目を覚ました時、私はぼんやりとした視界の中で、自分がどこにいるのか全く理解できなかった。
朦朧とした意識の中、全身に鈍い痛みが走り、呼吸をするたびに胸が焼けるような感覚があった。
あれ…私…どうしてこんな場所に…?
ああ、そうだ。
私はダンジョンの中で…リーグリスたちに、突き落とされたんだった。
記憶が徐々に戻り、あの忌まわしい瞬間が鮮明に蘇る。
あいつら…またやってくれたな、なんてこった。
まさか本当に落ちるとは思わなかったけど、よくもこんなところに…
「痛っ…」
身体を動かそうとした途端、鋭い痛みが走る。
右腕が変な角度で曲がっていることに気づいた。
どうやら骨が折れているらしい。
加えて、足首にも強烈な痛みが走り、まともに歩けるかどうかも怪しい。
顔をしかめつつ、なんとか立ち上がろうとしたが、身体が言うことを聞かない。
くそ、どうしよう…。
このままじゃ動けないし、何よりここがどこなのかもわからない。
下層に落ちたってことは、今はダンジョンのかなり深い階層にいるんだろう。
下に行けば行くほど、危険な魔物が出現するって言われてる場所だ。
やばいな、こんなところでじっとしていたら、何に襲われるかわかったもんじゃない。
私は必死に周囲を見渡し、出口を探そうとした。
だけど、そこはただの暗い洞窟のような場所で、天井からは苔のようなものが垂れ下がっていて、ほのかに湿った空気が漂っていた。
光もほとんど届かない深層だから、何が潜んでいるかもわからない。
「まずい…早く、動かないと」
私は痛む身体を無理やりに動かし、少しでも安全な場所を探して這い出した。
歩けないことはないが、足を引きずりながらの移動は遅く、痛みが耐え難い。
だが、立ち止まるわけにはいかなかった。
このままここにいたら、本当に何かに見つかってしまう。
その時だった。
背後から何かが這うような、ぬめり音が聞こえた。
身体が硬直する。
何かが近づいてくる。
いや、近づいているどころか、すでにすぐ後ろにいるんじゃないか…?
振り向く勇気もないまま、私はその音を聞きながら、じりじりと後退した。
何かが、私の首筋をじっと見つめているような気配がする。
「いや、まさか…」
その瞬間、背後で大きな音がした。
何かが床を引きずるような音。
私は思わず振り返り、そこにいたものを見てしまった。
巨大な体躯に、ぬるぬるとした光沢のある肌。
体全体に無数の触手を持った異形の魔物が、私を見下ろしていた。
「っ!?」
その魔物は、まるで水中を泳ぐかのように滑らかに動き、じわじわと私に近づいてきた。
心臓が一瞬止まったかのように、冷たい恐怖が全身を駆け巡った。
目の前にいるそれは、普通の魔物とは一線を画す存在だった。
触手がゆらゆらと揺れ、まるで私を餌として狙い定めているようだった。
「やばい…」
私はとっさにその場を駆け出した。
痛む足を引きずりながらも、とにかく全力で逃げた。
背後でぬめぬめとした音が迫ってくる。
魔物は確実に私を追ってきている。
逃げ切れるのか?
いや、このままじゃ捕まる。
身体の状態も最悪だし、体力だってもうほとんど残っていない。
振り返る余裕もなく、私はただひたすら走り続けた。
暗い洞窟の中を、足音だけが響く。
どこに向かっているのかさえわからない。
ただ、少しでも距離を稼ぎたい一心で、逃げ続けるしかなかった。
だけど、そんな私の希望はすぐに打ち砕かれた。
次の瞬間、何かが足に巻きつく感覚がした。
「っ!」
足元を見下ろすと、魔物の触手が私の足に絡みついていた。
力任せに私を引き倒そうとする。その力は凄まじく、私は地面に叩きつけられ、息が詰まる。
痛みが走り、全身が悲鳴を上げた。
「ぐっ…!」
必死に触手を振りほどこうとしたが、力が入らない。
どうにかしなきゃ、このままじゃ食われる!
また死んじゃう!
頭の中で危険信号が鳴り響く。
「誰か…!」
声にならない叫びを上げながら、私は残された力を振り絞って触手を引き剥がした。
どうにか足を自由にし、そのまま転がるように逃げ出す。
「逃げなきゃ…」
背中に冷たい汗が伝う。
足を引きずりながらも、私は再び走り出す。
転落の衝撃で身体がボロボロだったが、ここで止まるわけにはいかなかった。
モンスターが迫ってきている。
その気配がどんどん近づいてくる。
「くそ…くそっ!」
口元からは荒い息が漏れ、視界はぼやけていた。
それでも、必死に走り続けた。
生き延びるためには、走るしかない。
モンスターがどれほど近づいているかなんて確認する余裕はなかった。
いや、確認するのが怖かったのかもしれない。
数分も経たないうちに、再び魔物が私のすぐ後ろに迫っている気配がした。
その存在感は増すばかりで、足音がすぐ耳元に聞こえるような錯覚すらした。
何かが私を捕まえようとしている。
「もう、ダメか…」
そう思った瞬間、目の前にある物陰が見えた。
暗がりに隠れるようにして、私はその場所へ転がり込んだ。
どうにかモンスターの視界から外れることができた。
その瞬間、全身の力が抜け、私はその場に崩れ落ちた。
全身の痛みが一気に襲いかかってくる。
呼吸が荒くなり、息が切れる。
「はぁはぁ……助かった?」
恐る恐る周囲を見渡したが、モンスターの気配は遠ざかっていた。
どうやら、なんとか逃げ切ることに成功したらしい。
しかし、その安堵も束の間だった。
目の前がぐらぐらと揺れ、意識が遠のいていく。
身体はもう限界だった。
「…これで…終わりかも…」
そんな思いが頭をよぎった瞬間、私はそのまま意識を失った。
─────────────────────
意識がぼんやりと戻り始めた。
頭は鈍く痛み、体中に広がる重苦しい疲労感が全身を包み込んでいる。
ああ、確か…私は…リーグリスたちに突き落とされて、モンスターにも襲われて……
奇跡的に命を取り留めたが、痛みでまともに体を動かすことができない。
そんな私を、何かが優しく舐めていた。
ぬるっとした感触が頬に触れる。
それは一瞬驚くほど温かくて、優しさに満ちていた。
「ん…?」
反射的に声が漏れるが、口から出た言葉は弱々しかった。
まだ体は思うように動かず、目を開けるのにも力がいる。
だが、その舐めている感触が続くことで、次第に意識が鮮明になってきた。
ようやく瞼をこじ開けると、ぼんやりとした視界の中に、銀色の毛が揺れているのが見えた。
私はその存在を目で追う。
少しずつ焦点が定まってきた頃、その正体に気づいた。
「…わんこ?」
私の前に立っていたのは、信じられないほど巨大な犬だった。
銀色に輝く毛並みが光を反射し、その巨体は私が今まで見たどんな犬よりも大きかった。
目は鋭く、体つきは堂々としていて、明らかに普通の犬ではない。
しかし、その優しい表情と穏やかな仕草に、私の警戒心はすぐに和らいだ。
「でかいなぁ…」
私はその犬の顔を見上げながら呟いた。
正直、ここがダンジョンの深層であることを思えば、モンスターである可能性が高いのだが、どうしてもそんな風には思えない。
何か違う…この犬は、私を襲う気など全くない。
むしろ、彼は私を気遣ってくれているようだ。
「よしよし…いい子だね」
私は彼の頭を撫でてみた。
銀色の毛は柔らかくてふさふさしていて、手に馴染む。
撫でられると、犬は嬉しそうに尻尾を振った。
それにしても、こんな大きな犬がここにいるなんて、普通では考えられないことだ。
でも、そんな異常さを忘れさせるほど、この犬には安心感があった。
「君、ここで一緒に迷子になっちゃったのかな?」
私はそう言って、再び犬の頭を撫でた。
犬は静かに私の顔を見つめ、まるで“大丈夫だよ”とでも言うような瞳をしていた。
もしかして、彼が私を助けてくれたのかもしれない。
私が倒れている間、怪我をして動けなかった時、この犬が私を守ってくれたのかも。
「ありがとうね、助けてくれたの?」
私はお礼を言いながらもう一度犬を撫でた。
彼は静かに私を見つめ、また少しだけ舌を伸ばして、優しく私の頬を舐めた。
何だか、彼が本当に感謝しているように思えてならない。
そんな優しい時間が流れる中、ふと現実に戻る感覚が私の頭を揺さぶった。
「あ…そうだ。私、ここにずっといられない…」
リーグリスたちの顔が脳裏に浮かび、私は再び冷や汗をかく。
今は優しい犬に助けられているけど、ダンジョンにいる以上、他のモンスターに襲われる可能性は高いし、早く脱出しないと。
またモンスターが現れて、今度こそ命を奪われてしまうかもしれない。
「グレアス様…」
婚約者の名前を思い出すと、胸がぎゅっと締め付けられる。
彼にまだ、何も話していない。
学校に潜入していること、リーグリスたちにいじめられていること、そして今回のことだって。
彼がこの状況を知ったら、どれだけ心配するだろうか。
うわぁ……絶対にブチギレられるだろうなぁ……
髪の毛が逆立つんじゃないかと思うほどに怒り心頭のグレアス様を想像してなんとなく面白くなる。
「行かなきゃ…」
グレアス様に大丈夫ですって言わないと……!
私は自分に言い聞かせ、体を起こそうとする。
だが、体中が痛む。
先ほどのモンスターからの逃亡劇で怪我がだいぶ悪化したらしい。
体が重く、思うように動かない。
それでも、ここで倒れているわけにはいかないんだ。
私は必死に足に力を入れ、立ち上がろうとする。
「ふぅ…」
ようやく立ち上がった私は、息を整える。
目の前の犬がじっと私を見上げている。
「君のおかげで少し休めたよ。ありがとう」
私はもう一度彼の頭を撫でてから、一歩を踏み出す。
しかし、歩き出そうとすると、その犬が静かに私の横に立ち、まるで何かを訴えるように、私の進行方向に向かって歩き出した。
「え?」
私は驚き、犬を見つめた。
彼は振り返り、私に向かって一声“ワン”と鳴いて、また前を進む。
まるで“ついてきなさい”とでも言わんばかりの仕草だった。
「もしかして…案内してくれるの?」
不思議に思いながらも、私は彼の後を追うことにした。
犬は私の進む道を案内するかのように、一定の距離を保ちながら歩いている。
道は暗く、足元は不安定だが、彼の存在があるおかげで不安は和らいだ。
「君、すごいね。本当に助けてくれてるんだ」
私が声をかけると、彼は一度こちらを振り返り、尻尾を軽く振って再び歩き出した。
その姿は、まるでこのダンジョンの隅々を知り尽くしているかのようだった。
道はどんどんと続いていたが、不思議と恐怖はなかった。
必ず脱出する……
死んでも必ずあなたに会いに行きますから……
私を愛してくれた…私の愛したあなたの元に。
そう思いながら体を引きずって前へと進んだ。