朝日が柔らかく部屋に差し込み、穏やかな風がカーテンを揺らす。
屋敷の中は静かで、どこか落ち着いた空気が漂っていた。
グレアスは書斎の椅子に腰掛けながら、クレアの様子を思い浮かべる。
記憶を失ってからというもの、彼女は穏やかに過ごしているようで、どこか無理をしているようにも見えた。
思い出せない過去に怯えないように、必死で今を受け入れようとしている──
そんな姿が、グレアスには痛々しかった。
「……たまには外に出たほうがいいかもしれないな」
そう呟きながら立ち上がると、クレアの部屋へ向かった。
ノックをして扉を開けると、クレアはベッドの上で静かに本を読んでいた。
彼女はグレアスの姿を見ると、小さく微笑んだ。
「おはようございます、グレアス様」
「おはよう。少し話がある」
クレアは本を閉じて、グレアスの方へ向き直った。
「……何かありましたか?」
「いや、大したことじゃない。今日、街へ出てみないか?」
「街へ……?」
クレアの表情に、少し戸惑いが浮かんだ。
「ずっと屋敷の中にいるより、外を歩いた方が気分転換になるだろう。それに、街には色々なものがある。お前の記憶を刺激するものが見つかるかもしれない」
「……記憶を?」
クレアは少し考え込んだ。
確かに、このまま屋敷に籠っているだけでは何も変わらない。
外に出れば、何か新しい発見があるかもしれない──。
「……はい、行ってみたいです」
グレアスは満足げに頷いた。
「よし、じゃあ準備をしておけ。昼には出発する」
クレアは微笑みながら「わかりました」と返事をした。
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馬車に揺られながら、クレアは窓の外の景色を眺めていた。
街へ来るのは初めてではないはずなのに、どこか新鮮な気持ちだった。
記憶がないせいか、すべてが初めて見るもののように思える。
馬車が止まり、グレアスとクレアは街の中心に降り立った。
「どうだ、歩けそうか?」
「はい、大丈夫です」
グレアスはクレアの歩調に合わせるように隣を歩く。
市場では活気ある商人たちの声が飛び交い、香ばしいパンの匂いが漂ってくる。
クレアは興味深そうに周囲を見渡した。
「ここにはやっぱり色んなものがあるんですね」
「そうだな。お前が好きなものも、きっとあるはずだ」
グレアスはそう言いながら、クレアをいくつかの店に案内した。
一軒の雑貨屋に入ると、可愛らしい小物が並べられていた。
クレアは一つの髪飾りに目を留めた。
「綺麗……」
それは小さな銀細工の髪飾りで、中心には青い宝石がはめ込まれている。
「気に入ったのか?」
「え……?」
クレアは驚いたようにグレアスを見た。
「いや、ただ……綺麗だなって思って」
「なら、買えばいい」
グレアスはそう言って、店主に支払いを済ませた。
「えっ、いいんですか……?」
「気に入ったんだろう?」
「……ありがとう、ございます」
クレアは嬉しそうに髪飾りを受け取った。
それから二人はしばらく街を散策し、カフェで休憩を取った。クレアは街の雰囲気を楽しんでいるようだった。
「(よかった……少しは気分転換になったみたいだ)」
グレアスはそう思いながら、クレアが微笑む姿を見つめた。
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二人は広場にある噴水のそばで、しばし足を止めた。
「クレア、何か飲み物を買ってくる」
「え? ですが──」
「すぐ戻る。ここで待っていてくれ」
クレアは少し心細そうな顔をしたが、グレアスの言葉に頷いた。
グレアスは足早に露店へ向かい、飲み物を注文した。
だが、ふと違和感を覚え、振り返る──。
「(……クレアの姿が見えない)」
グレアスの胸に嫌な予感が走った。
「クレア?」
声を上げながら、先ほどまで彼女がいた場所に戻る。
だが──誰もいない。
周囲を見渡しても、クレアの姿はどこにもなかった。
「クレア!!」
グレアスの怒声が響き、広場の人々が驚いたように振り返る。
「おかしい……クレアが勝手に動くはずがない……」
これは、ただの迷子ではない。
──誘拐だ。
グレアスの瞳に怒りの炎が灯った。
「(クレアを探す!!)」
すぐさま屋敷へ伝令を走らせ、街の出入り口を封鎖するよう命じる。
「(クレア……どこにいる……!?)」
グレアスは拳を握り締め、絶対に彼女を取り戻すと誓った。
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クレアは意識が朦朧とする中で目を覚ました。
頭がぼんやりとしていて、どれくらいの時間が経ったのかも分からない。
だが、次第に冷たい床の感触と、手首と足首を締め付ける縄の痛みが彼女の意識をはっきりさせた。
「(……なに、これ……?)」
彼女は自分の状況を把握しようとしたが、口には猿轡が噛まされており、声を出すことすら叶わなかった。
周囲を見回すと、そこは埃っぽく薄暗い物置のような場所だった。
木箱や袋が無造作に積まれ、窓は小さく、鉄格子がはめられている。
そして、そんな彼女を囲むようにして、四人の男たちがニヤニヤと笑っていた。
「おいおい、やっと目覚めたか」
一人の男が口元を歪めながら言った。
「思ったよりも上物じゃねえか」
「まったくだ。こいつがあのグレアスの女ってんだからな……いい金になるぜ」
クレアの体がガタガタと震えた。
下卑た笑みを浮かべる男たちの視線が、まるで物でも見るかのように彼女の体をなめ回す。
「(怖い……!)」
クレアは本能的な恐怖に囚われた。
逃げようにも体は縛られ、叫ぶこともできない。
「さて、こいつをどうするか……」
「予定通り、身代金を要求するか?」
「もちろんだ。だが、その前に少しくらい楽しんでもいいんじゃねえか?」
男の一人がクレアの頬を指でなぞる。
クレアの体がビクンと震えた。
「(いや……助けて……誰か……!)」
涙がこぼれそうになるが、彼女は必死に堪えた。
「(グレアス様……助けて……)」
その時だった。
──ガンッ!!
物置の扉が激しく揺れた。
男たちが驚いたように顔を上げる。
「……誰だ?」
「まさか、もう見つかったのか!?」
緊張が走る中、外から聞こえたのは怒りに満ちた低い声だった。
「クレアはどこだ?」
──それは、紛れもなくグレアスの声だった。
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グレアスは焦燥に駆られていた。
ほんの一瞬、目を離した隙だった。
市場でクレアが可愛らしい小物を手に取っていたのを確認し、周囲に警戒を払ったその刹那──気づけば彼女の姿が消えていた。
「クレア?」
最初は少し離れた場所にいるのかと思い、辺りを見回した。
しかし、彼女の姿はどこにもない。
「クレア!」
大きな声で名前を呼んだが、返事はない。
──悪い予感がした。
グレアスの心臓が早鐘を打つ。
市場は活気に満ち、多くの人々が行き交っている。
だが、それがかえって彼の不安を煽った。
人混みの中で攫われたのか?
それとも、何者かに連れ去られたのか?
「(……すぐに見つけなければ)」
冷静であろうと努めても、内心では恐怖が広がっていく。
「おい、お前!」
グレアスは近くの衛兵に声をかけた。
「ここで若い女性が誘拐された可能性がある。すぐに俺の屋敷へ報せろ!」
「な、なんですって!?」
「市場の見張りを増やせ! 出入りする人間を厳しく取り締まれ!」
衛兵が慌てて動き出す。
グレアスはさらに街の人々にも聞き込みを始めた。
「白いドレスを着た少女を見なかったか?」
「すみません、見ていませんね……」
「さっき、あの辺りで男たちに囲まれているのを見たけど……もしかして?」
小さな雑貨店の店主が言った。
その言葉を聞いた瞬間、グレアスの目が鋭くなる。
「それはどこだ?」
「市場の裏道の方へ行ったようだったが……」
グレアスは店主の言葉が終わる前に駆け出した。
──クレアが連れ去られたのなら、助け出さなければならない。
それ以外の選択肢などない。
彼の心の中には怒りが燃え盛っていた。
「(クレアに何かあったら──俺は、絶対に許さない)」
裏道へと入ると、人気のない静かな空間が広がっていた。
ここは市場の喧騒とは対照的にひっそりとしており、犯罪者が活動しやすい場所でもある。
目を凝らしながら進むと、何かを引きずったような痕跡を見つけた。
「(これは……)」
確信を得たグレアスは、その痕跡を追う。
そして、たどり着いたのは寂れた倉庫のような建物だった。
──ガンッ!!
グレアスは迷いなく扉を叩いた。
中から何かが動く気配がする。
「……誰だ?」
「まさか、もう見つかったのか!?」
中の男たちの動揺した声が聞こえた。
そして、グレアスは低く、だが怒りを抑えた声で言った。
「クレアはどこだ?」
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倉庫の扉が轟音とともに吹き飛んだ。
四人の誘拐犯が驚愕の表情を浮かべ、床に転がされたクレアも震えながらその方向を見た。
逆光に照らされながら立つのは、怒りに満ちたグレアス。
その蒼い瞳は氷のように冷たく、しかし内側には燃え盛る炎が宿っていた。
「お前たちか」
低く響く声。その一言だけで、倉庫内の空気が凍り付く。
犯人たちは即座に武器を構えたが、グレアスはすでに動いていた。
──一閃。
「ぐっ……!」
一人目の腕が砕けた。
いや、砕いた。
ナイフを振り上げようとした男の手首を掴み、そのまま逆方向にねじり上げる。
鈍い音とともに、関節が逆向きに折れた。
「ぎゃあああっ!!!」
悲鳴を上げる男の喉元を、さらに鋭い拳が打ち抜いた。
男は白目を剥き、そのまま床に沈む。
「くそっ、こいつ……!」
二人目が殴りかかる。
拳を振り上げ、思い切りグレアスの顔を狙うが──
ヒュンッ!!
その拳は空を切った。
グレアスは最小限の動きでかわし、腹部へ膝を叩き込む。
「ぐぇっ……!」
衝撃で男の体が宙に浮いた。
内臓をえぐられたような痛みに、男はもんどり打って倒れる。
「こ、こいつ、一人で……!」
「この程度で俺を止められるとでも思ったのか?」
残った二人は完全に怯えていた。
しかし、それでも逃げ出すことなく、ナイフを構えた。
「やれ!」
最後の二人が同時に襲いかかる。
左右から振り下ろされるナイフ。
しかし──
グレアスは微動だにせず、それを見つめていた。
次の瞬間。
バシュッ!!
片方の男の腕を掴み、その勢いのまま壁に叩きつける。
「ぐぁっ……!」
「弱いぞ?」
骨が砕ける音が響いた。
壁にめり込んだ男が力なく崩れ落ちる。
最後の一人が恐怖に目を見開きながら刃を振るうが──
ヒュンッ!!
グレアスはそれを紙一重でかわし、一瞬で懐へと入り込む。
「な、なんだこいつは……!」
恐怖の叫びが倉庫内に響く。
ガッ!!
拳が炸裂した。
顔面に叩き込まれた一撃で、男は宙を舞い、無様に床へ転がる。
──戦闘開始から、わずか十秒。
そこには、動ける者は一人もいなかった。
沈黙。
倉庫に残されたのは、縛られたまま震えるクレアと、立ち尽くすグレアスだけ。
グレアスはゆっくりと膝をつき、クレアの前に屈む。
「クレア……大丈夫か?」
その声は、先ほどまでの冷徹なものではなかった。
クレアの怯えた目がグレアスを映す。
彼女は恐る恐る頷くと、安堵したように涙を流し、そのまま崩れ落ちた。
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グレアスは震えるクレアをそっと抱き寄せた。
彼女の小さな体は冷たく、絶え間なく涙を流し続けている。
「……怖かったな」
低く優しい声で囁くと、クレアの肩がさらに震えた。
「……ごめんな、クレア」
グレアスの声がわずかに掠れる。
「私が……目を離さなければ、こんなことには……」
強者として、王族として、そして何より、クレアを守るべき存在として。
それでも、彼女を傷つけさせてしまった。
──許されるものではない。
クレアは言葉を発せず、ただグレアスの胸に顔を埋めたまま、声を押し殺すように泣き続ける。
その姿を見て、グレアスの胸が締めつけられるように痛んだ。
「お前を……もう二度と、こんな目には遭わせない」
静かに、しかし決意の籠った声で誓う。
長い時間、クレアはグレアスの胸の中で泣き続けた。
泣き疲れたのか、彼女の呼吸が次第に落ち着き、肩の震えが小さくなる。
それでも、グレアスは彼女を離さなかった。
──まだ、安心できるはずがない。
彼はクレアの頬にかかった乱れた髪をそっと指で払う。
そうして、彼女の顔を見つめた。
目を閉じたまま、時折わずかに眉を寄せるその表情は、不安と恐怖が残っている証だ。
「……すまない」
誰に言うでもなく、グレアスは静かに呟いた。
こんなに怯えさせるほどの恐怖を与えた。
こんなにも泣かせてしまった。
──自分は、本当にクレアを守ることができているのか?
そんな疑問が心の奥から浮かび上がる。
「…………」
グレアスは静かに、腕の中の少女を見つめた。
あの日のことを思い出す。
クレアが自分を庇って、ジュエルドの剣を受けたあの日を──。
あの時も、自分は彼女を守れなかった。
そして、今も。
何度も何度も、クレアは自分のせいで傷ついている。
そのたびに、彼女は痛みをこらえて微笑んで──。
「……馬鹿か、俺は」
小さく自嘲するように呟き、グレアスはゆっくりと立ち上がった。
眠るクレアを、お姫様抱っこする。
彼女の軽さが、グレアスの胸にまたも罪悪感を呼び起こした。
「……帰るぞ」
誰に言うでもなく告げると、グレアスは倉庫を後にした。
月明かりの下、彼は静かに歩き出す。
腕の中の少女を二度と離さぬよう、強く、しかし優しく抱きしめながら──。