グレアスはクレアの部屋の前に立ち尽くしていた。
扉の向こうにいるはずの彼女は、事件以来、一度も部屋から出てきていない。
食事もメイドが部屋の前に置けば、後で少しずつ減っているものの、クレア自身の姿を見た者はいなかった。
「クレア……」
そっと扉を叩いてみる。
しかし、返事はない。
何度か繰り返してみても、同じだった。
グレアスは扉に手をつき、深く息を吐いた。
彼女が恐怖に囚われているのは明らかだった。
あの事件の後、泣き疲れて眠ったクレアを抱えて屋敷に戻ったときも、彼女は夢の中で怯えながら小さく震えていた。
「(クレア……お前を守ると誓ったのに)」
胸が締めつけられる。
彼女を無理やり外へ連れ出すわけにはいかない。
しかし、このまま閉じこもらせてしまえば、ますます心を閉ざしてしまうのではないか—─。
グレアスは眉を寄せながら思考を巡らせた。
一方で、彼の中にはもう一つの疑念がくすぶっていた。
あの誘拐事件—──何かがおかしい。
犯人たちの手口は、ただの身代金目的の誘拐にしては妙に手際が良かった。
そして何より、彼らが最初からクレアを狙っていたように思えてならない。
「(偶然か? いや……だが今はそれよりも……)」
グレアスはもう一度扉に手を当てた。
「クレア、聞こえているか?」
微かな気配を感じた。だが、やはり返事はない。
「お前が無理をしていることくらい、俺にはわかる。だが……俺はお前を助けたい」
そう言っても、沈黙が続く。
しばらく待ったが、クレアは結局何も言わなかった。
グレアスは苦悩の表情を浮かべながら、その場を離れるしかなかった。
「(どうすれば、お前はまた笑ってくれる……?)」
胸に刺さる痛みを感じながら、グレアスは静かに拳を握ったのだった。
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クレアの部屋は、まるで彼女の心を映すかのように静まり返っていた。
窓には厚手のカーテンがかかり、外から差し込む光はほとんど遮られている。
昼間であるはずなのに、部屋の中はどこか薄暗く、重苦しい空気が漂っていた。
クレアはベッドの端に座り込み、膝を抱えていた。
まるで自分の存在をできる限り小さくしようとするかのように。
彼女の顔は俯き、長い髪が顔を覆い隠している。
何も考えたくなかった。
何も感じたくなかった。
ただ、目を閉じるとあの恐怖が蘇る。
あの男たちの薄汚い笑み、冷たい縄の感触、喉が裂けそうなほど叫んでも届かない助けを求める声——全てが鮮明に蘇り、彼女の心を締め付ける。
何度も「大丈夫」と自分に言い聞かせようとした。
だけど、体は震え、喉はこわばり、呼吸さえ浅くなる。
あの時と同じように——声が出ない。
そんなクレアの傍に、ずっと寄り添い続ける存在があった。
白銀の毛並みを持つ巨大な狼—──フェル。
彼は何も言わず、ただクレアのそばにいるだけだった。
彼の金色の瞳は、心配と悲しみを滲ませていた。
フェルはそっとクレアの足元に寄り添い、静かに見上げる。
だが、クレアは気づかないふりをした。
今は誰とも話したくない。
そんな心の壁を察したかのように、フェルは静かに息を吐くと、そっと鼻先をクレアの腕に押しつけた。
クレアの肩がピクリと震えた。
「……フェル……?」
かすれた声が、部屋の静寂に溶けた。
フェルは何も言わず、ただじっとクレアを見つめる。
まるで“大丈夫、一人じゃない”と伝えるかのように—──
クレアは少しだけ指を動かし、フェルの柔らかな毛に触れようとした。
しかし、その手は途中で止まった。
「……ごめんね、フェル……」
嗚咽交じりの言葉が、喉の奥から漏れた。
彼に触れたら、自分の弱さが溢れ出してしまいそうだった。
フェルはそっと耳を伏せると、クレアの膝の上に頭を乗せた。
その温もりに、クレアの肩がわずかに震える。
「……大丈夫……大丈夫だから……」
まるで自分自身に言い聞かせるように、クレアは震える声で呟いた。
しかし、その声は不安定で、どこか頼りなかった。
フェルは小さく鼻を鳴らすと、さらに体を寄せる。
まるで“無理に強がらなくていい”と伝えるかのように。
クレアはぎゅっと目を閉じ、フェルの体温を感じながら、浅く呼吸を整えようとした。
「……フェル……」
彼女の手がそっと動き、今度は迷わずフェルの頭を撫でた。
ふわふわとした毛の感触が、少しだけ心を落ち着かせる。
フェルはクレアの手の温もりを感じながら、静かに目を閉じた。
彼がそばにいる限り、クレアは一人ではない。
それでも—─
それでも、クレアの心の奥に残る恐怖はまだ消えてはいなかった。
そしてその夜—──また、悪夢が彼女を襲うことになるのだった。
その夜、クレアは疲れ果てたように眠りについた。
しかし、それは決して安らかな眠りではなかった。
闇の中、クレアは再び悪夢の中に囚われた。
冷たい石の床、腐った木の匂い、湿った空気——そこは、あの誘拐された倉庫だった。
彼女の体は自由が利かず、目の前にはぼんやりとした影がいくつも蠢いていた。
『……やっとお目覚めか?』
耳障りな声が響く。
『震えてるぜ、かわいそうになぁ。そんな怯えた顔しても無駄だぞ?』
『大丈夫、すぐに気持ちよくなれるさ……』
やめて。
お願い、やめて……!
叫ぼうとしても、声が出ない。
喉が詰まり、息ができない。
影たちはゆっくりとクレアに手を伸ばし—──
ガタッ!
クレアは飛び起きた。
心臓が激しく鼓動を打ち、呼吸は荒く、体中に冷や汗が滲んでいた。
息を整えようとするが、うまくいかない。
胸が苦しく、喉が引き絞られるようだった。
暗闇が、怖い。
何かが、まだ自分を捕まえようとしている気がする。
「……っ!」
恐怖に駆られ、クレアは無意識に身を縮こまらせた。
その時──
「……クゥン……」
低く、優しい鳴き声が響いた。
クレアが顔を上げると、そこにはフェルがいた。
金色の瞳が、心配そうにこちらを覗き込んでいる。
「フェ……ル……」
震える声で彼の名を呼ぶと、フェルは静かにクレアのそばに寄り添った。
その温もりが、少しだけ現実へと引き戻してくれる。
クレアは恐る恐るフェルの毛に触れ、ぎゅっと握りしめた。
フェルは何も言わず、ただ静かに寄り添い続ける。
「……大丈夫、私は……大丈夫……」
自分に言い聞かせるように呟くが、その言葉にはまるで力がなかった。
クレアの目から、静かに涙がこぼれ落ちる。
フェルはそんなクレアの涙を舐めるように、そっと顔を近づけた。
その優しさに、クレアの胸が締め付けられる。
「……ごめんね、フェル……こんなに弱くなって……」
フェルは小さく鼻を鳴らし、クレアの頭にそっと鼻先を押し当てた。
「一人じゃない」
まるで、そう伝えるかのように。
クレアは震える手でフェルの背にそっと触れ、その温かさを感じながら、再び目を閉じた。
今度こそ、悪夢に囚われることなく眠ることができるだろうか──
翌朝、屋敷の空気はどこか沈んでいた。
使用人たちは皆、クレアのことを心配しながらも、どうすることもできずにいた。
誘拐事件からしばらく経ったというのに、彼女はずっと自室に閉じこもったままだった。
ミーシャも何度か扉を叩き、優しい声で呼びかけたが、それでもクレアは部屋から出てこようとしなかった。
フェルもずっと扉の前に座り込んでいたが、クレアの気配がするだけで、それ以上の反応はなかった。
──そんな中、ローズが屋敷を訪れた。
彼女はクレアのことを聞きつけ、少しでも励まそうと考えていた。
「クレア様、大丈夫ですか? 私です、ローズです」
扉の向こうへ優しく声をかける。
しかし、返事はない。
「ねえ、お願いですから顔を見せてください? みんな心配してるのですよ」
それでも扉は閉ざされたままだった。
ローズは一度息を整え、もう一度静かに言葉を紡ぐ。
「……怖いのですよね」
呟くように言う。
「無理に出てきてとは言わないですわ。でも、私たちはいつでもあなたのそばにいますから……忘れないでください」
静寂が続いた。
しかし、扉の向こうで小さな衣擦れの音がした。
クレアが動いたのだろうか──そう思ったが、結局、扉が開くことはなかった。
ローズは名残惜しそうに扉を見つめた後、踵を返し、廊下を歩き出す。
すると、向こうからグレアスが現れた。
「ローズか」
「……ええ」
ローズは小さく微笑んだが、その顔には心配の色が滲んでいた。
「クレア様はまだ……?」
「……ああ、部屋から出てこない」
グレアスは眉をひそめ、扉の方へと目をやる。
「無理もないですわ。あんなことがあったんですもの……」
「……ああ」
グレアスは低く息をつく。
あの誘拐事件──
彼女を守れなかった自分の無力さが、今も胸を締めつけていた。
あの時、クレアはどれほどの恐怖を味わったのだろう。
暗い物置の中で、縛られ、自由を奪われ、下劣な男たちの視線にさらされていた。
その恐怖が、今もクレアの心を縛りつけているのだ。
「でも、このままじゃクレア様が余計に塞ぎ込んでしまいますわ。時間が解決すると言うけれど、誰かがそばにいてあげないと……」
「わかっている」
グレアスは短く答えた。
そして、扉をもう一度見つめる。
「……何か、きっかけがあれば……」
ローズの言葉に、グレアスは静かに目を閉じた。
何か、クレアを部屋の外へ出すための方法──
クレアにとって、心が安らぐものとは何だろうか。
彼女が安心できる場所、彼女が好きだったもの……
記憶を失う前のクレアなら、何を望んだだろう?
「……私がもう一度、話してみる」
決意を込めた声でグレアスが言った。
ローズはグレアスを見つめ、そして頷く。
「ええ。あなたなら、きっと」
グレアスは深く息を吸い込み、静かに扉の前に立つ。
コン、コン……
控えめにノックをする。
「クレア、私だ」
扉の向こうに向かって声をかけるが、返事はない。
それでも、グレアスは話し続けた。
「……お前が外に出るのが怖いのはわかる。無理にとは言わない。ただ、私はお前と話したいんだ」
沈黙。
だが、わずかに扉の向こうで何かが動く音が聞こえた。
グレアスはそれに気づきながら、さらに言葉を紡ぐ。
「お前は一人じゃない。ミーシャも、フェルも、みんなお前を心配してる。私も──」
そう言いかけて、グレアスは一瞬言葉に詰まる。
「……俺も、お前がそばにいないと、落ち着かない」
扉の向こうで、微かな息遣いが聞こえた。
「だから、少しずつでいい……もう一度、俺たちの世界に戻ってきてくれ」
グレアスはそう言って、扉の前でしばらく待った。
扉を開ける音が静かに響いた。
その音に、グレアスの心臓が一瞬跳ね上がる。
扉が少しだけ開き、クレアの顔が見えた。
彼女はまだ少し無表情で、目を合わせることなく立っていた。
「クレア……」
グレアスは、声をかけながらゆっくりとその足を前に進める。
クレアは一歩後ろに下がり、壁に寄りかかるようにして身を寄せた。その様子は少しだけ怖がっているように見えた。
「……怖くない」
グレアスの優しい声が、部屋の静けさに溶け込む。
「……出たくないなら、無理に出さない。でも、少しでも話したくなったら、いつでも言ってほしい」
クレアは言葉に反応しなかった。
ただ、黙って立っているだけだった。
グレアスは少しだけ手を伸ばし、クレアに届く距離に立ったが、無理に近づこうとはしなかった。
その目の前で、クレアの目が少し揺れた。
「……お前が怖いわけじゃない」
グレアスは静かに続けた。
「でも、無理して笑う必要はない。お前が辛い時は、無理に元気を出すことはない。俺たちは、お前を待ってる」
しばらく沈黙が流れた。
その間、グレアスの心臓は少しずつ重くなり、彼女が一言でも返してくれればと思っていた。
そして、クレアの目がほんの少しだけ、グレアスの方へと向けられた。
それに、グレアスは少し驚いた。
クレアの顔が、少しだけほころんだような気がした。
「ですが、どうしても……」
クレアの声はかすかに震えていた。
「どうしても……あの時のことを思い出すのです。あの暗い場所、何もかもが怖くて」
グレアスは静かに頷き、手を少しだけ伸ばした。
「その恐怖を、俺が受け止める。お前は今、俺の元にいる。怖くない。大丈夫だ」
クレアは、グレアスの手が届く距離で止まると、少しだけ恐る恐るその手を見つめた。
「……ありがとう、ございます」
その言葉は、やっと出てきたもので、まるで長い間押し込めていた言葉のように感じられた。
そして、クレアの目にはほんのわずかに涙が浮かんでいた。
「ありがとうございます……」
グレアスはその瞬間、ゆっくりと手を伸ばし、クレアの肩に手を置いた。
「お前がいるから、俺も頑張れる」
クレアは、グレアスの手の温もりを感じながら、少しだけ顔を上げた。
「……怖くても、ちゃんと前に進みたいです」
その言葉を聞いて、グレアスは心から安堵した。
「それでいいんだ。お前が一歩踏み出したとき、俺がそばにいるから」
クレアは少しだけ、グレアスに向かって微笑んだ。
その笑顔はまだ本当の意味での明るさを取り戻してはいないが、それでも少しだけ、彼女の心が温かさを取り戻しているように見えた。
「ありがとうございます、グレアス様」
その言葉に、グレアスは満足そうに微笑み、静かに頷いた。
そして、二人の間には、言葉以上の温かいものが流れた。