私は数日かけて怪我を癒し、体力もほぼ元通りになった。
庭を歩き回ることもでき、毎朝窓から差し込む陽光を浴びては、小鳥たちのさえずりに耳を傾けていた。
しかし、一つだけ心残りがあった。
それは、外の世界に足を踏み出すこと。
私はもともと自由に外出できるような立場ではなかったが、今回ばかりは心から許可が欲しいと思った。
だって退屈なんだもの。
「……でも、グレアス様が忙しそうななんですよね」
執務室で仕事をしている彼の姿を思い浮かべ、私は静かにため息をついた。
フェルが彼女の隣で小さく鼻を鳴らし、まるで“話しかければいいじゃないか”と言っているような眼差しを向けてくる。
「そんな簡単じゃないのよ、フェル。彼がどれだけ大変な役目を背負っているか、あなたも知ってるでしょ?」
クレアはフェルの耳元を撫で、彼の温もりに頼るように一瞬だけ目を閉じた。
フェルは彼女を見つめ返し、黙って寄り添ってくれた。
「……でも、今日こそはお願いしてみる」
私はフェルにそう宣言して、その足でグレアスの執務室へと向かった。
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執務室の扉の前で、私は再び立ち止まった。
ドアの向こうからは誰かと話し合っているグレアスの声が聞こえてくる。
どうやらまた、複雑な問題を抱えているようだ。
私は再びため息をつき、部屋に入るのを躊躇してしまった。
「どうしましょうか……やっぱり今は邪魔になりそうですよねげ……」
私は壁に寄りかかり、少しだけ時間を潰そうと決めた。
フェルも足元で待ってくれているが、彼の瞳には“そんなに悩む必要はない”と言わんばかりの表情が浮かんでいるように見える。
このまま話せなければ、いつ外に出られるのか分からない。
前までは抜け出せていたが、今回の一件の影響はかなり大きく、監視の兵が増え、抜け出すことが容易くなくなった。
私の心の中で焦りが募っていく。
けれど、いざ行動に移すとなると、どうにも勇気が出ない。
彼は自分のためにどれだけのことをしてくれているのだろう、とそのことを思い出すたび、言葉が出せなくなってしまうのだ。
私は彼に隠し事をしていた。
それだけで少し後ろめたい気持ちが出てしまう。
でも、私もちゃんと自分の気持ちを伝えるべきでだよね……
そう思い直した私は、意を決して扉をノックしようとした。
ところが、その瞬間、執務室のドアが開き、彼女はグレアスと鉢合わせになった。
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「クレア、どうしたんだ?」
グレアス様が私を見つめ、少し驚いた表情を浮かべて尋ねる。
彼の目には少し疲れがにじんでいるが、同時に彼女を気遣う優しさも感じられた。
「……あの、少しだけお話ししてもいいですか?」
私は恐る恐る問いかける。
グレアス様は一瞬考え込むような表情を見せたが、やがてゆっくりと頷いた。
「ああ、構わない。少し外の空気でも吸うか」
彼の言葉に、私は少しだけ心が軽くなった。
彼が自分に向けてくれる気遣いと、外出許可への期待が胸の中で膨らんでいく。
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グレアス様に促され、私は執務室を出て屋敷の中庭に向かった。
季節は初夏で、爽やかな風が緑の木々を優しく揺らしている。
私の植えたとうもろこしもそろそろ収穫出来る頃だ。
庭を囲む花々の鮮やかな色が、私の心を少し和らげてくれるようだった。
「で、話というのは?」
グレアス様が隣で問いかける。
私は少しの間、言葉を探しながら視線を庭に向けた。
彼の顔をまっすぐに見るのは、なぜだか緊張する。
それでも、今日は勇気を出して自分の気持ちを伝えると決めていたのだ。
「……実は、外に出かけたいと思いまして」
言い終えた後も、彼女の声は少し震えていた。
ずっと自分を守ってくれている彼の存在が重く感じられる。
けれど、この庭だけではどうしても満たされない思いがあったのも事実だった。
「外出か……」
グレアス様は少し考えるようにうなずき、彼女を見つめた。
その目には、彼女の気持ちを尊重したい気持ちと、心配する気持ちが交錯しているようだった。
「確かに、もう随分良くなったようだし、医師も経過は良好だと言っていたから……」
その言葉を聞いた瞬間、私の胸の中に期待が一気に膨らんだ。
だが、その次にグレアス様が口にした言葉は、そんな期待に少し冷や水をかけるものだった。
「……ただ、君が危険な目に遭うのはもう二度と見たくない。無理はしないでくれ」
クレアは彼の言葉を聞きながら、思わずうつむいてしまった。
心配をかけるつもりなどなく、ただ外の空気を感じたかっただけだったのだが、彼にとっては自分の小さな願いでも心配の種となるのだろうかと、少し申し訳なく感じた。
「もちろん、無理はしないつもりです。ですが……」
私はふと足元のフェルを見つめた。
フェルもじっとグレアス様の顔を見上げている。
まるで“彼女の願いを聞いてやってくれ”というかのように、強い眼差しだった。
「……お願いします、グレアス様。少しだけでいいんです」
クレアのその一言に、グレアスはじっと彼女を見つめた。
彼女の願いを断る理由が思いつかないような、真剣な表情だった。
しばらくの間、二人の間には沈黙が流れたが、やがて彼がゆっくりと頷いた。
「分かった。ただし、私も同行しよう」
私は喜びのあまり、彼の手をぎゅっと握った。
「ありがとうございます、グレアス様!」
彼は少し驚いた様子を見せたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「その代わり、約束してほしい。無理をしないこと、私から離れないこと、そして……また何かあったら、迷わず私に頼ること」
私はしっかりと頷き、彼の言葉を胸に刻み込んだ。
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許可を得た私は早速、外出の準備に取り掛かった。
フェルも一緒に行く気満々で、彼女の足元をぐるぐると回って喜びを表している。
グレアス様は少し呆れたような表情を見せたが、彼もまた私の楽しそうな様子を微笑ましく見つめていた。
「久しぶりの外出だし、少し早めに準備を済ませておこう」
そう言いながら、彼は私に付き添うように一緒に荷物を整え始めた。
私は、まるで小さな子供のようにワクワクしていた。
「グレアス様、どこに行きましょうか?どこかおすすめの場所はありますか?」
彼は少し考えてから、街の中央にある広場を提案した。
そこには美しい噴水があり、子供たちや観光客で賑わっている場所だという。
私はその話を聞き、ますます心が躍るのを感じた。
街に何度か足を運んだことはあるが、中央の方は行っていなかった。
「いいですね、ぜひ行きたいです!噴水……どんな感じなんでしょう?」
グレアスは彼女の様子を微笑ましく見つめ、“きっと気に入る”と優しく答えた。
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準備が整い、いよいよ街へと出発する時が来た。
]私はフェルを抱きかかえ、グレアスと共に馬車へと乗り込んだ。
馬車が動き出すと、彼女は窓から外の風景を眺め、目を輝かせている。
フェルもまた、私の腕の中で嬉しそうにしていた。
「本当に久しぶりの外出だなぁ」
クレアはそう言って、外の世界を懐かしむように見つめた。
しばらくの間、怪我の回復に専念していた私にとって、こうして外に出ることがどれほど新鮮なものか、グレアスも感じ取っているようだった。
「いい風だろう?ゆっくり楽しんでくれ」
彼の言葉に、私は小さく頷いた。
そして心の中で、再び自分を守ってくれる彼の存在に感謝した。
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馬車が止まり、街の中央にある広場へと足を踏み入れると、私は思わず息を飲んだ。
周囲には色とりどりの花が飾られ、中心には大きな噴水が涼しげな水音を響かせている。
陽の光に照らされてきらきらと輝くその様子に、クレアは心からの感嘆の声を漏らした。
「グレアス様、あれが噴水ですね!こんなに綺麗な場所だったなんて…」
グレアス様は私の横で微笑み、少し誇らしげに頷いた。
「君が気に入ってくれてよかった」
フェルもまた、私の横に佇んで周囲をじっと見つめている。
そんな私に向かって、周囲の人々がちらりと視線を向けるのが感じられた。
私は少しだけ気恥ずかしさを覚えたが、すぐに気持ちを切り替え、グレアス様の隣に並んでゆっくりと歩き始めた。
「この辺り、賑やかですね」
クレアは周囲を見渡しながら言った。
子供たちが楽しそうに遊ぶ姿や、親たちが見守る姿を見ていると、心が温かくなるのを感じた。
「ここは街の中心地だからな。様々なことが活発的に行われている」
グレアス様の言葉から彼のその優しさが伝わるのは感じられた。
そこへ、近くで遊んでいた子供たちが興味津々に近づいてきた。
小さな子供が私を見上げ、笑顔で手を振った。
私も自然と微笑んで手を振り返す。
「こんにちは、お姉さん!その犬、大きいね!」
フェルを指さしてそう言うと、私は思わず吹き出した。
「こんにちは。そうですね、この子はフェルっていうんです。大きくて、強くて…とっても優しいんですよ」
子供たちは興味津々でフェルを眺めながら、私にいくつも質問を投げかけてくる。
フェルもその様子に気を許したように、子供たちの側に寄り添ってくつろぐ姿を見せた。
人間嫌いと言うフェンリルでもこ子供には懐くのか……
もしかして、純粋な人間に好意を向けるのだろうか。
……なんか、自分で自分が純粋って言ってるみたいで気恥ずかしいけど。
少し離れたところで、グレアス様が私の様子を見守っているのが目に入った。
私はふと、その優しい眼差しに心が温かくなるのを感じた。
「グレアス様、ありがとうございます。私がこうして安心して過ごせるのも、あなたがいるからです」
私がそう言うと、グレアスは少し驚いたように目を丸くしたが、すぐに穏やかな笑顔で頷いた。
「あのお転婆な君に礼を言われるとな」
「もう!私をなんだと思ってるんですか!」
「……君の笑顔を見るためなら、どんな苦労もいとわないさ」
「………っ!」
その言葉に、私は自分の胸が少しずつ高鳴るのを感じた。
彼の真っ直ぐな言葉は、どこか心の奥底に響き、いつの間にか彼が自分にとって大切な存在であることを実感させる。
「これからも一緒に、どんな時も支え合っていきたいと思うよ」
グレアスの言葉が耳に残り、クレアは思わず頬が熱くなるのを感じた。
彼の言葉には、ただ守ってくれるだけではなく、共に歩んでいこうとする真摯な気持ちがこもっているのが分かる。
「は、恥ずかしいのでやめてください……!!」
お忍びで変装しているとは言え、イケメンにそんなことを言われたらキュンキュンしちゃうっ!!
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街でのひとときを満喫した私は、帰りの馬車の中でグレアス様と並んで座っていた。
充実した時間の余韻がまだ残っており、私は胸の奥から湧き上がる喜びを感じていた。
「今日は本当に素敵な一日をありがとうございます、グレアス様。あなたのおかげで、すごくいい思い出ができました」
私がそう言うと、グレアス様は少し照れたように視線を逸らしたが、満足げに微笑んだ。
「それなら、またいつでも外に出かけるか。君が笑顔でいられることが、私にとって何よりの喜びだから」
その言葉に、私の胸がさらに高鳴るのを感じた。
彼と一緒なら、これからどんな未来が待っていても乗り越えていける、そう思えたのだった。
だが、暗雲はすでに立ち込めようとしていた。