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第41話 令嬢誘拐

朝日が柔らかく部屋に差し込み、穏やかな風がカーテンを揺らす。 

屋敷の中は静かで、どこか落ち着いた空気が漂っていた。 

グレアスは書斎の椅子に腰掛けながら、クレアの様子を思い浮かべる。 

記憶を失ってからというもの、彼女は穏やかに過ごしているようで、どこか無理をしているようにも見えた。 

思い出せない過去に怯えないように、必死で今を受け入れようとしている──

そんな姿が、グレアスには痛々しかった。 


「……たまには外に出たほうがいいかもしれないな」 


そう呟きながら立ち上がると、クレアの部屋へ向かった。 

ノックをして扉を開けると、クレアはベッドの上で静かに本を読んでいた。 

彼女はグレアスの姿を見ると、小さく微笑んだ。 


「おはようございます、グレアス様」 

「おはよう。少し話がある」 


クレアは本を閉じて、グレアスの方へ向き直った。 


「……何かありましたか?」 

「いや、大したことじゃない。今日、街へ出てみないか?」 

「街へ……?」 


クレアの表情に、少し戸惑いが浮かんだ。 


「ずっと屋敷の中にいるより、外を歩いた方が気分転換になるだろう。それに、街には色々なものがある。お前の記憶を刺激するものが見つかるかもしれない」 

「……記憶を?」 


クレアは少し考え込んだ。 

確かに、このまま屋敷に籠っているだけでは何も変わらない。

外に出れば、何か新しい発見があるかもしれない──。 


「……はい、行ってみたいです」 


グレアスは満足げに頷いた。 


「よし、じゃあ準備をしておけ。昼には出発する」 


クレアは微笑みながら「わかりました」と返事をした。 

────────────────────────

馬車に揺られながら、クレアは窓の外の景色を眺めていた。 

街へ来るのは初めてではないはずなのに、どこか新鮮な気持ちだった。 

記憶がないせいか、すべてが初めて見るもののように思える。 

馬車が止まり、グレアスとクレアは街の中心に降り立った。 


「どうだ、歩けそうか?」 

「はい、大丈夫です」 


グレアスはクレアの歩調に合わせるように隣を歩く。 

市場では活気ある商人たちの声が飛び交い、香ばしいパンの匂いが漂ってくる。 

クレアは興味深そうに周囲を見渡した。 


「ここにはやっぱり色んなものがあるんですね」 

「そうだな。お前が好きなものも、きっとあるはずだ」 


グレアスはそう言いながら、クレアをいくつかの店に案内した。 

一軒の雑貨屋に入ると、可愛らしい小物が並べられていた。 

クレアは一つの髪飾りに目を留めた。 


「綺麗……」 


それは小さな銀細工の髪飾りで、中心には青い宝石がはめ込まれている。 


「気に入ったのか?」 

「え……?」 


クレアは驚いたようにグレアスを見た。 


「いや、ただ……綺麗だなって思って」 

「なら、買えばいい」 


グレアスはそう言って、店主に支払いを済ませた。 


「えっ、いいんですか……?」 

「気に入ったんだろう?」 

「……ありがとう、ございます」 


クレアは嬉しそうに髪飾りを受け取った。 

それから二人はしばらく街を散策し、カフェで休憩を取った。クレアは街の雰囲気を楽しんでいるようだった。 


「(よかった……少しは気分転換になったみたいだ)」 


グレアスはそう思いながら、クレアが微笑む姿を見つめた。 

────────────────────────

二人は広場にある噴水のそばで、しばし足を止めた。 


「クレア、何か飲み物を買ってくる」 

「え? ですが──」 

「すぐ戻る。ここで待っていてくれ」 


クレアは少し心細そうな顔をしたが、グレアスの言葉に頷いた。 

グレアスは足早に露店へ向かい、飲み物を注文した。 

だが、ふと違和感を覚え、振り返る──。 


「(……クレアの姿が見えない)」 


グレアスの胸に嫌な予感が走った。 


「クレア?」 


声を上げながら、先ほどまで彼女がいた場所に戻る。 

だが──誰もいない。 

周囲を見渡しても、クレアの姿はどこにもなかった。 


「クレア!!」 


グレアスの怒声が響き、広場の人々が驚いたように振り返る。 


「おかしい……クレアが勝手に動くはずがない……」 


これは、ただの迷子ではない。 

──誘拐だ。 

グレアスの瞳に怒りの炎が灯った。 


「(クレアを探す!!)」 


すぐさま屋敷へ伝令を走らせ、街の出入り口を封鎖するよう命じる。 


「(クレア……どこにいる……!?)」 


グレアスは拳を握り締め、絶対に彼女を取り戻すと誓った。 

────────────────────────

クレアは意識が朦朧とする中で目を覚ました。 

頭がぼんやりとしていて、どれくらいの時間が経ったのかも分からない。 

だが、次第に冷たい床の感触と、手首と足首を締め付ける縄の痛みが彼女の意識をはっきりさせた。 


「(……なに、これ……?)」 


彼女は自分の状況を把握しようとしたが、口には猿轡が噛まされており、声を出すことすら叶わなかった。 

周囲を見回すと、そこは埃っぽく薄暗い物置のような場所だった。 

木箱や袋が無造作に積まれ、窓は小さく、鉄格子がはめられている。 

そして、そんな彼女を囲むようにして、四人の男たちがニヤニヤと笑っていた。 


「おいおい、やっと目覚めたか」 


一人の男が口元を歪めながら言った。 


「思ったよりも上物じゃねえか」 

「まったくだ。こいつがあのグレアスの女ってんだからな……いい金になるぜ」 


クレアの体がガタガタと震えた。 

下卑た笑みを浮かべる男たちの視線が、まるで物でも見るかのように彼女の体をなめ回す。 

「(怖い……!)」 


クレアは本能的な恐怖に囚われた。 

逃げようにも体は縛られ、叫ぶこともできない。 


「さて、こいつをどうするか……」 

「予定通り、身代金を要求するか?」 

「もちろんだ。だが、その前に少しくらい楽しんでもいいんじゃねえか?」 


男の一人がクレアの頬を指でなぞる。 

クレアの体がビクンと震えた。 


「(いや……助けて……誰か……!)」 


涙がこぼれそうになるが、彼女は必死に堪えた。 

「(グレアス様……助けて……)」 


その時だった。 

──ガンッ!! 

物置の扉が激しく揺れた。 

男たちが驚いたように顔を上げる。 


「……誰だ?」 

「まさか、もう見つかったのか!?」 


緊張が走る中、外から聞こえたのは怒りに満ちた低い声だった。 


「クレアはどこだ?」 


──それは、紛れもなくグレアスの声だった。 

────────────────────────

グレアスは焦燥に駆られていた。 

ほんの一瞬、目を離した隙だった。 

市場でクレアが可愛らしい小物を手に取っていたのを確認し、周囲に警戒を払ったその刹那──気づけば彼女の姿が消えていた。 


「クレア?」 


最初は少し離れた場所にいるのかと思い、辺りを見回した。 

しかし、彼女の姿はどこにもない。 


「クレア!」 


大きな声で名前を呼んだが、返事はない。 

──悪い予感がした。 

グレアスの心臓が早鐘を打つ。 

市場は活気に満ち、多くの人々が行き交っている。 

だが、それがかえって彼の不安を煽った。 

人混みの中で攫われたのか?  

それとも、何者かに連れ去られたのか? 


「(……すぐに見つけなければ)」 


冷静であろうと努めても、内心では恐怖が広がっていく。 


「おい、お前!」 


グレアスは近くの衛兵に声をかけた。 


「ここで若い女性が誘拐された可能性がある。すぐに俺の屋敷へ報せろ!」 

「な、なんですって!?」 

「市場の見張りを増やせ! 出入りする人間を厳しく取り締まれ!」 


衛兵が慌てて動き出す。 

グレアスはさらに街の人々にも聞き込みを始めた。 


「白いドレスを着た少女を見なかったか?」 

「すみません、見ていませんね……」 


「さっき、あの辺りで男たちに囲まれているのを見たけど……もしかして?」 


小さな雑貨店の店主が言った。 

その言葉を聞いた瞬間、グレアスの目が鋭くなる。 


「それはどこだ?」 

「市場の裏道の方へ行ったようだったが……」 


グレアスは店主の言葉が終わる前に駆け出した。 

──クレアが連れ去られたのなら、助け出さなければならない。 

それ以外の選択肢などない。 

彼の心の中には怒りが燃え盛っていた。 


「(クレアに何かあったら──俺は、絶対に許さない)」 


裏道へと入ると、人気のない静かな空間が広がっていた。 

ここは市場の喧騒とは対照的にひっそりとしており、犯罪者が活動しやすい場所でもある。 

目を凝らしながら進むと、何かを引きずったような痕跡を見つけた。 


「(これは……)」 


確信を得たグレアスは、その痕跡を追う。 

そして、たどり着いたのは寂れた倉庫のような建物だった。 

──ガンッ!! 

グレアスは迷いなく扉を叩いた。 

中から何かが動く気配がする。 


「……誰だ?」 

「まさか、もう見つかったのか!?」 


中の男たちの動揺した声が聞こえた。 

そして、グレアスは低く、だが怒りを抑えた声で言った。 


「クレアはどこだ?」 

────────────────────────

倉庫の扉が轟音とともに吹き飛んだ。 

四人の誘拐犯が驚愕の表情を浮かべ、床に転がされたクレアも震えながらその方向を見た。 

逆光に照らされながら立つのは、怒りに満ちたグレアス。 

その蒼い瞳は氷のように冷たく、しかし内側には燃え盛る炎が宿っていた。 


「お前たちか」 


低く響く声。その一言だけで、倉庫内の空気が凍り付く。 

犯人たちは即座に武器を構えたが、グレアスはすでに動いていた。 

──一閃。 


「ぐっ……!」 


一人目の腕が砕けた。 

いや、砕いた。 

ナイフを振り上げようとした男の手首を掴み、そのまま逆方向にねじり上げる。 

鈍い音とともに、関節が逆向きに折れた。 


「ぎゃあああっ!!!」 


悲鳴を上げる男の喉元を、さらに鋭い拳が打ち抜いた。 

男は白目を剥き、そのまま床に沈む。 


「くそっ、こいつ……!」 


二人目が殴りかかる。 

拳を振り上げ、思い切りグレアスの顔を狙うが──

ヒュンッ!! 

その拳は空を切った。 

グレアスは最小限の動きでかわし、腹部へ膝を叩き込む。 


「ぐぇっ……!」 


衝撃で男の体が宙に浮いた。 

内臓をえぐられたような痛みに、男はもんどり打って倒れる。 


「こ、こいつ、一人で……!」 

「この程度で俺を止められるとでも思ったのか?」 


残った二人は完全に怯えていた。 

しかし、それでも逃げ出すことなく、ナイフを構えた。 


「やれ!」 


最後の二人が同時に襲いかかる。 

左右から振り下ろされるナイフ。 

しかし── 

グレアスは微動だにせず、それを見つめていた。 

次の瞬間。 

バシュッ!! 

片方の男の腕を掴み、その勢いのまま壁に叩きつける。 


「ぐぁっ……!」 

「弱いぞ?」 


骨が砕ける音が響いた。 

壁にめり込んだ男が力なく崩れ落ちる。 

最後の一人が恐怖に目を見開きながら刃を振るうが──

ヒュンッ!! 

グレアスはそれを紙一重でかわし、一瞬で懐へと入り込む。 


「な、なんだこいつは……!」 


恐怖の叫びが倉庫内に響く。 

ガッ!! 

拳が炸裂した。 

顔面に叩き込まれた一撃で、男は宙を舞い、無様に床へ転がる。 

──戦闘開始から、わずか十秒。 

そこには、動ける者は一人もいなかった。 

沈黙。 

倉庫に残されたのは、縛られたまま震えるクレアと、立ち尽くすグレアスだけ。 

グレアスはゆっくりと膝をつき、クレアの前に屈む。 


「クレア……大丈夫か?」 


その声は、先ほどまでの冷徹なものではなかった。 

クレアの怯えた目がグレアスを映す。 

彼女は恐る恐る頷くと、安堵したように涙を流し、そのまま崩れ落ちた。 

────────────────────────

グレアスは震えるクレアをそっと抱き寄せた。 

彼女の小さな体は冷たく、絶え間なく涙を流し続けている。 

「……怖かったな」 


低く優しい声で囁くと、クレアの肩がさらに震えた。 


「……ごめんな、クレア」 


グレアスの声がわずかに掠れる。 


「私が……目を離さなければ、こんなことには……」 


強者として、王族として、そして何より、クレアを守るべき存在として。 

それでも、彼女を傷つけさせてしまった。 

──許されるものではない。 

クレアは言葉を発せず、ただグレアスの胸に顔を埋めたまま、声を押し殺すように泣き続ける。 

その姿を見て、グレアスの胸が締めつけられるように痛んだ。 

「お前を……もう二度と、こんな目には遭わせない」 


静かに、しかし決意の籠った声で誓う。 

長い時間、クレアはグレアスの胸の中で泣き続けた。 

泣き疲れたのか、彼女の呼吸が次第に落ち着き、肩の震えが小さくなる。 

それでも、グレアスは彼女を離さなかった。 

──まだ、安心できるはずがない。 

彼はクレアの頬にかかった乱れた髪をそっと指で払う。 

そうして、彼女の顔を見つめた。 

目を閉じたまま、時折わずかに眉を寄せるその表情は、不安と恐怖が残っている証だ。 


「……すまない」 


誰に言うでもなく、グレアスは静かに呟いた。 

こんなに怯えさせるほどの恐怖を与えた。 

こんなにも泣かせてしまった。 

──自分は、本当にクレアを守ることができているのか? 

そんな疑問が心の奥から浮かび上がる。 


「…………」 


グレアスは静かに、腕の中の少女を見つめた。 

あの日のことを思い出す。 

クレアが自分を庇って、ジュエルドの剣を受けたあの日を──。 

あの時も、自分は彼女を守れなかった。 

そして、今も。 

何度も何度も、クレアは自分のせいで傷ついている。 

そのたびに、彼女は痛みをこらえて微笑んで──。 


「……馬鹿か、俺は」 


小さく自嘲するように呟き、グレアスはゆっくりと立ち上がった。 

眠るクレアを、お姫様抱っこする。 

彼女の軽さが、グレアスの胸にまたも罪悪感を呼び起こした。 


「……帰るぞ」 


誰に言うでもなく告げると、グレアスは倉庫を後にした。 

月明かりの下、彼は静かに歩き出す。 

腕の中の少女を二度と離さぬよう、強く、しかし優しく抱きしめながら──。 




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