執務を終え、屋敷の窓から、いつものように庭の景色を眺めていた。
柔らかい風、美しい花、それを整える庭師。
その風景は日常の一部であり、何も特別な感慨を抱くことはなかった。
しかし、この日、いつもとは異なる報告が私に届いた。
「坊っちゃま、急なことでございますが…。」
ソフィーが、私の執務室に現れたとき、彼の表情には緊張の色が浮かんでいた。
彼女は幼い頃から私の傍に仕え、何度も困難を共に乗り越えてきた信頼できる存在だ。
だからこそ、彼が緊張しているということは、何か重大なことが起こっているのだろうと直感した。
「どうした?ソフィー。顔が青ざめているぞ」
俺は、机から手を離し、彼女の方へと向き直った。ソフィーは少し息を整えてから、俺に報告を始めた。
「実は、貴族学校の理事長が倒れ、しばらくの間療養が必要になりました。そこで、殿下に学校の管理を一時的にお任せしたいという要請が届いております。」
「理事長が倒れた?それはまた急な話だな。」
ジュベルキン国立学校は、私も若い頃に学んだ名門校であり、王国中から名家の子息が集まる場所だ。
教育の場としてはもちろん、将来の国を支える人材を育てるという重要な役割を担っている。
しかし、そんな学校の理事長が急に倒れたというのは予想外だった。
「王宮としては、学校の運営が滞ることは許されません。ですので、坊っちゃまに一時的にその職務をお願いしたいというのが理事会からの要望です。」
ソフィーの言葉には重みがあった。
理事長が倒れたことは一大事であり、学校の運営が滞ることは王国全体にとっても問題だ。
だが、それ以上に、私がその責任を負うということに驚きを隠せなかった。
「私が学校を管理する…か。」
俺は椅子に腰を下ろし、しばし考え込んだ。
王子としての役割は王国の未来を背負うことであり、日々の公務や外交に忙殺されている。
その中で、学校の運営を任されることがどれだけ大きな責任かは理解していた。
だが、それは俺が経験したことのない領域でもあった。
「他に適任者はいないのか?理事会からはそのような意見が出ていないのか?」
俺は、ソフィーにそう問いかけた。できれば、自分が関わらずに済むならば、それに越したことはない。
だが、ソフィーは首を振った。
「理事会の意向では、坊っちゃま以外にこの時期に学校を管理できる人物はおりません。王家のご威光をもって、学校の秩序を保っていただきたいとのことです。」
ソフィーの言葉に、俺は一瞬沈黙した。
確かに、俺が学校に関与することで生徒や教員たちに対して強力な影響力を持つことは理解できる。
俺が管理を行えば、学校の秩序は保たれるだろうし、混乱も最小限に抑えられるに違いない。
だが、それでも俺が教育機関を直接管理することには、戸惑いを感じずにはいられなかった。
「…分かった。しばらくの間、その役目を引き受けることにしよう。」
最終的に、俺はそう答えるしかなかった。
王子として、国全体の安定を守るためには、たとえそれがどんなに予想外のものであっても、与えられた役割を果たすことが求められる。
それが私の使命だ。
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数日後、俺は学校の門をくぐった。
久しぶりに訪れる母校の景色は、懐かしさと共に一抹の緊張感を抱かせるものだった。
王宮や屋敷の生活とはまったく異なる空気がここにはある。
学生たちが行き交い、教員たちが忙しそうに書類を運ぶ姿が目に入る。
「ようこそおいでくださいました、殿下。」
理事会の一員であるベルトラムが、私を出迎えた。彼は学校の運営に長く携わってきた人物であり、私が学生の頃から顔見知りだ。
ベルトラムは深々と礼をし、私を理事長室へと案内した。
「理事長が倒れて以来、学校の運営が少し混乱しておりましたが、殿下がいらっしゃったことで皆が安心しております。」
「そうか、私は教育の専門家ではないが、できる限りのことはするつもりだ。」
俺は、ベルトラムにそう答えながら、理事長室に足を踏み入れた。
その部屋は、以前と変わらず、重厚な書棚や歴代の理事長たちの肖像画が飾られている。
机の上には膨大な量の書類が積まれ、学校の管理がどれだけ大変なものであるかが一目で分かる。
「まずは、学校の現状を把握しなければならないな。最近の問題や課題はどのようなものがあるのか?」
俺は、机の前に座り、ベルトラムに尋ねた。
彼は少し困った表情を浮かべながら、慎重に言葉を選んで答えた。
「現在、学校内で大きな問題は特にございませんが…いくつかの生徒間のトラブルや、貴族家の子息同士の対立が少し懸念されております。」
「なるほど。貴族家の対立か。それは避けたい問題だな。」
貴族の子息たちが集まるこの学校では、家同士の力関係や対立が時折問題となる。
特に、王族である俺にとって、そのような対立が大きな問題に発展することは避けたいところだった。
俺が学校にいる間に、できるだけ秩序を保つ必要がある。
「その問題については、私が直接対処することにしよう。必要があれば、私の名を使って調整を行うことも辞さない。」
俺はそう告げ、ベルトラムに問題の詳細な報告を求めた。
彼はすぐに書類を取り出し、最近の生徒間のトラブルについて説明を始めた。
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次の日、俺は学校の朝礼に出席し、全校生徒の前で理事長代理としての挨拶を行った。
広い講堂に集まった生徒たちは、私が王子であることに緊張しながらも、興味深そうにこちらを見ている。
「私は王国の王子であり、しばらくの間、この学校の理事長代理を務めることになった。皆が安心して学べる環境を整えるため、全力を尽くすつもりだ。」
短い挨拶を終えると、講堂は静まり返った。
生徒たちは私の言葉を真剣に受け止めている様子だった。
だが、同時に、俺の存在が彼らにとってどれほどの重圧になるのかを考えると、少し心が痛んだ。
俺はただの管理者としてここにいるつもりだったが、彼らにとっては王子という肩書が何よりも大きく響くだろう。
講堂を出ると、数人の教員が私に声をかけてきた。
彼らは礼儀正しく、私に対する敬意を表してくれたが、その中には少なからず緊張感が漂っていた。やはり、私の存在が学校全体に影響を与えているのは明白だった。
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その日の午後、俺は校内を巡回することにした。
理事長代理として、できるだけ早く学校の様子を把握し、問題点を見極めたいと思っていた。
校庭では、学生たちが剣術の稽古に励んでおり、その姿を見ながら私は若き日の自分を思い出していた。
「殿下、こちらが本日の訓練生たちです。」
教員の一人が私に説明を始めた。
訓練場では、数名の生徒が剣を手にして互いに向かい合っていた。
彼らは真剣な表情で、互いの技量を試している。
剣術は、この学校で最も重要視される授業の一つであり、貴族としての教養を身につけるためには欠かせないものだ。
「懐かしいな。私もこの場所でよく訓練を受けたものだ。」
私は少し微笑みながら、遠くを見つめた。
若き日の俺も、剣術の訓練に励み、数々の試練を乗り越えてきた。
学生たちが汗を流しながら技を磨く姿に、かつての自分を重ね合わせる。
「王子殿下がご覧になっていると、生徒たちも緊張しているようですね。」
教員は苦笑いしながらそう言った。
確かに、俺がいることで生徒たちが普段よりも慎重になっているのが分かる。
だが、俺は彼らの成長を見守る立場であり、決して厳しく評価するつもりはなかった。
「彼らには思う存分、実力を発揮してもらいたい。私がここにいることは気にせず、集中するよう伝えてくれ。」
俺は教員にそう告げ、少し離れた場所から訓練を見守ることにした。
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あーあ、何でこうなっちゃったんだろう。
本当なら、ここでの生活はもうちょっと楽なはずだった。
少なくとも、婚約者であるあの人――そう、あの完璧すぎるグレアス様が学校に理事長として来るなんて夢にも思ってなかったし、思いたくもなかった。
だってそうでしょ?
私はわざわざここに来るために変装までしてるんだよ。
誰にも気づかれないように、ひっそりと学園生活を送ろうとしてるのに、何でこうもタイミング悪いんだか。
いや、グレアス様は何も悪くない。
むしろ、理事長が倒れて、学校の運営がうまくいかなくなったって話はわかる。
王国中から集まった貴族の子息が通ってる学校だし、誰かがしっかりと統制を取らなきゃいけないってのは理解できる。
でもさ、どうしてその“誰か”があの人になるわけ?
他にもっと適任者がいなかったわけ?
って言いたい気持ちが押さえきれない。
私が学校に来た理由、それはたった一つ。
ローズ様が困っているからそれを自分の助ける。
私が彼の婚約者だってことは、もちろん誇りに思ってるし、彼のことを嫌いなわけじゃない。
むしろ好きだよ、うん、好き。
だけどさ、好きだからこそ、たまには私の力でやってみないと!
それが私の唯一の願いだったんだよ。
それなのに、どうしてこんな事態になっちゃったんだろう。
あの人が理事長室にいると思うと、もう気が気じゃない。
私、そんなに目立ってないよね?
バレてないよね?
って毎日が心臓バクバクだ。
でも、あの人って本当にすごい。
なんて言うか、オーラが違うっていうか、どこにいても人目を引くし、みんなが自然と従っちゃうんだよな。
私がどんなに頑張っても、彼の存在感に勝てるわけがないってわかってる。
だけど、今は絶対にバレたくない。
だってさ、バレたらどうなると思う?
“おい、なぜこんなところにいる?”って軽く聞かれるかもしれないけど、その裏に“どうして私に黙ってたんだ?”っていう問いが見え隠れするのが怖いんだよね。
別に怒られるとは思ってないけど。
いや、バチバチに怒られる気がする。
だからこそ、私はこの学園生活を死守しなきゃいけないんだ。
あの人にバレずに、今まで通り過ごして問題を解決してハッピーエンドを迎える。
それが私の最重要ミッションだ。
授業に出て、解決への道筋を立てて、だけど決して目立たないように。
それが私の理想の学園生活。
そう思ってたはずなのに、もういろんなことが崩れかけてる気がする。
いやいや、落ち着け私。
まだバレてないし、何も起こってない。
あの人は学校の管理に忙しくて、私みたいな生徒一人ひとりを気にかける余裕なんてないだろう。
だって王子だし、理事長代理だし?
たぶん、学校の運営のことで頭がいっぱいなはず。
私みたいなドジで平凡な生徒に目を向けることなんて、あるわけがないって。
それに、変装も完璧だ。
髪型も服装も普段とは全然違うし、何より私は普段からそんなに目立つタイプじゃない。
いざとなれば、逃げるタイミングも見計らえるし、ちょっと距離を取れば問題ないはず。
そうそう、私は平凡な学生Aとしてここにいるんだから。
でもさ…たまに思うんだよね。
もしバレたらどうするんだろうって。
もちろん、それは最悪の事態だけど、少しだけ彼に見つかってみたいっていう気持ちも、ほんの少しだけ、心の奥にある。
だって、あの人は私の婚約者で、私がどれだけ頑張ってるか、知ってもらいたいって思わない?
いや、こんなこと考えてる時点で私は甘いんだろうけど。
グレアス様は姿や声の変わった私を見つけてくれるだろうか。
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あれから何日か経ったけど、ぎグレアス様…いや、理事長代理はやっぱりすごい。
学校全体が少しずつ彼の存在に馴染んできている感じがする。
生徒たちも最初は緊張してたみたいだけど、今では彼の前でも普通に振る舞ってるし、何より教員たちが彼に絶対的な信頼を寄せているのが見て取れる。
“理事長代理がいらっしゃると、学校の秩序が違いますね”
なんて話を廊下で耳にするたびに、私も妙な気持ちになる。
うん、確かにその通りなんだけど、私は彼の婚約者で、しかも今は変装してるから、その褒め言葉がなんとなく複雑に響くんだよね。
私だって、そのすごさはよく知ってるし、むしろ一番近くで見てきたはずなんだけど、今の私はその一歩外にいる感じがして、何とも言えない気持ちになる。
でも、それでいい。
今は私はただの生徒。
王子の婚約者っていう肩書は一切関係ない。
彼がどんなにすごくても、私は私のペースでこの学校生活を全うするんだから。
そんなことを考えながらも、やっぱり日常は過ぎていく。
授業を受けて、程よくいじめられて、普通の生活を送ってるはずなのに、心のどこかでずっと緊張してる。
どこで彼と出くわすか分からないからだ。
学校は広いけど、彼が理事長室にずっといるわけじゃないし、いつどこで何があるかなんて予測できない。
だから私はいつも心の準備をしてる。
ふと廊下で彼に会ってしまったらどうしようとか、授業中にふいに入ってきたらどうするかとか、いろんなシナリオを頭の中でシミュレーションしてるんだよね。
でも、そんなのしてても結局無駄なんだろうな。だって、いざとなったら絶対テンパっちゃうに決まってるし。
そう思いながらも、私は変わらずこの場所で、彼に見つからないように自分を保ち続けてる。
それが私の小さな反抗であり、自分を守るための手段なんだ。