退院の日がやってきた。
クレアの身体はほぼ完治していたものの、まだ完全ではないと医師から言い渡されていた。
ダンジョンでの転落事故、そこから逃げ切ったこと。
すべてが過去の出来事のように思えてならなかった。
しかし、一つだけクレアの心を引き戻してくる現実があった。
それは、あの大きな犬——彼女を守るために全力を尽くし、子犬ほどの大きさに戻ってしまったあの存在が、未だに目を覚まさないことだった。
「大丈夫だ、あの犬もきっと目を覚ます」
グレアスの慰めの言葉を聞きながらも、クレアの心の中には少しだけ不安が残っていた。
自分のせいで、犬がこれほど弱ってしまったのではないか——そう思わずにはいられなかった。
退院してから数日、クレアはゆっくりと家での生活に戻っていたが、彼女には一つだけ不満があった。
それは、グレアスが彼女を過保護すぎるほどに扱っていることだ。
「あの、グレアス様。私、もうほとんど治ったんですから、庭の手入れくらいさせてください」
クレアはそう言いながら、庭に出ようと試みたが、グレアスはすぐさま彼女の前に立ちふさがった。
「ダメだ、クレア。まだ完全に治っていないのだから、無理をするな」
「ですが…ただ水を上げて、雑草を抜くくらいですよ。そんなに激しい動きじゃありませんし、大丈夫ですよ!」
クレアは不満そうに唇を尖らせたが、グレアスの厳しい視線に勝てるわけもなかった。
彼の眼差しには、彼女のことを心配する気持ちがありありと込められていた。
「怪我が完全に治りきるまでは、無理はしない。それが条件だ。君がまた傷を開いたらどうする?医師だって、まだ安静にしておくべきだと言っていただろう」
「はあ…分かりましたよ」
クレアはため息をついて、渋々部屋に戻ることにした。
結局、グレアスには敵わない。
彼の言うことが理にかなっていることは分かっていた。
怪我がまだ完全に癒えていない以上、無理をするわけにはいかない。
それでも、庭仕事くらいはしたいという彼女の希望は、簡単に押しつぶされてしまった。
そうして、クレアの生活は家の中での退屈な日々へと戻っていった。
グレアスの目を盗んで何かをするわけにもいかず、結局、彼女ができることは犬の世話をすることくらいだった。
ベッドの隅で眠る小さな子犬の姿を見つめながら、クレアは毎日彼の体を撫で、話しかけるようにして過ごしていた。
犬はまったく反応を見せなかったが、彼女は諦めずにその小さな体を労わり続けた。
「早く目を覚ましてね。あなたがいなくちゃ、何かが足りない気がするの」
そう呟きながら、クレアはじっと犬の寝顔を見つめていた。
彼が目覚める日を待ちながら、自分にできる限りのことをしてあげたいと思っていた。
そんなある日、クレアはいつものように犬の看病をしていた。
彼の毛を撫でながら、穏やかな気持ちで彼のそばに座っていた。
しかし、その日、いつもと違うことが起こった。
「……!」
犬の体がかすかに動いた。
クレアは驚いて目を見開いた。
しばらくの間まったく動かなかった彼が、ついに反応を見せたのだ。
「わんこ!?目を覚ましたの?」
クレアは急いで彼の顔を覗き込んだ。
小さな体がゆっくりと動き、次第に瞼が開かれていく。
そして、眠っていたその目が、ようやく彼女の顔を捉えた。
「わんこ、よかった…!目が覚めたんだね!」
彼女は思わず涙を浮かべながら、彼をそっと抱きしめた。
わんこはまだ完全に回復していないようだったが、その目には確かな意識が宿っていた。
「グレアス様に知らせなきゃ…!」
クレアは喜びに溢れたまま、すぐにグレアスのもとへ駆け込んだ。
彼が家の別室で何かの書類を整理しているところを見つけると、息を切らしながら彼に叫んだ。
「グレアス様!わんこが目を覚ましました!」
グレアスは驚いた表情で彼女を見つめた。
クレアの表情から、ただ事ではないことが起こったことを感じ取り、すぐに彼女とともにわ犬がいる部屋へと急いだ。
部屋に戻ったクレアとグレアスが目にしたものは、信じられない光景だった。
犬は元の姿に戻っていたのだ。
彼の体は子犬サイズではなく、かつてクレアが見た大きな狼の姿に戻っていた。
そして、部屋の隅で悠然と横たわり、くつろいだ様子でクレアとグレアスを見つめていた。
「これは…」
グレアスは一瞬言葉を失ったが、すぐにその正体に気づいた。
「フェンリル…!やはり、ただの犬ではなかったんだな」
クレアもその言葉に驚き、再びフェンリルに目を向けた。
彼女はずっと、この小さな存在を子犬だと思っていた。
しかし、今目の前にいるのは明らかにただの犬ではない。
巨大な体と鋭い瞳を持つ、その堂々たる姿は、まさに伝説に出てくる狼——フェンリルそのものであった。
「え…フェンリルって、本当にあの伝説の…?」
クレアは思わず声を上げた。
ずっとフェンリルの正体を知らずに過ごしていた自分が、今さらながらに彼の真の姿に驚いていた。
「そうだ。彼はただの犬じゃない。伝説の魔獣フェンリルだ。君が知らなかったのも無理はない。彼はあまりに弱っていたから、まるで普通の子犬のようだったからな。しかし、あのフェンリルがここまで懐くとは……驚きだな」
グレアスの言葉にクレアはただ呆然と頷くしかなかった。
ずっと自分を守ってくれていた存在が、そんな伝説的な魔獣だったなんて。
フェンリルは静かにクレアの方に歩み寄ると、その大きな頭を彼女の手に押し付けるようにして甘えてきた。
クレアはその大きな体を優しく撫でながら、ようやく彼が元気を取り戻したことを実感した。
「あなたがフェンリルだったなんて…でも、ありがとう。私を守ってくれて」
クレアは心からの感謝を込めてフェンリルに語りかけた。
彼はただ静かに彼女の言葉を聞いているようだったが、その目にはどこか知性が宿っているように見えた。
グレアスはそんな二人の様子を見守りながら、ふと微笑んだ。
「フェンリルが元気になったなら、君ももう少し外に出ていいかもしれないな。だが、まだ完全に無茶は禁物だぞ」
「うん、分かったわ。ありがとう、グレアス」
クレアはそう言いながら、フェンリルとともに少し外の空気を吸いに行くことを決めた。彼女の体も少しずつ元気を取り戻し、彼女を守り続けたフェンリルもようやく目を覚ました。
これからの日々は、また新たな冒険が待っているかもしれない——クレアはそんな希望に満ちた気持ちを抱きながら、フェンリルとともに庭へと向かうのだった。
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私は屋敷の庭を歩きながら、隣に歩く大きな狼――フェンリルを見つめた。
その姿はどこか威厳があり、私がこれまでに見たどんな動物とも異なる。
彼は私を守るために全力を尽くしてくれたが、その代償として力を失い、一時は小さな子犬のようにまで縮んでしまった。
しかし、今や彼は元の姿に戻り、彼女のそばを歩いている。
「ねぇ、フェンリルさん…どうして私を助けてくれたの?」
私はふと、そんな質問を投げかけた。
私自身もその答えがわからなかった。
ただのわんこだと思っていたフェンリルさんが、実際は伝説の魔獣であり、私のために戦ってくれたことが、まだ信じられないほどだった。
フェンリルさんは彼女の言葉に耳を傾けるように片方の耳を動かしたが、私をじっと見つめたまま、低くうなるような声を返してきた。
まるで“それは関係ない”とでも言いたげな態度だった。
「そうなんだ…あんまり話したくないんだね。でも、気になるよ。私なんかのために、あんなに無茶して……野生に戻らなくていいの?」
私は優しく語りかけたが、フェンリルさんはさらに否定的な感じで短く吠えた。
その声には、“戻るつもりはない”という決意が込められているように感じた。
「ふふっ、そんなに一緒にいたいの?なんだか不思議な気分だね。こんな大きな狼と一緒に歩くなんて、普通なら怖いはずなのに、あなたがいるとすごく安心するの」
私は笑いながら言ったが、心の中では彼に対する感謝の気持ちが溢れていた。
フェンリルさんは私の足元に寄り添い、まるで私を守るべき存在として、しっかりとその場に立っていた。
しばらく二人は無言で歩いたが、私はふと思いついて、フェンリルさんに新しい名前をつけてあげようと思った。
彼は伝説の魔獣でありながら、私にとってはもう少し親しみのある存在にしたかったからだ。
「ねぇ、フェンリルって、ちょっと固すぎる気がするのよ。なんかもっと可愛らしい名前にしない?」
クレアはそう提案すると、フェンリルさんはクレアを見上げて、再び短く吠えた。
どうやら、名前を変えること自体には特に反対はないようだった。
「じゃあ、何がいいかしら…。うーん、例えば…『フィン』とかどう?」
フェンリルはその名前にはあまり反応しなかった。
「ダメか〜……」
私は首をかしげて、他の案を考えた。
「じゃあ、『ルー』はどう?」
これにもフェンリルは反応せず、ただ黙って彼女を見つめている。
私はさらに思案を重ねた。
「うーん、難しいなぁ…」
それからいくつか名前の候補を挙げたが、特に反応を示してくれることはなかった。
「……じゃあ、『フェル』ってどう? ちょっと短くて可愛い感じしない?」
幾度目かの正直。
すると、今度はフェンリルが大きく尻尾を振り、満足げに私を見上げた。
どうやら、この名前が気に入ったらしい。
「フェル…それで決まりね!」
クレアは笑顔で言った。
フェル―それはフェンリルにふさわしい名前だと彼女は感じた。
伝説の魔獣でありながら、今では私のそばにいて、守ってくれる優しい存在だったから。
「フェル、これからもよろしくね!」
私がそう言うと、フェルは嬉しそうに吠え、さらに尻尾を大きく振ってみせた。
その姿を見て、クレアは心の底から安心し、彼とこれからの冒険に少し胸を躍らせるような気持ちになった。
「でも、フェル…一つお願いがあるの」
私は少し考え込みながら言った。
フェルは私の言葉に興味を持ったように耳を立てて聞いている。
「一緒にお出かけする時は、小さくなってくれない?今のサイズだと、ちょっと目立っちゃうし…」
私がそうお願いすると、フェルはすぐに理解したのか、元気に吠えて彼女の要求を受け入れた。
まるで“もちろん!”とでも言わんばかりに。
「ありがとう、フェル。これで安心して一緒に出掛けられるね」
フェルは彼女の言葉に応えるように、さらに尻尾を振り続けた。
そして、二人は再び庭の中を歩き出した。
新しい名前と共に、彼らの絆はさらに強くなったように感じられた。
少し歩いていれば、ジョンさんに遭遇した。
「ジョンさん!」
「おぉ!クレア嬢!回復、心よりお喜び申し上げます」
「そんな固い挨拶は必要ないですよ」
「そうだな!……ってか、なんだその犬」
「フェルです!可愛いでしょう?」
そう言って私はそお座りしていたフェルを撫でる。
撫でられた彼は嬉しそうに尻尾を振る。
「捨て犬か?」
「ん〜、ちょっと違いますね」
「そうなのか?」
「ええ。なんせフェンリルですから!」
その言葉にジョンさんは宇宙猫みたいな表情を浮かべて固まってしまった。
とても責任を感じる。
「おいおい…冗談だよな?」
ジョンさんは冷や汗混じりに聞いてくる。
「冗談じゃありませんよ?ね?」
フェルに同意を求めると、短く吠える。
それが肯定の意だと悟ったらしいジョンさんは乾いた笑いを浮かべる。
「クレア嬢、あんた一体何者なんだよ……フェンリルって人間のことが相当嫌いだぞ……?」
「それがなんで懐いてくれたのか全くわからないんですよね……」
「ま、まぁ、いい。これからよろしくな?フェル」
ジョンさんが撫でようとすると、威嚇するかのように吠えた。
「残念でしたね」
「これが普通だから……」
ジョンさんは少し困ったようにそう言った。