「つ、疲れた………」
私は自室のベッドに寝転がっていた。
ジョンさんとの一件の後、グレアス様の言っていた通り、淑女としてのレッスンは厳しいものになった。
庭の手入れをする暇がないくらいには。
グレアス様曰く、この期間が一番忙しいとの事のなので、婚約披露パーティーまでの間は、ジョンさんに庭の管理を任せている。
定期的にジョンさんから報告を受けているので特に心配はない。
私がベッドで体を休めていると、部屋のドアがノックされる。
「は~い」
「失礼します」
そう言って入ってきたのはミーシャだった。
「ミーシャ?どうしたのですか?」
「入浴の準備が出来ましたのでお知らせに参った次第でございます」
「分かりました。今行きます」
私は重い体を起こして立ち上がる。
「大丈夫ですか?」
「はい。少し疲れているだけですから………………」
「あまり無理をしないでくださいね?」
「大丈夫です」
私はサムズアップしてそう言った。
正直言って体はとっくに限界である。
だが、明日の婚約披露パーティーが終わるまでは倒れるわけにはいかないのだ。
「では、お風呂に行ってきますね」
私はそう言って入浴セットを一式もってお風呂へと向かった。
「ふぅ……」
私は湯船に浸かり、ゆっくりと息を吐いていた。
お風呂、気持ちいい……
なんか、ブラック企業に勤めてる人みたいになってるなぁ……
いや、別に今の生活が苦というわけではない。
むしろ、自由にできる今だからこそ、このレッスンを乗り越えられたのだろう。
昔じゃ考えられない。
ここに来る前のレッスンはただ必死だった。
ジュエルド様に相応しくあろうと。
今ならわかる。
あの時は必死過ぎて心の余裕がなかった。
だから、見捨てられたような気もする。
でも、今は違う。
体こそボロボロだが、精神的には余裕がある。
「まだまだ頑張らないと……!!」
改めて気合を入れて、お風呂から上がった。
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「はぁ……」
俺は書斎で目頭を押さえていた。
「坊っちゃま。そろそろ、晩餐の時間でございます」
「ああ。わかっている」
書類を片付けながらそう返事する。
「坊っちゃま、クレア様は大丈夫でしょうか」
「どういう意味だ?」
「ここ最近、クレア様に相当な負荷が掛かっているように感じます」
「俺もそう思ったから少し前に聞いてみたのだ。”大丈夫か?無理はしていないか?”とな。そうしたらなんて返ってきたと思う?」
「さぁ?」
「”大丈夫です。私、一生懸命頑張るので、グレアス様は心配しないでください。グレアス様こそ大丈夫ですか?”と、私の心配をしてきたのだ」
「何ともクレア様らしいですね」
「だから、私は自分の仕事に専念することにした。クレアを信じてな」
「坊っちゃま……」
「あいつが限界を迎えるなら、俺がそれだけ頑張ればいい。今は互いに頑張るべきステップにいるだけだ」
そう言って書類を片付けた俺は立ち上がった。
「よし」
俺は食事へと向かった。
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「グレアス様……」
食事の部屋に来れば、クレアがいた。
俺はクレアを見て、少し足を止めてしまった。
「お前……」
「どうかしましたか?」
「………………何でもない」
”本当に大丈夫か”
そんな言葉が出そうになって、止まった。
目の前にいたクレアの顔は疲れ切っていた。
だから、心配になった。
でも、言葉にしなかった。
出来なかったと言った方が正しいだろう。
何故できなかったのか。
クレアの目が”心配しないでくれ”と俺に訴えかけているように感じたからだ。
「いただこうか」
「はい」
俺たちは食事を口に運ぶ。
しかし、言葉を交わすことはない。
無言の時間が流れている。
流石に何か言葉を交わすべきだと思った俺は口を開き、クレアに問いかけた。
「クレア、明日の準備は出来ているのか?」
「…………はい」
妙な間があった。
「私、グレアス様に相応しく見えるでしょうか?」
「………っ!」
驚いた。
クレアが弱音を吐くところなんてあまり見たことがない。
「俺は自分に相応しいかどうかは自分で決めるものをはいつもだと思うぞ?」
「え?」
「他者からの評価なんてものは俺からすればどうでもいいことだ。大事なのはお前の気持ちだ。お前の気持ちがこうありたいと思う自分を目指せ」
「そう…ですね!私、頑張ります!」
クレアは鼻息荒くそう言った。
そうだ、それでこそクレアだ。
俺は少し口角を上げながら、食事を進めた。
────────────────────
翌日。
「き、緊張しますね……」
私とグレアス様は婚約披露パーティーの会場へと足を運んでいた。
「そこまで緊張することはない。ただのパーティーだ」
「いやいや!私からすれば、パーティーなんて久々なんですよ!?しかも、私とグレアス様が主役!自分が主役のパーティーはあの日以来やってないですし………」
グレアス様は不安がっている私の頭を撫でてくれる。
「安心しろ。俺はお前に完璧を求めているわけではない」
「えっ!?」
私はその言葉にショックを受けた。
「………悪い。言葉が足りなかったな。お前はお前のままで十分だ、と言いたかったのだ」
「それ、全然違うじゃないですか!」
「そうか?」
「はぁ~……てっきり、私に期待していないのかと……」
「………………そんなことはない」
「なんですかその間はぁっ!」
「別に?そそっかしいお前が何もやらかさないわけがないと思っただけだが?」
「すごく失礼じゃないですか!」
「間違っていないだろう?」
「それは……そうですけど……」
自分で自覚がある。
かなりおっちょこちょいであることを。
だが、気をつけようそれは直ることはない。
何せ、少しでも気を抜いた瞬間に転んだりするのだから。
「こんなところで痴話喧嘩しないでください」
「ち、痴話……っ!?ミーシャ!揶揄わないでください!」
私は頬を膨らませて抗議する。
「そうだな。こんなところで時間を持っていかれるのは気に食わないな」
そうして、私たちは準備の部屋へと向かった。
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「ふぅ……」
俺はすぐさま服を着替え、椅子に腰かける。
「坊っちゃま?どうかなさいましたか?」
「いや、少し疲れているだけだ」
「どうか、ご無理はなさらないよう」
「ああ、わかっている。クレアはそそっかしいからな。私が守ってやらないとダメなんだ」
「坊っちゃま………随分とご執心ですね」
「当り前だ。あれほど私の庇護欲を刺激する人間はいない」
そう言って、俺は水を飲む。
「………それにクレアには何かある気がする」
「と言いますと?」
「あいつは人間としての能力が高すぎる。その能力は令嬢の範疇を越えていると思うがな。医学的知識に、料理知識。まだ、他にも隠しているだろう。それらの知識は令嬢として普通に生活していて身に着くものではない。それに行動こそ、そそっかしいあいつが、俺といる以外で心の底から動揺しているのを俺は見たことがない。あの年にしては達観しすぎている。あいつには何かしら抱えているものがあるのだろう。まぁ、それが何かを俺が聞くつもりはないがな。クレアが話したいときに、俺はそれを聞く。たとえそれがどんなものであっても、な」
「そうですね。ぜひ、そうしてあげてください」
ソフィーは柔らかい笑みを浮かべてそう言った。
────────────────────
「さすがに緊張しすぎじゃないですか?」
「そ、そそ、そんなわけないじゃないですか!」
「カップを持つ手、ガッタガタに震えているのにですか?」
ミーシャはジト目で私にそう言ってくる。
う~ん、確かに。
紅茶がまき散らされた机の上を見て、納得する。
ジュエルド様の言葉は確かに嬉しかった。
嬉しかったとは言え、緊張がなくなるかと言えばそうではない。
バッチバチに緊張している。
「そんなに緊張することはないと思いますよ?」
「そうは言ってもですね…………」
「まぁ、そういうクレア様最高にかわいいです」
「え?」
「おっと、思わず本音が出てしまいました」
「あ、そ、そうですか………」
だが、ゆるゆるのミーシャのおかげで緊張も少しはほぐれた気がする。
「ありがとうございます。ミーシャ」
「へ?」
「あなたがかなりガバいおかげで、少し緊張がほぐれました。ありがとうございます」
「え、悪口ですか?」
「いえ、軽口ですよ」
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そして、パーティーの開催時間を迎えた。
「お、おぉ~……」
私は会場の状況をチラ見して感嘆の声を漏らす。
「なかなか豪華であろう?」
「は、はい。ジュエルド様の婚約者だった頃はここまで豪華なパーティーに参加したことはありません」
「なんだと?」
グレアス様の声色は冷たかった。
「今はそんなことを聞く時間はないな」
グレアス様の言葉の通り、会場には次々と貴族たちが来訪している。
「大丈夫か?」
「はい!全力で頑張ります!」
「あまり頑張りすぎるな」
「じゃあ、ほどほどに頑張ります!」
「ああ。それでいい」
グレアス様はそう言って私の頭を撫でてくれた。
そして、ある程度時間が経ち、招待されたであろう貴族は全員が会場入りした。
「さぁ、始めようか。婚約披露パーティーを」
グレアス様は手を差し出す。
私はその手を取って。
「はい!」
私たちは表舞台へと立った。
────────────────────
「いらっしゃったぞ!」
「おぉ~!」
「さすがグレアス様の婚約者だ……なんとお美しい……!!」
そんな感想が口々に聞こえてくる。
嬉しい限りだ。
そして、階段に差し掛かって…………
「うぎゃあっ!」
階段から転げ落ちた。
「いったぁ~い!」
「「「……………………………………」」」
膝をさすりながらそう言う私を見て、貴族たちは困惑したような視線を向けてくる。
「全く…お前はそそっかしすぎるぞ……」
若干呆れた様子のグレアス様が階段を下りてそう言ってくる。
「大丈夫か?」
「は、はい……」
私はグレアス様の手を取って立ち上がる。
「クレア、挨拶を」
「はい。改めまして皆さま。この度、グレアス・ジュベルキン殿下の婚約者となるクレアと申します。以後、お見知りおきを」
そう言ってドレスの裾を摘んで片足を軽く引き、もう片方のひ膝を軽く曲げ、カーテシーの体勢で挨拶する。
「クレア様とおっしゃるのか……」
「しかし、どこの貴族なのだ……」
「家名は名乗っていなかったぞ……?」
「まさか庶民……!?」
貴族は口々にそう言ってくる。
う~ん……
やっぱり、家名を名乗らないのはマズかっただろうか。
貴族からあまりいい印象は抱かれていなさそうだ。
と、グレアス様は私の一歩前に出る。
「おい、お前たち。これ以上の無礼な発言は看過できんぞ。彼女はれっきとした貴族だ。彼女は家族との縁を切ってる。だから、家名は名乗らないのだ」
「そうだったんですね……」
「申し訳ありませんでした……」
案外いい人が多いのか、素直に謝罪をしてくれる。
「い、いえ!気にしないでください!」
いきなり謝罪され、慌ててそう言う。
「改めて、私、グレアス・ジュベルキンはここに居るクレアとの婚約を発表する!!」
そうして婚約披露パーティーは開幕を迎えた。