
記憶を失ったことへの恐れも、今、ここで彼と過ごすことで少しずつ溶けていくのを感じた。
「でも時々、不安になるんです」
クレアは少し顔を背けながらつぶやいた。
その言葉に、グレアスはすぐに真剣な表情になり、クレアの顔を見つめた。
「不安になることなんてない。記憶が戻ることも大事だけど、それ以上に、お前がここにいてくれること、それが一番だから。」
その力強い言葉に、クレアは胸が熱くなった。
彼の眼差しに、何もかも信じられる気がした。
大丈夫だ、これからはずっと一緒だと、確かな手を感じ取れるような安心感が広がった。
「ありがとうございます、グレアス様。あなたがいるから、私はどんな不安にも立ち向かえる気がします」
クレアは少し涙をこらえながら、グレアスに微笑みかけた。
グレアスはその笑顔を見て、嬉しそうに少し笑みをこぼしながら、彼女を優しく抱き寄せた。
「私がそばにいるから、何も心配することはない。お前が元気でいてくれれば、私はどんなことだってできる。」
その言葉にクレアはますます胸が熱くなるのを感じた。
そして、思わずグレアスの胸に顔を埋める。
「ありがとうございます…でも、もう少しだけ甘えてもいいですか?」
クレアは小さな声で言うと、グレアスの腕にしがみつくように身を寄せた。
少し恥ずかしそうに、でも心からその温かさを感じたくて。
グレアスはそのまま彼女の背中を優しく撫で、穏やかな声で囁いた。
「もちろん。お前が甘えたい時は、何でもしてやる。」
その言葉に、クレアは少し照れながらも、心の奥底から満たされるような感覚を覚えた。
グレアスがそばにいてくれることが、こんなにも大きな支えになっていることを、改めて実感した。
「はい。ありがとうございます」
クレアはそのままグレアスの腕の中で、少しだけ目を閉じた。
あったかい、そのぬくもりが心地よく、今、すべてが安心できる瞬間だと感じることができた。
その後、しばらく二人は無言で過ごしていた。
お互いに何も言わなくても、ただこうして寄り添うだけで、心が通じ合っていることが感じられた。
その静かな時間が、クレアにとってどれほど大切で、また心安らぐものだったのか、グレアスは感じ取っていた。
そして、彼女が少しずつ心を開いてくれることが、何よりの喜びだった。
「クレア、もう少しだけ、こうしていてもいいか?」
グレアスは静かに囁いた。その言葉にクレアはうなずき、グレアスにしがみつくように寄り添った。
「はい…少しだけ、もう少しだけ、甘えてもいいですよね?」
その言葉に、グレアスは再び優しく笑ってから、もう一度彼女を抱きしめ直した。
「もちろん。ずっとお前のそばにいるから、何も心配しなくていい。」
そうして夜は更けていった。