目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第42話 令嬢恐怖

グレアスはクレアの部屋の前に立ち尽くしていた。

扉の向こうにいるはずの彼女は、事件以来、一度も部屋から出てきていない。

食事もメイドが部屋の前に置けば、後で少しずつ減っているものの、クレア自身の姿を見た者はいなかった。


「クレア……」


そっと扉を叩いてみる。

しかし、返事はない。

何度か繰り返してみても、同じだった。

グレアスは扉に手をつき、深く息を吐いた。

彼女が恐怖に囚われているのは明らかだった。

あの事件の後、泣き疲れて眠ったクレアを抱えて屋敷に戻ったときも、彼女は夢の中で怯えながら小さく震えていた。


「(クレア……お前を守ると誓ったのに)」


胸が締めつけられる。

彼女を無理やり外へ連れ出すわけにはいかない。

しかし、このまま閉じこもらせてしまえば、ますます心を閉ざしてしまうのではないか—─。

グレアスは眉を寄せながら思考を巡らせた。

一方で、彼の中にはもう一つの疑念がくすぶっていた。

あの誘拐事件—──何かがおかしい。

犯人たちの手口は、ただの身代金目的の誘拐にしては妙に手際が良かった。

そして何より、彼らが最初からクレアを狙っていたように思えてならない。


「(偶然か? いや……だが今はそれよりも……)」


グレアスはもう一度扉に手を当てた。


「クレア、聞こえているか?」


微かな気配を感じた。だが、やはり返事はない。


「お前が無理をしていることくらい、俺にはわかる。だが……俺はお前を助けたい」


そう言っても、沈黙が続く。

しばらく待ったが、クレアは結局何も言わなかった。

グレアスは苦悩の表情を浮かべながら、その場を離れるしかなかった。


「(どうすれば、お前はまた笑ってくれる……?)」


胸に刺さる痛みを感じながら、グレアスは静かに拳を握ったのだった。

────────────────────────


クレアの部屋は、まるで彼女の心を映すかのように静まり返っていた。

窓には厚手のカーテンがかかり、外から差し込む光はほとんど遮られている。

昼間であるはずなのに、部屋の中はどこか薄暗く、重苦しい空気が漂っていた。

クレアはベッドの端に座り込み、膝を抱えていた。

まるで自分の存在をできる限り小さくしようとするかのように。

彼女の顔は俯き、長い髪が顔を覆い隠している。

何も考えたくなかった。

何も感じたくなかった。

ただ、目を閉じるとあの恐怖が蘇る。

あの男たちの薄汚い笑み、冷たい縄の感触、喉が裂けそうなほど叫んでも届かない助けを求める声——全てが鮮明に蘇り、彼女の心を締め付ける。

何度も「大丈夫」と自分に言い聞かせようとした。

だけど、体は震え、喉はこわばり、呼吸さえ浅くなる。

あの時と同じように——声が出ない。

そんなクレアの傍に、ずっと寄り添い続ける存在があった。

白銀の毛並みを持つ巨大な狼—──フェル。

彼は何も言わず、ただクレアのそばにいるだけだった。

彼の金色の瞳は、心配と悲しみを滲ませていた。

フェルはそっとクレアの足元に寄り添い、静かに見上げる。

だが、クレアは気づかないふりをした。

今は誰とも話したくない。

そんな心の壁を察したかのように、フェルは静かに息を吐くと、そっと鼻先をクレアの腕に押しつけた。

クレアの肩がピクリと震えた。


「……フェル……?」


かすれた声が、部屋の静寂に溶けた。

フェルは何も言わず、ただじっとクレアを見つめる。

まるで“大丈夫、一人じゃない”と伝えるかのように—──

クレアは少しだけ指を動かし、フェルの柔らかな毛に触れようとした。

しかし、その手は途中で止まった。


「……ごめんね、フェル……」


嗚咽交じりの言葉が、喉の奥から漏れた。

彼に触れたら、自分の弱さが溢れ出してしまいそうだった。

フェルはそっと耳を伏せると、クレアの膝の上に頭を乗せた。

その温もりに、クレアの肩がわずかに震える。


「……大丈夫……大丈夫だから……」


まるで自分自身に言い聞かせるように、クレアは震える声で呟いた。

しかし、その声は不安定で、どこか頼りなかった。

フェルは小さく鼻を鳴らすと、さらに体を寄せる。

まるで“無理に強がらなくていい”と伝えるかのように。

クレアはぎゅっと目を閉じ、フェルの体温を感じながら、浅く呼吸を整えようとした。


「……フェル……」


彼女の手がそっと動き、今度は迷わずフェルの頭を撫でた。

ふわふわとした毛の感触が、少しだけ心を落ち着かせる。

フェルはクレアの手の温もりを感じながら、静かに目を閉じた。

彼がそばにいる限り、クレアは一人ではない。

それでも—─

それでも、クレアの心の奥に残る恐怖はまだ消えてはいなかった。

そしてその夜—──また、悪夢が彼女を襲うことになるのだった。


その夜、クレアは疲れ果てたように眠りについた。

しかし、それは決して安らかな眠りではなかった。

闇の中、クレアは再び悪夢の中に囚われた。

冷たい石の床、腐った木の匂い、湿った空気——そこは、あの誘拐された倉庫だった。

彼女の体は自由が利かず、目の前にはぼんやりとした影がいくつも蠢いていた。


『……やっとお目覚めか?』


耳障りな声が響く。


『震えてるぜ、かわいそうになぁ。そんな怯えた顔しても無駄だぞ?』

『大丈夫、すぐに気持ちよくなれるさ……』


やめて。

お願い、やめて……!

叫ぼうとしても、声が出ない。

喉が詰まり、息ができない。

影たちはゆっくりとクレアに手を伸ばし—──

ガタッ!

クレアは飛び起きた。

心臓が激しく鼓動を打ち、呼吸は荒く、体中に冷や汗が滲んでいた。

息を整えようとするが、うまくいかない。

胸が苦しく、喉が引き絞られるようだった。

暗闇が、怖い。

何かが、まだ自分を捕まえようとしている気がする。


「……っ!」


恐怖に駆られ、クレアは無意識に身を縮こまらせた。

その時──


「……クゥン……」


低く、優しい鳴き声が響いた。

クレアが顔を上げると、そこにはフェルがいた。

金色の瞳が、心配そうにこちらを覗き込んでいる。


「フェ……ル……」


震える声で彼の名を呼ぶと、フェルは静かにクレアのそばに寄り添った。

その温もりが、少しだけ現実へと引き戻してくれる。

クレアは恐る恐るフェルの毛に触れ、ぎゅっと握りしめた。

フェルは何も言わず、ただ静かに寄り添い続ける。


「……大丈夫、私は……大丈夫……」


自分に言い聞かせるように呟くが、その言葉にはまるで力がなかった。

クレアの目から、静かに涙がこぼれ落ちる。

フェルはそんなクレアの涙を舐めるように、そっと顔を近づけた。

その優しさに、クレアの胸が締め付けられる。


「……ごめんね、フェル……こんなに弱くなって……」


フェルは小さく鼻を鳴らし、クレアの頭にそっと鼻先を押し当てた。


「一人じゃない」


まるで、そう伝えるかのように。

クレアは震える手でフェルの背にそっと触れ、その温かさを感じながら、再び目を閉じた。

今度こそ、悪夢に囚われることなく眠ることができるだろうか──





翌朝、屋敷の空気はどこか沈んでいた。

使用人たちは皆、クレアのことを心配しながらも、どうすることもできずにいた。

誘拐事件からしばらく経ったというのに、彼女はずっと自室に閉じこもったままだった。

ミーシャも何度か扉を叩き、優しい声で呼びかけたが、それでもクレアは部屋から出てこようとしなかった。

フェルもずっと扉の前に座り込んでいたが、クレアの気配がするだけで、それ以上の反応はなかった。

──そんな中、ローズが屋敷を訪れた。

彼女はクレアのことを聞きつけ、少しでも励まそうと考えていた。


「クレア様、大丈夫ですか? 私です、ローズです」


扉の向こうへ優しく声をかける。

しかし、返事はない。


「ねえ、お願いですから顔を見せてください? みんな心配してるのですよ」


それでも扉は閉ざされたままだった。

ローズは一度息を整え、もう一度静かに言葉を紡ぐ。


「……怖いのですよね」


呟くように言う。


「無理に出てきてとは言わないですわ。でも、私たちはいつでもあなたのそばにいますから……忘れないでください」


静寂が続いた。

しかし、扉の向こうで小さな衣擦れの音がした。

クレアが動いたのだろうか──そう思ったが、結局、扉が開くことはなかった。

ローズは名残惜しそうに扉を見つめた後、踵を返し、廊下を歩き出す。

すると、向こうからグレアスが現れた。


「ローズか」

「……ええ」


ローズは小さく微笑んだが、その顔には心配の色が滲んでいた。


「クレア様はまだ……?」

「……ああ、部屋から出てこない」


グレアスは眉をひそめ、扉の方へと目をやる。


「無理もないですわ。あんなことがあったんですもの……」

「……ああ」


グレアスは低く息をつく。

あの誘拐事件──

彼女を守れなかった自分の無力さが、今も胸を締めつけていた。

あの時、クレアはどれほどの恐怖を味わったのだろう。

暗い物置の中で、縛られ、自由を奪われ、下劣な男たちの視線にさらされていた。

その恐怖が、今もクレアの心を縛りつけているのだ。


「でも、このままじゃクレア様が余計に塞ぎ込んでしまいますわ。時間が解決すると言うけれど、誰かがそばにいてあげないと……」

「わかっている」

グレアスは短く答えた。

そして、扉をもう一度見つめる。


「……何か、きっかけがあれば……」


ローズの言葉に、グレアスは静かに目を閉じた。

何か、クレアを部屋の外へ出すための方法──

クレアにとって、心が安らぐものとは何だろうか。

彼女が安心できる場所、彼女が好きだったもの……

記憶を失う前のクレアなら、何を望んだだろう?


「……私がもう一度、話してみる」


決意を込めた声でグレアスが言った。

ローズはグレアスを見つめ、そして頷く。


「ええ。あなたなら、きっと」


グレアスは深く息を吸い込み、静かに扉の前に立つ。

コン、コン……

控えめにノックをする。


「クレア、私だ」


扉の向こうに向かって声をかけるが、返事はない。

それでも、グレアスは話し続けた。


「……お前が外に出るのが怖いのはわかる。無理にとは言わない。ただ、私はお前と話したいんだ」


沈黙。

だが、わずかに扉の向こうで何かが動く音が聞こえた。


グレアスはそれに気づきながら、さらに言葉を紡ぐ。

「お前は一人じゃない。ミーシャも、フェルも、みんなお前を心配してる。私も──」


そう言いかけて、グレアスは一瞬言葉に詰まる。


「……俺も、お前がそばにいないと、落ち着かない」


扉の向こうで、微かな息遣いが聞こえた。


「だから、少しずつでいい……もう一度、俺たちの世界に戻ってきてくれ」


グレアスはそう言って、扉の前でしばらく待った。

扉を開ける音が静かに響いた。

その音に、グレアスの心臓が一瞬跳ね上がる。

扉が少しだけ開き、クレアの顔が見えた。

彼女はまだ少し無表情で、目を合わせることなく立っていた。


「クレア……」


グレアスは、声をかけながらゆっくりとその足を前に進める。

クレアは一歩後ろに下がり、壁に寄りかかるようにして身を寄せた。その様子は少しだけ怖がっているように見えた。


「……怖くない」


グレアスの優しい声が、部屋の静けさに溶け込む。


「……出たくないなら、無理に出さない。でも、少しでも話したくなったら、いつでも言ってほしい」


クレアは言葉に反応しなかった。

ただ、黙って立っているだけだった。

グレアスは少しだけ手を伸ばし、クレアに届く距離に立ったが、無理に近づこうとはしなかった。

その目の前で、クレアの目が少し揺れた。


「……お前が怖いわけじゃない」


グレアスは静かに続けた。


「でも、無理して笑う必要はない。お前が辛い時は、無理に元気を出すことはない。俺たちは、お前を待ってる」


しばらく沈黙が流れた。

その間、グレアスの心臓は少しずつ重くなり、彼女が一言でも返してくれればと思っていた。

そして、クレアの目がほんの少しだけ、グレアスの方へと向けられた。

それに、グレアスは少し驚いた。

クレアの顔が、少しだけほころんだような気がした。


「ですが、どうしても……」


クレアの声はかすかに震えていた。


「どうしても……あの時のことを思い出すのです。あの暗い場所、何もかもが怖くて」


グレアスは静かに頷き、手を少しだけ伸ばした。


「その恐怖を、俺が受け止める。お前は今、俺の元にいる。怖くない。大丈夫だ」


クレアは、グレアスの手が届く距離で止まると、少しだけ恐る恐るその手を見つめた。


「……ありがとう、ございます」


その言葉は、やっと出てきたもので、まるで長い間押し込めていた言葉のように感じられた。

そして、クレアの目にはほんのわずかに涙が浮かんでいた。


「ありがとうございます……」


グレアスはその瞬間、ゆっくりと手を伸ばし、クレアの肩に手を置いた。


「お前がいるから、俺も頑張れる」


クレアは、グレアスの手の温もりを感じながら、少しだけ顔を上げた。


「……怖くても、ちゃんと前に進みたいです」


その言葉を聞いて、グレアスは心から安堵した。


「それでいいんだ。お前が一歩踏み出したとき、俺がそばにいるから」


クレアは少しだけ、グレアスに向かって微笑んだ。

その笑顔はまだ本当の意味での明るさを取り戻してはいないが、それでも少しだけ、彼女の心が温かさを取り戻しているように見えた。


「ありがとうございます、グレアス様」


その言葉に、グレアスは満足そうに微笑み、静かに頷いた。

そして、二人の間には、言葉以上の温かいものが流れた。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?